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    第8-1章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第1-1節 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)


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     第8-1章・目次
      第1-1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)
      第1-2節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その2)
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する



全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8-1章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その1)
    第8-2章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その2)
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル (要約・基礎編)」→ [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


  「アルゼンチン国立漁業学校」プロジェクトの実施を約束するためのJICA・「ア」海軍間の「討議録」が署名された翌年の1984年4月、単身、機上の人と なってブエノス・アイレスへ向かった。英国・アルゼンチンの「フォークランド戦争(=マルビーナス戦争)」の勃発で一年遅れとなったが、人事部の 有り難い配慮のお陰で無事赴任することができた。河合君は離任することなくなおもブエノスのJICA事務所に勤務していた。 また、オルティス校長以下の学校関係者もそのままのようであった。関係者が変わらずに勤務していると 思うと心は軽かった。新規プロジェクトの場合、往々にして現地に知る人がほとんどいない中で赴任することが多い。だが幸いにも、 現地には顔見知りの人たちばかりだし、プロジェクトや現地事情についての予備知識も十分あったので、何の不安に駆られることもなく 旅立つことができた。唯一あるとすれば、家族と一緒に旅立てなかったことである。だが、追っつけやって来るはずだったので、希望をつなぐ ことができた。

  当初、プロジェクトにてどうしても必要が生じた場合には妻のスペイン語通訳を当てにしていたが、出産のために現地への渡航が 10か月ほどずれ込むことになってしまった。それ故に、妻による通訳の側面支援は全く当てにできないと覚悟し、その分だけ自身の語学鍛錬に必死となった。 いずれににせよ、語学の素養はその習いたての頃と比すれば格段に向上していた。 だがしかし、全く独り身になってオルティス校長らとの仕事に就いてみると、やはり語学力不足に泣かされることになった。もちろん、 校長は私の語学力を百も承知していたので、彼とコミュニケーションする時にはその点十分考慮してゆっくりと話してくれた。さて、 語学力を向上させようと、赴任後まもなく、午前中は塾通いをすることにした。校長夫人を個人教授にして必死に手習いをした。 路線バスを乗り継ぎ校長宅へ週2回通った。語学力にかなりの自信ができ、生活だけでなく仕事でも語学的に余裕を感じるようになったのは、やはり一年近く 経た頃のことであった。

  さて、プロジェクト・サイトのマル・デル・プラタに未だ足を踏み入れず、各種手続きや用足しのためになおもブエノス・ アイレスに留まっていた時のことであるが、これまで眺めてきたブエノスの街風景とはどこか違って見えることに気付いた。 何故なのか。これまでは一過性のいわば通りすがりの「異邦人」の視点で街を見ていたようだ。赴任後は生活者としての視点に切り 替わっていた故であることに気付いた。かつては、何かアルゼンチン的な風景に魅せられては 立ち止まって眺めていた。だが、赴任後は、目的地に向かってまっしぐら、道草をすることなく用足しを効率的に済ませてしまおうと動き 回る別人のような自分がいた。短期滞在型の「異邦人」の眼が長期滞在型の「生活者」の眼へと変わっていた。行動パターンも生活者のそれに 変わってしまったのであろう。

  ブエノスへの出張時常宿のようにしていた例の「クリジョン・ホテル」(JICAの指定ホテルで割引があった)にまた暫く宿を 定めることにした。そこから毎日手続きなどのためJICA事務所へ通った。事務所までは、スペインからの 独立の大立役者サン・マルティン将軍の勇ましい馬上姿の銅像の傍を通り、「サン・マルティン広場」を通り抜けて5分ほどであった。 広場は大樹にて鬱蒼と覆われ、まるで杜のようであり、市民が憩うための絶好の公園であった。広場は少し高台にあった。 その広場から海軍本部ビルの建つブエノス新港方面を見下ろすと、そのすぐ坂下には、つい1年ほど前にフォークランド戦争を交わした 英国の名を冠した「時計塔」がそびえる。その塔のすぐ対面には「レティーロ」という名の大きな鉄道発着駅舎があった。そこから路線電車に乗って一時間ほど行くと、ラ・プラタ河の デルタの一角にあるティグレという水郷の町がある。ティグレははブエノス市民の日帰りの絶好の行楽地であった。

  何度も事務所へ足を運び、幾つもの手続きをこなし、またプロジェクトの拠点づくりのための実務について相談した。 「ア」国外務省から交付される身分証の発行手続き、日本の国際自動車免許証を「ア」国の普通免許証に切り替える手続き、日本大使館への在留届 の提出などから始まった。購入する乗用車の車種をフランス・ルノー社の「18GTX」というステーション・ワゴンに手っ取り早く決め込んで、 代理店に250万円相当の米国ドルを支払った。東京銀行から大半を借金したものである。ブエノスにも同銀行の支点があった。 プロジェクトの活動のためにJICAから支給される「現地業務費」という名の公金数ヶ月分を受領するために、都市銀行に公金口座 開設のための手続きを進めた。

  専門家は通例、赴任する前に東京銀行ニューヨーク支店に米国ドル建て口座を開設し、追って東銀の個人用小切手帳を発給してもらうことになる。 その振り出す米国ドル小切手をドル現金や現地のペソ通貨に換金できるようアレンジしなければならなかった。事務所が取引するブエノス市中 の両替屋と交渉してもらって、マル・デル・プラタの両替屋においてもその個人小切手を引き取って換金してくれるよう、ブエノスの 当該両替屋を介してマル・デルの両替屋の許諾を取り付けてもらう必要があった。ペソ建て生活資金の用立てに直結する最重要かつ 必要不可欠のアレンジであった。

  軍事政権が長く続いていたアルゼンチンでは、確か1983年後期に国政選挙が実施され、既にアルフォンシン大統領へと民政移管がなされていた。そして、 「ア」海軍と「OCS設計・日本水産共同事業体」との間でコンサルタント契約(工事の施工監理業務契約)が締結されていた。事業体は、 学校施設の詳細設計図、建設工事の数量計算書・機材仕様書や、建設工事請負契約書案などの入札図書一式を作成し、既に入札の 実施を取り仕切っていた。その結果、ゼネコンの「フジタ工業」が工事請負業者となっていた。

  マル・デル・プラタ商漁港にほぼ隣接する建設現場では、「OCS設計」本社から派遣された倉持氏が施工監理を統括する 任に当たっていた。倉持氏は私とほぼ同年輩であり、どういう訳かウマがよく合った。仕事においてコミュニケーションを密に しているうちに何かと親密さを増し、互いに学び合った。 また、日本から派遣されていたフジタの日本人工事関係者とも新しい出会いが生まれ、中にはほぼ同じ年輩者もいた。学校プロジェクト を完遂するという同じ同じゴールを目指す日本人関係者として仲良く交わった。1984年4月頃の秋季(日本とは季節が真逆)は 例年になく雨天日が多かったが、完工の期限である1985年3月をめざして急ピッチで工事が 進められて行った。

  さて、「漁具漁法」と「漁獲物処理」分野の専門家二人が私より1か月ほど遅れてブエノスのエセイサ国際空港に到着した。 二人は「日本水産」という大手水産会社の定年退職者で、優に60歳を超えていた。二人とも見るからに、人一倍個性が豊かであり、また 頑固そうな老紳士であった。そんな大先輩のプライドを傷つけないよう日頃から注意を払った。個性豊かな老紳士の頑固さが 目立ってはいたが、その頑固さをこの異国の地で敢えて変容してもらうつもりは毛頭なかった。社内における人間関係をこれまで 長年にわたり何となく引きずっていることは着任後暫くしてから容易に推察することができた。今更ながら過去のことをこの異国の地 のプロジェクトに持ち込まれないことを祈った。プロジェクトでは平日四六時中学校の同じ居場所で濃密な時間を過ごすので、良好な人間関係 の維持は何よりも大事であった。深入りはしないが、やはり二人の微妙な人間関係にはほぼ3年間付き合わされることになった。

  「航海」分野担当の専門家はその後1か月ほどしてブエノスの土を踏んだ。未だ50歳前後の現役バリバリ風の同じく「日本水産」 の社員であった。長く日水の遠洋漁船に乗船勤務した後は、どこかの関連食品加工会社に出向し陸上勤務されていたようであった。 彼は何ごとにも動じそうになく、のんびり然としていて、また感情の起伏は少なく温厚でもあったので、二人の老紳士 のクッション役的な立ち位置を秘かに期待した。片や、私は当時30歳半ばのJICA現役職員であり、自信とエネルギーに溢れていたと 言えば少々言い過ぎかもしれない。

  先ずは専門家の生活基盤づくりへの支援に努めた。不動産屋に掛け合いさまざまな物件の賃貸借条件を事前に承知し、幾つかの 住宅の下見にも出向いた。賃貸対象住宅の周辺生活環境、治安状況全般、特に経済社会生活上の利便性などを説明したり、 不動産屋や家主との契約交渉における心得や商習慣などを助言したりした。 例えば、住宅契約書締結の2年目以降においては、本国からの帰国命令があれば何時でも契約を解除し精算できるという、 いわゆる「外交官条項」の契約書への挿入の必要性について専門家に説明した。 病気・帰国指示などによる早期帰国に伴う中途解約時における家賃精算方法や払い戻し条件に関する条項を契約書へ挿入しておく ことは、専門家の権利義務にまつわる大事なポイントであった。その他、契約書締結後のJICAへの住宅手当の申請手続きについて も側面支援した。

  調整員として当然なすべきこともあったが、業務範囲外と思われることも、可能な範囲で支援するよう心掛けた。衣食住のうち、まず住み処を 確保し、次いで何時でも米国ドル小切手や米国ドル紙幣をペソ通貨に換金できるように何度か両替屋の窓口担当者へ案内し、 生活を落ち着かせるよう取り計らった。その他、専門家の生活安定化に重要であったのは、通勤の足を確保することであった。 専門家三人は、2~3百万円前後の中型または小型の新車を無税購入する手続きをブエノスで行った。新車が手元に届くまで数ヶ月は かかった。それまでの間、可能な限り通勤の足として私の車に便乗してもらうことにした。特に6~8月の厳冬期は、 南極からの寒風にさらされながらバス通勤するのは辛いものがあったので、通勤の足を提供し生活面でのサポートに心掛けた。

  専門家三人は、政府の技術協力事業に携わるのは初めての経験のようであった。また、専門分野の知見を他者に教えるという、学校での 教鞭経験もなさそうであった。JICA専門家業務経験が初めてであれば、着任しても何をどうしてよいのか 分からず、大いに戸惑うのは当然であった。「今後2~3年間の活動計画や技術指導計画を作成してください」と言っても、どんな計画を どのように作成すればよいのか、彼ら自身の自立的判断の下ですぐさま遂行することは無理であった。

  プロジェクトは1985年4月までは準備期間であった。学校が竣工し新校舎に移転すれば(1985年4月予定)、本格的な技術指導が 始まることになるが、それまで10か月ほどの期間があった。ところで、専門家のスペイン語力にはかなりの差があった。「航海」専門家 のスペイン語は全くの初心者レベルであった。他の二名はかなりの語学素養があったが、そのレベルには相当の違いがあった。 「漁獲物処理」専門家がスペイン語上級者とすれば、「漁具漁法」専門家は中級者とまではいかなかった。私もそうであったが、 我々4名の専門家は準備期間を最大限に生かして語学力を必死に向上させ、コミュニケーション・スキルをアップさせる 必要があった。

  学校の勤務時間は日本人には変則的で戸惑うものであったが、学校側としては十分合理的であると言えた。専門家の勤務時間は実際上午後1時から9時までの8時間勤務に 設定することにした。専門家3名の「ア」側カウンターパートによる学生への授業は午後2時から 8時まで行われた。カウンターパートには通常の勤務に対する給与に加えて、専門家との協働活動のために別途特別勤務手当てが支給された。 学生のほとんどは妻帯の社会人であり、午前中は生活費を稼げるよう配慮されたものとなっていた。従って、専門家は語学の向上を はじめ、日常生活を落ち着かせながら、カウンターパートへの技術移転や実習などに関する計画の立案、海技・漁業教育制度をはじめ シラバス・単元などについての十分な学習のためにも、午前中を自主的かつ有効的にフル活用することができ、またそうあるように 推奨した。

  討議録で位置づけられる1年間の準備期間が何故設定されたのか。専門家の語学力向上や生活安定化のためのみならず、2年目から始まる 本格的な技術協力のための指導計画あるいは技術移転計画、協働実施計画などをカウンターパートとしっかり練り上げるためであった。 リーダーの着任がない中で、「皆さん、それでは来年からの2年間の指導計画などを作成願います」と一言発すれば済むような 状況ではなかった。かくして、専門家三人と真剣に向き合い、全員のベクトルを合わせるべく、私の真の任務が始まった。 振り返って見れば、かつてオルティス校長に対して、技術協力は3ヶ月ではなく少なくとも3年、場合によっては5年必要であると 大上段に構えてきた。にもかかわらず、2年間の指導計画すら作成できない、あるいは作成できてもその内容が伴わないというの では話にならなかった。それ故に私にとってもフルに責務を果たすことが求められていた。

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    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8-1章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その1)
    第8-2章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その2)
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビア への赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジ アラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」 をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、 未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル (要約・基礎編)」→ [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第1-1節 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)


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      第1-1節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その1)
      第1-2節: 専門家と共に技術移転と協業計画づくりに励む(その2)
      第2節: 「海の語彙拾い」を閃き、大学ノートに綴る
      第3節: パタゴニアを大西洋岸沿いに一路南下する
      第4節: パタゴニアをアンデス山脈沿いに北上する