アルゼンチン国立漁業学校のオルティス校長らと初めて技術協力プロジェクトについて正式に協議したのは1983年3月のことであった。
協議場所はブエノスアイレスの海軍本部とマル・デル・プラタの学校であった。協議の最大の懸案であったのがプロジェクトの協力
期間であった。交渉開始当初はプロジェクトの実施などは一切不要という強いスタンスであった。日本からの技術的な
支援の受け入れなど眼中になかった。無償資金協力によって日本から供与されるはずの学校施設や実習用資機材は自力で使いこな
せるとの立場であり、事実上技協プロジェクトの実施については頭の片隅にもなかった。だが、いろいろ説明した結果、無償資金
協力と技術協力とを完全に切り離せば、「ア」側が最も欲するところの無償資金協力による学校建設および資機材そのものが供されなく
なることだけは理解した。そして、オルティス校長はようやく交渉末期の段階になって技術協力の幾ばくかを受け入れる姿勢へと
方向転換した。
海軍本部教育総局の内部で検討を重ねた結果なのであろうか、校長はプロジェクト実施期間を2~3ヶ月にすることを提案してきた。
その理由は何と、2~3ヶ月もあれば学校に供与される機器機材を十分使いこなせるというものであった。「ア」側の歩み
寄りは極わずかであり、日本側との見解の隔たりは全くもって大きかった。当時のJICAプロジェクトのプロトタイプにあっては、
通常5年間が想定されていた。
英国と「フォークランド諸島」を巡って戦争し、その敗北によってひどくプライドが傷つけられていたはずであるが、さすが
「ア」海軍のプライドはなおも高く保持されていた。それが協議期間中に抱いていた偽らざる思いであった。
再び一策を講じることになった。今度はジャベドニー副校長と漁具漁法担当のマキ教授を招聘し、前回におけるオルティス校長
らの招聘時と同じように、東京水産大学、水産大学校、水産高校、JICA水産研修センターなどの漁業教育施設や実習資機材などを
案内し、また民間の漁網製造会社や船員養成学校などにも同行した。そして、日本の漁業教育事情やレベルなどの理解を通じて、
プロジェクトに対する理解の深化に繋げたいと、二人への「もてなし」に最善の努力を傾けた。特にプロジェクトの協力期間
として5年間へと、あるいは少なくとも数か年へと翻意してくれることを強く期待しての招聘ともてなしであった。
だがしかし、日本滞在期間中押しつけがましく副校長へ協力期間のことについて話を持ち掛けることは一切しなかった。視察途上
において、重たいテーマを持ち出して彼の頭を悩ませてもらいたくなかったし、また彼はそれを判断する権限を持ち合わせていなかった。
彼と協議して、結果的に後ろ向きの私見を表明されても、またそんな私見を胸に秘めて離日してもらっても困ることであった。
そもそも招聘した意図が台無しになっては元も子もなかった。オルティス校長は退役大佐で
あり、副校長は年上ながらも退役中佐であった。海軍組織内では上官の命令や指示には絶対服従の立場であったであろうから、
副校長が帰国後に校長に対して協力期間の大幅拡大を説得することになっては、校長の立場とプライドが傷ついてしまい、
逆効果になってしまうかも知れないと懸念したからである。交渉はあくまでオルティス校長と行なうことを基本とすることにした。
副校長ら二人が離日した後、協力期間にまつわる難題を次回のブエノスでの協議においてどう乗り越えようかと思案していた頃、無償資金協力
調査部から「ア」国への出張依頼が舞い込んだ。技術協力と同時並行的に進められるはずの無償資金協力による漁業学校の新校舎
建設と実習機材供与に関する「基本設計調査」に、業務調整団員として参加してほしいとの依頼であった。かくして、再び地球の裏側
に出向くことになった。1983年7月下旬のことで、「ア」国では南極から寒風が吹きすさぶ厳冬期にあった。
団員構成としては、外務省国際協力局無償基金協力課の本件担当者(海外経済協力基金/OECFからの出向者)を団長に、水産
大学校の深田耕一助教授、施設設計担当のコンサルタント会社である「OCS設計」の技術者、漁業実習用機材の設計を担当する
「日本水産」の技術者ら、総勢8名ほどの大所帯であった。調達部で実施された一般競争入札の結果「OCS設計・日水共同事業体」が
選定されていた。
調査団の使命そのものは単純明快であった。無償資金協力に関する制度全般、諸手続き、実施工程、その他「ア」側が履行すべき
重要な義務(例えば、所得税、輸入税、付加価値税の免除)などを「ア」側に説明し理解を得ることが、その一つであった。
もう一つは、漁業学校の新規施設・実習機材の内容や規模・数量などを設計するに当たって遵守すべき「ア」国の建築関連法令、
船舶海技資格の付与に当たって履修されるべきシラバスや諸単元などを定めた法令・海軍内部規則などを収集することである。
また、建設費を積算するための工賃・資材費関連基礎資料、サブコントラクター(現地の建設下請け会社)に関する情報などを収集する
ことであった。
無償資金協力に関するスキームは大変複雑であった。プロセスを大まかに述べると、基本設計のための現地調査を終了後、
コンサルタントはJICAへ基本設計調査報告書のドラフトを提出し、その審査を受ける。コンサルはそのスペイン語版を
もって「ア」側に説明し、
設計内容につき了解を取り付ける。その後、正式の報告書が、建築・機材積算書と共にJICAに提出される。JICAは施設と機材の設計と積算につき
技術審査を行なった後、外務省に正式にそれらを提出する。外務省は、それに基づいて閣議に諮り公式に対「ア」援助内容と金額を決定する。その後、外交
ルートで口上書(Exchange of Note, 略称E/N)が取り交わされ、正式に資金援助が約束された後、援助の実行段階へと移行する。
その後JICAは、詳細設計や施工監理を行なうコンサルタントとして先の共同企業体を「ア」側に推薦し、海軍はそれと
コンサルティング契約を締結する。正式に海軍の代理人となったコンサルは、詳細設計を行い、入札関連図書一式を作成し、入札を補助
する。無償資金協力は日本企業タイドであるので、日本の建設会社(ゼネコン)が工事を請け負うことになる。「ア」海軍と建設会社
との工事請負契約締結後、ようやく建設工事が始まる。約一年後に完工し、竣工検査を経て施主の海軍に全ての施設・機材が引き渡される。
コンサルはその引き渡しまで海軍の代理人として施工監理業務をこなす。その後の一年間はいわゆる瑕疵担保保証期間となる。
日本政府から供与された建設資金は、コンサルタントによる検査と合意の下に「ア」政府によって数回に分割して支払われる。
日本から供与された資金の支払い手続き上の書類は多量であり、また書類の流れは極めて複雑である。
建設が完工するまでのプロセスにおいて無償資金が「ア」側の特別口座に一度は入金されても、システム上滞留することはない。
要するに、資金供与を受けた「ア」側は一切日本円紙幣を見ることも、また触れることもないシステムになっている。被援助国
によって無償資金が適宜流用しようとしても全くできないというメカニズムが敷かれている訳である。事実上日本側の関係機関
によってのみ援助資金が厳重に管理されているに等しい。「ア」側関係者に「複雑怪奇」とも言えるメカニズムを理解してもら
うにはなかなか骨の折れるところである。
ところで、無償資金協力にも当然予算的制約があるので、基本設計の対象とする施設や機材の内容、規模、数量などを絞り込ま
ねばならない。そのために、それらの妥当性を説明できる客観的根拠と予算上の大まかな目安とを天秤に掛けながら、両国関係者が
真剣に協議を重ねて行くことになる。漁船には一般商船にはない特別な構造や装備があり、また特有の機能がある。他方でまた、商船と
共通の構造・装備もある。また、漁業学校では機関・機械・電気系統の実習用機材の他、航海・漁労・水産加工などの実習を行なう
ための特別の施設・機材の配備が必要不可欠となる。
先ず、管理棟の施設内容につき協議を始めた。学校幹部の執務用施設として供される校長室や副校長室とその専有面積などが検討された。
教科用のいろいろなテキストや関係資料を印刷したり、また学生募集・登録や入寮手続きなどの学務を担う総務室とその規模、
会計事務を担う会計室、図書室を兼ねる教授や来校者のための控室などの必要な専有面積のみならず、それらを機能させるに不可欠の
簡易印刷機、事務机・椅子、書架などの数量なども慎重に算定された。沿岸・近海・遠洋漁船ごとの甲板部職員(船長、各級航海士など)
と機関部職員(機関長、各級機関士など)に対して、海技免許別に座学を施すために必要となる教室の面積とその数量はもちろんのこと、
各教室内に収められる机・椅子、黒板、教壇などの装備品の数量、また室内法定照度に合わせた天井照明器具の仕様や数量などが
検討され、両関係者で了解されて行った。
「1978年の船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する条約」、通称「STCW条約」という国際条約があり、アルゼンチン
は加盟国であった。従って、ある電子教育装置の導入につき検討が加えられた。同条約によれば、電子海図と連動した操船シュミ
レーションを行なえるコンピューターシステムを装備することが義務付けられていた。学生は、室内において、レーダーを覗き他船の位置や
動きを見ながら、また潮流や風向・風力などの自然条件を理解しながら舵輪を握り、さらにエンジンテレグラフを操作して機関の
回転数を調節しながら、実際に艦橋で操船しているかのように船舶操縦の訓練を行なうことができるシステムの導入につき白熱の議論が
交わされた。
航海術指導教授は、電子海図モニター上に、幾つもの船舶の航行状況と海洋自然環境について設定した上で、学生に「自船」を操縦
訓練させる。モニター上のデジタル海図には、学生が操縦する「自船」や他船の進行方向や速度、潮流の強度と方向、風向・風力などの
海象・気象条件、航行障害物、各種航路標識、灯台などを思い通りに再現することができる。航海士や操舵員を目指す学生は、
レーダーに映る他船の動きなどを見ながら、舵輪を回し、ラダーを動かし、機関のスピードを調節しながら(機関士に指示を与えながら)、
自船を操縦し、例えば海峡や極めて狭い港内を進んだりできる。他方、教授は、モニタ上の電子海図を見ながら、操船の適格性を
判断する。この操船シュミレーション装置は、航海・運用術実習室の最重要機材と位置づけられた。その他、舵輪・ラダーの構造模型、
各種船体構造模型なども供与される。
実物の大型漁具の製作・補修などを行なう「漁具漁法実習室」はもう一つの重要な教育施設であった。そこには、オッターボード付き
トロール網の小型模型を、水が回流するタンク内にセットし、網口の開口状況や曳網の水平・垂直位置(表・中・底層)などを理解するための
実験装置も備え付けられるものとされた。「漁獲物処理実習室」はもう一つの重要施設であった。魚のヘッドをカットし三枚におろす
フィレ製造の機械装置である「バーダーマシン」や魚の温燻製を製造する装置、小型冷凍機、その他魚貝類を解剖したりする
調理台などが備え付けられることになった。
漁業訓練船は例え小型といえども漁業学校として必要不可欠の装備品であった。操業訓練の内容や実習対象人数などから割り出される船舶のトン数、
主要目、装備品などが協議された。また、殆どの学生は、マル・デル・プラタより南方のパタゴニア地域などの遠方出身者ではあったので、
過去の学生出身データを参考にしながら、寄宿舎での部屋・ベッド・机・椅子などの数量が見積もられた。また、各部屋の面積や標準
装備につき、法令や他の学校の参考例を基に見積もられた。
その他、入寮生徒数に合わせて、食堂と厨房施設の専有面積やテーブル・椅子、什器類、料理器具、その他共用の洗濯機・乾燥機などの
数量も見積もられた。
教職員と全校生らを対象にした学校行事や、セミナー・映写会などを行なう講堂についても、その面積や内部構造・装備などが
検討された。特に注目を引いたのは、視聴覚教材の製作・保管のための特別室と映写機設置スペースなどの配備であった。単にテキスト
による座学だけでなく、多種多様な教育用視聴覚教材を自ら制作し、それを用いての効果的な講義を通じて教育レベルの向上をめざす
ことも計画された。校長らが視察した水産大学校での漁具漁法ビデオテープ映像、スライド画像などによる「前田弘博士教授法」
を取り入れようという計画であった。製作を担当する専任技師が配置されることも想定された。それらの製作に必要なビデオカメラなどの
機器やスライド投影用プロジェクターなども水産教育を充実させる上で欠かせない重要機材であった。
「救難救急演習室」なるものも検討された。膨張式救命筏一式、ライフジャケットやサバイバルキット、退船訓練用
縄梯子、人工呼吸・心臓マッサージ訓練用人体模型、人体の器官配置模型などの救助救命・応急処置関連の各種器具、防災・消火訓練
に供される器具なども供されることになった。膨張式救命筏による実際的な投下訓練や遭難者の救助訓練を行なうための
縦横25×15メートルほどのプールの設置が要望された。だが、費用対効果の観点などから優先順位は低く抑えられ、事実上見送られる
ことで双方合意に至った。
エンジン(主機や補機)やその他の機関・機械系統機材の他、発電機や電気配電・制御コンソールなどの電気系統機材は、機関長や
機関部員の養成には必需の実習訓練機材であり、それらを収める「機械実習室」と「電気実習室」が計画された。機械室ではエンジンや
発電機などの分解・組み立ての実習もできるよう、本格的な天井垂下式かつ水平移動可能なウインチ装置の設置も設計されることに
なった。
ところで、1982年4月には「国連海洋法条約」が採択され、それ以来各国に署名と批准が求められて間もない頃であった。既に国際社会は
200海里排他的経済水域(200海里EEZ)時代へと突入していた。アルゼンチンも、自国沖合に広がる世界でも稀有な広大な大陸棚上部水域に200海里
EEZを設定し、外国漁船をどうフェーズアウトするのかしないのか、外交政策の検討に入る時期でもあった。日本の大手水産会社は、
合弁事業にしろ単独事業にしろ、そのEEZ内での操業が今後どう認められるのか、その関心は高かった。
無償資金協力によって漁業権益確保を有利な方向に導きたいという期待はあったにせよ、今回の無償援助の直接的受益者は海軍であり、
農牧省の水産次官官房ではなかった。だが、漁船船員の海技資格は海軍管轄の漁業学校の所管であったから、それもやむ得なかったという
ことである。
さて、今回のミッションは基本設計ではあったが、オルティス校長と河合君を交えて、JICA事務所において内々に、懸案であった技協
プロジェクトの期間につき膝詰談判を重ねた。前回は討議録のひな型を提示していたが、今回は一歩も二歩も踏み込んで、「ア」側との協議用に特別に
作成した討議録案そのものを校長に提示していた。漁業学校プロジェクトの目的、航海・漁具漁法・漁獲物処理の三分野での長期専門家の派遣の他に、視聴覚教材
製作や魚類同定のための資料作成をはじめ、水産教育指導法などの分野の短期専門家の派遣、専門家のカウンターパートである学校の
関係教授らの日本での研修受け入れ枠、技術協力の遂行上必要とされる追加的な資機材、両国政府の有する権利・義務規定、
そして「協力期間」については「5年間とする」との案などが盛られていた。
今回も河合君は、オルティス校長との公式の交渉でも、また非公式の意見交換やランチ・ミーティングでもずっと寄り添ってくれ、
私と校長との密度の濃いコミュニケーションの橋渡しをしてくれていた。河合君は前回からさらに校長とコミュニケーションを重ねていた
ので、二人の気心も分かりあえていたこと、また校長の河合君に対する信頼はさらに増していたこともあり、私は彼を介して校長に
胸襟を開いて率直に意見をぶつけることができた。他者の居る公式の場では口にはできないことも、可なり踏み込んで本音ベースの説明をする
ことができた。
無償協力と技術協力は一体的であり不可分である、などと校長に抽象的に語りかけても、恐らく彼にはちんぷんかんぷんで
あったことであろう。今回は可なり本音で語りかけた。平たく正直に言えば、新学校の施設と機材を供する無償協力は、
絶対的に5年でなければならないとは言わないが、少なくとも長期専門家(派遣1年以上をいう)を派遣できる数年間の協力期間
がなければ、無償協力の正当性を見い出すことは困難であり無償協力は供されないこと、またこれが無償協力の絶対的条件である
とも明確に伝えた。
逆説に言えば、日本人専門家が漁業学校の水産教育レベル向上のために、「ア」側カウンターパート
と協働するには、どうしても学校施設と機材の革新的リニューアルが要る。協働としての技術協力がないのであれば、国民所得
の高いアルゼンチンは自前の資金で施設と機材を手当てし、リニューアルすることで事足りるはずである。日本がそれらを供する
必要性も妥当性もない、というのが日本側の見解である。そこをもう一度海軍上層部に伝えてよい返事をもらいたいと語りかけた。
協力期間につき数ヶ月から少なくとも数年に翻意を促すために、校長へさらなる説明を続けた。
協力期間が長期間になれば、カウンターパートの教授やその他関係者の日本研修もそれだけ多く可能となる。毎年数名の枠が供される。
また、無償資金協力による機材とは別に、技協プロジェクトの期間中、長・短期専門家がカウンターパートと協働しながら技術移転
する上で必要とされる資機材が毎年新規または補充的に供与されることにもなる。2~3ヶ月のプロジェクト期間ではそれらは実現
不可能である。実際的メリットを説明し、翻意を強く促した。
オルティス校長は暫く協議の休憩を求めた。海軍上層部と相談するためであったのであろう。その後再開したところ、彼は期間を
2~3年とすることで大幅な歩み寄りを示してくれた。ついに3年という期間が視野に入って来た。
大きな譲歩であり、前進であった。俗っぽい表現だが、無償資金協力だけの「美味しい所取り」はできないことを、上層部はやっと呑み込んでくれたと
内心ほっとした。今回はこれをもち帰り、日本側はどう対応するのか、省庁に諮ることにした。今回は大いに希望をもって帰国できそうであった。
河合君の献身的橋渡しに感謝であった。
ところで、プロジェクトの実施に際しては「日ア双方、英語でコミュニケーションを取ればよい」というのは表向きのことであった。
先の初出張で学んだことは、実際のところ、専門家とカウンターパートの双方が英語に堪能でないとすれば、十分な意思疎通を
図れない。また、専門家は技術指導の実効性を上げることは難しいということであった。さらにまた、日本人専門家にスペイン語能力が
相当のレベルになければ、技術指導や協働において実効的かつ円滑に進められないというのが、偽らざる思いであった。
勿論、「ア」国での社会生活を送る上でも語学に長けていることに越したことなない。
1983年1月頃にホンジュラス案件で初めてスペイン語圏に出張し、中南米では一般的に英語が通じないこと、円滑な業務遂行には
スペイン語能力が欠かせないことを目のあたりにして、語学を学ぶ必要性に大いに目覚めていた。実はそんなこともあろうと、語学研修に
関心を寄せ、JICA職員向けの語学研修コースのうちのスペイン語研修の基礎コース(6か月、週二日)に、1982年半ば頃から参加する
ようにしていた。
アルゼンチンの初出張から帰国した段階で、さらにスペイン語学習の必要性に目覚め、その学習に一層情熱を傾け始めていた。
と言っても、初めの頃にあっては、プロジェクトの成立の暁には自身が赴任することなど全く意識してのことではなかった。
たまたま、1983年の春から半年間のスペイン語研修の中級コースが始まることを知り、この機会を逃すまいと軽い気持ちで参加したもの
であった。
だが、2回目の「ア」国出張では、スペイン語能力の必要性をさらに切実に自覚し、スペイン語と真剣に向き合うことになった。
JICA語学研修の中級を無事修了した私は、その後上級コースの開設を待ち望んていた。スペイン語も時制と主語に応じて動詞の語尾
変化がやたらと多く、多くの学習者はここで四苦八苦し、学びを諦めるといわれた。だが、途中で放り投げることなく、越すに越されぬ
難関を何とか乗り切れたようであった。
その他、NHKラジオのスペイン語基礎講座を毎日聴くことを早い段階から始めていた。学習熱がさらに高まり、ウオークマンを買い込み、
磁気テープに講座を毎日録音をし、通勤の往き帰りに繰り返し聴くようにしていた。「ア」国出張時には片言ながらも日常会話で
使えるようになっていた。
JICA研修とNHK講座で学ぶうちに、スペイン語学習が面白くなり、前のめりになっていった。学ぶのであれば語学修得に徹底的に
向き合おうという意欲と覚悟の下に、JICA研修に参加した。そして、出席率も成績も先生に一目置かれるように熱心に参加することを
心掛けた。運よく開設された上級コースへとさらにチャレンジして行った。出張などの特別な事情がない限り、初級、中級、上級の
三コースとも、一日もずる休みせず、出席率100%を貫徹した。そして、漁業学校プロジェクトの合意形成が進むにつれ、
語学向上に向けた熱量もヒートアップしてきた。
出席率もさることながら、各コースとも成績上のトップをめざした。アルゼンチンへの赴任を真剣に意識し、それを目指したのは
ずっと後のことであった。具体的には、1983年11月に技協プロジェクトの討議録に署名がなされ、帰国途上にあった頃であった。
その時に初めて、今まで語学研修に真摯に取り組んできたことが人事部への最高のアピールになるのではないかと期待した。
次節に譲るが、その努力は決して無駄にはならず、また自身を裏切ることはなかった。
余談だが、基本設計調査のため現地に居残った民間コンサルタント団員を除き、恩田調査団長、深田助教授と私はリオ・デ・
ジャネイロ経由で帰国した。生まれて初めてのリオに足を踏み入れた。コパカバーナ海岸近くの夜の街を少し散策したり、翌日には、
全くお上りさんになって、リオのシンボルである「コルコバードの丘」にケーブルカーで登った。そそり立つ岩山の先端に天に突き刺
すように建てられたキリスト像を仰ぎ見た。
眼下には360度のパノラマが広がっていた。東には大西洋が広がり、コパカバーナや
イパネマ海岸が南へと続く。眼下には釣鐘型のパン・デ・アスカルという岩山を臨む。正面北側には複雑に入り組む湾に沿って、
世界三大美港の一つと謳われる港とリオの市街が広がる。まるでコンドルになって天空を飛翔しながら、リオの絶景を俯瞰するかの
ような錯覚に囚われた。感激と感涙であった。
青少年時代いつしか船乗りになった暁には、パナマ運河から南下し、アマゾン川の河口のベレン沖を経てリオの港に錨を降ろし、
時に上陸しブラジル文化や自然風景に浸って見たいと夢見ていた。12歳の青少年の頃からして何と20数年を経て、ようやく
「コルコバードの丘」に立つことができた。夢はついに実現した。積年の思いがこみ上げ、人知れず感涙であった。アルゼンチン
との往復時には必ずブラジル最大の都市サンパウロを経由していたが、その外港であるコーヒー積出港サントスの土を一度も踏んで
こなかった。何時かはそのもう一つの夢を叶えたいと、「コルコバードの丘」を後にした。
さて、帰国後、ア首連の「水産増養殖センター」プロジェクトをフォローアップしながら、アルゼンチン・プロジェクトの
討議録最終案の作成に着手した。悩みは、3年の協力期間を5年にどうやって近づけるか、そのアイデアを模索していた。そして、
想像するに恐らくは私のようにスペイン語能力の乏しい専門家のために、またJICA専門家としての経験が初めてで、さらにまた
専門的技術を教授するという経験も初めての専門家のために、いかなるメカニズムをプロジェクト内に組み込んでおけば、
ワンチームとなって成果を収められるかということに腐心していた。
兎に角、次回の出張では、プロジェクトの基本合意書である討議録の署名にもち込む責務が横たわっていた。
最後に、もう一つの余談である。オルティス校長が訪日時、「JICA水産研修センター」で何故ステーキを一口も食しなかったかである。
それもやはり、プライドが関わっていたように思えた。校長に直接理由を尋ねたわけではない。アルゼンチンで何度もステーキ
を食するにつれ、かつて抱いていた「謎」に対する答えを自然と見い出したような気がした。
「ア」でのステーキは半端ではなかった。
大きな炭火の周りに、1メートル以上はある鉄製串にあばら骨付きの巨大な肉塊を広げてじっくりと時間を掛けて脂身を落とし
焼き上げるアサードは豪快である。レストランで食する肉の塊250gは普通サイズであった。今回、肉が大好きという基本設計調査団長は、
500gの厚切りジャンボステーキを注文した。だが、彼はその3分の1ほど残してギブアップした。そんなことは初めての経験と驚嘆
していた。
「水産研修センター」で当時、校長に向かって「センター所長の特別の厚意なので召し上がって下さい」と二度三度執拗に
ビフテキを勧めなかった。一階は軽く勧めはしたが。帰途の飛行機の中で今回の出張中に食したステークを思い出しながら、
執拗に勧めなかったことことに胸を撫で下ろした。「ア」国でのステーキのボリュームたるや、全く日本のそれとの比ではないことを
再び目の辺りにした。巨大ステーキを何度も食して、オルティス校長の思いが初めて分かったような気がした。校長は「ア」国
の水産教育レベルについては忸怩たる思いがあったかもしれないが、「肉料理では絶対負けない。貴方方は「ア」が牛肉の
大生産国であることを知らないのか。地下足袋の底のゴムのような薄っぺらいステーキでもてなされ、それを食することはプライドが
許さない」という思いであったことであろう。だが、当時にあっても、またその後においても、彼は自国のステーキの凄さを自慢げ
に話題にすることは一度もなかった。紳士であった。私も彼に何故食さなかったことを一度も尋ねなかった。校長も私も互いに二人の
プライドを傷つけないよう、意味深長な気遣いを心掛けたはずである。それが二人の信頼を長続きさせたのかもしれない。
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