一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
「見沼通船堀閘門通過之図」
江戸時代中期に開削された閘門式運河である「見沼通船堀」 (埼玉県さいたま市; 長さ約1km) の閘門 (関・堰) を通過する
様子を描いた油絵。渡辺武夫氏の作である。荷積みした平底舟(ひらた舟と称される)が、船頭の掛け声のもと、
近所の20人位の人々によって土手から綱で引かれて、水流に抗して通過するところである。閘門の板が引き抜かれ(水門が開かれ)、
水が右から左へ(代用水から芝川方面へ)と流れている。
「国指定史跡 見沼通船堀 昭和57年7月3日指定」 と題する案内パネル*には次のように記される。
徳川幕府の命を受けて、見沼の新田開発を行った幕府勘定方井沢弥惣兵衛為永 (いざわやそうべえためなが) によって、享保16年 (1731)、東西の見沼代用水路 (農業用水路) と排水路である芝川の間に開かれたのが見沼通船堀です。 見沼代用水路と芝川の間の、3メートルの水位差を調整するために、東西とも2ヶ所ずつの閘門が設けられていました。 通船堀の開通によって、江戸からの船が見沼代用水路縁辺の村々へ、また見沼代用水路縁辺の村々から江戸へと舟運が発達しました。 この運河は、大正末年に使われなくなりましたが、その遺構は、我が国の土木技術や産業交通の発達を知る上で、極めて貴重なものと いえます。 平成24年3月 さいたま市教育委員会」
「八代将軍吉宗から新田開発の命を受けた井澤弥惣次郎兵衛為永は、享保12年(1727)から翌年にかけて見沼溜井を干拓し、 見沼に代わる用水路として見沼代用水を開削しました。この新田開発を成功させた為永は、次に代用水と排水路(芝川)とを運河で結び、 代用水上流の地域と江戸との間に舟運を行うことを考えました。享保16年(1731)に完成したその運河が、「見沼通船堀」です。 見沼通船堀の特徴は、代用水と芝川との水位差を克服するための関(閘門)の存在です。為永は通船堀の東縁と西縁とに、 それぞれ2ヶ所ずつ関をつくり、それらの開閉により水位を調節しました。このような仕組みの運河を「閘門式運河」といいます。 現在、東縁に2ヶ所、西縁に1ヶ所、木製の関枠を復元してあります。」
・ 鈴木家住宅
・ 水神社 [2012.7.28 見沼通船堀にて][拡大画像: x24631.jpg] * ![]() * 左下隅にJR武蔵野線「東浦和」駅。中央に「芝川」、その上下に「見沼代用水東縁・西縁」が流れる。芝川をはさんで代用水の 両縁を結んでいるのが「見沼通船堀」である。 [拡大画像: x24664.jpg][拡大画像: x24665.jpg][拡大画像: x24666.jpg]
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