北アフリカの回教国・チュニジアでの「国立漁業訓練センター」プロジェクトの運営に向き合っていたら、またもや中近東アラブの
回教国・アラブ首長国連邦(ア首連、UAE)での「水産増養殖センター建設開発調査」プロジェクトなるものと向き合うことになった。
水産室に着任してほぼ半年後のことであった。実は、ア首連のプロジェクト運営において決定的な失策をした。
事の発端はたった一文字のエラーであった。公文書において一つの英単語がとんでもない別物に置き換わっていたことを
見落としてしまうという誤ちを犯した。そのために、とんでもない結果を招いてしまった。
しかも、その始末に3年以上も悪戦苦闘することになった。だが、見方を変えれば、その間違いの結果として、当時の世界的な石油危機の
時代にあって、日本に対して石油の安定供給を続けていた産油国の一つであるア首連に協力し、いわば「恩」を売ることになったとも
思えなくもない。そうだとすれば、それは、当時にあっては、ある意味で結果オーライの協力であったといえるかも知れない。
いずれにせよ、水産室で私を鍛えてくれたもう一つのプロジェクトは、このア首連での建設案件であった。
アラブ首長国連邦は、同国を構成する首長国の一つであるウム・アル・カイワインに「水産増養殖センター」の建設を計画し、
その概略設計段階から建設の完工までの全プロセスにおいて支援してほしいと、日本に要請してきた。日本の「政府開発援助(ODA)」
である技術協力を実施する機関であるJICAは、「開発調査」というスキームの下で最大限の協力をすることになった。それも、建設事業の
妥当性や実現可能性を調査するというレベルではなく、いきなり基本設計レベルでの調査を実施することになった。一人あたりの国民所得が
髙いア首連に対しては制度上無償で施設を建設するという協力はできず、「開発調査」というスキーム下での概略設計までが限度であった。
建設段階において行われる「詳細設計」や施行監理は協力の対象外であった。即ちア首連が自己資金を投入して自らの責任において
実施するのがODAにおける決まり事であった。
ところで、ア首連は日本にもう一つの協力を要請していた。隣国のサウジアラビアと同じくア首連にとっては水が生命線であった。
地下ダム建設が可能なサイトを特定し、ダムの概略設計をすることにも手を貸してほしいというものであった。日本には髙い技術力があるとはいえ、
砂漠の中の「涸れ沢(ワジ)」に地下ダムを建設するための具体的な適地を探査し、ダムの概略設計をするという調査には髙いリスクが
あった。ほとんど調査経験のない日本の民間コンサルタント企業がその適地を特定するということは難題であった。
例え日本政府が同調査に協力するとしても、日本にのような探査調査に豊富な実績をもつ企業があるとは思えなかった。よしんばそんな企業
があったとしても、ア首連政府と同民間企業とが商業ベースの協定を締結し、ダムの詳細設計と建設工事の施行監理を行なうとすれば、
重大な責務を背負うことになろう。何故ならば、日本の技術協力の一環で調査し、ダムサイトを特定し、概略設計をしたにもかかわらず、
結局地下水が溜まらず水資源開発に結びつかなかったとなければ、日本政府としてもその責任を問われ、何度も調査のやり直しが
求め続けられるという懸念がないとは言い切れない。さすが、日本はこれについては要請に応じないということになった。
JICAが実施する技術協力の対象国については、OECDの援助基準によって規制されていた。ア首連は一大産油国であり、国民の一人
当たりの所得が高く裕福な国なので、OECD基準からすれば、日本などの先進諸国が実施するODAの対象国になるようなレベルでは
なかった。従って、JICAが技術協力の一環として開発調査スキームをもって調査を実施しても、その後の増養殖センターの詳細設計、
さらに国際入札図書一式の作成と国際入札への支援業務の実施、建設工事に対する施行監理に必要な全ての費用は、ア首連自身
の財政負担となるというのが日本のODAにおける制度的仕切りであった。具体的には、JICAの開発調査後、ア首連は、先ず自身の代理人となる
建設コンサルタントを雇い入れ、それと商業ベースでコンサルティング契約を結び、詳細設計と建設工事請負業者の選定、さらに
建設工事の施行監理をしてもらう。コンサルタントを傭上する経費や建設工事費そのものも全てア首連が財政負担
することになる。JICAの技術協力はそういう仕切りになっていた。
私は担当者として、当該開発調査団の派遣手続きを進め、自らもその一員となり、ODAコンサルタント大手の「パシフィック・
コンサルタンツ・インターナショナル」の5~6人の団員と共にア首連の首都アブダビへと出向いた。1980年3月中旬のことであった。
日本大使館で調査方針などを説明した後、砂漠の中を貫通するペルシャ湾岸沿いのハイウェイを走り抜けドバイを目指した。
先ず、ドバイで、農漁業省のお雇い外国人である顧問のアリ博士らと協議をもち、開発調査制度の概要、調査に伴う両政府の権利と
義務、開発調査報告書の作成工程、さらに最も重要な以下の諸事項を説明した。
即ち、日本政府の協力は、無償資金協力でいえば基本設計レベルに相当する概略設計レベルの開発調査報告書をア首連側に提出するところ
までである。日本側としては、その後の建設工程に対しては関知できない。ア首連側は、商業的契約ベースでコンサルタントを雇い入れ、
自身の代理人となるコンサルタントをもって、詳細設計、国際入札図書一式の作成、国際入札の告示と
その実施、工事請負業者との契約締結、工事着工とその後の施工監理などに当たるものとし、日本側はこれらに技術協力するもの
ではないことを繰り返し説明し理解あるよう何度も求めた。また、ア首連は、OECD基準によれば、所得レベルが高く日本の技術協力
の対象国ではない旨の説明も行なった。開発調査における概略設計の内容や作業工程、開発調査に伴いア首連側が負うことになる義務、
その他開発調査の業務範囲などを定める「スコープ・オブ・ワークス(Scope of Works)」という合意文書案を説明した。そして、
後日両者間で同文書に署名した。
1980年7月のことである。
余談であるが、農漁業省で協議した後、暫く休憩することになった。そこで、用足しと頭を冷やすために街中へ一人出た。3月下旬であったが、太陽がギラギラと
照り付けていた。炎天下の外出がどれほど危険なものか全く認識せず、灼熱下を10分ほど歩くと汗が滝の如く噴きだした。
それでも用足しを終えようとなおも歩いた。
しかし、汗はさらにとどめもなく流れ落ちた。体中の水分がほとんど抜け出るような恐怖に襲われた。ついに、生命の危険に気付いて、
冷房の効いた近くの銀行に思わず緊急避難した。そこで、骨まで熱せられた体を10分以上冷気に晒してようやく正気に戻った。もう少しのところで、
熱中症のためにぶっ倒れドバイの街中で「遭難」するところであった。その後は、用も足さず同省へ何とか辿り着いた。
休題閑話。ドバイから、プロジェクトサイトのあるウム・アル・カイワインに向けて海岸沿いに車で移動した。隣りの首長国である
シャルジャー付近であったと記憶するが、その道中で興味深い光景に出会った。「シンドバッドの冒険」に出てくるような、あのアラブ
世界独特の木造船「ダウ」が海岸近くの土漠上にぽつんと一隻だけ鎮座していた。一瞬車を止めてもらい車窓から数枚の写真を切り
撮ることができた。生まれて初めて見たダウは陸(おか)に揚げられていた。後で写真をよく見ると、木造ではなくFRP製の船体
であった。だとしても、「海のラクダ」と称されるダウの本物を見ることができた。「海のラクダ」とはよく言ったものである。
ダウの造船所と言っても、日陰を確保するための掘立小屋がぽつんとあるだけのようであった。通りすがりのペルシャ湾岸での寸景であった。
その後、ウム・アル・カイワインに足を踏み入れ、真っ先にその建設サイトに向かった。サイトではペルシャ湾岸沿いに細長い
埋立地が伸びていた。その内湾側には大きな船溜り用水面が広がっていた。そして、増養殖センターの建設用地は、その船溜りに
面した埋立地の一角に確保されていた。何時間かサイトを視察した後、シャルジャの市街地に引き返した。そして、私はアブダビへと出立したが、
シャルジャに居残った他団員は翌日から本格的な調査活動を開始した。同国の関係行政部局との養殖内容・規模・人的資源投入体制など
についての協議、建築・土木関係の法令の収集、インフラ整備事情調査、サイトの地形測量、埋立てや建設工事業者関連情報、
その他各種工事単価情報などの収集、それらと平行して施設の概略的配置図などの作成に取り組んだ。
途中ドバイで運転手の休息を取り、街をもう少し社会見学できた。ドバイには地理地形的には奥行きの深そうな「クリーク」と称される
入り江が、砂漠に向けて内陸部に入り込んでいることは何となく認識していた。だが、ドバイの歴史、文化、地理に関心を強く傾注するような
ことはほとんどなかった。クリークの岸辺をたむろし、「アブラ」という小舟でクリークを行き来したり、またアラブ風城塞や
博物館を見学して、ドバイがどんな街なのか自身の目で観て知りえたのは、その後20数年も経ってからのことである。
だが、開発調査の一環として漁業・養殖専門家とともにローカルな魚市場には社会見学できた。市場はクリークの入り口付近辺りにあった
と曖昧に記憶する。内部は白いタイル造りで、人の腰くらいまでの髙さの魚介類陳列台が何十基か据え付けられていた。
そこにペルシャ湾内で獲れた多種の魚介類が砕氷を敷き詰めた上に並べられていた。急ぎ足であったが何とか市場に足を運び、
売り買いされる魚種や鮮度保持状況などを知ることができた。今回の開発調査時には市場とその周辺の街並みを垣間見れただけで
、街中をつぶさに社会見学し見聞を広めるという余裕はなく、事実上ドバイの町を鉄砲弾の如く素通りし、日本大使館への
報告のためアブダビへと一人急いだ。
ところで、余談だがクリークの近くに古い城塞があり、その中は「ドバイ博物館」となっている。その館内に、古いドバイの航空
写真が展示されている。クリークがどんな地形をしてどこまで伸びているのかを知ることができる。また、ドバイはそのクリーク沿いに
自然発生的に生まれた漁村がその発展の起点になっていること、クリークという地の利を生かして中継貿易の拠点港としても
発展してきたことなどが想像できる写真である。また、館内にはダウ船と潜水者たちによる天然真珠採取の情景を立体的に示す
大きなジオラマが展示される。それらを実際に見学してドバイの歴史や文化を学ぶことができたのは、今回のドバイ訪問から数えて
25年ほど後の事となった。また、クリークの少し奥の岸壁沿いには数多のダウ船が縦横列になって停泊し、雑多な貨物の積み降ろし
に勤しむ風景にありついたのも、そのずっと後年のことであった。
休題閑話。帰国後数週間ほど経った頃のこと、ア首連の農漁業省から在アブダビ日本大使館経由で霞が関の外務省にある連絡が入った。
それによると、先のJICA開発調査団からは、センターの開発調査後にあっては詳細設計、国際入札の実施、施工監理などに関しては
日本の協力は供されない、との説明を受けた。それを理解し納得してきたところである。だがしかし、
調査団と取り交わした合意文書を精査したところ、日本側は施行監理などにつき協力すると読み取れる記載がある。ついては、
是非とも協力を得たいというのである。
慌てて合意文書を確認した。ア首連が言うように、そのような解釈に結びつくかもしれない一つの文言を見つけた。理由はは分からないが、
何故そんな過ちが事前に防げなかったのか。「supervise」という英単語が印字されていた。日本は「supervise」を行わないという意味で、その英単語が使われているのであれば
問題は生じない。だが、何度読んでもそういう使われ方ではなかった。そもそも「supervise」という単語が記されるような合意文書では
ないはずにもかかわらず、何故か、「supervise」が記載され、しかも日本側にとって全く意図しないはずの解釈が成り立つような
文面になっていた。
調査団の派遣に当たり、関係省庁である外務省、農水省とで読み合わせを行ない精査した。その精査のために最初に提出し読み合わせ
を行ったドラフトを調べた。何とその案の起草段階から「supervise」という文言が記されていたのだ。びっくり仰天して、椅子から
ひっくり返りそうになった。文脈からして、また本来論理的に正しく記すべき英単語としては「suppose」とすべきものであった。だが、ドラフトでも合意文書上でも、何故か全て「supervise」と記されていた。
全く信じられなかった。
何故、「suppose」とすべき文言が「supervise」となっていることを見落としてしまったのか。事前に、ドラフトを外務省・
農水省・JICAの三者で、それも日を改めて二度までも、一言一句読み合わせを行なったにもかかわらずである。この間違いで、
担当者としての私は、直接・間接のお咎めを受けた訳ではない。二度も一言一句三者間で読み合わせをしていたからである。私的にはそれが唯一の救いであった。
だとしても、言い訳できない話であった。かくして、ア首連から正式に大使館経由で公に指摘された今となっては、合意文書の解釈上の問題となった。
JICA法務室にも相談しながら、JICAの顧問弁護士事務所に出向き、事情を説明書して法解釈につき相談をした。果たして、日本側は
施行監理などへの協力を約束(コミットメント)したという解釈が成り立つか否かであった。結論として、合意文書の文言からすれば「日本は施行監理に協力を約す」と解釈
されるというものであった。私的にも、同意見と言わざるをえなかった。
かくして、日本としては現実に施行監理に協力するのか、しないのか、それが問題であった。当時の時代背景として、日本なども深刻な
石油エネルギー危機にさらされていた。原油の安定的な供給先の確保は、国益やエネルギー安全保障の観点から至上命題であった。当時、産油諸国の外交的
立場は圧倒的に強かった。ましてや、ア首連は、日本へ安定的に原油を供給してくれていた重要な産油国であり対日輸出国であったし、
さらに親日的な友好国であった。当時JICA自身が国内法制度上抱えていたある一つの事情を除けば、日本側としては、これを機会
に出来うればア首連に全面的に技術協力を行ない、石油の更なる安定供給の継続を求めるための一つの外交カードにすることを
考えても、何らおかしくはない状況であった。
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