画像1・2は三重県伊勢市の「山田奉行所記念館」に展示される御座船「虎丸」の雄姿画、および同船の「水軍調練の図」である。
「御座船虎丸の雄姿」と題する絵画(画像1)の説明書きには、
「寛永11年(1634)7月、将軍家光は天機奉仕の名目で大兵を擁して
上洛します。この時、山田奉行花房志摩守は、組頭7人を随伴、与力6人、水主同心75人を引率して御座船虎丸、孔雀丸と関船小鷲丸、
乙矢丸、小鳥丸を三河吉田へ回漕、舳艫堂々と将軍家光を熱田まで送ったという記録を素材として描かれたものです」
と記されている。制作者は辻村聡志氏(御薗村高向)である。
画像2は「虎丸」などによる「水軍調練の図」(辻村聡志 画)である。「水軍調練の図」と題する説明書きには次のように記されている
(原文のとおり)。
近世、瀬戸内海や九州、熊野灘に盤踞した海賊衆(にちに水軍と呼ばれる)は、日常の行動は勿論、
戦闘の際に一糸乱れぬ統制のとれた行動ができるよう、常々訓練を怠らなかった。
かれらは、それぞれ独特の兵法や戦法を持っており、自分たちの流儀をより優れたものにするために努力
していた。志摩の水軍のそれはのちに九鬼流と呼ばれ、瀬戸内海の村上水軍に伝わるものは三島流と呼ばれていた。
山田奉行所の水軍の流儀は、初期は「九鬼流が用いられていたが、正保ころ(1640年代)には、新たに
案出された「全流」が用いられるようになった。しかし、全流がどのような流儀であったかは詳らかでない。これについて、
明治から大正期にかけ、水軍研究の第一人者であった長沼賢海氏によれば、備前岡山藩や讃岐高松藩で行われた流儀で、
その名は海賊諸流を綜合大成したとの意であるという。
山田奉行所の水軍は、例年正月の船下ろしの後、大湊海岸沖に御用船を曳き出し、大湊・白子間、
もしくは鳥羽・白子間を、奉行の統率ののもと調練した。初期には、ほかにも年数回の調練が行われていた。
この図は、九州大学長沼文庫に残る讃岐高松藩の水軍船陣形「全流」を参考に、山田奉行所が最も多く軍船を
所有した初期に、御座船「虎丸」を中心に関船、鯨舟が遊弋する姿を表わしたものである。
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絵画「御座船虎丸の雄姿」や「水軍調練の図」などの資料の展示風景。
[参考] 伊勢市教育委員会によって建てられた「山田奉行史跡」(所在=伊勢市御薗町小林、上條)と題する史跡案内立札などの解説
によれば、
・ 徳川幕府は直轄地の支配のために全国の要衝地に11の遠国奉行を置いた。山田奉行もその内の一つである。創設期は早く、
佐渡・長崎奉行と同時期の慶長8年(1603)11月であった。
・ 幕府は慶長8年(1603)に有滝村に奉行所を開いた訳であるが、寛永12年(1635)に第7代花房志摩守奉行の時に、有滝村の
奉行所から当地へ奉行役邸を移築整備した。それ以来幕末の慶応4年(1868)7月の奉行所廃絶まで、歴代42員の幕臣旗本が江戸表
より当地奉行所に着任した。
・ 奉行所は幕閣老中の支配下に属し、神宮の護衛や遷宮の時の造営に関与し、宇治・山田両郷の庶政監督/伊勢志摩の支配、
公事訴訟の裁判、伊勢湾海防/鳥羽港周辺の海上安全管理などの任務に従事した。
* 辞典内関連サイト: 御座船「虎丸」(絵画)
[撮影年月日:2024.12.22/画像1・2・3の出典: 山田奉行所記念館/伊勢市御薗町上條1602]
1. [拡大画像: x29407.jpg]
2. [拡大画像: x29408.jpg]