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    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第1節 ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その1)/コロンブス、コルドバなど


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     第15章・目次
      第1節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その1)/コロンブス、コルドバなど
      第2節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その2)/海賊モーガン、英国海軍提督ネルソンなど
      第3節: 「ニカラグア運河の夢」の系譜をたどる
      第4節: 運河候補ルートの踏査(その1): ブリット川河口など
      第5節: 運河候補ルートの踏査(その2): エスコンディード川、エル・ラマ川など
      第6節: 運河候補ルートの踏査(その3): サン・ファン川と河口湿原
      第7節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)
      第8節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還(その2)
      第9節: コンセッション協定が締結されるも、「ニカラグア運河の夢」再び遠ざかる



全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル(要約・基礎編)」 → [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


  「エル・カスティージョ・デ・ラ・コンセプション要塞」の外回りの巡覧を終えた後のこと、要塞内にあるホールのような大きな部屋に足を一歩踏み入れた。 そこは閑散とした展示室であった。室内の壁面には15枚ほどの大型パネルが掲示され、何やらニカラグアの歴史などが紹介されている ようであった。各パネルのタイトルを中心にざっと流し読みしながら巡覧して行った。

  最後のパネル2枚は「運河の夢」と題されていた。それに興味をもって説明書きを通読して、目からウロコが落ちる衝撃を受けた。 そして、全てのパネルを写真に切り撮り、もち帰ったうえでじっくり熟読しようとした。しかし、帰宅後写真や文字がかなりピンボケであったことに ショックを受けた。画像の撮り直しのためにマナグアから要塞へ長時間かけて出直すというハプニングまであった。その後は撮り直した画像を じっくりと、自宅のパソコンで拡大しながら、西和辞書を片手に読み解いて行った。

  運河建設のアイデアそのものは、16世紀にスペイン人征服者らが中米地峡へ侵攻した初期段階からあった。パネルでは、16世紀初めに「新大陸」の 征服に乗り出した時から、20世紀初めの「パナマ運河」の完成によって「ニカラグア運河」の夢が潰えるまでの歴史が綴られていた。ニカラグアには運河建設 を巡る100年以上にわたる実現への思いがあったことが、略年表を添えながら語られていた。 ニカラグアでJICA技術協力に従事していたこともあって、その積年の夢は私の心に訴えるものがあった。

  それまで、ニカラグアと運河とを結びつける発想や予備知識も持ち合わせていなかった。それ故に「運河の夢」は大変新鮮で何か宝物を見つけた ような驚きの衝撃を受けた。以来、ニカラグア運河への興味がもくもくと湧き上がって来た。特に、パネルに刻まれた「運河の夢」はどのような系譜 を辿って現代に至っているのかを知りたかった。そして、「ニカラグア運河」なるもののルートを実際に歩いてみたくなり、身体中の血の騒ぎを 抑えきれなくなって行った。さて、その系譜や踏査のことについては後節に譲ることにして、先ず展示パネルの主要テーマを 総覧することにしたい。

  最初の展示パネルは、プレ・コロンブス時代にニカラグア周辺地域に住みついていた先住民族について触れていた。 スペインによる「新大陸」先住民の征服や奴隷化、「新大陸」にとって全く未知な病気の持ち込みなどで、先住民の人口は減少し、 今ではほぼミスキート族だけが現在まで生き延びてきたという。そして、ニカラグア大西洋沿岸地域では、英国人やアフリカ人らとの混血がなされ、 現在ではニカラグアの東半分の広域が、北と南の2つの大西洋自治地域となっているという歴史的経緯が記されている。

  次いで、10数枚のパネルでは、次のようなテーマで主要な史実を紹介している。
・ 大航海時代における「新大陸発見」の歴史、特にコロンブスによる探検航海(第1回航海は1492年)と新大陸(中米地峡や南米大陸)への到達、
・ ニカラグアの沿岸陸地への接近、その後のスペイン人征服者(コンキスタドーレス)や入植者による新大陸各所(アステカやインカ 帝国など)の「征服」や植民地化、
・ 中米カリブ海域でのヘンリー・モーガンなどの海賊や私掠船の横行とスペインによる彼らとの闘い(モーガンによるニカラグア湖奥地の町 グラナダへの襲撃)、
・ 征服者コルドバなどによる中米地域への探検と侵攻、
・ サン・ファン川周辺域での要塞の築造と、敵対する英国軍部隊や海賊船による侵攻からの防御、
・ サン・ファン川の流頭部(そこにある町がサン・カルロス)や河口域、中流域での砦や要塞の建設、特に1675年のスペインによるエル・ カスティージョ要塞の築造、
・ 英国軍部隊によるエル・カスティージョ要塞への侵攻と要塞の占拠、およびネルソン艦長(後の英国海軍提督となる)との関わり合い、
・ 当時新興国であった英国がニカラグア湖最奥の町グラナダを攻略し支配することの戦略性など。

  エル・カスティージョ要塞の展示パネルを熟読して多くを知った。それだけでなく、それをきっかけにして、コロンブス以降のニカラグアと その周辺地域の歴史に大いに興味をもち、幾つかの書物・資料を通読したり、インターネットで閲覧したりして、いろいろ紐解き深掘りを試みた。 ついては、先ずニカラグアを含む中米地峡に足跡を遺した征服者バルボアやコルドバについて、さらにコロンブスの探検航海について綴ることにしたい。

  なお、海賊モーガンと若き日のネルソン提督の足跡については、次節において綴りたい。モーガンについてはパナマのポルトベロで初めて知り、 今回も要塞の展示パネルを通じて彼が何者であり、ニカラグアとどういう深い関わり合いをもっていたかを 初めて深掘りした。また、「トラファルガーの海戦」で有名な英国海軍提督ホレーショ・ネルソンがニカラグアに遺した大きな足跡をも知った。

  さて、クリストファー・コロンブスがアジア東方世界(インディアス)を目指して、1492年に第1回探検航海に出立するに当たって、彼は、 アジア東方世界の地球上での地理的位置をどう思い描いていたのであろうか。インディアスとは現在のインドではなく、インド、南アジア、東アジア を含む東方のアジア地域とほとんど同義である。

  当時には「プトレマイオスの世界図」(world map of Claudius Ptolemaeus)に描かれたような世界観が流布していた。 古代ギリシアの天文・地理学者クラウディオス・プトレマイオス(AD83-168年頃)は、エジプトのアレクサンドリアで活躍していた。 彼は球体の地球を円錐投射法を用いて平面に地図を描く方法、さらに古代ギリシア期における地理情報を集大成した「地理学」 (ゲオグラフィア Geographia) という画期的な著作をこの世に残した。その中に通称「プトレマイオスの世界図」といわれる地図があった。

  その世界図では、カナリア諸島に本初子午線を置き、等間隔の緯度と経度をもってモロッコから中国にいたる、ヨーロッパ、アフリカ、 アジアにまたがる広大な領域を一枚の地図に描き出した。現存する「プトレマイオスの世界図」は15世紀のルネサンス期に発見された 写本をベースに復元されたものである。プトレマイオスは1,800年ほど前にそんな地図を作成していたのである。

  「プトレマイオスの世界図」は、16世紀になってオルテリウスが編纂した「世界の舞台」が刊行されるまでの長きにわたり 標準的世界地図・世界観となっていた。オルテリウスの世界図の描かれ方にはいろいろ話題性はあるが、小さく描かれたインド亜大陸、その東側にはガンジス川の デルタが、そして、その東方にはマレー半島(黄金半島、大半島とも称される)がインド亜大陸よりも大きく描かれている。 半島の東には「シヌス・マグヌス」(大きな湾)という湾があり、その東には実際には存在しない陸地が横たわる。即ち、中国・アジア大陸と 「未知の南方大陸」(テラ・アウストラリス・インコグニタ)とが陸続きとして描かれている。他方、アフリカの赤道以南はその 「未知の南方大陸」とも陸続きである。かくして、エリュトラー海(アラビア海、インド洋)は、アフリカ、アジア、「未知の南方大陸」などに 囲まれた内海として描かれている。コロンブスもこの世界地図のことを頭に描いていたはずである。

  「プトレマイオスの世界図」では、ヨーロッパが面する大西洋の西方世界と、中国などのアジア大陸の東方世界とのつながり方は未知のままであった。 コロンブスが1492年に大西洋を西廻りでカタイ (中国) や黄金の島ジパング (日本) をめざして出立した頃も、「プトレマイオスの世界図」 に描かれたような世界観が流布していた。

  最大の特徴は、緯度経度をもって描かれていることに加え、世界図のアジアは横長に描かれ、アジアの東端は現在よりもずっと東に(90度ほども)ずれていたことである。 つまり、太平洋という大海が図上で欠落し、従って当時にあっては、大西洋西端がアジア東端と余り隔たっていないものと考えられていた(そう描写されていた)。 コロンブスもその一人であり、彼が、西廻りで行けば東廻りよりもずっと早くカタイやジパングに到達すると考えていたはずである。 当時の世界観からすれば、彼がそう考えても全く不思議ではなかった。彼がこの着想と金銀財宝への欲望を持ち合わせていなければ、探検航海への強烈な 執念を持ち続けられなかったかもしれない。

  コロンブスの3隻の船隊が、インディアスをめざしてスペイン南西部の港町パロス(セビーリャの西方100kmほどにある) を船出したのは、1492年8月3日のことである。彼は、その探検航海事業を実現する少なくとも10年以上も前から、大西洋を西廻りして インディアス、特に大ハーン (大汗) の国や黄金の国ジパング(ジパンゴ)を目指すという事業計画を練り温めていた。 そして、コロンブスは1483年末頃に、ポルトガル王室にその事業計画を売り込んだ。時のポルトガル国王ジョアン2世に謁見を許されたのはその 翌年であった。ジョアン2世は諮問会議を招集し検討させた。結果は「却下」であった。コロンブスの過大な見返り要求を織り込んでの却下の決定であった。 その決定が彼に伝達されたのは、1485年初め頃とされる。

  コロンブスは、いったんはポルトガルに見切りをつけて、スペインのパロスに移動し、フランシスコ会「ラ・ラビダ僧院」に身を寄せた。 当時スペイン王国はイサベル女王のカスティーリャ王国とフェルナンド王のアラゴン王国 とが1479年に連合したばかりの新興国であった。コロンブスは修道院長ファン・ペレスを介して何人かの有力者に知遇をえて、両王に事業を 打診することができた。

  コロンブスは1486年初めの頃に、イサベル女王に謁見を許された。カスティーリャ王国イサベル女王にコロンブスのインディアス航海事業計画の 説明を行なった。彼は、黄金、香料などインディアスの富について、またイスラム勢力に妨げられないルートであること、東廻りよりも早く大ハーンやジパングに到達できる ことなどを説いた。イサベル女王は諮問会議に計画案を検討させた。その結論が下されたのは、1487年から1490年の間と推定されている。 結果は事実上の却下であった。彼は、その間イギリス、フランスなどに事業計画を売り込んではいたが、いずれも成功しなかった。

  スペイン両王は、1492年1月イベリア半島におけるイスラム勢力の最後の砦であったグラナダ宮殿を陥落させ、イスラム勢力を半島から 一掃する手筈となった。即ち、8世紀以来のレコンキスタ=国土回復運動 (718年~1492年) を成就させた。コロンブスにとってこれは好機 であった。彼は再び事業計画を王室に売り込んだ。だが、両王は却下するに至った。理由は彼の過大な見返り条件にあったとされる。

  コロンブスは失意のうちにグラナダから引き揚げ、コルドバ街道沿いのピノス・プエンテ近くにて、女王が遣わした使者と出会い、王宮に引き返すよう 求められた。コロンブスとイサベル女王との間を取りもったのは、コンベルソ(カトリック教へ改宗したユダヤ教徒)であり、豪商の アラゴン王国財務長官ルイス・デ・サンタンヘルであった。かくして、1492年4月17日、グラナダ近郊のサンタ・フェにて、コロンブスは女王との 間で航海事業に関する見返り条件などを盛り込んだ「サンタフェ・フェ協約」を取り交わした。    

  コロンブスは1492年8月3日「サンタ・マリア号」を旗艦とする3隻に分乗して、乗組員約90名とともにインディアスを目指した。スペイン南西部 にあるパロス港を出港し、スペイン領のカナリア諸島へと針路を取った。彼らは、同諸島で、「ピンタ号」の舵の修理、「ニーニャ号」の三角帆から四角帆への付け替え、 食糧・飲料水などの積み込みを行ない、9月6日大西洋西方の未知なる海へと船出した。 カナリア諸島からの航海日数が30日も過ぎると、食糧も少なくなり、乗組員の間には不安と不満の不穏な気配が漂うように なっていたが、幸運にも10月12日未明、一つの島影を発見するに至った。

  36日間に及ぶ航海の末、船団はついに先住民が当時グアナハニと呼ぶ島に辿り着いた。コロンブスは、神のご加護に感謝し、 後にサン・サルバドール (San Salvador)、即ち「聖なる救世主」の島と命名した。グアナハニの海岸に上陸した彼は、神に感謝の祈りを捧げ 、国旗と十字架をかざし、スペインの領有を宣言した。かくして、サン・サルバドール島への到達は、その後のスペインによる新大陸 の征服や植民地化に乗り出す歴史的起点となった。

  コロンブスの3隻の船隊は、サン・サルバドール到達後も、何の海図をも持ち合わせないまま手探りの航海を続けた。約2週間後、 現在のキューバ島に遭遇し、同島の東部北岸を探索した。その後も航海を続け、現地人がボイオと呼ぶ島に到達し、 それをイスパニョーラ島と名付けた。コロンブスは、後にキューバ島を大ハーンの支配するカタイの一部と、またイスパニョーラ島を 黄金の島ジパングと考えた。コロンブスはイスパニョーラ島北岸に砦を築き、「ナビダー」(Navidad; クリスマス、キリストの降誕の意) と名付け、 同地に40名ほどの乗組員を残し、1493年1月4日に「ニーニャ号」を率いて帰途についた。帰途に当たり6人の先住民を同行させた。コロンブスは同年3月15日 パロス港に帰着した。

  第2回航海では、スペインの国家的事業として、大勢の開拓者・植民者らが新大陸へと送り出された。そして、新大陸を無主の土地と見なしつつ、 至る所に王旗を翻し領有化し、先住民を服属させていった。エスパニューラ島をジパング、キューバ島をカタイと見なしていた彼は、 それらの周辺海域を転々と探検航海していたが、1502年の第4回探検航海の時には、キューバ島からしっかりと西方へ針路をとり、現在のホンジュラス 辺りの「新大陸」に到着した。彼はマラヤとスマトラに位置すると考え、反対側へ通過するための海峡を探し出そうとした。即ち、「プトレマイ オスの世界図」に描かれていた、アジア大陸最東南端に位置する「大半島」を迂回し、インド南方に広がるエリュトラー海(アラビア海、インド洋) へ出る水路を求め、また自身が航海する地理的位置を見届けようとしたのであろう。「プトレマイオスの世界図」では、ユーラシア大陸は実際よりも ずっと東側に突き出して描かれていたので、太平洋の存在は彼の世界観にはなかった。

  新大陸に沿って南下したところでコロンブスは大嵐に遭遇した。そして、現在のホンジュラス・ニカラグア国境にある大きな岬を回った辺りで 、嵐をなんとかやり過ごせる遮蔽海域に辿り着くことができ、遭難を逃れたという。彼は、それまで「新大陸」の島嶼をうろうろしていたが、 ここで初めて大陸そのもの(現在の中米地峡)に到達する結果となった。勿論、彼はそれが大西洋と太平洋を南北に大きく隔てる「新大陸」 であることを知らなかった。彼は嵐をやり過ごすことができた岬を「神に感謝する岬」(スペイン語名:「Cabo de Gracias a Dios」)と名付けたが、現在もその名が地図に記されて いる。その岬を二分するように流れ下るココ川は、現在両国の国境となっている。

  コロンブスはさらに海沿いに南下を続けた。サン・ファン川の河口辺りでは上陸も探検もせず通過した。だが、コロンブスは、その最後の航海で、 現在のパナマ北岸の地において、奥行きのある静穏な入り江に停泊した。そして、そこをポルトベロ と名付けた。ポルトベロは後にスペインの征服者らが南米大陸で略奪した金銀財宝をガレオン船で本国に送り出す重要な積み出し拠点となった。 コロンブスは想像だにできなかったであろう。さらに言えば、その10年ほど後にバスコ・ニュネス・デ・バルボアが、「北の海」の南方にあるという海を求め、 パナマ地峡のジャングルを切り進んだ結果、西洋人としては初めて、「南の海」即ち現在の太平洋を「発見」したことを知る由もなかった。 1513年のことである。

  その後、コロンブスは現在のコロンビアのカルタヘナ辺りまで探検航海したが、コロンビアの沿岸で転針しキューバへと向かった。 結局、大半島を迂回しインド南方に広がるエリュトラー海に通じる「海の道」はそこにあろうはずもなく、当然発見もできなかった。 彼は中国・ジパングのあるインディアスと大西洋との間に、広大な太平洋と巨大な大陸塊が南北につらなることを知る由もなかった。 ここにインディアスへ到達する彼の夢は潰え、ついに生涯を閉じることになった。他方、征服者たちは、最初に植民地化したアンチール 諸島を本拠地にして、金銀獲得の幻想をいつも携えながら、新大陸への侵攻と征服・植民地化を繰り返した。 コロンブスは死を迎える最後までインディアス、アジア東方の世界に到達したものと信じていたとされる。

  スペイン人バルボアがパナマ地峡を横断し、西洋人として初めて太平洋に到達した後、先ず最初に植民地化されたアンチール諸島(エスパニョーラ島、 その後はキューバ島)を拠点に、スペインは国家的事業として中米地域へ、さらに南米大陸へと続々とその征服と植民地化のために自国民を送り出した。 そして、バルボアは地峡の反対側の太平洋沿いにパナマという町を建設し、新大陸での征服・植民化のための次の一大拠点として行った。

  また、フランシスコ・ピサロは地峡の南方へ探検し、ペルーの征服を始め、1533年には征服の絶頂期を迎えていた。ヘルナン・コルテスはユカタン半島からベラクルス、 そしてアステカ帝国の都へと、現在のメキシコ中央部の征服を始めた。他のスペイン人はニカラグア北方のホンジュラス、エルサルバドル、グアテマラ などへ征服に向かった。要塞の展示パネルは征服者たちの足跡を図絵とともに綴っている。

  中米地峡を探検したゴンザレス・デ・アビラは1523年に琵琶湖の13倍ほどの面積をもつニカラグア湖を発見したが、その後1524年になって、 スペイン人征服者フランシスコ・フェルナンデス (あるいはエルナンデスともいわれる)・デ・コルドバは、ニカラグア湖の北西端にニカラグア地域で最初の征服・入植拠点を建設し、 歴史上大きな足跡を遺した。建設は1524年のことである。コロンブスが1492年に第1回探検航海にて「新大陸」に到達してから30年ほど後のことである。 コルドバは当時パナマ・シティにおいて警備隊長を務めていた。彼は、故郷のスペインの町グラナダにちなんでその名を付けた。 現在ニカラグア湖畔にコロニアル風の美しい町並みが遺された町こそがグラナダである。

  グラナダは、カリブ海から内陸へゆうに300km以上も入り込んだ内陸部最奥にありながら、河川と湖を伝って遡上できることから、「大西洋 に面する海港」との認識がもたれたほどである。ニカラグア湖から唯一流れ出るサン・ファン川はカリブ海に通じる。川を150kmほど遡り、 湖をさらに150kmほど縦断すれば、グラナダに至る。地図を見れば、そのことは一目瞭然であった。日本でいえば、大阪湾から淀川、宇治川を遡り 琵琶湖の最北端の長浜や塩津に達するのと同じであり、長浜が太平洋に面する港町と見なされるようなものである。 それ故に、「新大陸」の征服・植民地化が進められた1500年代の早い段階から町が活況を呈し繁栄することになった。

  ニカラグア湖のさらに北西にマナグア湖があるが、マナグア湖の北西端に第二の古都レオンがある。ニカラグア湖北西端からティスタパ川を北方へ30km遡上 すればマナグア湖に至る。コルドバは、同じく1524年に、その湖畔から北西に70kmほど縦断した湖岸にレオンという第二の拠点を建設した。 レオンのすぐ傍のマナグア湖畔には富士山のような円錐形をしたモモトンボという火山がそびえている。ところが、1609年そのモモトンボ火山の 地震と爆発によって、85年ほどの植民の歴史をもっていたレオンは、イタリアのポンペイのように埋もれ壊滅するに至った。 現在では、火山灰で埋没していた町は掘り起こされ、当時の聖堂、修道院、総督邸などが遺跡群として遺される。現在、その廃墟は「レオン・ビエッホ(古いレオン)」 としてユネスコ文化遺産第一号に登録される。その廃墟後、町は北西25kmほど離れた別地に再建された。現在のレオンがその再建された町である。

  余談だが、実は、噴煙を上げながらそびえ立つモモトンボ火山などを図柄にした切手が、今から200年以上も前に国内で発行された。 後になって「ニカラグア運河の夢」を幻にさせる引き金となったともいわれる切手である。20世紀初頭、米国議会の議員に配布された。 ニカラグア運河は火山活動が活発であり、そこでの建設は適切でないことを知らしめるために利用された。一枚の火山切手が、運河をパナマか ニカラグアのいずれに建設するかの判断に何がしかの影響をもたらすことになろうとは、誰も想像だにしなかったことであろう。そのことは後節で触れたい。 なお、コルドバはレオン創建の数年後の1526年に、そのレオンで処刑された。(何処に埋葬されたか不明であったが、2000年にコルドバの遺体が そのレオンで発見されたという)。

  さて、バルボアによる「南の海」の発見以来、「北の海(当時はそう呼ばれていた。現在の大西洋)」から「南の海(バルボアがそう呼んだ。現在の 太平洋)」へ抜ける「海の通り道」があるのか無いのか、征服者らの大きな関心事であった。展示パネルには、「はっきりとしない海峡の在り処」 という表題でそのことに触れている。それによれば、1525年にコルドバによって派遣されたルイ・ディアスは、ニカラグア湖から唯一流れ出る サン・ファン川の流頭から50kmほど下流のエル・カスティージョまで川を探検したが、カリブ海までは到達できなかった。故にサン・ファン川の先は 未知であった。

  その後、アルフォンソ・ガレーロとディエゴ・マチューカが、1539年にサン・ファン川の河口まで踏査することになった。 グラナダを出発しニカラグア湖を横切りサン・ファン川を下り、二手に分かれて探検した。一方は、その支流のサバロス川を遡航し、分水嶺を 越えてプンタ・ゴルダ川を踏査した。他方は、サン・ファン川を下り河口に出た後、カリブ海岸沿いに北上し、プンタ・ゴルダ川を遡上し、その中流で 二人は合流した。かくして、彼らはグラナダとそれらの河川・湖・海との地理的位置関係について明らかにした。その結果、カリブ海の 島嶼や中米地峡沿岸の町とグラナダとを繫ぐ可能性を有する商業ルートが発見されることになった。そして、難路であるパナマ地峡のジャングルルートを 回避できる可能性が見い出された。展示パネルはそのことに言及している。

    さて、ニカラグアでの植民地の建設と繁栄、特に繁栄を極めて行ったグラナダは海賊の格好のターゲットとなった。繁栄植民都市グラナダのみならず、 南米大陸の金銀財宝の集積地パナマ・シティやポルトベロなどが、海賊らに次々と襲われることになった。 後に最も悪名を轟かせた海賊こそ、英国人ヘンリー・モーガンであり、彼はグラナダなどを襲撃し、その名を歴史に刻んだ。サン・ファン川における 歴史的出来事は、エル・カスティージョ要塞への英国海軍部隊による侵攻と占拠であった。時のスーパーパワー・スペインによる「新大陸」支配に 対する英国による軍事的挑戦を象徴するものであった。そこには英国の深謀な戦略が秘められていたことを、その展示パネルから知った。 この英国部隊による侵攻には、後に海軍提督となったホレーショ・ネルソンも艦長として従軍していた。ニカラグアを舞台にしたこれら二人の 史実について次節で綴ることにしたい。

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全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル(要約・基礎編)」 → [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第1節 ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その1)/コロンブス、コルドバなど


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     第15章・目次
      第1節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その1)/コロンブス、コルドバなど
      第2節: ニカラグアに足跡を遺した歴史上の人物たち(その2)/海賊モーガン、英国海軍提督ネルソンなど
      第3節: 「ニカラグア運河の夢」の系譜をたどる
      第4節: 運河候補ルートの踏査(その1): ブリット川河口など
      第5節: 運河候補ルートの踏査(その2): エスコンディード川、エル・ラマ川など
      第6節: 運河候補ルートの踏査(その3): サン・ファン川と河口湿原
      第7節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還 (その1)
      第8節: オヤテ川踏査中における突然の心臓発作と奇跡の生還(その2)
      第9節: コンセッション協定が締結されるも、「ニカラグア運河の夢」再び遠ざかる