水産室での初めての海外出張は1980年3月のことで、配属されてわずか2ヶ月後のことであった。調査団は水産庁漁港課の課長、課長代理、
2名の同課漁港建設土木技官、同庁国際協力室の室長代理のそうそうたるメンバー構成であった。インドネシアのある漁港整備の妥当性の
検討、予備的な概略設計などを行なうためであった。ジャカルタのほぼ南にあって、インド洋に面したプラブハンラトウという小漁村が目的地であった。
ジャカルタから4時間ほど、田畑が広がり椰子の茂る自然豊かな田園地帯や山間部を車に揺られ、現地には昼食を取るにはちょうど
頃合いの時刻に到着した。
漁村は大勢の村人や沿岸零細漁民らで溢れ、想像していた以上に活気に満ちていた。昼食は村の外れにあった質素な田舎食堂でいただいた。
食堂の裏庭には地鶏が放し飼いにされていた。ブロイラーでない地鶏の唐揚げは格別に美味く、団員は皆して舌鼓を打ちながら
むしゃぶりついた。
漁村の海岸に出てみると、どこか黒っぽい砂浜が伸びているだけで、漁港施設らしき人工構造物はほとんどなく、コンクリート造りの
老朽化した短い突堤が一本突き出ているだけであった。
アウトリガーカヌーを主体とする漁労船を安全に係留できるような静穏な泊地は全く見当たらず、ほとんどが黒っぽい火山礫に覆われた
ような海浜に引き揚げられていた。個人的には近代的な泊地がなくとも、そんな浜揚げが最も簡便で合理的な係船方法と思われた。カヌーよりも少し
大きい動力漁船は、その浜の地先海面に係留されているようであった。勿論、そんな漁船にとっては近代的な静穏泊地は至って有効で
あると言えた。
魚の陸揚げは、漁師の家族や大勢の人夫によって、浜近くに寄せられたカヌーから籠に取り込まれ浜まで担ぎ上げられていた。
労働力の豊富さを活かした人海戦術そのものであった。魚は浜のあちこちで仲買人たちによって引き取られていた。
私は今回初めてインドネシアの片田舎の漁村風景をこの目でじっくりと眺めることができた。眼前には、どんよりとした鉛色の重たそうな空の下に、
初めて見るインド洋が広がっていた。地元の人たちには何てことのないいつもの海風景かもしれないが、私的には、初めて見るインド洋
に感涙しなながらじっくりと眺めた。大航海時代、喜望峰を回り東アフリカ沖からスパイス・アイランドを目指して一気にインド洋を東航し、
スマトラやこのジャワ島の南岸沖を通過して行ったガレオン貿易船もあったのかもしれない。彼らはインドネシアのスラウェシ島東方にある
テルナテ島などの香料諸島(モルッカ諸島)を目指した。特にその帰途においてはジャワ島南岸沖を辿ってインド洋を横断することで
航海日数の短縮を企てたかもしれない。他団員と共に昼食後の腹ごなしに浜辺を暫く散策しながら、そんな想像を楽しんだ。
この漁村に漁港を建設するとすれば、技術・社会的観点からどのようなタイプの漁港を設計するのが最適であるか、
その設計規模はどの程度にすべきかを含めて、その実現可能性についての予備的調査を行なうことが今回のミッションであった。
その調査に水産庁からこれほどのメンバーが参加することになったのには、水産庁として何か特別な思惑でもあるのかと勘ぐって
しまうほどであった。
ともあれ、今回現地でどのような具体的調査を行ない、どのような最適な漁港建設方式を導き出すのか、またいかなる青写真を
描きどんな概略設計を行なうのか、あるいはまた建設上のどんな技術的課題に向き合うことになるのか、私的に興味は尽きなかった。
団長以下4名は漁港建設土木・工学のプロフェッショナルである。彼らとの団内協議や日々の何気ない会話に耳をそばだてながら、
調査の進捗に少しでもキャッチアップできるよう努めた。
団内ミーティングでは、大きく捉えて2つの建設方式が議論されていた。その一つは、海岸線から2,3本の突堤や防波堤を張り出させて
、その内側に静穏な泊地と漁獲物の荷捌き用埠頭などを確保するという方法である。防波堤の張り出し方向や長さなどの他に、いろいろなバリエーションが
あった。だが、基本的な建設思想としては、自然の海岸線の海側において、人工構造物をもって海面を囲い込むというものである。
これを概略設計する場合における最重要な調査項目は、岸辺の地先海面での深浅と地質であり、大雑把であってもその海底地形情報を入手することが
必須であった。だが、深浅は調査団自らの手で調べる他なかった。早速、翌日からその作業が始められた。
簡便に水深を測るにしても、最小限の資機材が必要であった。10本程度の竹竿、赤い布切れ、丈夫な紐や石であった。ジャカルタから同行してくれ
ていたインドネシア農漁業省の官吏に協力してもらって、それらを急きょ漁村域内で調達した。そこで、私も学びのチャンスに預かるという
位置付けで、水深測量を手伝うことにした。先ず赤布を目印にした旗竿を作り、測量用のポールの代用品とした。
そして、海岸線に沿ってできる限り一直線状になるように、旗竿を一本ずつ10メートル間隔にて水際近くの砂地に立てて回った。
他方、手漕ぎボートを漕手付きでレンタルし、水産庁技官である団員2名が乗り込んだ。一人が地先海面上の一測量ポイントから、
海岸線に平行する想定定線と直角になるように一本の旗竿と向き合いながら、隣りの旗竿に角度器の照準を合わせる。もって、二本の旗竿がなす
角度を測定する。そのデータをノートに筆記した。他方、もう一人の団員が、紐の端に錘にする石を括り付け、にわか仕立
ての「測深鉛」を急造した。そして、測深鉛の代用品に仕立てたその錘石をボートの舷縁から降下させた。紐には1メートル間隔で赤い
布切れが結び付けられている。海底に石が着底した時の手応えを慎重に感じとる。その時の結び目を読み取って大よその水深を記録した。
大航海時代沿岸域での航行時には水深測量のため、大雑把だが有用なそんな測深技法が用いられた。極めて初歩的な手法である。
海上の測点での水深と海岸線までの大よその距離がプロッティングできることになった。現地では、取敢えずはこの方法しかなかった。
角度測定器や磁石、巻尺などの器具は団員が日本から携帯してきた。かなり揺れる手漕ぎボートの上で、陸地に立てた旗竿に角度器の照準を合わせるのは結構大変である。
そこそこの誤差が生じるのも止む得なかった。技官と共に私もボートに乗り込み、角度や水深の書記役を務めた。かくして、
海岸線にほぼ並走する何本かの定線上を粗ほぼ漕ぎ進みながら、多くの測点で測深することができた。
三角関数の値は対応する直角三角形の二辺の長さの比であることから、ボートと旗竿との間の距離については旗竿間の設定距離
10mと、今回測定してえられた角度を基に三角関数表を用いて割り出していった。そして、全ての測点の離岸距離と水深データをプロッティングし、
その後、気象図の等圧線を引くようにして、おおまかな等深線図が仕上げられた。夕食後にはその概略図をもって建設方式につき
団内協議がなされた。
余談だが、今回調査団に同行してくれたインドネシア側のカウンターパートである官吏は大卒だったようで、旗竿作りや、砂浜に
それを立て掛ける作業などには全く我関せずで手を貸してくれることはなかった。仄聞するところによると、大卒エンジニアのプライドはすこぶる高く、
手を汚しての力仕事のような実地の測量補助作業は自身のやる仕事ではないと割り切っているように見受けられた。高学歴の大卒者が、
人夫や日雇い労働者がこなすような作業に携わるのは沽券にかかわり、プライドが許さないのであろうか。直感的過ぎるかもしれないが、
価値観の差異や文化の違いの一端をそこに見る思いがした。
さて、作成された深浅図に、浜辺に現存するコンクリート製の古い突堤が書き加えられた。すると、重要なことが明らかになった。突堤のすぐ地先
海面の海底に大きな陥没地形があることが判明した。後日聴き取り調査をしたところ、その昔、地震があってこの海辺で奇妙な轟音
が発生したことがあったという。その時に海底で地すべりか陥没が発生したものと推測されてきたらしい。
いずれにせよ、漁獲物の陸揚げ岸壁や漁船の泊地を築造するために、防波堤などで海面を囲い込む場合、この地形は一つの大きな
障害になると推察された。防波堤の造成は技術的に不可能ではないにしても、この自然発生的な急深的地形の存在は、防波堤の
構造設計と建設コストに大きな影響をもたらすことになる。
水深が増せば、建設コストは大幅なアップに繋がることになる。調査団の現地での暫定的結論として、費用対効果の観点からこの方式での建設は
不適切であると判断された。
かくして、「掘り込み方式」といわれるもう一つの建設法が検討されることになった。海岸線よりも内側の陸域部を掘削し、小型
漁船やカヌーなどの水揚げ用泊地を造成するというアイデアである。団長以下、漁港建設土木のエキスパート4名が、
漁村地先の手書きの大雑把な海底地形図と周辺陸域図を見ながら議論を重ねた。漁村の中を一本の小さな川が蛇行しながら流れており、突堤近くの
岸辺から海へ注ぎ出ていた。川の河口付近では、海岸線沿いに土砂が堆積し、海浜が少し盛り上がっていた。
即ち、海に注ぎ出る直前の河口付近では、その堆積土砂が川の流れを塞いでおり、流路は鋭角に曲って海へと注ぎ出ていた。
そんな河口域を広く大きく開削し泊地を造るというものであった。
だが、この方式にも幾つかの技術的課題が予見された。河口域が内掘りされ「内港」となったところに川が直接注ぎ込まない
ように工夫することが重要な設計条件になると思料された。掘り込み式泊地と河川流路とを完全に切り離しできればよいが、
地形的にみてそれは困難との見通しであった。つまり、掘り込み式内港に川が直接に流れ込むことは避けられなかった。
河川が泊地内に直に注ぎ込む場合、スコールなどの集中豪雨・鉄砲水などによる急激な増水が起これば、泊地が相当の被害を被る
リスクが懸念された。特に雨期における長雨などによって常々泊地は経年的堆砂作用の影響に悩まされ、泊地が簡単に埋没してしまい
漁船などが泊地を利用できなくなるリスクがある。年間の浚渫コストが重くのしかかることが予想される。いずれにせよ、漁港施設の利用上の安全性や持続可能性の確保は最重要な課題であった。
どの程度の漁港規模を想定するかは、漁船やカヌーによる荷揚げのために、一度に何十隻程度の漁船に対して静穏泊地環境で安全
に秩序立って利用可能にさせるかによろう。漁村の全ての船やカヌーを一度に収容することはできないし、またそれが目的ではない。
漁港建設には、さまざまな社会・経済的ファクターを考慮することが不可欠である。一度に水揚げを可能にする漁船の最大想定隻数、
船主・漁民と仲買人などの流通業者や金融業者との関係性、水揚げ人夫の労働事情、泊地使用料の徴収、浚渫による泊地維持管理
と漁民の経済負担、船主・漁民・人夫らの社会経済関係性、その他漁村における社会構造や習慣など、さまざまなファクター
を分析し考慮する必要があろう。重要なファクターを見落としたり、十分考慮されない過大規模の設計であったりして、漁港がいかに
近代的であっても漁業関係者に余り利用されないことも起こりうる。
掘り込み式の場合は、本来の海岸線から海側に張り出す防波堤などの突起状構造物はほとんど建設されないので、漂砂による
堆積は余り発生しないものと見受けられる。だが、そうとも限らない。近傍に河川の流出口があったりすると、潮流の
影響によって漂砂の堆積の影響を受けるかもしれない。内港への入り口付近や、また泊地内においてすら、その漂砂によって
埋没するリスクに曝されることがある。勿論、防波堤などの張り出し構造物による建設の場合でも、防波堤の入り口付近や泊地内が
堆砂で航行障害に陥るリスクは全く零とはいえない。特に、河川が漁港の近傍に注ぎ出ている場合は、
河川からの漂砂が防波堤の港口付近などに堆砂し、港を閉塞させるリスクもありうる。
特に防波堤を張り出して港を築造する場合、漂砂の動きや堆砂現象の予測に関するコンピューター・シミュレーション
が重要となる。日本国内での港湾建設の場合、海象・気象観測データが多く蓄積され利用可能であろう。だが開発途上国では、
実際の観測データは、海域によっては皆無に等しいものと予想される。従って、膨大な実観測データをインプットして、シミュレーション
・プログラムを作成または補正したり、プログラムの精度を高めたり検証するにも極めて困難を伴う。漂砂などの自然現象を正確に
再現し得るシミュレーション・プログラムを作り上げるには何年も海象・気象観測を継続しデータを蝟集する他ない。1、2年の短期調査
期間では、実際の海象を再現できるに十分なプログラム作りはなかなか困難と言わざるをえない。海という自然を相手に大規模構造物を
建設するのは手ごわいことである。
団内協議での暫定的な結論として、「掘り込み式」での建設がまだしも妥当性ありと推論された。調査結果は、団員が手分けして中間
報告書にして取りまとめ、ジャカルタの日本大使館に報告した。漁港建設の有用性全般や経済的コストと便益比較なども改めて考察しながら、
将来インドネシアから建設協力要請がある場合に備えて、建設の妥当性や技法などについてさらなる検討がされる。今回はそのための
基礎資料を得ることができたことになる。
私的には、漁港建設の妥当性と概略設計を予備的に調査するという初めての港湾関連フィールドワークとなり、エキスパートらに
よる調査と考察のプロセスを共有する貴重な体験となった。団長以下のプロフェッショナルは、自然科学や社会科学、さらに土木工学系
のノウハウを出し入れしながら、実践的な調査手法を垣間見せてくれた。まさに漁港建設の概念設計に向けた密着体験をすることができた。
さて、インドネシアへの2回目の出張は一年半後のことであった。「浅海養殖センター」プロジェクトの協力最前線に勤務する
関係者との計画打ち合わせのために、1982年8月下旬から9月上旬にかけて出張した。イスラム文化圏のプロジェクトを既に幾つか担当して
いたことから、同僚から急きょ出張を頼まれ、プロジェクトの現況や課題、今後の計画などについて協議することになった。
プロジェクトはジャカルタから海岸沿いに西方へ200kmほどの距離にある、バンテン湾に面する静かな入り江の岸辺にあった。
もう少し西に行けば、ジャワ島西端とスマトラ島南東端とを隔てる有名な「スンダ海峡」がある。ジャワ島の東端沖のバリ島
とロンボク島を隔てる「ロンボク海峡」とともに、これらの海峡は世界的にも有名な「国際海峡」である。同じく国際海峡の
代表ともいえる「マラッカ・シンガポール海峡」の最も浅い海域での水深は20~25メートルほどで、海洋戦略上重要な海上路の
チョークポイントとなっている。台湾南域の「バーシー海峡」や南シナ海をはじめ、マラッカ・シンガポール海峡が万が一閉鎖され通過
できないとなると、真っ先に商業船舶などはスンダ海峡あるいはロンボク海峡へと迂回することになる重要な海峡である。
なおその昔、16-19世紀に栄えたバンテン王国がスマトラ南部からスンダ海峡をはさみ、ジャワ島最西域のこの辺りを支配勢力下に
置いていたという。
さて、この養殖センターには、魚貝類の養殖技術に長けた長期専門家3名 (業務調整員やリーダーは各養殖専門家が兼務していた)が、
先方カウンターパートと協働して、ハタやテラピアなどの魚類、テナガエビなどの甲殻類、その他貝類などを対象にして、
プランクトンや各種人工餌料などをもって、ふ化のステージから稚仔魚や稚貝へと成育させ、給餌による成長率その他病害対策などを
研究していた。研究員らは、講習会などを開催し、養殖の知見を水産普及員や民間養殖業者などに提供し、その普及にも貢献していた。
どのプロジェクトにも一般的に共通するいろいろな悩みや課題があったが、養殖特有の大きな課題の一つがあった。
養殖場の地先の海底から清い海水を汲み上げ、陸上設置の大小の飼育タンクや人工池に取り込んでいたが、そこに障害を抱えていた。
取水する上での最善の時機を選んでも、もともと取水口は浅海域に設置されており、どうしても濁りのある海水をタンクに取り込む
ことになりがちであった。取水パイプは海底をはわせてあるが、ところどころ継ぎ目部で損壊し、そこからも濁り気のある海水が吸い上げ
られた。また、海水取水ポンプ装置そのものも古く、しばしば立ち往生していた。魚貝類の成体ならまだしも、さまざまなステージに
ある稚仔魚・稚貝の生命を脅かす。死亡率が高まると、その後の成育関連データの取得が継続できないというリスクがある。
研究成果と予算をひどく無駄にすることに繋がる。
プロジェクトでは、インドネシアが設置した海底設置のコンクリート製取水口とパイプを応急修理することが喫緊の課題であった。
濁りのない清浄な海水取水は文字通り生命線であった。インドネシア側には取水システムを修理したり更新する十分な予算はなかった。
JICAとしても予算が限定されていたが、計画課と掛け合って特別の工事予算を工面し、取水口やパイプの応急修理やポンプ装置の改善に取り組んだ。
応急措置の連続であり、抜本的な改修そのものは予算的に難しかった。養殖実験や研究に必要とされる施設の提供と整備はインドネシア側の義務的負担
事項とはなっていたが、そう簡単にらちがあかなかった。ポンプが故障して長期に作動できない場合は、飼育生物に致命的な結果を
招きかねない。ポンプの定期的修理あるいはオーバーホールも、清浄な海水の安定的供給の観点から稚仔魚の生命線でもあった。
ジャカルタでは「国立研究開発庁」や農業省の「水産局」、「海水面養殖研究センター」などを訪問し、養殖プロジェクトなら
ではの幾つかの重要な課題について共有し、善処してもらえるように関係者に掛け合った。上級機関によるプロジェクトへの
財政支援、カウンターパートの手当ての確保や定着率の向上への理解、プロジェクトの成果の見通しや技術的課題への対処に向けた
方途などについて膝詰で協議し、プロジェクト運営に対する
支援の一層の強化を申し入れたりした。
さて、日本大使館への報告後、プラブハンラトウ漁港調査の一環として、ジャカルタ港の埋め立て整備工事の進捗状況を知るため、工事事務所や現場などを訪問した。
たまたま通りかかった同港の一端にある旧港には、中東湾岸諸国では多く見られる帆柱付き木造船(ダウのような船)が埠頭に
数多と停泊していた。帆装と機関を併用する機帆船であろう。ジャカルタを基点にして、数多ある島嶼にありとあらゆる生活・
産業物資を輸送する。重要な海上輸送手段として今でもダウ風の木造船が活躍しているのを目の当たりにした。
人夫らが桟橋と船の間に架けられた渡り板を忙しく行き来して積み降ろし作業をしていた。いつかこんな機帆船に便乗させてもらって
、スパイス・アイランドなどへ旅してみたいと一瞬夢の世界にいた。
さて、余談であるが、ジャカルタの旧市街地区の一つである「コタ地区」には、魚市場(パサール・イカン)などがあり、
団員らと訪問した。その通りがかりに、魚市場のすぐ近くに、かつての宗主国オランダの「東インド会社(VOC)」によって使われていた
という倉庫を活用した「海洋博物館」があることを知った。週末に訪問機会を何とか工面できたのは、「浅海養殖センター」プロジェクト
への出張時であったと記憶する。「海洋博物館」と銘を打つ歴史文化的な展示施設を海外で訪問できたのは、これが初めてのケースであった。
展示品の主なものは、インドネシアのジャワ、スラウェシ、スマトラなどの主要島嶼域において漁撈用に使われる、その地を代表するような伝統的アウトリガー付きカヌー
などの実物や模型、その他いろいろな漁具漁法の模型などであった。その実物倉庫は、旧オランダ植民地統治を支えた「東インド会社」の
面影を彷彿とさせる堅牢な歴史的建築物であった。館内を歩くと床板がきしむ音が聞こえてきそうで歴史と文化を今に感じさせる。
柱や梁の木材は太く堅牢そのものであるのが特徴といわれる。百年前以上も前の植民地時代から倉庫内の梁などに積もりに積もってきた粉塵が
何かの拍子に舞い上がりそうであった。旧オランダ統治時代へタイムスリップしたように思え、鳥肌の立つ感動を覚えたことを記憶する。
* JICA水産室時代における海外出張略史(水産業技術協力室での7年の歩み)
このページのトップに戻る
/Back to the Pagetop.