一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
「ニカラグア運河の夢」、サン・ファン川ルートで出会った風景
~ エル・カスティージョの要塞から見下ろすサン・ファン川 ~
[前ページの説明・画像を併せて参照願います]。 中米ニカラグアの大きな淡水湖ニカラグア湖の南東端
からカリブ海へと注ぎ出るサン・ファン川 (Río San Juan) の途中に位置するエル・カスティージョの町。その川岸に立つ、
1675年にスペイン人によって築造された要塞から上流方向を展望したものである。眼下には、ニカラグア湖とサン・ファン川との
接点にあるサン・カルロスとの間を結ぶ一隻のパンガ(水上バス、乗合船)が行く。
ニカラグア湖畔にはコロニアル様式の古都グラナダ(Granada)がある。このグラナダが建設されたのは1524年で、コロンブスが1492年に 第一回航海にて西インド諸島に到達してからわずか30年ほど後のことである。建設したのは、新大陸に植民しその支配途上にあった スペイン人で、当時パナマ市において警備隊長を務めていたフランシスコ・フェルナンデス (あるいはエルナンデスともいわれる) ・デ・コルドバ (Francisco Fernández de Córdoba) である (彼はニカラグアのもう一つの古都レオンをも建設した。彼はそのレオンで1527年に処刑された)。 サン・ファン川をもってカリブ海にまで繋がっている (ニカラグア湖から流れ出る唯一の河川はサン・ファン川である。 その流出始点は湖の南東端にある町サン・カルロスにある)。スペイン植民地時代の後半以降、多くのヨーロッパ人が大西洋 (カリブ海)側からサン・ファン川を遡り、ニカラグア湖をたどってこのグラナダまでやって来た。要するに、ヨーロッパから船で 人・物をグラナダ港まで輸送できた。ニカラグア湖の北西端に建設されたグラナダは、内陸の奥深くにありながら「大西洋岸に 立地する港」と考えられたのである。 マナグア、グラナダ、レオンなどが立地する太平洋側地域には、カリブ海側地域に見られるジャングル地帯というか熱帯性密林地帯もなく、 また高い山脈もなく (カラソ台地や平野部があるのみ)、さほどの自然上の障害はないので、グラナダから太平洋沿岸に出るには 困難はなかったことであろう。だが、太平洋岸での自然の良好な入り江はグラナダから160km以上離れたコリント (Corinto) くらいであった。 1800年代中期の米国カリフォルニアでのゴールド・ラッシュ時代で、パナマ地峡を横断する鉄道も運河もなかった時期には、サン・ファン 川~ニカラグア湖の水上ルートは大変貴重なものであった。 その当時地峡を横断するに最短ルートは、ニカラグア湖を北上しグラナダに至るのではなく、湖を西航してラ・ビルヘン (La Virgen。 サン・カルロスの西北西対岸、あるいはオメテペ島のほぼ西方対岸辺り) に至り、鉄道あるいは馬車で太平洋岸のサン・ファン・デル ・スール(San Juan del Sur)の海岸へ抜けた。そこから蒸気船に乗ってサンフランシスコへ向かうことができた。 米国鉄道王ヴァンダービルトは、この地峡横断通航路の開拓・運営によって1850年代の5年間で10万人の乗客を輸送した。 「トムソーヤの冒険」を著したマーク・トウェインはサンフランシスコから東部海岸へ移動する時このルートを利用した。だが、 1869年にパナマ鉄道の開通に伴い、早くもこの旅客輸送路としての横断通航路は急速に衰退し、ついには閉鎖される運命となった。
[2009.02.20-22 ニカラグア、エル・カスティージョにて][拡大画像: x23980.jpg]
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