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    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第1節 嘱託として「健康管理センター」に勤務する


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    第16章・目次
      第1節: 嘱託として「健康管理センター」に勤務する
      第2節: 東日本大震災、早期完全離職の決断を後押しする
      第3節: 理想と現実のはざまで「選択と集中」に取り組む(その1)/辞典たるゆえん
      第4節: 理想と現実のはざまで「選択と集中」に取り組む(その2)/データベース&フォトギャラリー
      第5節: 理想と現実のはざまで「選択と集中」に取り組む(その3)/新しいビジョン&チャレンジ
      第6節: 辞典づくり、「中締め(2020年)の〝未完の完″」をめざして
      第7節: 海洋辞典の承継編者探しを家族に口頭・書面で依願する

    序章~第14章 | 第15章 第17章 | 第18章~最終章


  突如として心筋梗塞に襲われたが、ニカラグアの山奥から首都マナグアへ脱出し、全く偶然の幸運としか言いようのない手術を受ける ことができ、落命寸前から奇跡の生還を果たした。そして、命の重みをひしひしと噛みしめながら、妻に付き添われて帰国した。 帰国後は、最優先で専門病院にて精密な健康診断を受けねばならなかった。心臓発作の再発を防ぎ、生きながらえて行くために、ニカラグアで 処方してもらった薬について、改めて日本での治療薬を確定する必要があった。

  詳細の事情については後に譲るとして、JICAの国際協力人材部の管轄下にあった「健康管理センター」と事前に相談していた通り、 新宿区戸山にある「国立国際医療研究センター病院」に一週間ほど検査入院する ことになった。心臓循環器系と内分泌系の専門医の指導・診察の下、心臓病のみならず生活習慣病に関連するいろいろな精密検査を 受けた。糖尿病の疾病レベルがどの程度なのか、5,6日続けて日に4,5回血糖値検査を受けた。また、生活習慣病を食生活面から 改善させるため、妻と共に、塩分やカロリー制限などに関するいろいろな有益な講義も受けた。生活習慣病の徹底した抑制と言う教育入院 の真の狙いどころをそこで初めて知った。そして、健康維持のために生涯にわたって数値コントロールと付き合っていくことになった。

  その後にあっては、定期的に心臓機能や血糖値(HbA1c)などの状態や服薬の効能などをチェックするために、循環器と内分泌の主治医の 元に通うことになった。退院後服薬からの無罪放免とはいかず、ずっと定期的に通い、服薬も続ける覚悟を求められた。その時以来現在まで既に 10年以上にもなるが、今もって定期的に通院し、血液検査や心電図検査をもって健康状態を診察してもらっている。生きながらえるにはこの通院・ 診察と投薬の継続が不可欠となっている。少しは服薬数が減ることを期待をしていたが、見事に裏切られて来た。だが、一病息災とは よく言ったもので、大きな既往症を抱えるがゆえに、日常の食生活や運動に心掛けつつ命を長らえてきた。

  さて、退院して間もなく健康管理センターに常勤嘱託として勤務を始めた。帰国してから1か月後の2009年11月からであった。 サウジアラビア事務所勤務時代に役職定年になって、OBへの再就職斡旋の一環として再雇用され、ニカラグア調整員事務所に赴任していた 訳であるが、二回目の斡旋として健康管理センターにお世話になることになった次第である。大病を患ったが故に、本人の 健康・体調維持管理にベストな職場での再雇用という特別配慮を受けて、そこに決まったという訳では決してない。

  ニカラグアに2007年に赴任して1年半ほど経た頃に、国際協力人材部次長職にあったY氏から、帰国後の再雇用先として内々に同センター へ誘ってもらい、帰国の暁にはそこにお世話になることが元々から予定されていた。健康管理センターの実務責任者をしていたのが 同人材部次長のY氏であった。 Y氏とはかつて人事部職員課にて数年苦楽を共にした仲であった。役職員のための「健康管理室」はかつて人事部職員課の下にあり、 同課が同室を所掌していた。そんなY氏から声を掛けてもらい、渡りに船で即座に了承のメールを返信した。 古巣に居場所を得える予定となっていた訳である。かつてのそれなりの経験と知識を生かせることができると大いに喜んだ。全く経験のない部署で再雇用される のには結構辛いものがあると思っていたからである。かくして、同センターがJICA奉職人生における最後の勤務部署となる見込みであった。

  JICAにはかつて健康管理に関わるセクションが三つも存在していた。一つは役職員の健康管理に携わる「健康管理室」、二に途上国にて 技術協力に従事する派遣専門家のためのそれ、三に青年海外協力隊(JOCV)のボランティアのためのそれであった。 役職員、専門家、隊員の健康管理をそれぞれ の健康管理室で別々に取り扱っていたが、それを改め三セクションが健康管理センターに統合されていたのである。

  統合化された同センターでは、毎年数千人にも及ぶJICA関係者(役職員の他、専門家やその家族、隊員ら)の健康 管理などに何らかの形で直接・間接的に関わっていた。センターの特徴の一つは、JOCV隊員などの派遣人数の多い在外事務所には、看護師資格をもつ 「健康監理員」を総計15名ほど常駐派遣し、常日頃から在外にいる職員・専門家・隊員らの健康管理に当たっていた。

  現地では、健康監理員は、傷病などの有事の際は、あらゆる手だてを尽くして最善の治療を受けられるよう務める。事務所は 現地医師と顧問契約を交わし、日頃から当該国の医療・保健衛生や病院・診療所関連情報を収集したり、有事には必要な助言や支援を得る。 監理員は、日ごろ隊員の定期健診をアレンジ・実施し、健康状態を把握する。有事には病院への入院の手立て、治療医師との面談と治療情報の入手、 またその情報を同センターに伝達し、JICAの顧問医らの助言を得る。緊急時には近隣医療先進国等への緊急移送のためのさまざまな支援に当たる。 在外日本大使館には医務官が常駐しているが、日頃から情報交換し、相談しながら対処に万全を期す。 専門家、JOCV、職員も、JICA独自の互助組織である「海外共済会」を通じて海外医療保険に加入し、海外でのあらゆる疾病をカバーできる体制にある。 家族が付き添いや療養見舞いのために現地に赴く場合の渡航費なども給付される。

  ニカラグア事務所にも同センターから常駐の健康監理員が派遣され、隊員らの健康管理や相談に携わり、また現地の医療保健等に関する情報収集、 医療関係者とのネットワーク構築などの任務に当たっていた。私の奇跡的生還があったのも、監理員の常駐と職務遂行があったれば こそであった。監理員派遣制度をはじめ、健康管理のためのハードおよびソフト・パワーがいかに充実しているか、自身が病気で 監理員等に初めてお世話になって改めて支援体制や、そのソフトパワーの威力を認識させられた。そして、現実に、自身がそれに救われる 一人となった。職員課での元勤務経験が縁で、同センターでの嘱託勤務につき声を掛けてもらった訳であり、帰国後の私の健康管理を鑑みての 配属ではなかった。とは言え、同センター所属になった結果、何かと私の健康を気遣ってもらえることは嬉しいことであった。

  ところで、健康管理センターには法定上義務付けられている「産業医」と称される医師が勤務していた。その産業医は職員課 時代からずっと変わらず、ある女医のDr. H 氏であった。実は、女医のご主人は国立国際医療研究センター病院で心臓循環器科の部長さん であった。帰国後の通院先について幾つかの選択肢があったが、女医のご主人に主治医をお願いし、命を預けることを決心していた。 検査入院して、CT、エコーなどの検査を手始めに、ずっと後にはトレッドミルにて体に負荷を掛け血管に投影剤を注入して、MRIによる 心臓機能や冠動脈などの状態を調べる精密検査を受けた。既述の通り、検査入院中には糖尿病疾患のタイプやレベルを認定するための 精密検査を受け、生活習慣病の改善のための指導・教育も受講した。かくして、ニカラグアでの薬の処方につき改めて確定してもらった。

  定期敵通院と言っても、病院に毎日出向いて歩行訓練などを行ない、心臓のリハビリテーションを行なうためではない。退院後も普通の 生活ができていた。だが、普段の生活や通勤をする中で、しっかりリハビリを行なう必要があることをマジに意識させられたことがある。 心筋梗塞の発作を起こしステント留置手術をニカラグアで受けた時点以前における心身の状態と、その手術後以降におけるそれとの間に存在 する余りにも大きな落差である。

  それまでと言えば、直近の勤務地のパラグアイ(2000-2003年)、サウジアラビア(2003-2007年)、ニカラグア(2007-2009年)でも、 どこでもエネルギッシュに勤務していた。公私共々精力的に動き回っていたという自負があった。そんな元気一杯の日常勤務から 180度転げ落ちてしまった。 心身共に、体全体に何か重しが乗っ掛かり、足取りは重たくなり、頭の回転は鈍くなり、何もかもスローペースな判断と動作しかできない ような状態になっていることを自覚させられた。覇気やエネルギーがみなぎる心身の状態であったはずである。それが目に見えて減退し、 歩く足取りは極端にゆっくりとなった。恐らく他人が私の歩く後ろ姿を見たならば、75~80歳の後期老齢者がのろのろとした 歩き方をしているように見えたことであろう。

  心臓の筋肉細胞が一度壊疽を引き起こすと、元への回復は望めず、それだけ心機能が低下するらしい。心臓がどの程度壊疽の ダメージを受け、正常に機能していないのはどの程度なのか気がかりであった。胸痛を感じることはニカラグアでの手術以来なかったが、 動悸がしたり、脈拍が飛んだり早まったり、不整脈が時に起こった。兎に角、心臓発作の前と後では、日常生活を送る上での活力や精力 は全く違うものになっていた。 体から湧き出るエネルギーがこれほどまで雲泥の差を生じるとは、経験して初めて知ったことであった。病み上がりの状態がまだまだ続いて いたと言える。

  2009年11月から始めた健康管理センターでの仕事をざっくりと言えば、国内・海外で勤務する1,200名ほどの職員の健康管理に携わる 看護師らへの補佐と助言であった。定期健康診断の実施を請け負ってくれる外部の医療機関、医薬や医療関連の消耗品などの納入会社、血液検査 を委託する医療機関などを毎年選定する必要があった。それらとの契約書の締結に至るまでの実務的な手続きなどをサポートした。 地方職員が地元の特定医療機関で定健を受診できるよう側面支援。また、定健のレントゲン車が公道・私道で駐車できるスペースの確保など、 定健の円滑な実施に向けてのいろいろなアレンジなど。定健診断結果に基づく産業医による総合所見の作成に関わる補助業務、在外勤務職員からの 健康管理上の相談に応じる職員担当看護師が抱えるコミュニケーション・ギャップに対する助言など。時に産業医の指示で、在外勤務者 の感染症罹患の実態把握のため全在外事務所からのデータ収集と取りまとめなど。

  勤務後、半年くらいの間は不整脈などに悩まされ、自身でも心配になることもあった。勤務中にどうも心臓の動きがおかしく 感じられ、センター内でタイミングよく看護師に心電図を取ってもらったこともある。その結果を主治医に見せると、早速24時間心電図を 記録できる携帯型ホルダーを装着させられたりもした。

  自身の体力回復状態や心臓の「元気度」を推し測れるバロメーターがあった。職場の最寄り駅はメトロの市ヶ谷駅であったが、 同駅で下車して歩き始めるとすぐに距離にして100mほどの坂道があった。坂を登り切ると 「日テレ通り」の平坦な道であった。その坂道を毎朝登ると自身の心臓の調子、体力の回復状況などを自覚できた。当初は その坂道はきつく感じられ、心臓破りのような坂道であった。そこを毎朝、後期老齢者のごとくゆっくりと息をハァーハァーと息を弾ませ ながら登っていた。 一気に登り切れず途中何度も息切れのため立ち止まり、一息も二息もついて息を整えることが多かった。杖でもほしくなる気分であった。 こんなにも心臓の機能が低下し体力も落ちているのかと、情けない気持ちであったが、それが実態であった。 やはり心筋が一部壊死していて心臓機能は正常ではないような感じを抱いていた。

  普段においても、脈拍がとんだり早くなったりして、乱れることが多かった。心房細動のようなことも時たま起こった。 1年ほど、何かと心臓の動きが安定せず、時々いろいろな自覚症状を体験した。服薬としては、降圧剤、血液の抗凝固剤、高コレステロール抑制剤、 血糖値抑制剤など幾つかの薬を処方されていた。もっとも、ビールなどの多少の飲酒は禁止されなかった。時に仲間と飲むとついつい気が緩み、 ハイテンションとなり、中ジョッキで2~3杯のビールとレモンサワー3,4杯も飲んでしまう。そんな日の深夜には大抵頻脈となり、 横になって寝ていられない状態 にもなった。

  検査入院以来、狭心症などの発作のため息苦しいとか、胸痛に襲われるような危険な兆候はなかったが、心臓の動きが不安定で心配 になることがあったので、二か月に一回の通院が苦痛に思うことはなかった。むしろ、通院の必要性を自己納得した上で薬の処方箋をもらう ために通院していた。通常は心電図と血液検査であったが、時に心臓エコー検査や尿検査をもした。通院が面倒くさいとか嫌だなどと言っておられなかった。 二度と発作を引き起こさないように、数十項目の血液検査値を基準内にコントロールすることは、奇跡的生還を果たしたことに対する 当然の義務であった。

  通院が2年目になった頃から、ゆっくりした足取りであったが、例の坂道を、息切れで立ち止まるようなこともなく、一気に登り 切ることができるようになった。日頃から極力歩くことを心掛け、体力増進に努めていた。電車通勤でもまれるのも結構体力の維持や向上に 役立った。一か月単位くらいのことであるが、同じ坂道を毎朝登ることで体力増進がどの程度進んでいるかを実感できるようになった。 しかし、信号が点滅して横断歩道を急に、それも本気で小走りで駆け込んだりすると、可なり息切れがするのは変わりなかった。 徒歩も意識的に少し早足にして負荷をかけるように努め、体力向上を期した。 そもそも電車通勤そのものや、その途上における往復3㎞ほどの歩きも、また階段の昇り降りもリハビリになると思い、務めてそうした。路線バスにはできるだけ頼らないようにした。 かくして、不整脈もほとんど起こることがなくなり、例の坂道もほぼ普通のペースで一気に登ることができるようになった。とは言え、 まだ登り切ったところで、一息二息入れることが多かった。JICAから完全離職したのが2011年3月末であったが、その頃には、その坂道を 普通の足取りで登り切っても、そこで肩で大きく息をつくこともなくなっていた。心臓の調子も良くなり、体力も向上してきたのであろう と嬉しかった。

  2年目となって仕事も体も順調であった。責任やストレスで心臓に大きな負担が掛かるような日常ではなかったし、それに何よりも 体力・気力とも随分回復してきたと自身でもはっきりと実感できた。そんな頃、自然と何処かへ旅に出て見たいと思い始めた。旅への意欲が出てきた ことが嬉しかった。だが、海外への旅はさすが当時の回復状態では未だ心細かった。国内であれば、あらゆる面から不安も少ないと考えた。 行先は近場を考えた。当時最も行ってみたい近場として東北方面を思い浮べた。気仙沼と石巻辺りの三陸海岸の海と港風景、さらに幾つかの海にまつわる博物館や 文化施設などを巡ってみようと計画し始めた。久々の旅のプラニングであり、テンションは一気に盛り上がった。



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    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第1節 嘱託として「健康管理センター」に勤務する


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