2011年3月末、天職と自認していたJICAの仕事から完全に身を引いた。そして、「自由への扉」を開いた。いわば「自由の翼」を得た。
余りにも自由の身となったが故に、凧の糸が切れたかのように空中高く舞い上がってしまいそうで、恐ろしく感じるほどであった。
それは少し大げさかもしれないが、仕事や時間にほとんど拘束されないフリー・スタイルの生活に戸惑いを感じたのは確かであった。
さて、「海洋辞典」のコンテンツの「選択と集中」の進め方、何を切り捨て何を充実させていくか、その作戦を練り固めようと
奮闘の日々であった。語彙拾いやテータ・資料集めなどと向き合い続けながら、辞典のアップデートに専念する生活に少しずつリズム
をもてるようになった。そしてやがて、海外の何処かに放浪の旅に出て見たいとの思いがムクムクと湧いてきた。海や船の博物館を訪ね
て何処の国に出掛けるかを模索し、どんな旅プランを作るかをあれこれ思い描くのは実に楽しいことであった。行き先はすぐに見つかった。
完全離職後真っ先に出掛けようとした最初の旅先はオーストラリアであった。ニカラグアでの奇跡の生還をなして以来の初めての
海外への旅であった。それ故に、当時の体力状況や、旅中に万一体調不良に見舞われた場合短時間で帰国しやすいことなどを
考慮せねばならなかった。勿論、一般論としてであるが、万が一の場合の医療体制が整っている国であることが大前提であった。
先ずは近場であること、第二に海に関する歴史文化的施設がいろいろあって、十分に楽しめ、かつ画像撮影の
面で十分な成果を得られそうな国を模索した。かつてオーストラリアのケアンズ経由でパプア・ニューギニアへ出張
したことがあるが、それ以来プライベートにじっくり旅してみたいと強い希望を抱いていたのがオーストラリアであった。弾丸ツアーを
するかのように短期間の旅プランを練った。もちろん、主治医にも許可をもらった上で、旅を敢行した。時期は2011年4月のことで、
南半球では初秋といった頃である。
ネットで格安フライトを模索した結果、回り道となり余計な時間はかかるが、香港で乗り換えてシドニーに向かうことにした。
乗り換えるにしてもキャリアは同じ「カンタス航空」とした。
シドニーに到着後、空港と市街中心部を結ぶリムジンバスでダウンタウンに向かった。予約のホステルはシドニーのシンボル
である「セント・メアリー大聖堂」の東側に位置する「エリザベス・ベイ」近くにあった。「フィンガーウォーフ」という再開発
された瀟洒な大桟橋にもほど近かった。
ホステルに到着後すぐに身の回り品やカメラなどをリュックに詰め込んで、誰もが知る「ダーリング・ハーバー」に面する「オース
トラリア海洋博物館」へと向かった。博物館はダウンタウンのビジネス街からダーリング・ハーバーに架かる「ピルモント橋」を渡り
切った所にあった。その橋上から博物館の本館建物の他に、桟橋に繋がれ一般公開されているいろいろな艦船の溜り場を臨むことができた。
オーストラリアの本格的な海洋総合博物館を訪ねるのは初めてのことなので、近づくにつれ自然と嬉しさが込み上げ、わくわく感で
鳥肌が立った。
子どものようにわくわくしながら博物館へと足を踏み入れ、館内をじっくりと巡覧した。展示内容をざっくりと言えば、
英国から船でオーストラリアへやって来た移民らの歴史を辿るパネル展示や移民船からの下船を模した大型ジオラマの他、灯台の実物の
光源装置、船舶エンジンの内部構造を示す大型立体模型、ジェームズ・クックなどの南太平洋における探検航海の歴史を紹介するパネル
や関連史料の展示などであった。また、学芸員による帆船模型の制作実演が披露されていた。国立の博物館だけあってさすが
見応えがあった。
博物館傍の桟橋には、クックが南太平洋を探検した時の帆船である「エンデヴァ―号」(レプリカ) の他、フリゲート艦や
潜水艦などの豪海軍退役艦船5~6隻が係留され公開されている。入り江(クリーク)をはさんでその対面には「シドニー水族館」がある。
後日ここにも足を伸ばした。博物館へはその後も日を改めて何度か訪ね、展示品を隅から隅まで丹念に観て回った。
ボタニー湾内を定期的に行き来する路線水上バスともいえるフェリーボートが運航されている。水族館前の船着き場から乗船し、
ハーバークルージングを楽しんだ。出航して暫くすると「シドニー大橋」が視界に入る。シドニーのシンボル的ランドマークといえば、
何と言ってもその大橋と、その近くのウォーターフロントに建つ「オペラハウス」である。ほとんどの場合、
大橋とオペラハウスがワンセットにして写る風景が我々のイメージとして焼き付けられ定着している。
フェリーが大橋にぐっと近づきくぐり抜ける時には、眼前に貝殻を模したオペラハウスの優美な姿を目にすることになる。シドニー
はリオ・デ・ジャネイロと並び「世界三大美港」の一つと謳われる。一度はその美しい港景を海上から眺めてみたかった。船乗りに
憧れていた青少年の頃から想い描いてきたハーバー風景である。その美景が眼前にあり、感極まった。
眺望の願望を抱き始めた頃からもう半世紀は過ぎ去ってしまっていた。今回ようやくその願いが叶ったことの喜びをフェリー船上
でずっと噛みしめていた。
さて、フェリーは「シドニー橋」をくぐり抜けた後、ダウンタウンのビジネス街に近接する「フェリー中央発着ターミナル」へと滑り込んだ。
ターミナルには幾つもの桟橋が櫛の歯状に並び、特に平日の朝夕には、ボタニー湾岸沿いの町とダウンタウンとの間をシャトル通勤する乗降
客でごったがえす。
橋のたもとの「ロック」と呼ばれる旧市街区を歩き回った。また、オペラハウス近傍の「ボタニカル・ガーデン」やそのウォ
ーターフロントも散策した。フェリーターミナルに隣接する鉄道高架駅から、角度をいろいろ変えつつシドニー大橋やオペラハウス
の美しい姿を写真に切り撮った。幸いなことにそれらを眺める時はいつも空にはブルースカイが広がっていた。
「ボタニー湾」の湾奥に発展してきたシドニーとは真逆にあるのが「マンリー」という小さな海辺の町である。さて、フェリーで
シドニー湾の湾口近くにある、そのマンリーの町を目指した。目途は「マンリー水族館」であった。有名ではあるが意外とこじんまりとした
水族館であった。
水族館は弓なりに続く白砂青松の海浜のはずれに立地していて、余りの風光明媚さに見惚れて海辺に腰を下ろし暫し憩うことにした
ほどであった。週末には大勢のシドニー市民が家族連れで水族館を目当てに来訪するだけでなく、その自然美の溢れる海浜での
海水浴や甲羅干しを楽しむためにやってくることを知った。さて、シドニー湾の狭い湾口には両サイドから細長い半島が伸び、奥行きの
深いボタニー湾内の海を静穏にしている。英国からの探検船が初めてこの大陸に接近し、奥行きが深く植民拠点とするには格好の
ボタニー湾を発見し、最初の入植地としたのがこのシドニーということらしい。
シドニーのダウンタウンの話に戻るが、市街地中心部に「自然博物館」があることを知り、立ち寄ってみた。南極探検の展示もなされて
いたが、南極点到達の世界一番乗りを目指した日本の白瀬矗(のぶ)中尉が率いた探検隊についても紹介されていた。博物館では白瀬隊長の
探検当時の雄姿をとらえた写真を観覧すると同時に、恥ずかしながら日本人による探検の史実を同館で初めて知ることになった。
白瀬探検当時にあっては、ノルウェー人のアムンゼンや英国人のスコットの探検隊も、世界初の南極点到達を目指して凌ぎを削っていた。
そして、アムンゼン隊が史上初めて到達した。スコット隊も極点に到達したものの遭難し全滅したということは、前章前節で触れた
とおりである。
「海洋博物館」から20分ほど歩を進めたところにある漁港とフィッシャーマンズウォーフを目指した。魚市場では魚屋がひしめき合う
ように軒を並べていた。魚の陳列台にはたっぷりと砕氷を敷き、その上に多種多様な魚貝類が配されていた。同じ市場内には、
シーフード・レストランも数多く軒を連ね、活気が満ち溢れていた。
調理したばかりの新鮮な刺身の大皿とハウスワインを調達し、潮風の当たるテラスで、漁港内に停泊する漁船を眺めながら、午後の散策
に備えて腹ごしらえをした。漁港界隈をのんびりとそぞろ歩きした後、ダウンタウンへ戻った。偶然にも、世界主要都市の持ち回り方式
で定期的に開催されているトライアスロン・レース(シドニー大会)に遭遇し、早速観戦に前のめりとなった。
いつの日にか本格的なトライアスロン・レースを生で観戦してみたいとかねがね念じていたが、偶然にもこのシドニーの地でお目
にかかれた。オペラハウスのすぐ傍にスイムのスタート地点が設定され、臨時に組み立てられた観覧席では大勢のファンがレースを
見守っていた。最終ゴールもオペラハウスの脇に設定されていた。
一度は観覧席に陣取ったが、遠くからの観戦では選手の表情が全く見えない。そこで、スイム(水泳)からバイク(自転車)のロード
レースへと移るトランジット・ゾーンのすぐ傍に陣取り、身をのり出して観戦した。選手たちは猛ダッシュして、素早くシューズを履き
支度を整えてバイクを押してロードコースへとなだれ込んで行った。秒単位で競い合うことになるトランジットエリアでの場景には
迫力があった。その後の戦いはロード沿いへと移った。観覧席エリアからの観戦はせいぜいスイムからバイクへのトランジットまで
であった。
バイクとランのレースでは、街中に設定されるそれらのコース沿いに立たなければ、選手の表情を間近に見ながら観戦することは
できなかった。ダウンタウンの目抜き通りへと移動して、その沿道から、小さな日の丸マークを付して頑張る日本選手に向けて声を張り上げて
応援した。
帰国後それほど間を置かずして、同じ世界トライアスロン・シリーズの大会が横浜で開催され、これまた偶然にも
テレビ観戦する機会があった。シドニー大会でのトランジットゾーンや沿道で声援を送った何人かの日本人選手もその横浜大会に
出場し奮闘していた。それもあって、画面に釘付けになって観入ってしまった。トップ3位を争う常連の実力ある外国人選手がいる
ことも分かって来た。日本人選手がトップ3に入ることの過酷さを思い知るようになった。
さて、別日のこと、シドニーの北180kmほどの距離にあるニューキャッスルへ電車で出掛けた。目指すはそこに所在する
「海洋博物館」である。キューキャッスルは湾岸沿いにいろいろな産業を擁する港湾都市であった。従って、特に貨物船が数多く
出入りするので海上での衝突や火災事故などが過去に多く発生してきたらしい。それ故に、博物館ではそれらに関連した展示がメインであると
見て取った。博物館では産業・貿易関連の展示に加えて、過去における船舶海難救助や火災消火活動、コーストガードの活動に
まつわる各種資料、救難関連資機材などの展示が充実していた。
今回のオーストラリア大陸での初めての列車移動によって、豪東岸沿いの自然風景などを垣間見ることができた。滞在中の移動は
列車によるこれが唯一であった。移動を頻繁に繰り返すハードな旅程を避けることで、体調を崩さないようにすることを第一に心掛けた。
豪南岸域にあるメルボルンやタスマニア島、さらに西岸域のアデレードやパースなどにも訪れたい海洋関連施設もあったが、
またの楽しみに取っておくことにした。
さて、次に東南アジア地域での幾つかの海と船の旅について触れたい。ニカラグアでの大病後における初めての海外への旅であった
オーストラリアへの単独行に健康面での自信を大いに深めた。そして、再び海外へ旅したのは、その2か月後の2011年6月(離職の
3か月後)のことであった。目指したのは、タイ経由でシンガポール、マレーシアのマラッカであった。シンガポール、マレーシア
は全く初めて訪ねる国であった。初めての外国ではまだ見たことのないどんな海風景に出会い、海洋歴史文化施設を巡覧することが
できるか、想像するだけで胸がわくわくする。特に「マラッカ・シンガポール海峡」の渡海と、マラッカでの海洋歴史文化施設の
探訪は真に楽しみであった。
主観的ではあるが、私なりに「海のシルクロード」を幾つかのローカルエリアにざっくりと区分していた。一つは東シナ海に臨む
韓国・中国沿海域、次は南シナ海やシャム湾に臨むベトナムからシンガポールにかけての海域、第三はインドネシア・スマトラ島周辺を含む
マラッカ・シンガポール海峡・ベンガル湾に臨む海域である。今回は、シャム湾からマラッカ・シンガポール海峡辺りの海を目指す
ことにした。特に興味を魅かれていたのは、大航海時代や西欧列強諸国の植民地化の歴史的足跡が遺され、また「海のシルクロード」の
かつての重要拠点であったマラッカであった。(マラッカへの旅: 2011.6.18~21であった)。
旅に先だって、NHKのドキュメンタリー特別番組の「海のシルクロード」のことを思い出した。時間をかなり遡るもので
年次を思い出せないくらい昔の特番である。早速、10シリーズほどの特番全巻を「NHKアーカイブズ」に通い詰めてもう一度鑑賞し直し、
今回の旅のエネルギー源にしようと試みた。私的には、「海のシルクロード」への関心を高め、その魅力を増幅させることになれば、
それだけ旅への意欲や情熱を鼓舞できるに違いないと思ったからである。
実は、誠に都合の良いことに、「NHKアーカイブズ」は拙宅からわずか1kmほどの距離にあった。兎に角下見を兼ねて訪ねてみたところ、
それら特番を全てすぐにでも閲覧できることを知った。かくして「海のシルクロード」に前のめりになって行った。
特番の最初のシリーズ編は、NHK海外取材班が、東地中海で古代ローマ時代の沈船から数多くのアンフォラを引き揚げる現場に立ち会う
ところから始まる。その後、ナイル川と紅海とを結ぶ古代の水路遺構の探索、さらに乳香やコーヒーの産出で古代に繁栄したイエメンのアデンや、
紅海周辺の古代都市への旅へと続く。
ダウ船に実乗船してアラビア海を横断し、西インド・マラバール海岸のゴアにおけるザビエルの足跡の探索や、
その内陸部にある胡椒産地を巡る旅を活写する。さらに、マレー半島クラ地峡を実際にゾウを仕立てて船を引かせて陸路を横断する
という冒険の旅、さらにベトナムの内陸部で発掘された古代ローマとの繋がりを示すローマコインの取材が紹介される。
その後中国南部の南シナ海沿岸を経て、マルコ・ポーロが20年以上の中国滞在を終えて船で帰国の途に就いた福建省・泉州までの
「海のシルクロード」を辿るという、壮大な冒険の旅を激写していくというドキュメンタリー番組である。
一日一巻60分間ずつの閲覧を楽しんだ。2週間ほどかけて全巻を鑑賞し終えた。いずれの巻での冒険の旅も迫力があって毎回画面に釘付
けとなるほどに見応えがあった。大いに刺激を受け、もう「海のシルクロード」の旅に出立せずにはいられなくなってしまった。
さて、まずバンコクへ向かった。シンガポールへの直行もありえたが、バンコクで是非立ち寄りたいところがあった。一つ
は市街地内にある「王室御座船博物館」の巡覧であった。もう一つはチャオプラヤ川とその市街流域の水路網を行き来して水上マーケット
などを川船で巡ることであった。若い頃に私の母親と義母に同行してパックツアーに参加し、スピードボートでチャオプラヤ川を遡り
アユタヤまで船旅をしたことがあった。その時にはそんな船舶博物館、川岸風景、河川舟運などに関心はほとんどなかった。
バンコクをはじめ地方都市にも何度かフィールド調査のために業務出張をしたこともあったが、関心は別の方向に向けられていたようだ。
同じ旅であっても、また同じものを眺めても、関心が異なり見る角度や視点が違えば、目に映る風景は単に早送りされる映像みたいな
ものに過ぎないといえようか。今回の旅では、二泊して博物館と川遊びをじっくり体験することにした。
チャオプラヤ川沿いに小さな船溜まりをみつけ、そこで細長い10人乗りくらいのスピードボートをタイムチャーターしたいと、
船頭と身振り手振りで交渉をした。先ずチャオプラヤ川を遡上し、上流に向かって左岸側にある迷路のような水路に入り、かなりハイ
スピードでぐるぐると水路巡りをした。今度はチャオプラヤ川を横切り右岸の水路に入り疾走した。ボートからの水上風景を楽し
みから縦横に巡った。時にスピードをゆるめ、水路沿いに建つ伝統的家屋や小さな寺院などをはじめとする水郷風景をまじまじと
眺めたりもした。
その後、船頭は「王立御座船博物館」専用の船着き場に接岸してくれた。国王の公式行事などに使われる5~6艘の細長い船が
スリップウェイから陸揚げされ、屋根付きの大型保管場に展示される。王宮の公式儀式用であるいずれの伝統的スタイルのボートにも、
タイ独特の船首飾りが施されている。船首にはヒンドゥー教の神々の化身である動物などの造形が据え付けられている。神の権化を象る
動物の船首像で飾られるユニークな船である。うち一艘は国王が座乗するという、船上中央部辺りに黄金色の煌びやかな小館を備えた
御座船である。
その後再び、チャオプラヤ川を遡上し、右岸側の迷路のように入り組んだ水路に再び入り込んだ。そして、その先にある水上マーケット
を探訪した。その界隈は、バンコクらしい情趣が溢れ、バンコク風物詩の幾つかを味わえるところであった。新鮮な野菜や果物、花、
日用雑貨品などを満載したオープンボートがぎっしりと舷を隣り合わせにしていた。
船上でいろいろなタイ料理をコンロで調理し販売する物売りボートなどが、その水上マーケットのすぐ岸辺に横付けしている。
マーケット内で買い物したり食事を取るお客を相手に、売り子が船上から手を伸ばし商売に精を出している。
そんなボートがマーケット周辺の水上にひしめき合い、数多くの庶民らで賑わう。水上マーケットはタイの原風景の一つであり、また風物詩の
一つでもあろう。時に陸に上がりマーケット上から、あるいは水上ボート上から、彩り豊かな原風景を切り撮った。トロピカル
フルーツを満載したボートはさすがに原色に彩られ美しいものであった。
チャオプラヤ川を遡上しては左岸沿いの史跡に立ち寄り、次に下っては右岸の船着き場にチャーターボートを寄せて上陸し別の史跡を
たむろした。5~6艘ものバージを連結した曳船が上流へ下流へとひっきりなしに通過して行く。貨物を満載しているがゆえにバージの舷縁
ぎりぎりまで沈み込み、水がハッチのすぐ際まで被さってきそうである。
曳船には時に洗濯物が満艦飾のように干されている。中には、曳船の船内後部で女性が食事の支度に忙しく立ち回っている。
船頭一家の普段の生活の匂いを振りまきながら遡航して行く。時に橋のたもとでボートから下船し、橋の中央上部に陣取ってカメラ
を構えた。曳船が何十艘もの連結バージを曳航して橋下をくぐり抜けて行く情景を沢山切り撮った。連結バージはいかにもヘビが這い行く
姿にそっくりである。かくして、連結バージで活気に溢れるチャオプラヤ川の舟運風景をじっくり堪能することができ、これで明日
シンガポールに向かう心の準備ができた。
成田で搭乗したタイ航空と同じキャリアでバンコクからシンガポールへと向かった。目途はシンガポール屈指のリゾートアイランドである
「セントーサ島」の「海事博物館」の見学と、「シンガポール・マラッカ海峡」の横断であった。
セントーサ島に渡る手前の本土側に大型クルーズ客船ターミナルがあるが、その界隈を少したむろして土地勘を養った後、コーズウェイを
歩いて(ロープウェイで渡る手もある)アイランドへと渡った。
アイランドはその島丸ごとリゾート地となっていて、多種多様な娯楽施設が島中に散りばめられている。真っ先に
「海洋博物館」に向かった。だが、残念至極であった。完成間近ではあったが未だ建設途上にある様子であり、オープンしていなかった。
てっきりオープンしているものとばかり思い込んでいた自分に腹立たしかった。すっかり肩透かしを自身に喰らわせてしまった。
そうではあるが、シンガポールにいつしか舞い戻る理由ができたと解し、次回の楽しみとすることにした。せめて水族館だけでも
見学しておこうと、次のターゲットに向かった。
水族館巡覧後、アイランドをほぼ一周してみた。人工の砂浜海岸なのであろうが、白砂青松の美しいビーチを通りかかった。
ビーチの地先沖合には、白砂が波で削り取られないようにするため、離岸堤のような構造物が築かれ、
景色が遮られていた。しかし、その間隙から沖合の海を見通すことができた。少しは、大型貨物船などが停泊するのが垣間見えた。
シンガポール港の外港の一部である。
市民らが浜辺で海と戯れる情景を暫く眺めることで一息入れた。その後、アイランドの中央部にある丘に登り、ほぼ360度見渡した。
アイランド東端沖の埋立地には石油貯蔵・精製コンビナートが配され、その沖合いには数多くの大型船が停泊していた。そこにはまさに
シンガポールの外港の姿があった。そして、その少し先の視界180度にはシンガポール海峡が横たわっていた。その視界のどの辺りに
国際海峡のシーレーン(分離通航帯)が走っているのか判断できなかった。
アイランドの西端から例のコーズウェイを臨むところへ場所を変えてみた。広大なコンテナヤードの埠頭には数え切れないほどの
ガントリークレーンが並び、そのエプロンには数多のコンテナがうず高く積まれていた。香港のコンテナヤードの規模には及ばない
との印象であったが、東京港や神戸港のそれとは比較にならないほどの大規模さに驚嘆であった。
JICA奉職の駆け出しの頃(1970年代後半)に、「シンガポール港湾公社」から10名ほどの技術研修員がJICAの招きで来日し、
東京・横浜などのコンテナターミナルに案内し、その運営管理の実務に関する技術研修をお世話したことがある。それから
30年ほど経た2011年のこと、シンガポール港は日本のどの港よりもコンテナ貨物取扱量が大量であり、むしろ世界有数となっていた。
中国・韓国・シンガポールに押され、日本の港は相対的にローカルなもの、フィーダー港となってしまったようだ。時代の流れ、
産業構造の変化を「セントーサアイランド」から見下ろしてしみじみと感じた。戦略と政策の如何によって、国家の殖産の景色が
これほどまでに異なるものとなるか、感嘆するばかりであった。
その後、市街地に戻り、シンガポール川河口付近の川沿いのプロムナードを散策した。英国東インド会社の社員であった
英国人トーマス・スタンフォード・ラッフルズが1819年に丁度この河口付近への入植に目を付けたという場所である。
お上りさんになって、水を吐く「マーライオン像」まで足を伸ばし、その対面に巨大船体のような構造物を屋上に乗せたような例の
高層ホテル「マリーナ・ベイ」を眺望することにしてしまった。それが災いして、近傍にあった「シンガポール歴史博物館」への訪問
を見逃してしまった。「像」より「館」であるべきであった。今回「海洋博物館」はまだ建設中で訪問できなかったが、
いつか機会を見つけてそれらを訪ねてみたい。
「シンガポール海峡」の横断は後回しにして、翌日電車でマレーシアとの国境に最も近いウッドランズ地区にある国境の駅まで出向いた。
そこからマレーシアのジョホバル行きの国際路線バスに乗り込んだ。両国を隔てる国際狭水道(ジョホール海峡)を渡すコーズウェイをバスで横断し
国境を越えることにした。
パスポートコントロールは馬鹿でかい建物内にあり、バスは数多あるバスレーンの一つに滑り込んだ。
いずれのバスも満員の乗客であった。国境を超えの乗客は2階にあるパスポートコントロールに駆け上り入国手続きを終えた後に、
その先にある階段から1階のバスホームに下り、そこで再びバスに乗り込みジョホバルに向かうはずであった。だが、私はパスポート
コントロール通過後、反対(マレーシア)側から来る大勢の人流の中で方向感覚を失ってしまい、再乗車のためのバスホームへの降り場を見失い、
結局そこを通過してしまった。自身の体内コンパスが狂ってしまい、方向感覚を完全喪失し迷子になってしまった。
兎に角、出入国管理エリアでの人流は半端ではなかった。ラッシュ時のJR新宿西口改札口周辺のような雑踏であった。
迷子になった私は、ついに国境警備官のお世話になって、ようやくジョホバル行きのバスホームに辿り着き、国境越えを果たすことができた。
毎日数多のマレーシア人がシンガポールとの国境を出入りしている。経済力の落差を垣間見た。
さて、ジョホバルから定期長距離高速バスでマラッカへ向かった。パームオイルを搾油するのであろうか、ハイウェイバスは椰子の
樹林がどこまでも続く田園地帯の中をひたすら北上した。
昔から西インドの「マラバール海岸」のゴアなどは胡椒などの香辛料の集積地として大いに繁栄していたが、マラッカも東西世界
を繫ぐ中継貿易基地として同様に栄えていた。マラッカへ最初に来航した西洋人はポルトガル人であった。バスコ・ダ・ガマがはじめてマラバール海岸へ
到達し、ポルトガルからアジアへの航路が拓かれた。その後、ポルトガルがゴア、マラッカなどを占領支配し、後年ついに種子島に
流れ着いたという訳である。
ゴアなどに軍事拠点を設け支配に及んだポルトガルのアルケブルケはさらに東航し植民地支配を押し進めようとた。
その地がマラッカであった。マラッカは1511年以来ポルトガルによって支配され、1641年までの130年間ポルトガル植民地統治下にあった、
だが、その後1641年~1795年の約150年間ランダ人による支配へと取って代わられた。さらに、1795年~1957年の次の約160年間英国が
マラッカを占拠し地植民支配を続けることになった(1941年~1945年においては、日本が占領統治した)。16世紀以来4世紀に及ぶ
ポルトガル、オランダ、英国による植民地支配の足跡として、マラッカ旧市街地に建つ教会跡や要塞跡などの歴史的建築物が遺されている。
何をさておいても先ずは、ナオ船の「ラス・フローレス号」という復元船が鎮座する「マラッカ海洋博物館」を探訪した。
じっくりと船内を上から下まで隅々まで巡覧した。同じ敷地内には、海洋歴史文化的な文物を展示する博物館がある。規模は小さいが、
マレーシアの伝統的な船の模型をはじめ、胡椒、シナモン、丁子などの香辛料の、大航海時代におけるマラッカの交易史が
ジオラマ風に再現され展示される。
バスコ・ダ・ガマがその昔喜望峰を迂回しインド洋を横断し、インドのマラバール海岸のゴアに到達後、ポルトガルのアルケブルケが
ゴアを占領し、さらに現在のマレーシアのマラッカを占領し支配下に置いた。そして、マレーシアは16世紀以来4世紀に及ぶポルトガル、
オランダ、英国による植民地支配の辛酸をなめた。既述の通り、1941年~1945年日本にも占領統治された。
海洋博物館入り口の銘板には「政治的独立なくして国家の存立はなし」という歴史的教訓が刻まれ、訪れる自国民に向けて
訴えている。
海洋博物館を皮切りに、マラッカ旧市街地を足が棒になるまで一日中駆けずり回った。「マラッカ歴史博物館」、「国立民俗博物館」、
「セント・フランシス・ザビエル教会」とその敷地内に建つザビエルとその従者(日本人)の像、「サンチアゴ要塞」とその丘上に
建つ廃墟同然の「セントポール教会」とそこに座す墓石とザビエルの立像、オランダのコロニアル風建物が遺る「オランダ広場」や
「スタダイス」など、往時を偲ばせる史跡を巡覧した。
旧市街地にはその他、大勢の華僑とその子孫らがかつて住んでいた街並みが遺される。今では
旧市街地がユネスコ世界遺産に登録される。そんな旧市街地中心部に「鄭和の文化資料館」が所在することを事前学習していた。
そして、鄭和関連の海洋文化施設なるものを人生で初めて訪れることができた。明の永楽帝の時代に、彼の命により大船団をもって
何度もいわゆる「南海遠征」を行った。遠く紅海のジェッダやアフリカ東岸諸港まで船団を
派遣したとされる。鄭和提督の生い立ち、遠征航海の歴史、諸国の使節団が永楽帝に謁見するジオラマ、7回にわたる鄭和の航海の
足跡などを展示する。遠征途上において所縁を築くことになった各国各地について紹介する。
さて、マラッカから逆ルートでシンガポールへ戻った後には、取って置きの最後の冒険が待っていた。国際高速フェリーで「マラッカ
・シンガポール海峡」を横断し、対岸のインドネシア領「バタム島」との間を往復することである。週末には大勢のシンガポール人
ゴルファーで賑わうという。東海大学海洋学部山田教授によれば、
バタム島やその周辺の島嶼は「海賊島」とも呼ばれ、海賊を生業にする島民が現在も暮らしているという。その真偽の程は別にして、まず
海峡における船舶通航の錯綜ぶりを船上からこの目でじっくりと観てみたかった。
何はともあれ、国際高速フェリーで海峡を横切り対岸のバタム島へ渡った。大型の船舶が数珠つなぎになって双方向に航行する様は
圧巻であった。フェリーの船尾デッキからずっとその行き交う船舶を眺めていた。あたかも護送船団が途切れることなく往復通航する情景
を眺めるがごときであった。かくして、海峡横断は片道わずか1時間ほどであったが、私的にはまさに「海のシルクロード」の重要な
ローカルにしてインターナショナルエリア(国際海峡)を踏査できた旅であった。
シンガポール海峡は、ジブラルタル海峡に劣らず最重要な「国際海峡」(国際の航行に利用される海峡)である。1970年代の第三次国連海洋法会議では、世界に
100ヶ所以上ある「国際海峡」にいかなる通航制度を制定すべきか、米ソをはじめ、欧米や日本などの先進海洋諸国と、中国など
の当時の発展途上国で構成される「グループ77」とが、200海里排他的経済水域、国際海底資源の管理などの他の重要法制と絡み合って
大いに討議が沸騰し、国益と安全保障を懸けた交渉が繰り広げられた。
シンガポール、マレーシア、インドネシアをはじめ、重要な国際海峡を抱えるその他の海峡国は、国際海峡が24海里以下の場合は、
国際海峡が沿岸国の領海下に置かれる限り、「自由な通航」 (軍用機の上空飛行の自由、潜水艦の潜航通航の自由など)ではなく、
従前から領海において認められる「無害通航」とすべきと強く要求した経緯がある。
同会議では他の多くの重要問題とパッケージディール(包括合意方式)であったので、一括した妥協が図られ、現在の「通過通航」
という特別な制度を規定する海洋法条約となった。すなわち、公海の自由通航と領海の無害通航との間の、自由通航に近い「通過
通航」制度が盛り込まれた。国際海峡内の領海でありながら、海運国や特に軍事大国の国益に配慮した「通過通航権」
という特別なレジームで妥協が図られた。海峡国は分離帯を設定するすることができる。日本も国際海運立国の立場から、また米国の核抑止力
に頼る立場からも、また「非核三原則」と抵触しないようにするとの配慮の下、日本独自の特殊な制度を津軽、宗谷、大隅の3国際
海峡に設定し、今に至っている。
海峡を渡海するフェリーからその横断中ずっと海を眺め続けた。初めて横断してみて海峡風景にしみじみと感慨深いものを感じた。
フェリーは分離航路帯(レーン)を横切るに当たって、非常に慎重な航行に徹するように見えた。航路帯に平行して航行し続けながら、
両方向から大型船が行き合わないわずかな間隙を突いて、一気に横切った。その横切りの時に見た風景は忘れられないものとなった。
数えてみると、視界の中には大型船舶7~8隻が縦列一直線をなし、数珠つなぎになって東航あるいは西航していた。その様はまさに
圧巻かつ壮観であった。正に最もビジーな海峡であった。「海峡銀座」と称される海での錯綜振りに感嘆の溜め息をついた。海峡横断
によって、大型船によるそんな一列縦隊の護送船団的航行に一度は巡り合ってみたかったが、それが実現した。
さて、タイ・シンガポール・マレーシア3ヶ国への旅から時を5年ほど経た2013年2月のこと、人生の大先輩の森敬四郎さんと
ベトナムへ旅したことに話題を移したい。森さんとはアルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」に丸2年ご一緒した。二人とも
ベトナムは初めての探訪国であった。旧サイゴンであるホーチンミンの旧市街地にある「インデペンデンス・パレス」や「ベンタイン
市場」近辺をほっつき歩いた。また、その近くにはトンナイ川の支流が流れていて古ぼけた河川港の岸壁を何のあてもなくたむろしたり、
また近くの歴史博物館などを訪ねたりした。歩き疲れて市場近くのカフェでベトナムコーヒーをトライした。火の付き具合が悪く
飲むに飲めない酷いコーヒーに仕上がり、あっけにとられて、さすがに店員にクレームをつけて新しいものに換えてもらった。
その後、ダナンへ向かった。ダナンでも海辺を散歩したが、そこでベトナム独特の円形の舟を見かけた。
底が広くて浅い丸型の大きな魚籠のような様相で、漁労のため一種のたらい舟といえた。櫂で漕いで少し沖に出るようだ。水漏れしない
ように真っ黒いコールタールのようなもので籠の周りが塗り固められていた。
さてその後、海岸線沿いに南下しホイアンを目指した。ホイアンにはその昔、日本人町があった。ユネスコ世界遺産に登録される
旧市街地の一角にある「海のシルクロード博物館」を訪ねるのが一つの目途であった。沖合で沈没した船から引き揚げられた多数の陶磁器が
展示されている。館内の入り口ホールには、ジャンク船の模型の他、海底発掘時の写真なども展示される。
ホイアンから少し内陸部にある「ミーソン遺跡」をも訪ねた。
ホイアンを後にして、フエという古都に移動し、市内の宮殿跡やホーチンミンの生家などを観て回った。フエから首都ハノイに
移動した後は、ベトナムのカオス的な街中の一角に宿を取った。そして、自転車や人で溢れるカオス的なハノイの旧市街を散策した。
旧市街にはベトナム・ハノイの原風景が色濃く遺されており、その異国情緒に大いに魅せられた。
翌日ハロン湾へのバスツアーに参加した。同湾での見どころは、誰もが知るように、中国の桂林を描いた
山水画を思い起こさせるような、いわば「海の桂林」を遊覧船で周遊した。静穏な湾内には数多くの絶壁の岩がそそりたたつ。岩の上部には
緑豊かな樹林の冠を頂いている。湾内には大小無数のそんな岩の島嶼が浮かぶ。この世のものとは思えないような風景である。
まさに龍が口から吐き出した火の玉が冷えて絶壁の島に変成したかのような海風景であった。
さて、時は随分遡るが、35年ほど前のJICA水産室勤務時代を含め、何度かインドネシアへ出張した。週末を利用してジャカルタ
北部の旧市街地コタ地区や、その近辺の港湾地区の一角にある魚市場「パサール・イカン」近くにある「海洋博物館」を探訪した
ことがある。インドネシアはかつてオランダの植民地であったが、その東インド会社の倉庫を活用したものであった。
館内にはインドネシア各地の実物大のカヌーや帆掛け漁撈船などが展示されていた。
その他めったに足を踏むことのないニューギニア島(恐竜のような形の島で、東半分はパプア・ニューギニア領で、西半分がインド
ネシア領)のインドネシア領西イリヤン・ジャヤに出張したことがあった。現地調査を終えた夕方近くに地元の郷土博物館に立ち寄る
ことができた。様々な美術工芸品などの他、地域で使われる伝統的漁具や、実物大・模型サイズの漁撈船などの貴重な陳列品を
拝観することができた。
かくして、東南アジア地域、それも南シナ海やマラッカ・シンガポール海峡、およびそれら周縁の幾つかの港町などに出掛けた折に、
大抵はたまたまの通りすがりに、海や船にまつわる風景に身を置くことができた。また海洋関連歴史文化施設にも立ち寄ることができた。
「海のシルクロード」や海・船にまつわる歴史文化などに関心をもち、それらを学び続けるきっかけをもたらして後押しをしてくれた。
また、海洋辞典をビジュアルにすることに役立つ数多くの画像を切り撮ることもできた。
「海のシルクロード」を構成するその他の地域への旅を続けながら、それら地域独自の海・船の歴史文化を学び、さらにそれらを連環付けて
行きたい。さて、豪・タイ・マレーシアなどの異国を訪ねる旅から一転して、日本国内のウォータフロント散策や海洋歴史文化施設の
探訪などへも「自由の翼」を広げて行く意欲が湧いてきた。
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