1987年3月末にアルゼンチンから帰国、その後は「海への回帰」ならぬ「農業への回帰」であった。帰国後における配属先については、どこの部署
であろうとも頓着しなかった。配属されたのは同
年4月のこと、「
農林水産計画調査部」の「農林水産技術調査課(農技課)」という、
長ったらしい名の部署であったが、仕事の内容としては農業投融資関係であった。農業部門への関わりに消極的な訳でも、また違和感をもった
訳でもない。もともと、大阪・茨木の実家の生業はまさしく農業であり、私自身百姓のせがれであった。父の突然の事故死で、小学六年生の時から、
二歳上の兄とともに、祖父母と母親の農事を助け、生活を少しでも支えるために真剣に農作業を手伝い始めた。
渡米した25歳まで勉学もしたが、土にまみれ土と格闘するという生活を過ごした。
農家の生計は農業でしか立てられなかった。祖父の兄弟の親戚は農業を営んでいてその助けを借り協働作業をもって毎年の繁忙期を
乗り切っていた。母親に指示されるままであったが、耕耘機で田畑を耕し、米はもちろん、ありとあらゆる野菜を作り、収穫し、市場に卸し、
家計を助けた。およそ12年間兄と田畑を耕した。野菜づくりのために耕耘機で立てた畝の総延長は14㎞を下らなかったであろう。そんな訳で
私は学生ではあったが農業協同組合員として加入を認められていた。と言うのも、年6ヶ月以上農作業に従事していることで加入が認め
られていた故である。
JICAでの農業分野との関わりは異次元の世界に飛び込むような話ではなかった。何の驚きも、違和感も
抵抗感もなく、農業投融資事業に飛び込むことになった。少年の頃から田畑で農作業にいそしんできた私にとっては、いわば農業世界への
「里帰り」か「回帰」のようなものであった。
休題閑話。JICAの農業投融資事業とは一体いかなるものか。「農業」には経験もあり親しみもあったが、「投融資」という領域について
は初体験であった。JICAから政府系の公的な長期低利の融資を受けたいという日本の民間企業からの要望と申請がその事業の起点であった。
例えば、ある企業が発展途上国で現地法人とタイアップなどして、ある農作物や果樹を試験的に栽培したいという。異国の地における気候や土壌条件など
に適合したいくつかの有望品種を試験的に栽培して最適品種を選抜や同定をしたい、あるいはまたいかなる栽培方法がベストであるかを見極めたいという。
現地試験栽培を通じて品種や栽培法に関する技術的な知見を確かなものにし、その後本格的なビジネスを展開したいという訳である。
さらに、その試験栽培事業での長期収支バランス、作物の国内外での市場性、栽培地国政府の農業政策や補助金制度などの様々な優遇措置も知りたいという。
かくして、JICAはその要請に応じて、当該作物・果樹の試験栽培法や事業経営の実現可能性などを探り、それらの情報提供によって
その起業化を支援するために、5~6名の専門家を組織し、現地へ調査団を送るというものである。
最適品種を選抜するために具体的にいかなる有望品種を試験栽培するか。現地で植栽する圃場やその周辺はどのような土壌条件に
あるか。また、最適な栽培方法を見極めるために、その播種時期、植栽間隔、施肥方法、灌水の量や方法などについて、いろいろな
諸条件を設定する。そして、それらの条件の差異に応じて栽培上の優位性が十分発現されるよう、科学的な試験栽培計画を立案する。
また、事業に関連する現地の社会経済環境や、当該国の行政機関からの支援策、研究機関からの科学的知見などの情報提供事情なども調査する。
帰国後に調査報告書をとりまとめ、一般公開される。要請企業は同報告書を参考にして、今後の具体的栽培試験
計画を立案し、JICAにその試験事業への融資(ローン)を申請することになる。企業は、5年間ほどの試験事業計画
に加え、その後15~20年間の本格的事業にかかる損益計算書、収支計画、返済計画などを立て、民間銀行からの融資返済保証書を含む
それらの融資申請書一式を作成しJICAへ提出する。
審査の上、その栽培試験事業への長期低利の公的融資が行われることになる。栽培試験は基本的に5年間が想定される。融資条件については、
貸付総額は1億円ほどで、元本・利子の返済は最初の5年間は据え置きである。その後の返済期間は20年間、返済の年利率は1%、銀行保証が
必要である。1987~89年当時はバブルの渦中にあった中で、融資条件ははるかに緩やかであった。
農技課は、現地調査を実施し、その報告書を作成する段階まで担当する。別部の「農業投融資課」が申請を受け付け、審査の上その
貸付を執行し、またその返済手続きをも担当する。
栽培試験後の本格的なビジネス展開に当たっては、当時の「海外経済協力基金(OECF)」から引き続いて公的融資を受ける道が開かれている。大
企業であれば、この程度の融資額は物の数には入らないかもしれない。途上国にとっても、また申請する日本企業にとっても、
JICAの融資を通じて日本政府が技術的、資金的にバックアップしていることから得られる信用力のアップの方がはるかに重要であることが多い。
JICAでは、この投融資事業は「第3号案件」と称されていた。政府の対外技術協力としてJICAが実施できる援助については、「国際協力
事業団法」(その協力内容を定める法律)に規定されている。JICAが実施できる協力事業を規定する条文第3項に認められて
いることからそう呼ばれていた。
最初に担当となった第3号案件は、中国での「搾油用大豆栽培試験事業」であった。中国への出張は初めてであった。1987年当時、中国は
なおも近くて遠い国であった。初めての中国関連の初案件ではあったが、調査の実施に当たっては戸惑うことばかりであった。
私は、毛沢東の主導した「文化大革命」の盛時の頃は大学生であったが、「毛沢東語録」を振りかざし知的労働者を懺悔させ吊るし上げる
少年少女の写真などを見るにつけ、中国で何が起こっているのかほとんど理解できなかった。日本語版「人民日報」を購読し
通読していたが、文化大革命の何たるかが全く見えなかった。その大革命が終焉し政治権力が鄧小平に移った。彼によって1978年12月に主導された
「改革開放」政策なるものが発表され、以後徐々に浸透して行った。初訪問した1987年7月はそれから8年ほど経過した頃で、政策は
かなり浸透していた時期ではあった。
初めての中国への出張は予想通り、何を見るにつけ興奮の連続であった。中国社会の真っ只中に身を置けばどんな社会・自然風景が見える
のか、大いに関心があるところであった。北京空港発着ターミナルビルの円形サテライト、空港から市内にかけて植栽されたポプラのような木々
の並木道とその背後の田園風景、その田舎道のような道路も狭い二車線であった。目を皿のようにして眺めたが、どこを見ても興味深い
風景であった。
栽培事業の候補地は、旧満州の大平原にある国営農場であった。教科書で習ったことはあるものの、集団農場ではどんな風景を観ることができる
のか。想像は膨らむばかりであった。
とはいえ、中国黒竜江省の「哈爾浜(はるぴん)」、「佳木斯(ちゃむす)」など、地図上で旅程を計画しようにも、土地勘はゼロであったし、
漢字すらまともに読めなかった。交通経路、宿泊事情など想像すらできず、何をどう計画してよいのか、一時期、頭が真っ白になるほど戸
惑っていたことを覚えている。手探りで調査工程を模索した。有り難かったのは、粗い旅程にもかかわらず、JICA中国事務所がカウンター
パート機関と協力しながら、旅程を組み立て、宿泊施設や交通手段をしっかり手配してくれていた。そして、初めて中国の土を踏む
ことの不安よりも期待の方が徐々に高まり興奮が増幅して行った。
日本の某商社が黒竜江省の国営農場の圃場などで搾油用の大豆を栽培試験したいというものであった。第3号案件は一言で言えば、
海外で農作物を試験栽培し、それが首尾よくいけば本格的に「開発輸入」するものである。彼の地はもともと大豆の大生産地であったが、
数ある品種の中からたとえ0.5%でも含油量の多い品種を搾油用品種として選抜し、その栽培方法を見極めるというのが目的であった。そこで、
現地における大豆品種、栽培法や流通現況などに関する資料を入手し、また中国政府や地方省の関係部局や農業試験場などから農業
政策や研究状況などを聴取するというものであった。そして、栽培試験の対象品種、施肥法、灌水法などについての栽培試験計画を建て、
事業経費の積算に必要なデータを収集し、事業の経営計画や長期収支計画などを策定するものであった。日本政府の公的金融機関でもない
JICAがなぜ投融資に関与できるのかと言えば、栽培技術の開発や途上国への技術の移転などの技術的要素が絡むからである。
事業の舞台は地平線の果てまで見渡す限り広大で緩やかな大地が広がる旧満州であった。7名からなる大所帯の調査団は、北京で協議後、
飛行機でハルピンへ。降り立った空港ビルは上野駅舎のような頑丈そうなコンクリート製建物で、大平原の中にぽつんと立っていた。
だが、省都の「哈爾浜(はるびん)」はびっくりするほどの大都会であり、ロシア風の大きな建築物や旧満州国時代と所縁のある建物
などがあちこちに残されていた。
黒竜江省農業省や農業試験場などとの協議後、夜行列車で「佳木斯(ちゃむす)」へと向かった。白煙を巻き上げて深夜のホームに
爆走し入線して来た蒸気機関車は、日本のそれより一回りは大きく化け物のような巨体に見えた。満州の大平原を「アジア号」が豪快に突っ走っていたらしいが、
「アジア号」もこんな巨体を呈していたのであろう。ロシアとの国境へはまだまだ遠方らしかったが、「佳木斯」から東へ100kmほどに
ある「友誼」の国営農場へマイクロバスで目指した。道は雨でひどくぬかるんでいて、轍を辿ると車底がつっかえて動けなくなるほどの悪路との闘いであった。
友誼の近郊の農村内の道もぬかるみ、また側溝は生活排水の垂れ流しのためか、不衛生の様相を呈していた。終戦から10年ほど経た
日本の私自身の故郷の村よりもずっと貧しく感じられた。戦前多くの日本人が満蒙開拓団の一員として入植した当時の風景もこうであったのであろうと、いかにも昔の
風景を見たことがあるかのように想像していた。当時でも、彼ら農民の厳しい生活ぶりが痛いほど感じられた。特に
厳冬期には田畑など全てが凍りつき、想像を絶するような厳しい生活を送るに違いないと想像しながら、農村風景を目に焼き付けた。
国営農場では大豆圃場が見渡す限りの大平原一面を覆っていた。既に畝ごとに品種を示す立札が付され試験栽培がなされていた。
旧満州の大地を埋め尽くす大豆畑、これが旧満州における原風景なのであろう。その一部に触れることができ感涙であった。
何故なら、父親が若かりし頃旧満州に渡ったことを祖父から聞かされていたことがあったからである。旧満州のどこで何をしていたのか、
何年後に帰国したののか一切知ることはなかった。
ところで、1987年当時は改革開放路線への転換から8年ほど経過した時期のこと、現地ではまだまだ人民服を着た人が多かった。
初めての中国であり、時を遡って比較できるものを何ら持ち合わせず、あるがままの町や村風景を受け入れる他なかった。郷鎮企業
の活動状況を聴かされたり、街中で設営されていた物珍しい自由市場や、個人経営が許された美容院などの様子を垣間見たりはしたが、開放改革路線の成果の
発現振りを大々的に実感できるほどの際立った社会的変化を感じることはなかった。だが、
2000年以降何度か中国を旅したが、その度に目にする経済的発展ぶりは驚異的であった。誰もが予想できなかった奇跡的発展ぶりを
目のあたりにした。日本や韓国がいずれかの近未来ににおいて飲み込まれてしまいそうな脅威さえ感じた。
さて、調査団長はJICA元移住事業部長の仁科さんであった。中国出張を皮切りにその後何度か栽培試験事業の調査団長を務めてもらった。
「経営計画」団員は当時個人コンサルタントの立場にあった東さんで、その後何度か現地調査を共にした。定年退職後暫くして
他界された仁科氏の告別式で東さんと再会した。20数年振りの再会であった。たまたまの復縁をきっかけに、その後は旧交を温めてきた。
国内外での数多くの旅を共にし、人生の友として豊かな人間関係を構築する上での再出発点となった。
その他、東北農試の主任研究員、長野県在住の中国大豆栽培に詳しい専門家、農水省国際協力課職員、「経済社会環境」を担当する
団員が勢揃いした。試験栽培計画や調査・交渉の進め方などについて全団員で毎晩のように招待所(指定された宿泊地)内で団内協議をした。また、同行してくれた中国側の
元副省長や大豆研究者らと連日協議を重ねた。農試からのデータの聴き取り、また
サイロ貯蔵施設や大連への穀物輸送の拠点となる鉄道駅のインフラ施設などを視察し情報収集に当たった。ある農試で品種の資料
につき複写を依頼したが、一枚も複写させてくれなかった。情報漏洩に過剰と思えるほどの警戒ぶりであった。ある招待所では団内
協議が盗聴されているのではないかと疑いたくなることもあった。また、特に黒竜江省の「友誼」での招待においては、ハニー
トラップにも用心の上にも用心をした。危険を察知して何とかその夜の難を逃れたという思いがある。
中国側の語学通訳を務めていた黒竜江省外事弁公室の王さんは、その後北海道大学の博士課程に留学した。そして、卒業後は札幌の
コンサルタント会社に就職した。以後最近に至るまでずっと札幌を拠点にして働いている。ある時期に独立を果たし、中国人農業技能
実習生を北海道や長野県の農協などに派遣し、その監理を補佐する仕事に携わるようになった。これまで5000人以上の技能実習候補生を中国
国内で訓練し日本へ送り出し日中友好の懸け橋となってきた。
その王さんから現地調査の道すがら、いろいろ中国事情を教わった。王さんに誘われて「佳木斯」の中心街を散策した折、
郵便局に立ち寄った。当時一人っ子政策の真っ最中で、ある農民が郵便局に送金手続きに来ていた。インタービューしても問題ないとのことで、
その農民に訊ねた。「二人目が生まれてしまい、土地を手放して政府に罰金を払う手続きに来た。お先真っ暗だ」とこぼしていた。
また、社会見学のためと称して、半ば強引に映画館に連れられて行かれた。日中戦争を題材にする映画であった。木製の座り心地の良くない
硬座に座ったのはまだ我慢できるとしても、時間が経つにつれ観客が我も我もとタバコを喫い出し、館内に紫煙が立ち込み始めた。
映像は霞み揺らぎ始め映画鑑賞どころではなくなった。煙で息苦しくなるほどで、酸欠状態の一歩手前であった。ついに我慢できなくなり館外に出た。
当時ヘビー・スモーカーの私でさえも、耐えきれずに逃げ出す始末であった。彼とは来日以後最近まで30年以上の付き合いになるが、
中国政府の批判めいたことは一切口にしたことがない。その用心深さに驚くとともに、特に昨今における中国共産党政権による
国内外の自国民に対する監視と締め付けの凄まじさに身につまされるものがある。
休題閑話。現地調査を終え何年経過した時であったか定かでないが、JICAから融資を受けた大豆の開発輸入商社は、その融資の4、5年後には搾油用
大豆の本格的委託栽培事業へとステージ・アップし、「海外経済協力基金(OECF)」からの融資を得て、大規模な開発輸入ビジネスを展開した。
中国から搾油用大豆が大量に輸入され始めたことを大々的に報じる新聞記事を後年に目にして、そのことを知った。あの時の現地調査が
本格的開発輸入に繋がったことを知り、胸に熱く込み上げてくるものがあった。JICAによる当時の現地調査やその後の投融資が
当該商社の開発輸入をしっかり後押しすることに繋がったようで誇りに思えた瞬間であった。
試験事業から本格事業に移行し軌道に乗るとなれば、栽培地の当該国にとってもその経済社会的インパクトは大きいものがある。
日本としては農産品の調達先を多元化でき、栽培地国としては輸出の拡大につながる。発展途上国の経済を活発化させ、
雇用を創出し、ひいては人々の生活向上に一役買うという効果をもたらす。外貨獲得にも繋がる。
そんな経済社会的効果を期待できる事業の最初の起点の一つとなるのが、この農業試験栽培事業であり、それへの低利融資である。
平たく言えば発展途上国の農業振興、雇用創出と外貨獲得に資する。民間企業がリスクを背負いながらも、途上国で農業ビジネス
を展開できるよう後押しするという今まで踏み入れたことのないビジネス世界に足を踏み入れることができた。ビジネス・マインドをもって取り組む投融資
業務の面白さを経験できた。
通常、JICAの技術協力では、ほとんどの場合プロジェクトの中心に「経済採算性」を据えることなくそれを執行する
ことになる。しかし、投融資事業では、技術的開発とその後事業の採算性がプロジェクトや融資を常に視野に入れながら
執行することになる。プロジェクトの成否の判断基準はひとえに採算性そのものにあるといえる。かくして、幾多の新鮮な知見を
学び経験値を高めことができた。もちろん、これまでとは異業種の関係者ら
との新鮮な出会いがあり、人生を大いに豊かにしてくれた。
このページのトップに戻る
/Back to the Pagetop.