大阪府下に所在する茨木市に安威(あい)という名の集落がある。周辺には田畑とわずかばかりの山林が広がる小さな村である。私はそこで
昭和23年(1948年)に生まれた。12歳の小学6年生の時に父親が交通事故で突然亡くなり、25歳になるまで田畑に出て農事を必死に手伝った。
青少年の頃には一つの夢を持ち続けていた。それは船乗りになることであった。少年の頃から高校三年生の大学受験の頃まで、
私は外国航路の船乗りという職業人になることに憧れていた。船乗り、出来うれば航海士なって大海原に出でて、世界の海を航海し、
異国の港町では少しだけでも陸(おか)に上って街角をぶらついては、次の異国に向けて航海を続けたかった。
子どもの私にとっての憧れは、いわば船を住処にしながら世界中を「探検」し垣間見ることであった。世界の異文化への強い憧れが
心の深層にあったに違いなかった。
商船高等学校への道もあるにはあったが、最終的には神戸の商船大学を目指すことにした。だが、ある一つ二つのハードルをどうしても
乗り越えられずにいた。そして、少年の頃から描き続けていた世界への「冒険」の夢は高校三年生の時にあっけなく消え去ってしまった。あれほど好きで
あった海や船から遠ざかることになった。
進路に悩みながら、結局は府下にある普通の大学の法学部に進学するにはした。東京の大学に受かってはいたが、家庭の厳しい
財政事情から許されなかった。そして、航海士への夢を喪失した反動なのであろう、大学の部活動では4年間も山登り里歩きに明け暮れた。年に100日ほども
山行した。大学4年生になる直前の冬、兵庫県の鉢伏山で冬期合宿を行っていた。合宿を終え「下界」に下れば、否応なく就職レースが待って
いた。将来の進路をどうするか、雪上テントの寝袋の中でそれを思い巡らせた。その時、人生の進むべき道を電光石火のごとく閃いた。
国際社会に少しでも役にたちたいという潜在意識がふと脳裏に蘇ったのであろう。というのも、その何ヶ月か前に岩波新書の「国際連合」
(明石国連事務次長著)を読んでいたからである。国連への奉職、出来うれば法務官として、さらには
国連事務総長の法律顧問を目指すことを閃いた。それこそが船乗りに代わる第二の「夢と冒険」への始まりであった。
当然の成り行きとして、専門性を向上させるため大学院に進むことを決意した。公法学の中の国際法を専攻した。更に語学力も必須であるがゆえに、
留学を志した。修士課程の院生の時のこと、学内新聞を広げて眺めていた折に、ある記事を偶然目にした。何と大学法学部
の先輩が国連法務官の職務に就いて活躍されていることを知った。直ぐにレターをしたためた。かくして、文通が始まった。それが人生の
分岐点となった。米国ワシントン大学への留学へとつながった。行き先は米国西海岸の港町シアトルであった。海洋法や海洋学などを学ぶこと
になり、国連の海洋法務官への奉職に半歩近づいた。海に関わる法務官として国際社会に何がしかお役に立てれば、それ以上の喜びはなかった。
海に回帰することができれば、船乗りへの夢が叶わなかったかつての無念さを完全に払拭することもできるはずと、身も心も空に舞い上がりそう
であった。
かくして、25歳にして田舎を離れ、第二の夢を追いかけ人生の冒険の旅に出た。渡米時25歳にして初めて飛行機なるものにも乗った。
そして、留学のために故郷を離れて以来、二度と故郷で暮らすことはなかった。
米国では海洋法や海運学、海洋組織論など社会科学系諸学の他、自然科学系の海洋学、水産学、海洋資源開発管理学なども学ぶことになった。社会科学系
と自然科学・工学系諸学との文理融合の具現化を目論んだ学際的な「海洋総合プログラム」に在籍した。かくして、私的には「陸(おか)
の世界」から再び「海の世界」へと回帰する大きなきっかけを掴むことができた。
さて、その後新たな目標を追いかける冒険の旅は思いがけない方向へと辿り、自分でも全く想像もしなかった「人生航路」を
歩むことになった。そして、旅のどんな終着点に行き着くのか全く見通しがつかないまま、大よそ50年の間、故郷を離れて人生の
旅を続けることになった。この旅の物語は全編20余章140余節から成るものです。先ず、第一章では、時間軸を少年時代に巻き戻して、
その足跡を辿ってみたい。