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B. 「敦賀・琵琶湖間運河計画図」(画像1. [拡大画像: x28107.jpg]) C. 「敦賀より琵琶湖北岸迄道筋・舟川略図」 D. 「敦賀琵琶湖間道筋舟川等見取絵図」 E. 「加賀藩による運河計画関連図」 ①越前近江糧道測量絵図(1867年・慶応3年) ②越前国敦賀ヨリ近江国深坂通り塩津マテ直高図 F. 「越前敦賀庄之川尻より深坂山中追分辻迄見取絵図」(重要文化財 石黒信由関係資料 高樹文庫 一般財団法人高樹会 射水市新湊博物館蔵): 敦賀湾と追分間の、笙の川・舟川・五位川の河川と運河のルートを示す絵図 図 1 は「B. 敦賀・琵琶湖間運河計画図」である。 図左の最下にある「疋田宿」から、そのすぐ右斜め上の「追分村」を経て遡ると、そのずっと上流に集落「駄口」がある。 追分と駄口の中間あたりに (隧道穴口の印あたりに) 「深坂」という村落があるが、地図上には記載はない。 その深坂村の穴口(隧道の入り口)から沓掛(くつかけ)に向けて、深坂峠の地下を掘り貫くという案が計画図に示されている。 追分村から右上方へ沓掛に向けて山中を抜ける峠越え(「深坂越え」という)のルートの一部が点線にて描かれている。さらに、 画像中央にはその深坂峠を「峠」という一文字にて記されると見受けられる。 追分村から深坂穴口まで8丁(880m)ほど。反対側(琵琶湖側)の穴口出口は、沓掛(くつかけ)あたりに位置するが、 それら2つの掘り抜き穴口間の距離は30丁半(3,355mほど)と記される。琵琶湖側の掘り抜き穴口から塩津浜までは、 38丁(4,200mほど)と記される。
図 2 は、「A. 敦賀・琵琶湖運河隧道穴口施設等設計図」である。 小プールの水は、4つの小水門 (小樋口) を経て敦賀側の運河へと落とされていく行く。その水源は、琵琶湖の湖水であるのか、 あるいは、いずれかの川(例えば琵琶湖に流れ込む大川)の流水が部分的に堰止められ、その水が運河に流用・落とし込まれ、 隧道水として満たされるのかどうか、この図では分からない。 深坂側の穴口の切下と、琵琶湖水のある地面までの高さは、9間 (16.2m) と記される。 小プールと敦賀側運河との落差は1丈1尺5寸 (3.5m)。その落ち口の水面と疋田村の地面との高さは3丈6尺 (11m) と、また 敦賀海岸から疋田水面場まで高さは23丈9尺4寸6分(約73m)と記される。 従って、琵琶湖水面と敦賀海水面との高さとして、(73m +11m + 3.5m) - 16.2m=71.3mという計算がなされていたことになる。 2つのプールについて: 小プールの大きさは、横幅20間(36m)、縦6間(10.8m)、小水門5樋。大プールのそれは、横幅20間(36m)、 縦30間(54m)。大小プール間には2つの大樋口ある。穴口の幅は3間(5.4m)。 隧道の敦賀側穴口から琵琶湖側のそれまでの距離は1800間(3,240m)である。その琵琶湖側穴口から湖南筋については、沓掛から塩津浜 まで通舟距離は2,160間(3,888mほど)と記されている。
[参考1]換算表
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江戸時代における測量技術は、有名な伊能忠敬の日本地図に代表されるように非常に高度で、これらの絵図においても例えば道口村の標高 である6丈9尺7寸(21.1m)は、現在の水準点の高さから0.1m低いだけという正確さでした。 この運河計画は結局実現に至りませんでしたが、物資輸送の重要ルートとしての意義は明治新政府にも重視され、2年後の明治2年(1869)には 敦賀と琵琶湖を鉄道で結ぶ計画が決定し、その後の敦賀-長浜間の鉄道開業へと引き継がれていきました」
画像 3 によれば、運河計画のルート上にある最重要地点における略標高差は次のように記されている。
[辞典内関連サイト](日本海・敦賀と琵琶湖・塩津との間の地図参照) [2017.10.14 出典:「愛発(あらち)舟川の里展示室」(Arachi boat canal exhibition pavillion)] |
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