福山市・鞆の浦の「いろは丸展示館」→ 海援隊の坂本龍馬らが操船していた「いろは丸」(画像は「いろは丸」の模型)と
紀州藩の「明光丸」との衝突、いろは丸の沈没、その海底発掘調査などを中心に展示。展示館では衝突事故について次の
ように記している。
「いろは丸事件」
慶応3年(1867年)4月23日深夜、坂本龍馬が率いる海援隊らが乗った蒸気船「いろは丸」は、瀬戸内海
六島沖で紀州藩の蒸気船「明光丸」と衝突し、夜明け前に宇治島沖で沈没した。これは日本で初めての蒸気船同士による
衝突事故であった。紀州藩は「円福寺」、いろは丸側は「桝屋清右衛門宅」(升屋宅)を宿とし、「魚屋萬蔵宅」などを談判所とした。
事故の責任を巡る談判は平行線をたどり決着せず4月27日交渉決裂となり、交渉の場を長崎に移した。
その後龍馬は、万国公法に基づいて10月19日紀州藩からの7万両の賠償金で和解した。
この快挙によって龍馬と海援隊の名は一躍世間に知れ渡った。徳川御三家の一つ紀州藩を相手にいささかもひるむことなく交渉
し、龍馬の名を上げた「いろは丸事件」はまさしくこの鞆の浦で幕を開けた。だが、その1か月後、坂本龍馬は同年11月15日
京都近江屋にて暗殺された。
坂本龍馬たちと紀州藩は魚屋萬蔵宅で沈没事故の談判を行ったほか「対潮楼」でも談判した。なお、魚屋宅は、現在では、
江戸時代の町屋のたたずまいを残した旅館となっている。
昭和63(1988)年とその翌年、平成17(2005)年に海底調査が行われ、推定いろは丸沈没船の数々の遺品(artifacts)が引き
揚げられた。今も福山市宇治島沖の水深27mの海底に沈んでいる。
[2010.09.「いろは丸展示館」にて][拡大画像: x22847.jpg]
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