一枚の特選フォト⌈海 & 船⌋
木製枠の閘門 (その 1)
江戸時代中期、徳川幕府・勘定吟味役・井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)によって、芝川をはさんで見沼代用水の東縁と
西縁とを結ぶ閘門式運河の「見沼通船堀」が開削された。画像は木製枠でできた(復元)、見沼通船堀・西縁の「一の関(堰)」
風景である。関・堰とは閘門 (lock) のことである。
「歴史の道 見沼通船堀」と題する案内パネルには以下のように記されている。
通船堀を利用して江戸に運ばれたものは、年貢米の他野菜、薪炭、酒、柿渋などの代用水付近の村々の生産物で、江戸からは肥料、 塩、魚類、醤油、荒物などが運ばれました。 船を通すのは、田に水を使わない時期で、初め秋の彼岸から春の彼岸まででしたが、後に冬場の二ヶ月程と短くなりました。 通船は、明治時代にも盛んに行われましたが、陸上交通の発達などによってすたれ、大正時代の終わり頃には利用がなくなり、 昭和6年の通船許可の期限切れとともに幕をおろしました。 見沼通船堀は、江戸時代中期の土木技術や流通経済を知る上で貴重な文化財なため国の史跡に指定されています。また通船差配(船割役・ ふなわりやく)の鈴木家住宅もあわせて指定され、保存されています。」 「見沼通船堀 西縁」と題する案内パネルには以下の通り記されている。
見沼通船堀は、東西二つに分かれており、東縁側が約390メートル、西縁側が約650メートルあります。東西の 各用水と芝川の水位差が3メートルもあったため、閘門を用いることによって水位差を調節し、船を 通しました。通船の時は、堀の土手から船につけた綱を引いて通しました。この時船頭はもちろんのこと、近所の人々の大きな助けが 必要でした。 平成24年3月 さいたま市教育委員会」 [2012.07.28 見沼通船堀にて][拡大画像: x24638.jpg] 1 ![]() ![]() 1. 「歴史の道 見沼通船堀」と題する案内パネル。 [拡大画像: x24639.jpg] 2. 中央縦に芝川が、その左右縦に「見沼代用水東縁・西縁」が流れる。芝川をはさんで代用水東西縁を結ぶ「通船堀」があり、その 通船堀の東縁・西縁それぞれに二つの関がある。 茶色線辺りに「八丁堤」(現在、赤山街道)が築造された。約100年後に通船堀が開削されたのは、堤の下方においてである。 [注] この図では、下方が北側である。井澤為永は八丁堤の堤防を切り開いた後に、その北側に通船堀を開削したものである。 見沼代用水・芝川のいずれも、水は下方から上方へ(すなわち、北側から南側へ)と流れ下っている。 [拡大画像: x24640.jpg]
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