一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
日本海 (敦賀)・琵琶湖 (長浜市・近江塩津) を結ぶ昔の運河計画
~ 北陸本線の車窓から見る地峡の山地風景 ~
1 1. 閲覧にあたっては、下方の添付地図A・B(福井県作成の16万分の1の観光案内図; 敦賀市街地の港地区にある「きらきらみなと館」 展示)をご参照下さい。 北陸本線と湖西線とが合流するJR「近江塩津」駅 (地図Bの中央上寄り) は琵琶湖北端域に位置する。その近江塩津駅から日本海側にある 敦賀駅に至るまでの北陸本線両サイドには、標高3~700mの山々が連なる。 便宜上のこととして、近江塩津から敦賀湾岸までの間の比較的狭い陸地を、日本海の「海」と琵琶湖の「湖」の2文字を取って、 ここでは「海湖地峡」と呼ぶことにしたい。 画像1では、電車は近江塩津駅のすぐ南にある集落「塩津中」というところを通過している。手前の細い川は「大川」といい、琵琶湖に 注ぎ込む。画像の奥に見えるのが琵琶湖である。大川の河口域にある湖畔の集落は「塩津浜」である。
日本海 (敦賀)・琵琶湖 (長浜市・近江塩津) を結ぶ昔の運河計画の一つとして、近江・琵琶湖側のこの大川と越前・日本海側の五位川との間の
一つの分水嶺になっている「深坂峠」あたりの地下にトンネル(隧道・すいどう)を掘り貫 (ぬ) いて、両河川間に運河(疎水・水路)を
通すという計画があった。 [参考]疎水 (そすい): 陸地を掘って造られた水路。小さな運河のこと。 |
過去の運河開削計画の歴史をひも解くと、敦賀湾と琵琶湖北岸との間の「海湖地峡」 に横たわる陸地を開削したり掘り貫いたりして、運河・隧道などを通すという構想が浮上しては消え去り、結局実現されず 今日にいたってきた。 江戸時代後期の1816年に敦賀の平野部と山地において部分的な開削がなされ、疋田(ひきだ)(地図Aの中央下寄りのJR「新疋田」駅 近くの集落)まで、舟川が開通した。だが、歴史上未だかつて日本海と琵琶湖を結ぶ運河が全面開通することはなかった。 実現にいたらなかった理由や背景は時代ごとに異なる。最大の難題は、大きい標高差、運河掘削量の多さと掘削深度の大きさなど ではなかったか。さらに、運河通航に必要な水資源確保の困難さではなかったか。 さて今回は、海湖地峡にどんな自然地形が横たわるのか、垣間見たいと思い、ほとんど予備知識をもたず近江側から敦賀までの列車 の旅をした。琵琶湖側の「近江塩津」駅から「新疋田」駅を経て、敦賀駅にいたる北陸本線の車窓から見た山地風景、 およびその山中にある街道集落・疋田 (ひきだ) に沿って流れる舟川風景を切り撮ったので、ここに紹介する。 初めての散策であったことから、カメラで山地地形を十分とらえることはできなかった。 近江と越前(琵琶湖と敦賀)側との分水嶺、すなわち「深坂峠」周辺の地形を最も見たかった。だが、車窓からは全く眺望できなかった。 深坂峠は鉄路の「深坂トンネル」という長いトンネルの上にある尾根に位置するので、その地形は徒歩で踏査しないと見られない。 別の機会に自らの足で峠越えを行ない、その自然地形を知りたいと思う。 現代においては、この海湖地峡に運河・隧道を通す必要性も経済合理性もないであろうが、運河を建設するとすれば自ずと向き合う ことになる技術諸課題などを、いずれ機会を改めて考察してみたい。 疋田の集落内には、「敦賀運河(疋田舟川)跡」(ひきだふなかわ・あと)と題する史跡案内立札が街道・運河 (舟川) 筋に 立てられている。その一部をここに引用したい。
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