一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
東京・佃島の小さな運河
佃島はもともと隅田川河口にできた「向島」と呼ばれる自然の寄洲(干潟)であった。摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川
区佃)と大和田村の漁民たちがこの向島を江戸幕府から拝領し、正保元年(1644年)に埋め立てを行って佃島とした。 現在の佃島には「佃堀(つくだぼり)」 (上の画像) といわれる小さな運河というか、堀がある。その佃堀は、江戸時代の 埋め立てに際して、東の佃島と西の佃島との間に残された運河の名残である。さらに、佃島と石川島との間の浅瀬を埋め立てて、 「人足寄場」(にんそくよせば)を石川島に建設するに際して(1789年頃)、それら2つの島の間に残された運河の名残である。 東・西佃島間の佃堀には朱塗りの「佃小橋」 (上の画像) が架かっている。佃堀沿いには1646年に創建された「住吉神社」 がある。佃島は佃煮の発祥の地であり、その特産品を売る老舗の「天安」、「丸久」が今でも営業している。 佃島と対岸(湊町)との間にはかつて「佃の渡し」があって、昭和39年(1964年;東京オリンピックの年)に佃大橋が完成する までは一日最大70往復もの渡し船が運航されていた。その両岸のかつての船着場には「佃島渡船跡」という碑が建っている。
街の案内板には次のように記されている。 佃島の歴史 石川島もまた「森島」あるいは「鎧島」と呼ばれる干潟であった。それを船手頭石川八左衛門が拝領し屋敷としたことで 石川島と呼ばれるようになった。石川島には明治初期に石川島造船所ができた。これが発展して後の(株)石川島播磨重工と なった。石川島造船所は昭和56年(1981年)まであった。今ではその跡地に超高層マンションが林立する。東京のウオーター フロント開発の先駆けの地「大川端リバーシティ21」である。
このリバーシティ21内にあるPier West Square(ピア・ウェスト・スクウェア)には「IHI・石川島資料館」があって、石川島造船所の創業
から現在までの社史、石川島・佃島の文化、船の模型などを展示する。
1 |