2世紀に成立したチャンパ王国は、2~15世紀まで中部ベトナム一帯を支配した。
8~9世紀頃からイスラム商人たちが東南アジア、中国へ盛んに来航するようになり、ホイアン地域でも東西海上交易が
活発化するようになった。
だが、チャンパ王国は、北の大越国との抗争によって徐々に衰退し、1471年には王国は滅亡したとされる。
その後、16世紀になって、広南阮がホイアンに拠点をつくり、対外貿易に力を入れ、ホイアンは国際交易港としてさらに発展する
ことになった。
因みに、広南阮が広南鎮府となって、ホイアンを拠点に外国貿易に乗り出したのは1570年とされる。
1604年徳川幕府は朱印船制度を確立し、日本から多くの朱印船がホイアンに寄港するようになって、日本人町が栄えた。
かつて朱印船がトゥーボン川 (Thu Bon River) を遡ってホイアンについた。
1617年にはホイアンの日本人町は数百人にも達したといわれる。
現在でもその痕跡が残る。例えば、ホイアンのシンボル的存在である「日本橋(来遠橋)」(屋根の付いた木造の橋で、上流側に
小さな寺が突き出ているユニークな橋である)、日本人の墓、肥前磁器の出土、ダナンとホイアンの間にある南シナ海沿いの五行山に
ある寺に残される碑文などである。
だが、日本人町は、江戸幕府による1635年の鎖国政策の断行によって徐々に衰退して行った。
ただ、鎖国後も中国・オランダ船で日本・ベトナム交流は続いていたので、ベトナムの遺跡から17世紀後半の肥前磁器 (伊万里焼) が
出土したりしている。
画像は、名古屋にある情妙寺 (じょうみょうじ) に伝わる「茶屋新六郎交趾国貿易渡海図」(ちゃやしんろくろう) で、
朱印船がホイアンに渡航した様子が描かれる。茶屋新六郎の一行は長崎を出帆、40日かけてホイアンに辿り着いた。
朱印船が3艘の漕ぎ船に曳かれて、トゥーボン川を遡上しホイアンに向かおうとしている。その川岸には長屋の連なる日本人町が
描かれている (右画像の左上)。
左画像の中央には、1602年に築かれた広南阮の居館である広南鎮営において、茶屋新六郎が税関長に謁見する様子が描かれている。
トゥーボン川の河口の地先にはクー・ラウ・チャム島 (Cu Lao Cham) という小島がある。その昔、川を遡行するに当たっての
風待ちや水の補給の基地となっていたと考えられている。
チャム島からは、9世紀前後のイスラム陶器、イスラムガラス、中国の越州窯青磁、長沙窯陶器などが出土しており、
ホイアンがチャンパ王国時代に東西交易の中継基地となっていたことを示す証左であるとされる。それら遺物を貿易陶磁博物館で
見ることができる。
* 参考資料: カタログ「ホイアンHOIAN」、編集制作・昭和女子大学国際文化研究所、2000年10月
[2013.2.22-23 ホイアン/貿易陶磁博物館にて][拡大画像: x25017.jpg][拡大画像: x25018.jpg]
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1. 朱印船。情妙寺 (名古屋市) 蔵の絵巻「茶屋新六郎交趾国貿易渡海図」からの拡大図。 [拡大画像: x25034.jpg]
2. 日本人町。同上。 [拡大画像: x25035.jpg]
3. 「日本橋」。橋を渡って右側にチャンフー通りを数百メートル行くと貿易陶磁博物館がある。チャンフー通りはホイアン旧市街歴史
地区 (ユネスコ世界文化遺産に登録される) でも最も賑やかな目抜き通りである。橋の手前にある川はトゥーボン川。
[拡大画像: x25036.jpg][拡大画像: x.jpg]
4. トゥーボン川に架かるアンホイ橋から見る景色。左岸にホイアンの歴史地区、右岸はアンホイ島という川中島。 [拡大画像: x25037.jpg]
5. チャンフー通りの古い町屋を利用したカフェ。歴史地区にはこのような伝統的家屋が500軒以上密集している。 [拡大画像: x25038.jpg]
辞典内関連サイト
・ 世界の海洋博物館-国別目次
・ 世界の海洋博物館-ベトナム
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