一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
復元船サン・ファン・バウティスタ (1)
支倉常長・慶長遣欧使節とサン・ファン・バウティスタに関する略史(その2)→(その1) ・ 15、16世紀の大航海時代、ポルトガルは大西洋をアフリカ西岸沿いに南下しインド洋経由にて、他方イスパニア (スペイン)は大西洋・太平洋経由にてアジアへの航路を開拓し、「発見した」という土地の植民地化を強力に進め、 その覇権拡張にまい進していた。 ・ 1609年10月1日未明、イスパニア(スペイン)艦の「サン・フランシスコ」が房総半島・岩和田村(現在の御宿)沖合いに漂着した。 その船にはスペインの植民地フィリピンの臨時総督代理のドン・ロドリーゴ・デ・ベビーロが乗船していた。マニラから 同じくスペインの植民地ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)へ向かう途中であった。 ・ 海難事故で救助されたベビーロおよびその配下は、徳川家康の配慮で「サン・ブエナベントゥーラ」 (ミュージアム内に展示された模型)にて、1610年8月1日、 浦賀からメキシコに向けて出航した。 ・ その後、スペイン植民地ヌエバ・エスパーニャ副王の命で、ベビーロらへの日本の救援・厚遇に対する 答礼のため、セバスチャン・ビスカーノ(Vizcaino)(初代の遣日スペイン大使 となって訪日)、およびその他フランシスコ会宣教師など50人のスペイン人らが派遣されてきた。すなわち、ビスカイーノらは 「サン・フランシスコ二世」にて1611年3月7日メキシコを出航し、同年6月10日に浦賀に入港した。通訳にはフランシスコ会 宣教師ルイス・ソテロが当たった。 ・ ビスカイーノは帰国において嵐のため自船を損壊してしまい、さらに代替船の建造費用捻出もままならなくなった。 このため、海外貿易を望んでいた伊達政宗の大型船建造に不本意ながら協力することとなり、1611年10月22日ビスカイーノは 仙台に向け江戸を発った。 ・ 徳川幕府の後ろ盾をえて、伊達政宗の命にて、そしてビスカイーノの指揮の下建造されたガレオン船「サン・フアン・ バウティスタ」をもって、1613年10月28日(慶長18年9月18日)、「慶長遣欧使節団」(正使ルイス・ソテロ、副使支倉常長)が 月の浦から出航した。支倉六右衛門(支倉常長の正式名)と仙台藩士、 江戸幕府・船奉行向井将監の家中の者、京都・大阪の商人、その他スペイン人ら180余名は、1614年1月28日メキシコのアカプルコに 入港した。 ・ その後の使節団の行程、すなわちアカプルコ→ベラクルス(サン・ファン・デ・ウルア)→サンルーカル・デ・バラメダ→セビリア →マドリード→ローマ(バチカン)への旅程は前ページの通りである。
・ メキシコとの交易を求める外交交渉については、その当時の日本におけるキリスト教弾圧に伴い、結局は成功することは
なかった。
・ 正使・ソテロは、禁教下にあった1622年10月22日(元和8年9月18日)マニラから密入国しようとしたが捕ら
えられた。1624年8月25日(寛永元年7月12日)、大村で火刑により殉教した(享年49年であった)。
(注2) 「貞山公治家記録」(ていざんこうじけきろく): 1703年(元禄16年)に編纂された伊達家の正史。貞山公(伊達政宗)の事跡を
編年式に記述している。「貞山公治家記録」ではサン・ファン・バウティスタの大きさは詳述されていない。
同記録には「右船横五間半、長十八間、高十四間一尺五寸アリ、帆柱十八間三尺、松ノ木ナリ、又弥帆柱(いやほばしら)モ同木ニテ造る、九間
一尺五寸アル」とあるが、この程度からではその船型はつかめない。
参照資料 ・ 宮城県・慶長遣欧使節船ミュージアム公式ホームページ& 「慶長遣欧使節関連年表」 ・ インターネット百科事典Wikipedia、検索キーワード「サン・フアン・ バウティスタ号」 ・ 「海の世界史」、中丸明・著、講談社(現代新書1480)、2004年発行、234-249ページ. |
1 2 3 1. 復元船サン・ファン・バウティスタ。 [拡大画像: x23330.jpg] 2. 同上。 [拡大画像: x23331.jpg] 3. 同上。 [拡大画像: x23332.jpg]
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展示の説明文には次のように記されている。
画像のいずれも、出典は宮城県・慶長使節船ミュージアム
辞典内関連サイト ・ 世界の海洋博物館 ・ 日本の海洋博物館 ・ 慶長遣欧使節船ミュージアム&復元船サン・ファン・バウティスタ |