Page Top


    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事
    第5節 天から舞い降りた新聞広告、運命の分岐点となる


    Top page | 総目次(全章全節) | ご覧のページ


     第5章・目次
      第1節: 東京砂漠で社会人生活の第一歩を踏み出す
      第2節: ビジネスに不器用な私の悩みと焦り
      第3節: 日韓大陸棚協定を深掘りする
      第4-1節: 東シナ海大陸棚境界画定にどんな未来があるか-百年の争いか(その1)
      第4-2節: 東シナ海大陸棚境界画定にどんな未来があるか-百年の争いか(その2)
      第5節: 天から舞い降りた新聞広告、運命の分岐点となる



  事務所に勤務していたのは所長と私の二人だけであったから、二人して胸襟を開き、事務所のビジネスのあり方などを率直に語り合うべき であった。さすれば、何がしかの前向きなアイデアが生み出され、共有され、前を向いて歩むことが できたかもしれない。だが、真正面を向き合って率直に話し合うことはなかった。何故だったのか。未だに理解できないところである。 二人とも余りに遠慮深かったようである。それとも、話し合っても互いのベクトルを合わせられそうになく、互いに傷つけ合ったままに なりそうで、それ故に話し合う勇気を奮い立たせられなかったのかもしれない。同じ事務所の屋根の下に居ながら、二人が歩もうとする 方向はどこかずれたままで、思い思いのことをしていたように思える。

  毎朝意気揚々と熱く燃える心をもって事務所に向かいたかったが、沈んだ心で通勤電車の吊り革に手を掛けていることが 多かった。地下鉄・銀座線の渋谷駅を出て虎の門に近づくにつれ、足取りはさらに重くなって行くようであった。 事務所の調査研究においても、また経営収支面でも何がしか目に見える貢献をしたかったが、何をどうすればいいのか、浮かぶ アイデアはいつも堂々巡りで、確信のもてる企画案を生み出せずにいた。日々焦る心と虚無感を抱きながら、アパートと事務所との間を往復していた。 1976年の桜の季節が間もなくやって来る頃のことであった。

  4月上旬のある日のこと、事務所に出社した後カバンを置いて、事務所が定期購読していた朝日新聞の三つ折りを手にして、 すぐ近くの喫茶店に出掛けた。事務所のすぐ前の路地をさらに奥へ進むと行き止まりになっていたが、喫茶店はその袋小路の突き当りにあった。 始業にはまだかなりの時間的余裕があった。その喫茶店には昭和時代の趣きがたっぷりと染み込んだような店であった。 「モーニングセットがお得です」という、卓上に置かれた透明プラスティック製スタンド式の広告に引き寄せられて即座にそれを注文した。 そして、バターをたっぷり塗った厚切りのトーストをかじり、時にコーヒーをすすりながら、広げた新聞の見出しを追いかけた。

  新聞誌面のトップには、田中角栄首相が絡むいわゆる「ロッキード贈収賄事件」の記事の派手な見出しが踊っていた。霞が関の政界はもちろん日本中 が大荒れであった。それらの見出しをを走り読みしながら、ページをめくりめくって社会面に辿りついた。そして、その社会面の 見出しを何気なく上から下へと追った。その時、ページ左下方の小さな囲い込み広告に目が留まった。開発途上国への政府開発援助 (ODA)に携わるあの国際協力事業団(JICA)の職員募集広告であった。一瞬ハッとそのコラム に釘付けとなった。そして、頭上に稲妻が落ちたかのような衝撃に襲われた。

  興奮冷めやらないなか、改めて広告をしっかり読んだ。間違いなかった。ODAを実施するあの政府系特殊法人のJICAであった。 今回の募集対象者は非正規職員や嘱託ではなく正規職員であった。さらに、新卒者の募集ではなく、社会人を中途採用するという、 願ってもないものであった。それ故に、私的には関心をぐっと引き寄せられることになった。 記事には応募条件や待遇面などが簡潔に付記されていた。30歳が年令制限であったので、まだ十分余裕があった。自分でも 信じられないほどの運命的な記事との遭遇であった。余りの偶然的な出来事に鳥肌が立ち身震いするほどであった。 コーヒーを一気に飲み干し、新聞を鷲掴みにして店を出た。

  実のところ、出身地である茨木市はJICAと深い縁があった。市街地から西へ数kmの閑静な住宅街の中に、外国人研修員が宿泊し 研修も受講できるという、政府系機関としては唯一の施設があった。実際に施設内を見学したことはなかったが、 それがJICAの研修施設であることは知っていた。それに、大学院生の頃、「青年海外協力隊(JOCV)」のボランティアに 応募して、開発途上国でボランティア活動をしたいと真剣に考えていた時期があった。JOCVはかつてはJICAとは別個の政府系独立機関 であった。1976年当時にあっては、「海外技術協力事業団」とJOCVとが統合され「国際協力事業団(JICA)」へと生まれ変わっていた。

  私的には海外青年ボランティアとしてどんな職種に応募しようかと真剣に思い巡らせていたことがあった。法学のバック グラウンドをもつ者にとって、応募するに相応しい職種は特になかったことを記憶する。私が小六の時に父親が他界したが、それ以来 家族を助けるためにおよそ14年間農事にも従事していた。大学生でありながら農協組合員の資格をもつほどであった。それは農業 の専従者でもあることの証しであった。だから、今から考えれば、農業開発や農村生活向上支援なんかの職種であれば、十分 応募資格があったのではないかと思うところである。だが、当時は法学関連でのボランティアの職種を思い浮かべるばかりで、 頭の切り換えを図るほどの柔軟性は持ち合わせてはいなかった。私がその30数年後にニカラグアに赴任した折には、70名余の JOCV隊員が全土で活躍していた。そして、そのうちの4、5名はそのような職種で活動していた。

  さて、新聞がまたしても一つの偶然、一つの幸運を呼び寄せたと思った。過去を振り返れば、私の人生に劇的で運命的な転機を もたらすきっかけとして、新聞や手紙が深く関わってきたとの想いがある。神戸商船大学の小谷信一学長、国連法務官の曽野和明氏、 あるいは潮事務所の麓多禎氏との出会いがあった。小谷学長とはある大型船舶海難事故を報じる新聞記事がきっかけであり、 曽野氏とは「関大新聞」の記事との偶然の出会いがきっかけであり、また麓氏とは朝日新聞記事がきっかけであった。 そして、今回のJICA職員募集広告との遭遇もまた新聞紙上においてであった。

  休題閑話。早速、履歴書用紙を文房具店で買い求め、その日のうちに書き上げ、翌日には履歴書用写真を添付して投函した。一か月後には、 都内の広尾に所在する協力隊の研修施設で実施された筆記試験に臨んだ。受験者は何百人と大勢であった。JICAへの奉職とODA世界との 関わりに希望の炎を燃やし、出来るものなら合格したいと願っていた。だとしても、正直自信のほどは余りなかった。確率でいえば五分五分くらいで、 運が良ければ合格できるかもしれないと、秘かに幸運の女神に祈っていた。試験のレベルは国家公務員中級試験程度と噂されていた。

  実に嬉しいことに、めでたく筆記試験(一般常識・英語・作文)に合格した。出勤直前に、そのことを知らせる電報をアパートで受け取った。潮事務所 には内密であったので、JICAからの通知はアパート宛てに送られてきた。さてその後、 西新宿の超高層ビルのうちの一つである「新宿三井ビル」での面接試験に臨んだ。5、6人の幹部職らしき面接官の面々が居並ぶ 前での面接であった。受け応えに窮するような難しい質問はほとんどなく、それに面接時間はさほど長くはなく、10分程度であったと記憶する。 その後一週間ほど経った8月のある日、人事課担当者から内々の採用を知らせる電話を受けた。 受験者のほとんどは当時勤務先をもっていたので、その職場を円満退社するための時間的余裕が必要であった。それ故に、何時頃から 勤務できるかという照会電話でもあった。数ヶ月後の1976年11月1日から出社することになった。潮事務所入社からすれば ほぼ1年後のことであった。

  新聞紙上でのJICA職員募集広告との偶然の運命的出会いと、中途採用試験の合格がなければ、現在の自分はなかったはずである。 「人生航路を辿る航程」において何という劇的な転機となったことか。潮事務所で海洋法制や政策課題との関わり合いを持ち続ける ことができたことは喜ぶべきことであったが、公私とも将来の見通しがたたない 長いトンネルに入り込み、先の展望を描き難く、不安定で不安な日常を余儀なくされていた。そんな立ち位置からの運命的、革命的な 転機の訪れとなった。私的には、JICAは人生行路におけるいわば「救世主」のような存在であった言える。大袈裟かもしれないが、 天は我を見捨てなかった。幸運も尽きてはいなかったようだ。そう感じた。

  さて、余談であるが、それまでの焦燥感や虚無感がまるで嘘であったかのように心が晴れて、どこかへ一人旅に出たいという気分が 湧いてきた。そこで、東北・三陸地方のリアス式海岸の絶景を一度は見たいと、10月中旬行き当たりばったりで盛岡へと向かった。 宮古駅で下車した後、海辺をそぞろ歩きした。そして、観光船に乗船し、奇岩が多く風光明媚な「仏が浦」辺りの沿岸を遊覧し、その後田老という 漁業集落地区へ向かった。

  田老地区では、その背後に山が迫り少しの平地に家屋が密集していた。その集落から海岸に出ようとした時のこと、分厚いコンクリートの防壁が立ちはだかった。 海岸線に沿って集落全体が高さ5、6メートルも あるような、そびえ立つ防壁で囲まれ、漁村でありながら海がどこにあるのか丸で見えなかった。海に出るには鋼鉄製で堅牢な大扉をくぐる 必要があった。そこで初めて田老が、津波から住民を守るため集落全体が「要塞化」されていることを知った。防壁が伸びる先には 岩々がそびえ立ち、その岩壁には大津波がかつてこの高さまで来襲したという痕跡が示されていた。

  ところで、そんな旅から約35年後の2011年3月11日、「東日本大震災」による巨大津波がその防壁を乗り越え田老地区を 一呑みにするという大惨事に見舞われてしまった。東北3県をはじめ東日本の太平洋岸を襲う大惨事となった。 東電の福島第一原子力発電所のメルトダウンはもう一つの大惨事をもたらした。地震発生時私は渋谷の道玄坂にあるビル内に居た。 ビル内ではさほど揺れなかったが、急いで通りに出て見た時のkと、ただならぬ巨大地震が関東近辺のどこかで発生していると直感した。

  眼前の全ての高層ビルが左右方向の激震に飛び跳ねるように揺れていた。互いにぶつかり合って今にも通行人の頭上に 崩れ落ちて来そうであった。その後、25㎞ほどの道のりを7、8時間かけて歩き通し帰宅した。 「明治通り」などどこもかしこも歩いて帰宅する人々や、渋滞で全く動けない車両で溢れていた。 途中ショーウインドウの中に電源オンになったままのテレビ画面に釘づけとなった。津波が仙台空港の滑走路を呑みこもうとする情景 をライブ放映していた。心臓が凍りつき、息するのも忘れるくらいの衝撃であった。

  休題閑話。私は1976年11月1日新宿本部でのJICA入団式に出席し、その日から4,5日間のオリエンテーションを受けた。同期入団者は20名ほどで あった。その後、研修事業部研修第2課という部署に配属された。先輩諸氏の手ほどきを受けながら実務をこなした。数週間が経った頃 最初の給料日が巡って来て、茶封筒入りの給料を受け取った。 当時はまだ銀行口座への振込みではなく、現金が給与明細書と共に茶封筒に入れられていた。 生まれて此の方一度もまともな給与袋に入った月給を手にしたことがなかった。明細書と共にわずかな枚数の一万円札の束が入った 給与袋を背広の内ポケットにしまい込んで家路に就いた。電車の中で時折左胸に手を押し当てながら、袋があることを確かめつつ、 ずっと興奮の面持ちで帰宅したことをよく覚えている。

  その後信じられないような有り難い給金をもらった。12月1日に在籍していたということで、給与規則に基づき冬のボーナス までもらった。その時には、経験したことのないような浮かれた気分で飛び跳ねるようにして帰宅した。何はともあれ、毎月特定日に 給金をもらえることの有り難さを痛いほど噛みしめた。 特に潮事務所での過去一年間における金銭的受領体験とその心情からすれば、なおさらのことであった。それに、何の後ろめたさも 無く給金を受け取れることも嬉しかった。

  ところで、JICAは、日本政府の発展途上国向け国際技術協力の実施を担う政府系特殊法人である。JICAへの奉職によって、 国際社会との何がしかの接点をもちつつ少しでも貢献したいという、かねてからの願いが叶ったという思いを抱いていた。 国連の予算ではなく日本政府の予算であるという違いはあるが、発展途上国の「国づくり人づくり」を通じて、 国際社会への社会経済的貢献につながる仕事に従事するものであり、その勤労の本質的な意義は国連もJICAも同じであった。JICAの業務を通して、数多くの 発展途上国の人々と向き合い、異文化に身を置きながら、少しでもお役に立てることができそうであった。それは長年の願いを 実現したいことの延長線上にあった。途上国への何がしかの貢献に関われるということが、まずもって最大の喜びであった。

  他方で個人的には、JICAという職場は国際的な業務のキャリアアップを積み重ねる上で申し分なかったが、さらにまた、当時 応募中であった国連海洋法担当法務官ポストを待機する上でも申し分なかった。 JICAの業務を通じて、水産などの海洋分野における国際技術協力にいずれの部署でどの程度関わることができるのかは未知数であった。 運を天に任すしかなかったが、少しでもそのような分野での業務に従事することができれば、海洋法担当法務官に向けてのキャリアアップ につなげられるものと、多少は期待していた。

  他方、内心では二足のわらじを履くこともできるのではないかと考えていた。有り体に言えば、潮事務所との関わり合いを 保ちながら、何がしかの海洋法制や政策課題に関する調査研究を続けていけるものと望みをつないでいた。もちろん、期待し過ぎ ないように心の均衡を保つように心掛けた。 商船大学の受験を諦め「山の世界」に閉じこもって丸6年間も過ぎていた。その後運よく海に回帰できたにもかかわらず、再び海の世界 から遠く離れ、海洋法制や政策などに関する専門性を手放してしまうことなど、私的には頭の片隅にもなく到底考えられないことであった。 要するに、JICAに奉職しても如何様に海との接点を保ち続け、主体的に専門性を高め続けて行けるかと言うことに心を砕こうとしていた。 専門性を捨てれば、日本や米国での勉学を長く支え続けてくれた家族や指導教授、その他の多くの方々に申し訳ないという 想いだけはまだ頭の片隅に強く残されていた。また、日本とアメリカの大学院修了までに要した経費を無駄にはしたくはなかった。

  将来を見据えると、JICAへの奉職は、一石四丁あるいは五丁の有り難い理想的な職場であると思えた。 給金・ボーナスをいただき自身の生活基盤が100%安定すること、自助努力をもってすれば細々でも、海洋法制などに関する調査研究を何とか 続けられる見込みもあり得ることである。給与という定期的な収入はそんな調査研究の継続を可能にしてくれる経済的基盤にも なるはずであった。また、国連でなくとも、日本の外交政策の下で、国際社会への貢献につながるJICA業務に身を置くことができること。 さらに、JICAでの国際協力業務は国連職員に応募する上でのキャリアアップにつながることである。また、JICAでの部署によっては、 国連海洋法務官ポストを待機するための職歴上、キャリアアップにつなげられるかも知れなかった。JICAにあっても、海洋や水産分野 との関わりをどう主体的に見い出し、それを続けられるか。そのことにもチャレンジして行こうと決意を新たにしていた。

  かくして、JICAへの奉職をもって人生の新たなスタートラインに就いた。奉職後の先々においてどのような未来が待ち受けるのか 具体的に想像することはできなかったが、明るい希望の光だけは輝いて いるように感じた。己の人生の「海図」に、向かうべき具体的な針路やルートをどうプロッティングしていくのか。遠い先のことはさておいて、 先ずはJICAを「母港」にして国際社会と言う「大海」にていろいろな国際協力の職務をこなすべく、長い「航海」に乗り出す ことになった。

    新聞広告に出会ったのはまたも偶然のことであったが、しかし、これまでの人生で一度も偶然を当てにしたことはなかった。 夢や希望をいつも思い描き、その思いをもち続けてきたが故に、自身の眼前をたまたま通り過ぎるチャンスの幾つかを見逃さずに ここまで来れたということであろうか。

  それにしても、読む新聞の見出しは無数である。そのうちの一つの小さな広告がたまたま眼前を通りかかった。そして、 新聞がまたもや偶然に奇跡的な幸運を呼び寄せてくれた。その結果がJICA奉職へと繋がった由である。 人生の幸運をそれによって殆ど使い果たしたのではないかと、ある種の恐怖を感じるほどであった。JICA奉職の直前まで将来への 不安を抱きながら、出口の見えない暗いトンネルの中を手探りで歩んでいた。そして、新聞広告をきっかけにしてそんな トンネルを抜け出た時に見た景色というのは、格別に眩しい輝きを放ち希望に満ち溢れものであった。

  新宿副都心の超高層ビルの「新宿三井ビル」は当時においてはバブル経済成長時代の象徴的存在であった。JICA本部はその 45~48階にオフィスを構え、国内外において数多くの事務所や研修施設を展開していた。当時東京都庁の超高層庁舎ビルはまだ建っておらず、影も形もなかった。 西新宿には京王プラザホテル、新宿住友ビル、安田海上火災ビルなど4、5本の超高層ビルしかなかった。都庁舎や都議会の建設予定地は 更地のままになっていた。そこで昼休み時間には、仲間とキャッチボールやサッカーなどのボール遊びをよくした。 1970年代から1990年代初めにかけての20数年間は、日本経済は右肩上がりの絶頂期にあった。その異次元のバブル経済がはじけるまで は、ODA予算も米国のそれを上回るかのような勢いをみせた。ついには、1990年代初めまでの一時期ではあるが、世界トップドナー 時代を謳歌するという時代が続いた。



このページのトップに戻る /Back to the Pagetop.



    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事
    第5節 天から舞い降りた新聞広告、運命の分岐点となる


    Top page | 総目次(全章全節) | ご覧のページ


     第5章・目次
      第1節: 東京砂漠で社会人生活の第一歩を踏み出す
      第2節: ビジネスに不器用な私の悩みと焦り
      第3節: 日韓大陸棚協定を深掘りする
      第4-1節: 東シナ海大陸棚境界画定にどんな未来があるか-百年の争いか(その1)
      第4-2節: 東シナ海大陸棚境界画定にどんな未来があるか-百年の争いか(その2)
      第5節: 天から舞い降りた新聞広告、運命の分岐点となる