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    プロローグ
    -辞典づくりの起点は南米アルゼンチンにあった-


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    「南米のパリ」と形容されるアルゼンチンの首都ブエノス・アイレス。その郊外にあるエセイサ国際空港から高速道路を一時間ほど走っていた車は、 ようやくランプウェイを下った。そのすぐ先には「7月9日通」という名の、道幅が100メートルほどもある大通りであった。 私が生まれて初めて、南米の地、それもブエノスの中心街に足を踏み入れた時のことである。車窓から眺めるブエノスの街並みに、息をするのも忘れて しまいそうなほど内心では興奮し、鼓動の高鳴りを抑え切れなかった。その感動は今でも忘れることはない。聞かされていた以上に、「南米のパリ」の街並みは 洗練され、華やいでいるように見えた。

    少年の頃から、そして青年になってからも、南米やニューヨーク航路の船乗りになることに憧れを抱いていた。いつしかリオ・デ・ジャネイロや ブエノスの港に日の丸旗を船尾に掲げて入港し、南米特有の異文化にその身をおくことを夢見ていた。その時から20年ほどの歳月が流れていた。 車の後部座席の車窓からブエノスの街を眺める「自分」がそこにいた。そして、もう一人の「自分」が精一杯祝福してくれていた。

    さて、アルゼンチン海軍本部への表敬訪問をもって、私たち調査団一行はそのミッションの第一歩を踏み出した。本部ビルは、アマゾン川に次ぐ大河 と謳われるラ・プラタ川の岸近くにそびえ立っていた。ラ・プラタ川が巨大なデルタ地帯を抜けて大西洋に注ぎ出る河口付近の川幅はとてつもなく 広かった。対岸はウルグアイであるが、どこにその岸があるのか、 目を凝らしても全く見えなかった。ブルーカラーの海らしい海はずっと下流でないと目にすることができないらしかった。本部ビルの階上から眺める 大河はまるでカフェ・ラテを流し込んだように見えた。

    調査団は時間厳守をもって、国立漁業学校校長であるオルティス海軍退役大佐と本部玄関前で再会を喜び合った。そして彼の案内で海軍教育総局長である ボニーノ少将の執務室を訪ね表敬した。その後、我々団員全員と総局の幹部らとで膝を突き合わせて、滞在中の協議項目や日程などを丹念に打ち合わせた。 翌日には漁業学校があるマル・デル・プラタという、ブエノスから南へ400kmほどにある、大西洋に面した港町に協議の場所を移した。

    学校は町の中心街からほんの少しだけ離れたところにあった。3階建てのレンガ造りのオフィス兼倉庫のような、マッチ箱のような小さなビルであった。 誰が見ても学校に相応しい建物ではなかった。そこに校長室、事務室などの他、いくつかの講義室や機関・機械・電気関係の実習室があった。 実習機材のほとんどが使い古され、しかも旧式なものに見えた。狭い会議室で、互いに肩を寄せ合って、カリキュラムや実習内容、国家の海技資格制度、 志願者の応募や生徒の受講状況など事細かに聞き取り、実情把握に努めた。 翌日には、小型・中型漁船が横列にひきしめ合って係留されている埠頭や、漁獲物陸揚げ場に隣接する魚市場などを見学した。また、学校の新校舎建設のために海軍が手当て しているという敷地をも視察した。

    私は、当時奉職していた国際協力事業団(JICA)で、この漁業学校プロジェクトの実務担当者をしていた。経由地の米国などで一泊すると、 日本とアルゼンチンとの旅は往復5日がかりであった。日本政府による水産無償資金協力でもって新校舎を建設し、訓練船をも供与し、さらに技術協力として長期・短期の技術専門家を派遣 して、漁業や航海などの教育レベルの向上を目指すというプロジェクトであった。その実施に関する諸条件を話し合い、関連基礎資料を収集・分析し、 協力にまつわる合意文書を締結するため、一年のうちに3度も往復した。アルゼンチンは中南米諸国で最も技術力が高いという、海軍と学校関係者の プライドは想像以上に高かった。そのプライドゆえに、交渉は時に難しい局面にぶち当たった。だが、紆余曲折を経ながらも、無償資金協力と 技術協力の2つを併せもったプロジェクトの実施にいてめでたく合意に達した。

    私は、プロジェクトの業務調整に当たる長期専門家として自ら志願し、めでたく1983年から赴任できるお墨付きを人事部から得ることが できた。だがしかし、赴任直前になって思わぬ出来事に遭遇した。1983年3月にアルゼンチン(当時はまだ軍事政権下にあった)と英国との間で、 パタゴニア沖のフォークランド諸島(スペイン語名マルビナス諸島)を舞台にして、まさかの本格的な戦争が勃発した。赴任の大幅遅れやその 取り消しを恐れたが、1年ほど遅れて赴任することができた。振り返れば、それは運命の大きな分水嶺であった。

    プロジェクトは1984年(昭和59年)から開始され、私を含めて5名の長期専門家が派遣された。合意文書上最初の一年間はプロジェクト準備期間に 位置づけられた。それは特例的な配慮を意味するものであった。専門家は一年間業務上の入念な諸準備にいそしみ、スペイン語や生活にも慣れ親しんだ。 その間に新校舎が落成し、小型訓練船や漁具模型回流実験装置などの多くの実習用機材が供用された。 技術協力業務も、アルゼンチン側のカウンターパートである教授陣らと二人三脚で協力し合い、徐々に軌道に乗り出していた。二年目に入る頃には 精神的にも確かな余裕が生まれていた。かくして、私の脳裏に一つの閃きが去来した。

    学校内では、日本語・英語・スペイン語の三ヶ国語が飛び交っていた。それも、航海、漁業、水産加工、魚類同定などに関する専門 用語が頻繁に交わされていた。それらの専門的語彙を拾い上げ、大学ノートに丹念に書き留め、語彙集の ようなものを作り、プロジェクトに生かす絶好の機会であった。当初はそんな語彙に遭遇してもその場で軽く受け流していた。 天の有り難いお告げであろうか、それらの専門用語にまつわる語彙集づくりを思いついた。 「それはまたとない機会であり、これを逃せば再び巡って来ることはない」との脅迫観念にとらわれ、それが強引に私を後押しした。

    さて、漁業学校に勤務して2年目の1985年こそが、その語彙集づくり、さらに辞典づくりの「起点」であり、「原点」となった。そして パソコンという文明の利器の普及、さらにその後の情報通信技術のすさまじい進歩、特にインターネットの普及は、語彙拾いをしてきた私に ハイテクの恩恵を十二分にもたらしてくれた。それ以来35年ほど辞典づくりを楽しみながら取り組んできた。 その結晶が、現在のオンライン辞書の「日英西仏葡語・海洋総合辞典」である。長いと思えば長く、短いと思えば短く感じるこれまでの辞典 づくり人生であった。

    ところで、今頃になって悟ったことは、人間の一生というものは、辞典づくりを初め完成に辿り着くには余りにも短いということである。 辞典づくりを終えたわけではない。辞典が完成した訳でもない。現在も進行中である。これまでの辞典づくりの歩みと思いについて、 この雑録ノートに綴っておくことにした。辞典づくりの未来を託すことにしたい方に巡り遭うきっかけになるかも知れないという願いが込められている。 そんなきっかけを切に願いながら、霞んで行く過去を真剣に思い起こしながら精一杯綴ることにしたい。そして、いつの日か、語彙拾いの「襷」 を未だ見ぬ未来人にしっかりとつなぐことができれば、望外の喜びである。

                            2020年1月 海洋総合辞典・初代編者 中内清文



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     第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第1節 船乗りへの夢を駆り立てた神戸商船大学長との出会い