別れの日がついにやって来た。3年間も暮らし、思い出が一杯詰まった町、人とのたくさんの出会いがあり、友情を育むことができた町
マル・デル・プラタ。私的には第三の故郷となった(第二は米国のシアトルちいいたい)。「第三の青春時代」を過ごしたともいえる町であった。
街の中心部にある高速バスターミナルから、リーダーの家族らと高速バスに乗り込んだ。バスはゆっくりターミナルを
離れ、市街地を通り抜け、郊外へと向かった。そして、やがて俄然とスピードを上げ、パンパを突き刺すように走り出した。
「さらば、マル・デル・プラタ!」。海岸線沿いの道路からそれて、パンパの田園風景に変わっていた。街の高層ビル群はすっかり視界
から消えてしまった。いつの日か再訪することを願いながら、暫く目を閉じた。何度この国道を走り、ブエノス・アイレスとの間を往復したことであろうか。その見慣
れたパンパの風景であったが、どこか違って見えた。バスに乗ってこの国道を往くのは、記憶にないくらい過去のことであった。
バスの車窓は格別に大きく髙い位置にあり見晴らしがよかった。バスはスピードを上げ快走そのものであった。車窓にはパンパやガウチョ
(カウボーイ)が働く牛舎などの風景が流れていたが、頭の中には赴任前や赴任後の以来の出来事や情景が走馬灯のごとく駆け巡っていた。
アルゼンチン赴任の起点となった4年前の水産室でのあの「独り言」から、帰任途上にある今の時点までのことを、ビデオ映像を超高速
回転させて回顧しているようであった。しかも、その回顧は時系列的にはばらばらであった。今では漁業学校プロジェクト運営の担当者になって
丸5年が経っていた。リーダー不在の期間は長く暗いトンネルを歩む感じであったが、専門家やカウンターパートと共にプロジェクト
の「協業・協働計画」を練り上げ、一年間の準備期間をやり過ごし、そのトンネルを抜け出し、初めての春を迎えたこと。
その後の2年間は、家族と共に充実した、いわば「青春時代」を走り抜けたこと。パタゴニアやアンデス高地へ旅したこと。
強盗や空き巣などを体験し悪い治安に泣かされたが、専門家と家族全員
が傷つけられることなく五体満足で帰国できること。「エチャール・プリバード・マロン」という銘柄の白ワインには葡萄の味がしっかりと
残されていて、ずっと愛飲してきたこと。アルゼンチンのアサード(焼肉)に魅了され、牛肉は一生分味わったこと。
アルゼンチン海軍の砕氷船に便乗して南極へ航海するという学校長への申し出はさすがに叶わなかったこと。マゼラン海峡の渡海を果たせず、
将来の「宿題」となったこと。ボカ・ジュニアやリバー・プレートなどによるプロサッカー試合に何度も足を運んで観戦したこと。
アンデス山中のスペイン植民地時代の面影を色濃く残す片田舎でフォルクローレの生演奏に感涙したこと。娘は不登校にならずに現地校に2年間
通ってくれたことなど次々と映像が早送りされ感慨に耽っていた。時に車窓の向こうに流れるパンパに目をやった。暫くしてまた早送りのビデオ映像に
に引き戻された。その繰り返しであった。
早送りの映像ははるか昔の青少年期のことまで思い出させた。青少年の頃の憧れは、船乗りになって南米航路移民船「あるぜんちな丸」や
「ぶらじる丸」でサントス、リオ・デ・ジャネイロに寄港しながらブエノス・アイレスに入港することであった。夢が実現していれば
ブエノス港で入渠したに違いない、と思われる閘門式ドックを眺めるため何度も訪れた。そのドック風景こそ、その頃の船乗りへの夢を
思い出さずにはおかなかった。
船乗りになってブエノスに入港していたとすれば、あのドックの岸壁から上陸していたはずである。今でもブエノスには、淡いオレンジ色
の光を放つガス灯が石畳の薄暗い裏通りに並び立つ。そして、その石畳には淡いガス灯の光りが照り映えている。
上陸していれば、そんな石畳の裏通りを漫遊していたかもしれない。
紳士淑女が乗った二頭立て馬車が、蹄の音を響かせながら通り過ぎる情景を想像する。私も、通りに漏れ聞こえて来るタンゴの音色に誘われて、
中に吸い込まれ、ワイングラスを片手にタンゴに酔いしれていたかもしれない。きっとそうしていたに違いない。船乗りの夢を抱いていた
青少年期から現代にタイムスリップしたのか、それとも現代から昔の若かりし青少年の私にタイムスリップしたのか、その境が分からない
ほどであった。
アルゼンチンには何万人もの日本人移民が暮らしていた。JICA事務所に働く年配職員である移民一世も、今は二世となっている若い日本人移民の
両親も、多くは1950-60年代に「あるぜんちな丸」などで移住してきた。そんな日本人移民があちこちで暮らしていた。移民の話を聴いていると、船乗りとしてブエノスに入港していたかもしれない
私もこの地に移住を決意したかもしれない。当時のブエノスは圧倒的に華やかで豊かな大都会であった。だから、ありえたことであろう。
人生行路はどこかで思いとは違う道を辿ることになってしまった。曲がり角をどこかで一つ曲り損ねてしまったのだろうか。多分、商船大学への進学を諦めた時がその
曲がり角であったに違いない。再び現代から過去にタイムスリップしてしまったようだ。そして、車窓に流れるパンパの風景によって、白昼夢から我に返って現実に引き戻された。
暫くして、またビデオ映像が高速回転し始めた。若い時から日本を飛び出して、どこかの異国の文化に触れ、その地で何がしかの仕事が
できることを思い描いていた。海外雄飛は憧れであった。あの「独り言」以来、アルゼンチンの地で、漁業学校への無償資金協力や技術協力に深く関わり、
3年間も憧れの地アルゼンチンで仕事をすることができた。夢ではない現実の3年間であった。国連の海洋法務官に奉職できて
いなかったし、また食糧農業機関(FAO)の水産専門職の国際公務員でもなかったが、日本の対外国際協力を担う最前線の一員として職務
に専心できたと思いたかった。社会的立ち位置や給与の出処などは異なったが、そのベクトルが目指す方向そのものは同じであった。
異国でそんな仕事ができたことに誇りと充実感を感じていた。次の瞬間ふと我に返って、車窓に流れる田園風景にまた引き戻された。
水産室で4年間、さらに漁業学校プロジェクトにおいて3年間も、海洋や水産の職域に身を置いてきた。留学時代に海への回帰を果たして以来、
その回帰の延長線上を猛進し、ついに不可逆的なところにまで回帰できたことが、真に嬉しかった。「独り言」のあの日から学校プロジェクト
の設立のため立ち上げ交渉に専心した一年、その後の国際協力の最前線で過ごした3年間のことを高速映写で思い起こしていた。
しかも、その過程で海の語彙拾いを閃き、その語彙集づくりの千里の道を一歩踏み出したこと、そして、その語彙集づくり
は海との関わりを一生涯もち続けるための大義を与えてくれたことなど、目まぐるしく頭の中を巡っていた。帰国後も
それをやり続けることを心にしっかり刻んでいた。これから一生涯海と関わること、不可逆的な海への回帰を意味していた。さらには、
英語版の「海洋白書/年報」づくりの復活なども想い描いていた。帰国後、海洋・水産関連部署に配属されることは
まずありえなかった。たとえそうであっても、二度と海から離れることはない。海と関わり続けられる確固とした大義もできた。
私的にはそれこそが大きな喜びであり希望であった。
さて、高速バスは6時間ほどかけてついにブエノスの市街地に滑り込んで行った。バスターミナルはサン・マルティン広場や
鉄道駅レティーロ近くにあった。鉄道網が余り発達しないアルゼンチンでは路線バス網が大いに発達し、バスターミナルは日本では到底想像もつかない
ほど巨大な駅舎であった。数日もすれば、全てのことを過去の物として大切に心にしまい込み、日本での新たな生活の始まりを想うと、
体中に鳥肌が立ち、独り武者ぶるいしていた。
ところで、3年間も異国で生活すると人との出会いだけでなく、数多の出来事に遭遇し、大中小さまざまなエピソードが生まれる。
ウソのようで信じ難い本当の話、怖くなって後ずさりしそうな話、「そんな不思議なこともあるのだ」という話、たわいもないが
笑える話など、次節では、幾つかのエピソードを綴ることにしたい。読むほどのことでなければ、次章にジャンプして
いただきたい。先ず、アルゼンチンの社会環境、とりわけ悪化の一途をたどり最も悩ましかった治安関連の笑えないエピソードを記したい。
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