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    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第2節 東日本大震災、早期完全離職の決断を後押しする


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    第16章・目次
      第1節: 嘱託として「健康管理センター」に勤務する
      第2節: 東日本大震災、早期完全離職の決断を後押しする
      第3節: 理想と現実のはざまで「選択と集中」に取り組む(その1)/辞典たるゆえん
      第4節: 理想と現実のはざまで「選択と集中」に取り組む(その2)/データベース&フォトギャラリー
      第5節: 理想と現実のはざまで「選択と集中」に取り組む(その3)/新しいビジョン&チャレンジ
      第6節: 辞典づくり、「中締め(2020年)の〝未完の完″」をめざして
      第7節: 海洋辞典の承継編者探しを家族に口頭・書面で依願する

    序章~第14章 | 第15章 第17章 | 第18章~最終章


  2009年11月に健康管理センターに勤めてから1年近くが経った頃、体力も気力も相当回復し、服薬の処方箋もほぼ確定し、二か月に一回の いつもの通院における定期検査の結果もすべて順調に推移していた。故に、体の中で暫く眠っていた「旅好きの虫」がむくむくと這い出して きたようだった。時間の経過と共に治癒力や免疫力が高まり、心身の傷や悩みを解決してくれているようであった。そろそろどこかへ放浪 の旅に出たいと浮足立ち、うずうずするようになっていた。

  自然と湧き上がってきた旅への意欲。抑えきれず、旅に出ようと決心した。体力・気力は復調していたものの、まだ健康面では不安で、 海外へ出掛ける自信までは湧いてこなかった。健康上の不安と休暇日数の関係で、国外はもちろん国内でも遠出はしづらかった。先ずは慎重 を期して、それほど遠方ではない、2泊3日程度の旅を模索した。

  同センターにおける常勤嘱託の身分では有給休暇日数は、年間わずか10日ほどであった。夏期休暇は数日であった。それらの半分以上を 国立国際医療センター病院への定期的な通院や、その他の特別な医学検査のために費やしていた。有給休暇を使っての海外への旅は到底 不可能であった。現役時代は毎年何十日もの有給休暇日数を使い切れずに未消化のまま吐き出していたが、嘱託時は旅行のために使える日数に全く余裕がなかった。故に、 今回は有給休暇2日と週末土曜日の2泊3日とした。日曜日は帰宅後の休養のための予備日にあてがうことにした。

  何処へ旅するか思案した。大病後の初めての旅の喜びは格別であった。回復して旅に出られるのは無上の喜びであり感慨深かった。 海の見える風光明媚な土地に行ってみたいと、地図帳を広げて探った。東北の宮城県・石巻に、本格的に復元された ガレオン船「サン・ファン・バウティスタ号」を展示する博物館があるのを思い出し、そこを目指すことにした。折角なので、遠洋 漁業基地である気仙沼の内湾の海と港の風景も眺めてみたいと思い立った。かくして、最初の旅は、ぶらっと気仙沼、石巻方面に出掛ける ことにした。その他幾つかの博物館などを巡ろうと計画した。リュック一つに最低限の身の回り品を詰め込んで、埼玉県川口から大宮へ、 そこから新幹線に飛び乗った。2010年9月2日のことである。

  仙台を経て一関駅で下車し、JR大船渡線のローカル電車で気仙沼へと向かった。昔、同じように北上山地を越えて三陸海岸へ抜けた ことがあった。1976年(昭和51年)晩夏にJICAへの就職が決まり、その年の11月1日に初出勤するまでの期間を利用して、 自身への就職祝いのつもりで、思い切って盛岡から宮古へと抜けた。そこから三陸海岸沿いに久慈を経て八戸まで旅した。 今回は、一関を起点にして、北上山地を縫うようにして三陸へ抜けた。車窓から、のどかな山里風景を楽しみながら、 のんびりと気仙沼に向かった。久々に澄み切った青空を見上げたかのような高揚感とともに、万感の思いで電車に揺られていた。

  気仙沼でJR気仙沼線に乗り換えて、一駅下った南気仙沼駅に降り立った。そこで、気仙沼漁港の埠頭沿いに建つ卸売魚市場の近くにある、 鮮魚・海産物を専門に扱う店舗が多数集積する海鮮市場の「海の市」を目指した。その建物2階に目途とする「気仙沼シャークミュージアム」が、 その1階には世界でも日本でも大変珍しい「氷の水族館」があった。先ず水族館を訪ねた。受付で入場者用の防寒具を借りて、摂氏マイナス 20度ほどの低温に保たれた展示館に入った。いわば冷凍倉庫が水族館に仕立てられていた。小さめの直方体のアイス・ブロックの中に いろいろな魚貝類が閉じ込められていた。気仙沼港で水揚げされた80魚種450匹ほどの魚貝類を氷柱に閉じ込め、氷点下摂氏20度下で 展示する水族館、それは氷詰めの魚貝類を陳列した冷凍室であった。

  館内を暫く見学し写真を切り撮っていると、カメラのシャッターボタンが寒さで凍ってしまった。 寒さを我慢しながらカメラをいじくって直そうとしていると、底冷えがひどくなり、心臓にかなりの負担が掛かっていることを感じ始めた。 晩夏の時期とは言え、外気はまだ30度ほどあり、室内はマイナス20度で、一気に50度ほどの気温差に身をさらした。血管が ひどく収縮して、心臓に負担が掛かっていることをはっきりと自覚できた。気分も何となくすぐれなくなった。体調の異変に気付き、 用心して一旦外気で体を温めようと外に出た。

  館外で暫し休息したところ、体調の異変も治まった。特別に防寒具をもう一着借りて室内に入り直し、巡覧した。シャッターも直り、 しっかりと写真を撮ることができた。この時、心筋の壊死のため心臓の機能低下というか、かなり弱っていることを改めて自覚し、今後 心臓とうまく付き合っていく必要があることを思い直すきっかけとなった。

  体調もすっかり落ち着いたので、「気仙沼リアスシャークミュージアム」を見学した。サメをメインテーマにした珍しいミュージアムである。 かつて1986年頃に、アルゼンチンの国立漁業学校プロジェクトへ、パタゴニア海域の魚類同定のために短期専門家として、尼岡邦夫教授と仲谷一宏助 教授に御足労いただき、長期専門家とカウンターパートに指導してもらった。ミュージアムは、その仲谷氏による監修の下で 展示がなされたことを大きく紹介していた。こんなところでお名前を拝することになり、嬉しくなった。館内にはサメの系統分類、生態、 生物学的特徴などのパネル説明、サメの剥製や幾つかの種の卵や稚魚の生育水槽などが展示されていた。

  その後、卸売魚市場近くの漁港の埠頭に出て、岸壁沿いに内湾を眺めつつ1㎞ほど散策した。岸壁には数多くの遠洋カツオ一本釣り漁船の他、 水産庁の取締船などが停泊していた。廃船が野ざらしにされているのかと見間違うような船一隻が岸壁に繋がれていた。船全体が錆だらけで、 何年も大洋を漂流していた幽霊船のようにも見えた。船尾の国旗を見るとロシアの漁船のようであった。錆を削り落としペンキ塗装 する余力もないのだろうかと、勝手な想像をしてしまった。

  その後、岸壁から離れ、市街中心部の目抜き通りを通り抜け、再び気仙沼駅へ辿り着いた。その後気仙沼線の夜行列車で石巻へと 南下した。鉄路は途中から石巻線へと切り替わり、石巻駅で下車した。駅前エリアをぶらつき、安宿を見つけて投宿した。翌日、路線 バスで、牡鹿半島の先端にある、かつて捕鯨業が盛んであった港町・鮎川浜を目指した。捕鯨や鯨をメーンテーマにする「おしかホエールランド」がそこにあった。 屋外には一隻のキャッチャーボートが展示されていた。半島の東方地先には彼の有名な金華山が浮かぶ。金華山沖の近海で黒潮と親潮 がぶつかり、世界的な好漁場となっているのはよく知られているとおりである。

  ホエールランドは今は、「ホエールタウンおしか」という名称で、観光物産施設や牡鹿半島ビジターセンターとの統合施設になっている。 訪ねた翌年の2011年3月に東日本大震災で大損壊を被り、その約10年後にようやく一新して再開を果たすことができたという。 さて、ホエールランドを見学した後、再び路線バスで石巻駅に戻った。車窓から美しい入り江と島々が連なる景色を眺めながら、 アップダウンと大曲の続くコーストラインのドライブを楽しんだ。

  翌日、仙台藩主・伊達政宗が建造した「サン・ファン・バウティスタ号」というガレオン船の復元船を展示する「慶長使節船ミュージアム」 (愛称「サン・ファン・バウティスタ館」)を訪ねた。路線バスで、再び鮎川浜行きのバスに乗って、カキの養殖場として名高い 万石浦という奥行きの深い入り江まで辿った。万石浦から太平洋へは狭水道にて通じているが、その狭水道に架かる「万石橋」の袂で下車 した。そこから、「金華山道」と称される狭水道沿いの道を歩いて、ミュージアムを目指した。その道路沿いには、船宿や遊漁船の店、 帆立貝の加工などを営む作業場や、その他造船所などが軒を並べるのどかな漁村風景があった。

  同ミュージアムは、藩主伊達政宗の命で家臣・支倉常長の率いる慶長遣欧使節団が乗り込んだ洋式木造帆船「サン・ファン・ バウティスタ号」(復元船)を中核にして、大航海時代の航海のことや、帆船文化・技術を紹介する見ごたえのある歴史文化施設であった。 バウティスタ号建造から、ローマまで旅し当時のローマ法王に謁見するまでの幾つかの歴史的場面をジオラマをもって 展示していた。また、帆船模型や大航海時代の航海用具(アストロラーベ、クロススタッフ、四分儀など)なども展示。 大型ハイビジョン映像とシュミレーターで当時の航海を模擬体験できた。

  余談であるが、支倉常長・慶長遣欧使節団派遣と「バウティスタ号」の航海について少し触れておきたい。 何故にフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが使節団の正使に仕立てられたのかはさておき、支倉常長を副使にして、イスパニア (スペイン)の国王フェリペ3世のもとに外交使節団が派遣された。使節団は、スペインからさらに旅して、ローマ教皇パウルス 5世のいるバチカンへと赴いた。その主目的は、仙台藩とメキシコとの交易許可を得るべく、スペインとの通商交渉を 行うことにあったと言われる。

  徳川家康の許可を得て政宗が建造した「バウティスタ号」をもって、支倉・ソテロら総勢180 余人は、1613年10月(慶長18年9月)に、牡鹿半島の「月の浦」(現在の宮城県石巻市)を、イスパニアの副王領ヌエバ・エスパーニャ (現在のメキシコ)のアカプルコに向けて出帆した。約3か月後の1614年1月、アカプルコに入港した。その後陸路でメキシコシティを 経由して、カリブ海沿いの港町ベラクルスへ。その6月、イスパニア艦「サン・ホセ号」で、ベラクルス地先に浮かぶ要塞島サン・ファン・ デ・ウルアからイスパニアに向けて船出した。

  使節団は、キューバのハバナを経て、その10月イスパニア南部のサンルーカル・デ・バラメダに上陸した (支倉らは日本人としては 初めて大西洋を横断した)。その後、グアダキヴィル川を遡上し、セビリアに入城した。その後若干名をセビリアに残し、 マドリッドに向かい、その12月にはイスパニアの首都マドリッドに到着した。常長らは、翌年の1615年1月国王フェリペ 3世に謁見した。同年8月、使節団はマドリードを出発し、10月ローマに到着、かくして月の浦出帆後2年の歳月を経てローマの土を踏んだ。 そして、盛大なローマ入市式の挙行に臨んだ。その11月には、支倉・ソテロらはバチカン宮殿にてローマ教皇パウルス5世に謁見した。

  1616年1月使節団はローマを出発し、再びセビリアへ帰着した。翌1617年7月セビリアを出発し、大西洋を横断しヌエバ・エスパーニャ まで戻った。1616年4月、迎えの「バウティスタ号」にてアカプルコを出港し、同年8月イスパニア の植民地フィリピンのマニラに到着した。「バウティスタ号」をマニラで売却した後、常長らは便船で1620年9月日本への帰国を果たした。 約7年におよぶ長い旅を成就したが、イスパニアとの通商交渉ではその使命は果たしえなかった。さて、日本では 1614年に禁教令が日本全国に広げられ、また伴天連追放令が施行された。厳しい弾圧を受ける時代へと大きく変わっていた。 なお、支倉常長は、1622年8月7日(元和8年7月1日)死去した。「バウティスタ号」は太平洋を横断航海を果たした誉れの船となった。

  ところで、JICAとの嘱託契約の更新時期を2011年3月に控えていた。契約を一年間更新すべきか、それとも離職すべきか。 半年ほど先のことではあったが、一人旅ゆえに道中時間的余裕があり、我が身の振り方や、海洋辞典づくりなどについて思い巡らせる 良い機会をもてた。三陸の海を見ながら、延長すべきか否か思案を巡らせていたが、どちらかと言えばベクトルは離職に傾きつつあった。 離職すれば健康管理センターが人生最後の職場になる。最後の職場を海外の国際協力最前線で迎えたかったが、心臓発作という既往歴のため、 その願いは二度とかなえられそうになかった。他方で、海洋辞典づくりにどう向き合い、どんな「結末」に終わら せるのか、思い巡らせていた。ニカラグアから帰国して以来ずっと気にかかっていたことであった。さて、同センターの次長Y氏の 名古屋への異動のことを本人から耳打ちされたのは、その旅から数ヶ月を経た2011年1月期のことであったと思う。 その異動話は、離職へ向けて強く背中を押すことになった。

  嘱託契約の延長期限が約2か月後に迫っていた頃、Y次長の異動が確実になった。そして、早期完全離職の思いは決定的 なものとなった。嘱託契約の延長について思い悩んでいた頃、実は、還暦を迎えるか少し過ぎた先輩や同僚が何人も、ほとんど突然の病で この世を去って行ったことに大きなショックを受けていた。本当に何が起こるか分からないという思いを再び抱くようになっていた。 何人もの仲間らの急逝を背景に、Y次長の異動を「引き金」にして、契約更新せず、自由の身となることの決断を下した。

  そもそも自身の健康に何か深刻なことが再び起こるかもしれないという危機意識もあった。 万一の場合、辞典づくりは中途半端に終わってしまったり、誰にも引き継がれないままとなり、ネット上から突然消滅してしまうことも 、漠然ではあったが懸念していた。そうなる前に、どうしてもやっておくべきミッションがあると考えていた。辞典の完成などはとても ないことであったが、手遅れにならないうちに、少なくとも辞典づくりにそれなりの区切りをつけておくことが大事と慮って、 2011年3末日で完全離職することにした。

  さて、この人生の選択が、私的には正しいものであったことを実感させられる出来事が起こった。離職の3週間ほど前のこと、東北の旅から 半年ほど経った2011年3月11日、日本全体を震撼させる衝撃の大地震と巨大津波、それに続く福島第一原発事故が発生した。「東日本大地震」 である。当日大地震に遭遇した場所は、JICA本部のある麹町の職場ではなく、人間ドックを受けた後の帰宅途上にあった渋谷であった。 離職するに当たって、健保組合の助成制度を活用して人間ドックを受けることにした。ついでに脳ドックを追加で受検した。クリニックは 渋谷の道玄坂を登ったところにあった。

  検診を終えて道玄坂を下る途上で、ある家電店に立ち寄った。店の奥に入って間もなく、何か騒がしいことに気付いた。ふと入り口を 見ると、大勢の人が集まりざわついていた。表の通りで何か事件でも発生し、通行人が見物しているのかと思い、通りに出て見た。 理由がすぐに分かった。店内ではほとんど揺れを感じなかったが、歩道に出ると目の前のビルというビルがバシャバシャという音を 立てて左右に激しく揺れていた。髙いビル同士がぶつかり合って、今にもバラバラと崩れ落ちてくると思ったほどであった。 足がすくみ身動き一つできなかった。 これは尋常でない大地震と察し、すぐに帰宅することにした。震源地などについて当時知る由もなかった。

  建設途上の鉄骨剥きだしの高層ビル最上階に設置された大型クレーンが大きく揺れ、今にも4、50階から落下しそうであった。群集らも 私もみんな、足がすくんで身動きできなかった。相当大きな地震と直感して家路を急ぎ渋谷駅に向かった。だが、案の定地下鉄もJRも 民営交通機関も全面ストップであった。渋谷駅周辺はどこもかしこも通行人らで大膨張した。

  路線バスで何とか新宿、池袋へ辿り着き、そこから川口まで歩こうと思った。バス停に停車した多くのワンマンバスは、乗客が入り口付近 で団子状態になり、押し合いへし合いであった。しかも車内は超すし詰め状態であった。ドアが閉められず、どのバスも発車できない 状態であった。見る見るうちに、JR山手線と平行して走る明治通りは車両で大渋滞となり、全く身動きできなくなり、バスに乗車 すること自体が無意味となっていた。バスを諦めて、徒歩にて川口を目指すことにした。歩道も、歩いて帰宅する人々で溢れ返った。 幸いなことに、その日は人間ドック受診のため、有給休暇を取得し、その上ラフな服装をしていた。何よりもラッキーだったのは運動靴 を履いていたことであった。革靴とは違って長時間歩いて疲れ度合いは全く少なかった。

  覚悟して明治通りを新宿へ、さらに池袋方面へと歩いていたが、池袋手前で公衆電話を見つけ自宅に電話をしたところ、家族全員無事と分かり 安堵した。実はその直前に、通り沿いのショーウインドウの中に置かれた一台のテレビに釘付けとなった。東北地方の被害状況を伝える ヘリからの生中継が目に飛び込んできた。仙台空港の滑走路に巨大津波の海水が押し寄せ、それを呑み込もうとしているところであった。 信じられない光景であった。

  埼京線の十条駅辺りまできて、さすがに疲れ果てて初めてカフェに入り腰を下ろすことができ、 一休みした。帰宅までまだ2時間ほどの距離にあった。東京都(赤羽)と埼玉県(川口)との境をなす荒川に架かる「新荒川大橋」上は、 深夜であっても両方向とも車両で大渋滞にあり、歩いた方が余程速いほどであった。渋谷から8時間ほど かかって深夜遅くようやく自宅に辿り着いた。

  帰宅後テレビ放映に釘付けになった。全てのTVチャンネルが地震と津波関連であった。東北三陸海岸沿いの、ほとんど灯りのない 町々の様子を映し出していた。気仙沼の漁港卸売市場や「氷の水族館」、「シャークミュージアム」などのあった海鮮市場辺りから、 気仙沼駅のある市街中心部にかけての、内湾の沿岸部を大津波が襲ったことを想像しただけでぞっとした。 JR石巻駅辺りから、旧北上川の中州を含む両岸の平野部の住宅密集地や、日和山の裾野から河口臨海部にかけて、 住宅街などが大津波に呑み込まれ、大損壊を受けたらしいことが少しずつ分かってきた。身の毛がよだつ惨憺たる思いであった。 この分だと、「バウティスタ号」やその周りの海岸べりにあった博物館施設も大損壊は免れないと想像したら、心臓の鼓動が高鳴るばかり であった。事実、博物館施設も大損壊を受けたことを後で知った。

  夜が明けた翌日からは、東北三県沿岸部をはじめ東日本太平洋岸のあちらこちらで、大津波の濁流が凄まじい勢いで、数多の住宅、 工場、店舗、学校、役場など、あらゆる形あるものを呑み込む空恐ろしい個人撮影のビデオ映像が次から次へと目に飛び込んできた。 連日連夜、地獄絵を見せられているようであった。その未曽有の被害の甚大さが次々と明らかになって行った。

  恐怖の映像はそれだけではなかった。福島第一原発が巨大津波に襲われ電源を完全に喪失する事態に陥ってしまっていた。 制御不能となった原子炉の建屋が次々と水素爆発を引き起こし崩壊した。全電源がとぎれ完全に制御不能になり、容器内の冷却水を失った場合、 燃料棒を入れた圧力容器内で何が起こるのか。核燃料棒の「暴走」が始まり、溶解を引き起こす、つまりメルトダウンである。 高レベル放射能を発するデブリスが炉外へと溶け落ちる可能性がある。そんな危機的状況にある原子炉めがけて、ヘリから決死の放水作業を 行なうという、まるで日本救出作戦のドラマ映像を見ているようで、日本の終わりかと、心臓が凍りつくような危機感に襲われた。 再起不能と思えるような恐怖心に突き落とされたような衝撃であった。

  完全に電源を失い燃料棒が制御不能となれば何が起こるかは、それなりに学んだ知識を持ち合わせていた。大学生の頃、 原発からの海への温排水排出による放射能漏れのメカニズムに関心を抱き、原子力発電の仕組みなどを学んだことがあった。炉心のメルトダウン に続く放射能汚染という大惨事、さらにその後の気が遠くなるほど長きに渡っての汚染除去のことを思い衝撃を受け、半端でない恐怖を抱いた。 髙レベル放射能汚染は福島県の北西地域だけでなく、風向きによっては首都圏にもその汚染は拡散され、人々は全てを放棄して逃避する というパニックとなるかもしれないという恐怖感が心のどこかにあった。家族は実家のある大阪へついに避難した。自身も、拡散の状況によっては、 首都圏からの脱出も視野に入れたほどであった。過去には米国スリーマイルやソ連チェルノブイリでも原発にからむ深刻な大事故があった。絵空事、他人ごとではないことを この時はっきりと認識した。何故原発が電力大消費地である東京や大阪、その近辺に立地しないのか、福島原発でのメルトダウンがそのリスクを 如実に立証していた。

  東日本大震災がJICAからの早期の完全離職を決意させた訳でも、決定づけた訳でもない。決意は既に2ヶ月ほど前にしていた。離職の 決定を強く後押ししたのは、一つにY次長の異動であり、二に過去一年ほどの間に立て続けに起こった先輩や同僚のショッキングな急逝 であった。かつて身に余る幸運に恵まれ、ニカラグアで冠動脈へのステント留置手術を受けることができた。そして奇跡の生還を果たえた 私にとっては、どうしても幾ばくかの余命とその人生のことを考えてしまう。心臓発作の再発は一週間後、あるいは一か月後に再び 起こるかもしれない。それは誰にも分からない事であるが、明日という日は来ないかも知れない。明日の朝日を拝むことはないかも知れない。 だからこそ、手遅れになって 悔やむに悔やみ切れなくなることがないように、辞典づくりでどうしてもやっておきたいこと、区切りを付けておきたいこと のために、早期離職を決意した。私的には、東日本大震災は、偶然にも、その完全離職の選択の正しさを確信させてくれたと言える。 かくして、2011年3月末日をもって完全に仕事から離れた。人生で初めての経験として、その後は「毎日が日曜日」となった。初めて 「自由の翼」をもって飛び回れる人生を過ごせることとなった。



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