署名済みの「討議録(R/D)」のオリジナルを大事に抱えてアルゼンチンから帰国し、早速長期専門家5名の人選や
派遣手続きに向き合った。先ず、プロジェクトの「業務調整」の任務を担う専門家の人選であった。業務調整専門家については、
「自分が赴任しなくて誰が?」という思いであったし、自身の派遣こそがベストであると考えていた。
プロジェクト成立のための合意形成に真剣に取り組み、経緯を誰よりも熟知していた。それに「ア」関係者とそれなりの信頼関係を醸成してきた。
さらに、漁業教育訓練プロジェクトなどの運営経験に基づく豊富な知見を培ってきた。自分以上の適任者が他に誰がいるのかという自負に満ちた
秘かな思いであった。
実のところ、3回目の出張辺りから業務調整の任に就く専門家として「ア」国に赴任することを渇望し、その決意を固めていた。
人知れず「プロジェクトに自身が赴任せずして何とする」という強い思いに突き動かされていたのである。志願するなら、プロジェクトが
成立して間もない今をおいてないと考え、ついに志願の名乗りを挙げることにした。オルティス校長に大見栄を切ってしまった手前もあり、校長らと
協働してプロジェクトのファーストステージの3年間での成功を何としても成就させたかった。
先ず、佐伯水産室長に率直に相談した。余談だが、室長は大のアルゼンチン・タンゴ好きで、特にアルゼンチン人で知らない人はいないほど
超有名なカルロス・ガルデルというタンゴ歌手の大ファンであった。今回の3回目の出張の折には、ブエノスのあちこちのミュージックショップを探し回して、
ガルデルのほぼ全てのタンゴ曲を収めた20巻ほどのカセットテープをようやく買い込んだ。何故カセットを買い求めたのか。
実はタンゴに目のなかった室長が調査団員としてブエノスに出張したいと要望し、担当の私と「バトル」が始まるところであった。
だが、室長は要望を取り下げて私に出張を譲ってくれた。それがあって、がルデルのカセットを真剣に買い求めたという次第であった。
室長はカセットに大感激してくれた。プレゼントできたお陰で、室長に私の赴任のことで相談しやすかったことは事実である。
室長が私のかつての「独り言」を認めて、職員同士間でのプロジェクト案件の取り換えを暗黙的に認めてくれていたことのお礼の意味も
カセットには込められていた。
さて、プロジェクトの業務調整には、外部人材ではなく、JICA職員が派遣されるように人事課に掛け合って欲しいと、室長に願い出た。
私は本来そんなことをする柄ではなかったが、今回だけは違っていた。ここは人生で最大の分水嶺であると判断して、自身の本来の職業倫理
観を乗り越え思い切って室長に掛け合ったという訳である。JICA人生で後にも先にも、具体的な人事異動先について自ら上司に
頭を垂れて願い出たのはこれが最初で最後であった。室長は快く承諾してくれ、人事課に内々につないでくれた。結果大成功であった。
室長から一枚の申請用紙を受け取った。そして、プロジェクトに業務調整を任務とするJICA職員を送り込まねばならない必要性と妥当性など
についてしっかり論述するようにと指示された。
「ア」国の技術レベルの高さは漁業についても例外ではなく、またアルゼンチン人のプライドは南米人のうちでも想像以上に
高いものがあった。それも海軍の退役将校で占められる漁業学校の主要関係者のプライドは飛び抜けて髙いものがあった。プロジェクト
運営の難しさが予想されるなかで、彼らと伍してプロジェクトを切り盛りし技術指導の成果をあげ、漁業教育の向上という
ミッションを完遂するには、現地の社会事情のみならず、プロジェクトの交渉経緯を熟知し関係者と信頼関係を構築してきた
JICA内部の人材を派遣することが最善であるなどと論述した。将来における漁業権益に関わる日ア政府間交渉を鑑みれば、両国漁業協力プロ
ジェクトの良好な運営に対して寄せられる期待にはすこぶる大きいものがある。故に、外部人材からのリクルートではなく、
JICA職員自らがその任に就くことが最も相応しいと説明した。
ありったけの思いつく理由を申請用紙に書き込み室長に急いで手渡したところ、即座に人事課へ提出される運びとなった。当該
用紙の提出の意味するところは、余程問題がない限り、職員の派遣がポジティブに検討されること、さらに職員派遣が事実上内諾されて
いることを示す証左でもあった。
さらに言えば、プロジェクトの成立に携わってきた担当職員自身を現地へ送り出すことを「了」とすることを示唆していた。
かくして、「水産室職員 中内清文」を、1984年4月以降に業務調整員として「ア」国に派遣してよろしいか伺います、という決裁案を
プロジェクト担当者である私自身の手で起案した。担当者が自身を派遣することを起案するのは何とも妙な感覚であった。
そして、職員の人事マターなので、人事課長にも合議する形にして関係部課へ回付した。数日後のこと、決裁文書が手元に戻って来た。
人事課長決裁欄には赤鉛筆で自筆署名がなされていた。嬉しさのあまり万歳して飛び跳ねたいほどに舞い上がってしまったが、そこを
ぐっと押し殺して、喜びに全身に鳥肌が立ち身震いもした。室長や先輩職員に報告した。嬉しさの余り体内の血が沸きたつような
心境であった。
帰宅後、真っ先に打ち明けたのも、また最も喜んでくれたのも妻であった。実は妻は東京外大のスペイン語学科出身であり、結婚前は
JICAの嘱託としてスペイン語の語学素養を生かして研修事業部に暫く勤めていた。だから南米諸国やラテンアメリカ文化にもそれなりの
興味を抱いていた。「ア」国は南米諸国の中でも子育ても含め安定した生活ができそうな国の一つであった。私的には、スペイン語をかじったばかりなので、内心では妻の語学能力を80%以上
当てにしていた。プロジェクトで公式、非公式に通訳・翻訳が必要となれば、力になってくれるものと大いに期待してしていた。
大船に乗ったつもりであった。室長も先輩らも、中内にはその奥の手があるから語学面での問題はないはずと思われていたようである。
だがしかし、暫くして、妻が第二子を宿していることが明らかとなり、目算は目の前でガタガタと崩れ去ってしまった。
プロジェクト一年目は最も語学的サポートを当てにしようとしていた時期であったが、そうはいかなくなってしまった。
一時期、私はひどく落ち込んでしまった。だが、気を取り戻して、スペイン語の独習に今まで以上に必死に向き合わざるを得なくなった。
時は少し遡るが、スペイン語の学びについてはホンジュラス出張時が最初のきっかけとなった。その後アルゼンチンへ初出張して、
スペイン語の勉学心も高まって行った。JICA内で実施された語学研修の初級コース、さらに中級コースを終えてかなり時が経った頃、
予算がようやく確保されたとのことで、それまでなかった上級コースが開設された。真っ先に申し込んでクラス入りした。同じ受講するなら、単に
出席率100%だけでなく(出張による欠席は無罪放免であった)、語学成績もクラスでトップをマークすることで、人事課にその名
を記録に留めておいてもらえるよう受講に励んだ。実際にもトップをマークできた。
初級コースを受講し始めた頃は、中南米への赴任願望とは関わりなく、語学研修に取り組む姿勢として「出席まじめにして、
成績優秀」との評価を人事課にアピールしておくのも、何かの時のプラスになるかもしれないと思う程度であった。いわば一般的
向上心に少し毛が生える程度の身の入れようであった。しかし、「ア」国への出張回数が増すにつれて、心境が変わって行った。
語学研修に真剣に打ち込む姿勢をアピールし、「成績優秀」が人事課に伝わるよう意識するまでになっていた。人事課による今回の
赴任の承認も、恐らくはそんな姿勢や語学成績がポジティブに評価され、それまでの漁業学校プロジェクトへの真摯な取り組みが
報われたことを率直に実感した。
憧れのタンゴの国アルゼンチン、「南米のパリ」ブエノスに赴任できるとは、夢のようであった。
さて、航海・漁具漁法・漁獲物処理の3名の長期専門家の人選については室長を介して水産庁などにお任せすることでよしとした。
専門家の人選は人脈豊富な室長に委ねられる専権的事項であった。だが、自身が赴くプロジェクトの「リーダー」の任に就く専門家
について、いつもの慣例の如く丸投げとする訳にはいかないという思いがあった。リーダーと業務調整員(コーディネーター)
とは自動車の両輪であり、両者の一枚岩的な信頼関係、連携と協業関係は、プロジェクトの成否に大きく影響する。チュニジアの
「漁業訓練センター」プロジェクトの運営経験からも、そのことは痛感していた。学んだ教訓の一つは、リーダーと業務調整員との
公私にわたっての厚い信頼関係が要となることであった。両者間の信頼は他の専門家による指導能力の発揮にも大きく影響する
ことに繋がっている。
そこで、室長に人選を丸投げせず、調整員となる自身ができうればリーダーを推薦し、かつ人選の決定に絡むことがベスト
であると考えた。私と一緒に赴任してもらえるリーダー候補者はいないか、模索を始めた。即座に思い浮かんだのは、
チュニジアに3度も団長として参団してもらい、信頼を寄せ、かつ人柄や気心も十分知るところの森敬四郎氏であった。
当時「JICA神奈川水産研修センター」の所長の職位にあった。森氏にお願いしてもらえないか、室長に率直に相談した。
室長は真摯に耳を傾けてくれた。彼はその後いつの間にか、チュニジア・プロジェクト運営やアルゼンチン・プロジェクト形成の
諸事情などを呑み込んだ上で、内々に人事課に相談に出向いてくれていたようであった。ある日突然、「森氏本人、水産庁や人事課とも
内々に相談した結果、森さんにリーダーを引き受けてもらえそうである」ことを知らされた。だがしかし、そんな明るい見通しでは
あったが、条件が一つだけ示された。
当時、森氏は水産庁から「JICA水産研修センター」の所長として出向してまだ一年そこそこであった。任期はまだ2年ほど残されているという。
出向期間を少し短縮するという特別な措置が取られるにしても、それには限度があった。人事当局としては、出向のことで組合騒動
にならないように配慮する必要もあったらしい。今後向こう1年間は所長を勤め続け、その後にプロジェクトへ赴任するのではどうか、
ということであった。一年ほどの間リーダー不在の状態となるが、それでもよしとするか否かが問われた。
私的には、その条件を理解し即座に肯定的な返答をした。一年待った後に森氏を派遣してもらえるのであれば上出来であった。
森氏の派遣を今確実なものにしておかなければ、この先どんなリーダーが選ばれ派遣されて来ることになるか全く分からない。そうなれば、
全く面識のない未知数のリーダーといきなり「結婚」するのようなものである。これでは従前と何ら変わらないリーダー・調整員の
人選パターンそのものの踏襲になってしまう。チュニジア・プロジェクトにおける「二者間の信頼関係の重要性」の経験則を生かさず
して、自身の漁業学校プロジェクトの成功はない。そう確信していたので、私は、リーダー不在のままでも、その間ベストを尽くして事に当たることに覚悟を決めた。
家族の渡航の遅れとリーダーのそれとの、二つの壁をどう乗り越えようかと、物心両面において真剣に諸準備を整え始めた。
赴任は1984年の4月になった。私の赴任の志願が認められ、また森所長の赴任も実現される見通しとなり、JICAに人事上の大きな「借り」
を作ったことになった。私的には、当時「借り」を作ったという意識など全くなかった。だが、30年以上JICAで時を過ごすと、若い頃には
見えなかったことも、年の功なのであろうか、見えるようになるものであった。その後の全JICA人生を通じて、人事上の「借り」に
対して高い利息を付けて返すことになろうとは、当時にあっては知らぬが仏であった。とはいえ、仮に将来払うことになる代償の
中身を知っていとしても、志願の名乗りを上げず赴任を諦めることなどありえなかったに違いない。
さて、赴任に先だって、1980年1月から1984年3月まで勤務した水産室での4年間についてざくっりと総括的に振り返っておきたい。
「独り言」がきっかけで「ア」漁業学校プロジェクトを担当し、中米に次いで南米地域との関わりを得た。何とラッキーであったことか。水産室での勤務は、
国連に海洋法担当法務官としての奉職を志願した後、当該ポストの空席化を待つにはベストな立ち位置にあった。とはいえ、
面接への実際の呼び出しはずっと来ないままであった。
実際のところ、水産室への異動後にあっては国連応募のその後をフォローアップするどころでなかった。ア首連や「ア」国のプロジェクト
の形成合意がまずもって取り組むべき職務であった。4年間に世界各地でのタイプの異なる幾つものの水産プロジェクトを運営し、
貴重なノウハウや教訓を得ながら、国際協力を経験をしていた。さまざまなハードルを乗り越え、そのゴールに辿り着くことの
難しさや真摯な取り組みの価値も学んだ。おしなべて見れば、海にまつわるキャリアを積み重ね、そのアップにつながった。申し分のない
「国連ポスト待ちの場」でもあった。国連ポストの空席を焦ることなく、また生計も安定する中で待ち続けられたといえる。だがしかし、
国連ポスト空席事情や応募の行方がどうなっているかは、この頃、全く気にかけなないほどに水産プロジェクトの運営管理業務に
邁進していた。目の前の水産プロジェクトを遣り遂げ、よい成果を得ることが常日頃における最重要テーマであった。
農林水産省、水産庁などの行政機関をはじめ、「遠洋水産研究所」や「水産工学研究所」などの水産研究機関、「水産大学校」、
「北海道大学水産学部」、「海外漁業協力財団(OFCF)」、「水産資源開発調査センター」、「栽培漁業センター」などの多くの
水産関連公益法人、幾つかの民間水産会社などと関わりをもち、それらの関係者らとの人脈づくりができたことも大きな財産となった。
公私共々多忙を極めながらも、最も充実した人生の一時期であった。任意団体とはいえ非営利の「海洋法研究所」を創始し、
二足のわらじを履き、日本にまつわる海洋法制や政策、海洋開発動向などに関する英語・日本語版の「海洋開発・海洋法ニュースレター」
づくりに取り組むこともできた。だが、赴任は全てのチャレンジを中断に追い込んだ。英語版の「海洋白書/年報」の類いの創刊は帰国後
に再チャレンジせざるをえなかった。全て致し方のないことであった。
水産室では海外途上国の水産事情だけでなく、日本の水産事情・動向などについて、国内外の研究機関や公益法人などのさまざまな
定期学術刊行物を介して学び知る機会をもつことができた。JICA図書館も非常に身近な存在であり、世界の水産関連情報に接しやすかった。
JICAでは当然に専念義務があった。従って、「海洋法研究所」としての調査研究論文などの作成や情報発信活動については、全て週末など
の余暇時間をあてがった。2020年代にある現代と違って当時にあっては、誤解を招かないよう公言することはなかったが、二足のわらじは自身をいろいろと成長させ
てくれた。水産室での水産分野での国際協力の職務に手を抜くようなことは決してなかった。水産分野は部分的にしろ専門とする領域であり、
また回帰を求め続けてきた海洋の主要領域であるので、手を抜くどころか、国内外の情勢に高いアンテナを張りながら、世界各地の
発展途上国に展開するJICA水産プロジェクトに遣り甲斐と生き甲斐をもって真摯に向き合った。
さて、1984年4月に単身にて、4度目となる「ア」国への渡航のため機上の人となった。河合君もまだブエノスの事務所に勤務していて
心強かった。オルティス校長らの関係者とは再会が待ち遠しかった。初めての「ア」国出張時に比べれば、
圧倒的に語学能力は向上していた。多少の憂いはあったが、武者震いするほど順風満帆の船出であったと思う。
当座にあっては、マル・デル・プラタでは孤軍奮闘を覚悟したが、「第三の青春」をまっしぐらに突き進むような感覚であった。
水産室での「独り言」が漁業学校プロジェクトに繋がり、赴任の機会をも掴むことになり、さらに海との繋がりや「海への回帰」を
堅固にできる立ち位置へと導いてくれるとは、想像だにできなかった。「ア」で待ち受ける前途洋々の未来に乾杯であった。
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