海洋総合辞典 Comprehensive Ocean Dictionary, 特選フォト・ギャラリーPhoto Gallery, 中国明代・鄭和の南海大遠征&宝船, 鄭和文化館Cheng Ho Cultural Museum, Muzium Budaya Cheng Ho, マラッカMalacca, マレーシアMalaysia

中国明代・鄭和の南海大航海


「(1)記念スタンプに描かれる鄭和&宝船」
「(2)鄭和の「宝船」模型」
「(3)飾り皿に描かれる鄭和&宝船」
「(4)鄭和の胸像」




中国・明の建国と鄭和(ていわ)の南海への大遠征

* 1368年、「朱元璋」(しゅげんしょう)は「洪武帝」(こうぶてい)として即位し、「明」(みん)を建国する。洪武帝の死後、 「建文帝」が皇帝に即位する。

* 1399年、洪武帝の四男「燕王」(えんおう)が挙兵し、「靖難(せいなん)の変」と呼ばれる内戦に勝利し、
1402年に「永楽帝」(1360-1424年)として明第3代皇帝 (1402~1424年) に即位する。
[注] 永楽帝は「四書大全」「五経大全」などを編纂させた。また、北京を建設し明朝の都とした。明朝が最も繁栄した時期はこの 永楽帝の時代とされる。

* 永楽帝は、宦官(かんがん)の「鄭和」(Cheng Ho, Zheng He)に命じて南海へ遠征させ、南海の諸国に大「明」の勢威を示す とともに、明への朝貢(ちょうけん)を促進する。大遠征は、1405年のそれを最初にして、最後の遠征から1433年7月に帰国するまで、 計7回に及んだ。

第1~4回遠征では、南シナ海、マラッカ海峡、インド洋を経て、インドのカリカットへ赴く。
第4回遠征以降では、ペルシャ湾のホルムズをめざし、さらに分遣隊はアフリカ東岸マリンディ、あるいはアラビア半島紅海に 面するジェッダ、メッカ(イスラム教の聖地)へも到達した。

因みに、バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってカリカットに到着し、いわゆるインド航路を開拓を成し遂げたのは1498年のことである。 鄭和の第 1 回航海の出立(1405年)から90年以上も後のことである。
鄭和船隊はいろいろな献上品を明へもち帰った。ライオン、シマウマ、ヒョウなどの珍しい動物もそのうちの一つである。

* 1424年、永楽帝が死去する。

[参考] 明代において、明の北方に侵入したモンゴル人を「北虜」、東南の沿岸地方を略奪した倭寇を「南倭」という。 両者の侵入・侵寇を併せて「北虜南倭」と称された。
また、明代において約100年の歳月をもって「万里の長城」を築き直した。現在見る「万里の長城」は明の時代に造られたものである。
[参考] 倭寇(わこう): 13~16世紀において中国、朝鮮の沿岸を荒らし回った海賊・商人団。
明朝期の倭寇は、明の海禁政策に不満をもつ中国人が主体であった。明朝による討伐と豊臣秀吉の厳禁政策により衰退した。


鄭和(Cheng Ho; 1371年~1434年?)
  鄭和は、雲南昆陽(現在の雲南省晋寧県)出身で、イスラム教徒であった。本姓は馬、初名は三保 (幼名は三保または三宝である) と名付けられる。 明朝時代の第3代皇帝・永楽帝に宦官(かんがん)として仕え、後にその最高位である「太監」となる。 中国では通称「三保太監」または「三宝太監」として知られる。

  鄭和は、第1~6回遠征では永楽帝、第7回遠征では宣徳帝の命を受け、1405~1433年の間に計7回にわたり、大型木造艦船60隻余り、 2万数千の人員からなる大船隊を率いて、南海への大遠征を指揮した。船隊は東南アジア、インド、アラビア半島、さらには アフリカ東岸まで航海し、最遠地としては現在のケニアのマリンディまで到達した。遠征で用いられた船隊主力船は通称 「宝船」(ほうせん)と呼ばれ、全長120m以上で、その最大の船は全長150m・幅62mもあったといわれる。

  また、鄭和はマラッカにも5度寄港し、マラッカ王国に明への朝貢を取り計らったとされる。 マラッカ王朝は、北方の強国シャムから度重なる攻撃を受け対峙していた。そのため、マラッカ王らが明の宮廷を訪れるなど 朝貢貿易を通じて明との同盟関係を強固にし、明に庇護を求めジャムの脅威をけん制していた。


明の時代に、鄭和は、第1~6回の遠征では第3代皇帝・永楽帝の命を受け、また第7回のそれでは次代の皇帝・宣徳帝の命を受け、 1405~1433年の間に計7回にわたり、大型木造艦船60隻余りの大船隊を率いて、南海への大遠征を指揮した。 船隊は東南アジア、インド、アラビア半島、さらにはアフリカ東岸まで航海し、最遠地としては現在のケニアのマリンディまで到達した。 遠征で用いられた船隊主力船は通称「宝船」(ほうせん)と呼ばれ、全長120m以上で、その最大の船は全長150m・幅62mもあったといわれる。

第1回航海
1405年7月11日出立する。船隊は62隻、総乗組員は2万7,800名余り。蘇州-チャンパ(ベトナム)-パレンバン(スマトラ)-マラッカ- セイロンの航路をたどる。
1407年初めにカリカットへ到達、1407年9月に帰国する。

第2回航海
1407年末に出立し、航路はほぼ同じであった。タイ、ジャワなどを経由してカリカットへ。1409年夏に帰国する。

第3回航海
1409年末に出立し、ほぼ同じ航路でカリカットへ到達する。1411年7月に帰国する。
このように、第1回から3回までは、南シナ海、マラッカ海峡、インド洋を経てインドのカリカットへ到達した。

第4回航海
1413年冬に出立する。カリカットまでこれまでとほぼ同じ航路をたどり、その後ペルシャ湾のホルムズ、さらにアラビア半島のアデンに到達する。 1415年7月に帰国する。

第5回航海
1417年冬に出立する。本隊は第4回と同じくアデンまで到達するが、その後分遣隊はアフリカ東岸のマリンディまで到達したとされる。 1419年に帰国する。ライオン、シマウマ、ヒョウなどの珍しい動物を連れ帰った。

第6回航海
1421年2月に出立する。中国に朝貢に来た外国使節を送り帰すのが主な目的であった。1422年8月に帰国する。

第7回航海
永楽帝の死後、その孫の宣徳帝の命を受けて、1431年12月に出立し、1433年7月に帰国する。この遠征時に分隊はメッカにまで到達した。 鄭和は、帰国後ほどなくして1434年に死去したとされる。


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