全く幸運にも1976年11月にJICAに職を得て、沢山の海外公務出張の機会に恵まれ、人生で初めて見るそれら
異国の海、港、船、河のある風景にたまたまの通りすがりに出会っては感激し、時に感涙した。入団して3,4年を経た
頃には、JICAでの国際協力業務が自身の肌にぴったりとフィットし、まさに「天職」であることを
心に深く刻み込むことになった。そして入団3年目のこと、エジプト、トルコ、フィリピンの3ヶ国へ公務出張した。入団後
初めての海外出張であった。
カイロでは生まれて初めてエジプト文明の母なる大河・ナイル川、そしてアレキサンドリアでは地中海の畔に立つことができ、
意図せず私的な目的を遂げた。トルコのイスタンブールでは国際海峡の「ボスポラス海峡」を臨み、フィリピンでは世界周航者
マゼランがあっけなく命を落とした「マックタン島」とその対岸の「セブ島」との間に架けられた大橋の通りすがりではあったが、
マゼランゆかりの海を垣間見れた。3ヶ国への出張を手始めとして、2000年にパラグアイに赴任するまでの約20年間に50回ほどいろ
いろな異国に出張した。人生で初めてたまたまの通りすがりに出会った異国の海、港、船、河のあるウォーターフロント風景は
私的には素晴らしいものであった。
勿論、未だ見たことのないそんな海、港、船、河などを眺めるために海外出張した訳ではなく、たまたまの通りがかりに身を置いて
臨んだ風景が殆どであった。だがしかし、通りがかりにしろ好奇心の強さが勝ったのであろうか、偶然の機会を最大限利用して異国
のウォーターフロントに佇んだり、潮風を浴びながら、海や港の何がしかの風景をしっかりと瞼に焼き付けた。
殆どのケースでは計画性もなく、いわば自然発生的な海、港、河などとの出会いであった。
ヨルダンでのアカバ湾の海、ホンジュラスでの漁村トルヒージョやドミニカ共和国の首都サントドミンゴで眺めたカリブ海、
パプア・ニューギニアでのポートモレスビーのコバルトブルーの海、インドネシアのジャカルタ旧港で見たピニシ船、アラブ首長国連邦の
ウム・アル・クウェインで目にしたペルシャ湾の海、カンボジアのプノンペンでのメコン川、スリランカのコロ
ンボでのインド洋のウォーターフロントなど、公務途上の通りがかりに垣間見たり、また週末の休息のひと時に出会ったものであったが、
人生で初めて見たウォーターフロント風景を前にしての感激は生涯忘れえないものとなった。
数多くの公務出張中のこととして、海にまつわる博物館やその他の歴史文化施設の訪問を事前に構想し、それを
実現したということは殆どなかった。確かに例外的なケースが幾つかあった。一つは英国ロンドンを経由してチュニジアに出張した折、
グリニッジの「英国海洋博物館」の一部であったティー・クリッパーの「カティ・サーク号」を他団員と訪ねたことがあった。また、
チュニジアからの帰途コペンハーゲンをトランジットした折に、調査団員を強引に誘ってタクシー代割り勘でロスキレにある「バイ
キング博物館」を訪ねたことがあった。
また、南米への出張時ニューヨークでトランジットした折、ハドソン川に面する「南ストリート海洋博物館」やウェストサイド側にある
退役空母「インビンシブル号博物館」を駆け足で巡覧した。それらはニューヨーク立ち寄りの機会を捉えて事前にストーリーを思い
描いて立ち寄ったものであった。これら以外のトランジットにおいて海洋関連施設を探訪した記憶はない。
仮にあったとしても、それらは計画性のない立ち寄りであったに違いない。即ち観覧することを目途に積極的に訪問を企てたものでは
なかったはずである。
さて、私的な楽しみとして国内・国外を問わず、ウォーターフロント散策や、海洋博物館などの海洋歴史文化科学施設の探訪に
目覚め、本格的に取り組み始めるきっかけを得たのは、2000年からの南米パラグアイへの赴任においてであった。赴任して間もなく
偶然見かけた雑誌が大きなきっかけとなった。
同国は「内陸国」と称される「海なし国」であり、海洋関連施設の探訪など全く期待もしていなかったところ、思いもよらず
2つの「船舶博物館」の存在を知ることになった。博物館として保存・展示される艦船や歴史的遺物の規模はごく小さかったが、
実際に首都アスンシオンから郊外の田園の真っ只中にあるそれを訪ねてみてびっくり仰天、深い感銘を受けた。パラグアイとアル
ゼンチン・ブラジルとの19世紀中期の「三国戦争」当時の船舶のフレームだけ遺されたような船体や、取り外されたボイラーなどが
野ざらしにされていた。
もう一つの船舶博物館は当時の職場であった「大統領府企画庁」のビルから歩いて15分もかからないパラグアイ川沿いの入り江にあった。
そこに7、80年前の砲艦「ウマイタ号」が係留され一般公開されていた。さて、両博物館への探訪が大きなきっかけとなり、脳天を突き
刺すというのは大袈裟だが、後にある重要な閃きを得ることになった。両博物館への探訪については第12章の諸節において綴った通りである。
「船舶博物館」では沢山のデジタル画像を切り撮った。パラグアイに赴任した2000年当時はまさにデジタル・カメラが飛躍的に普及する
時期と重なっていた。当時スチールカメラ用の35ミリフィルムは可なり高額であった。かくして、フィルム代や現像コストを全く気
にすることなく、同博物館では思い存分シャッターを押しまくることができた。しかも、撮影しながらもう一つのことを閃いた。
同博物館に展示される歴史的船舶やその関連遺物は大変貴重なものと考え世界に発信するというアイデアを思い付いた。当時
開設してわずか1年ほどしか経っていなかった「ウェブ海洋辞典」にアップして、世界の海洋博物館愛好家へ紹介することにした。
具体的には「一枚の特選フォト・海と船」というコーナーをウェブ辞典内に設け、歴史的史実などに関するキャプション
を添えて当該艦船フォトをアップすることにした。従前のスチールカメラの場合ではそう簡単にアップできなかったに疑いない。
それまではアナログ拡大写真をスキャナーでデジタル化した上で加工しウェブ辞典に貼り付けていたので、可なりの手間暇がかかって
いた。
さて、ウェブ辞典の用語や語彙に関連写真・イラスト画像を貼り付けることによって、辞典を可能な限り「ビジュアル化」する
ことに本格的に取り組むことにつながった。そもそも、一枚の画像は時には何百文字を費やす説明文よりも雄弁で有用的であった。
画像は時に多くのことを閲覧者に語りかけてくれる優れものといえた。文字では表現し伝え尽くせないことを簡単に伝えてくれるものと期待できた。
かくして、海洋博物館などで切り撮った展示物や水族館での魚類の画像などを見出し語に貼り付け、辞典を「図鑑化」・
「ビジュアル化」するというアイデアを思い付き実行することにした。しかもその結果、辞典づくりそのものを想像以上に楽しくさ
せることにつながった。また、画像の撮影と貼り付けは辞典づくりを一段と昇華させ、一層遣り甲斐のあるものに押し上げてくれた。
ビジュアル化の直接的な効能としては、辞典のコンテンツを明るくさせ、また分かりやすくさせ読む人の理解を大いに助ける
ものへと導いてくれることになった。
画像の貼り付けがもたらす貢献はビジュアル化だけではないことが分かってきた。語学辞典・辞書は殆どの場合、見出し語と
その対訳、語釈・語義、文例などから構成され、文字による表現物である。また、辞典・辞書は通例文字による簡潔明瞭性を追い求め、
濃密で無駄のない実用的な著述物である。だが、一般論的には、手に取ってみることの楽しさはさほど感じられるものではない。
内容的に面白味が感じられず「無味乾燥的な」ところがある。だがしかし、写真・イラストなどの画像を貼り付ければ、
少なからず知的好奇心や面白味が喚起され、楽しさも向上させられる。かくして、少しでも無味乾燥性を減じることを目指した。
辞典のコンテンツを「見て読んで楽しいものにする」ことができるものと期待を膨らませた。
閃めいたものはそれだけではなかった。計画的で合目的性をもつ博物館巡りに積極的に向き合うするという、もう一つのアイデア
が閃いた。即ち、パラグアイ赴任の地の利を生かして、近隣諸国のアルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイなどの「海あり国」
を探訪することを思い付いた。その目途は、未だ見ぬウォーターフロントの散策(あるいは過去に見たウォーターフロントの再散策)と、
海洋博物館・漁業博物館・自然史博物館などの歴史文化自然科学関連施設の探訪による、辞典中の語彙や史実などに連関性をもつ
画像を切り撮ることである。これからはそんな明確な目的意識をもって、より計画的に探訪して回ることにした。
近隣諸国への週末利用の弾丸ツアー的な訪問だけでなく、赴任者という身分から属性として派生する長期休暇(1か月ほど)
をフルに利用してプライベートな旅に出かけた。その極めつけは米国東海岸沿いに数千kmを縦断したことである。数多くの海洋関連
博物館や水族館などを探訪し、陳列品などの画像を切り撮ろうとチャレンジした。勿論、各地のウォーターフロントの散策そのものも
大いに楽しんだ。海・船・港風景を何万枚も切り撮った。そして、数多くの海洋博物館や水族館、灯台をはじめ、多くの美しい海岸
自然風景の写真などをウェブ辞典に「一枚の特選フォト」としてアップした。
折りしもデジタルカメラ時代黎明期に巡り合ったお陰で、コストを気にしないでカメラワークに専念できた。スチールカメラでは
コストが掛かり過ぎて撮影を尻込みしたはずであるが、デジタルカメラゆえ何万枚もの海辺風景や
博物館展示物の画像を難なく切り撮りできた。辞典を良くすることにつながると思うと、毎日のカメラワークを楽しむことができた。
こうして、パラグアイの赴任をきっかけに、「撮り鉄」ならぬ「撮り博」に目覚めて計画的で合目的な探訪の旅へと大きく舵を切る
ことになった。かつては全く予想もしなかった世界へと踏み入れることになった。
2003年にパラグアイから本帰国後、翌年にはサウジアラビアへ赴任した。そして2007年にサウジから帰国後は役職定年を迎えた。
JICA退職後さらにニカラグアへと赴任し、合計5年近くJICA国際協力の最前線へと異国の地に身を置いた。中東や中米という別地域での
在外勤務と生活の機会をフルに生かして、サウジアラビアやニカラグアの周辺国諸国だけでなく、未だ見ぬ遠方の諸国へそんな目的
意識を胸に秘めつつ、プライベート生活にあっては海洋関連施設の探訪やウォーターフロント散策のための旅を続けた。勿論、
業務への支障がでないよう最大限の配慮を払った。他方、例の在外勤務に認められた長期有給休暇制度を大いに活用も
した。異国のウォーターフロントや海洋関連施設などをこの目で見て瞼に焼き付け、デジタル画像を切り撮り、ウェブ辞典にアップ
することで、辞典づくりを大いに楽しんだ。
サウジアラビアでは、首都リヤドを拠点に週末に弾丸ツアーの旅に出たり、時に有給休暇を取得してゆったり目の1~2週間
の長期の旅に出た。例えば、日本に一時休暇帰国を取得しないで、家族とスウェーデンと落ち合って北欧諸国を旅したりした。
スウェーデンではウォーターフロント散策と有名な「ヴァーサ号博物館」を訪ねた。ノルウェー・オスロでは「ノルウェー海洋博物館」、
「コンティキ号博物館」、「漁業博物館」、「バイキング博物館」などの探訪をはじめ、ベルゲン近傍の雄大なフィヨルド風景を瞼に
焼き付けた。デンマークではロスキレの「バイキング博物館」を数十年ぶりに再訪した。
さらに憧れであった南欧にも1週間ほど足を踏み入れた。マルセイユからベニスにかけてのコートダジュールやリビエラの海岸散策や、
「モナコ海洋博物館」を含む数多くの海洋関連施設を探訪した。また、別日にエジプトとモロッコへの弾丸ツアーを敢行した。
スエズ運河は軍によって厳重に警備され近づくことや写真撮影は厳しく制限されていた。だが、日本人ガイドのお陰で運河に架かる
「日本エジプト友好橋」を通過する10数秒の間に、たまたま眼下の運河を往く大型船をこの目に焼き付けた。また、偶然にも「大ビター湖」
をコンボイ方式で双方向にすれ違う船団を遠望する幸運にも恵まれた。その後モロッコのタンジェに向かい、国際フェリーで対岸のスペイン
のタリファへと「ジブラルタル海峡」を横断した。感動的な往復横断航海の体験であった。
サウジアラビア国内での公務出張のみならず、周辺諸国への私的な幾つかの旅も楽しんだ。未だ見たことのない、ダウ船で埋め
尽くされたウォーターフロントの散策やアラビアの海洋歴史文化施設巡りにチャレンジした。即ち、週末などにアラビア半島周辺諸国
を時計回りに旅することにした。バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンなどがリヤドから至近距離にあった。
特に数多のダウ船とその造船所を訪ねたり、シンドバッドを連想させるような海と港の美景を探索し、またポルトガルなどが大航海
時代に築造し遺した要塞などの歴史的史跡などを探訪した。
これらの諸国はリヤドからわずか数時間のフライの近さにあり、週末2泊3日でも十分異郷の地に足を踏み入れ散策することが
できた。もう1泊付け足せばかなり遠出できた。
ニカラグア赴任時では、週末と祭日(時に1~2日の有給休暇をプラスして)を組み合わせて、メキシコ、パナマ、コスタリカなど
への弾丸ツアーを試み、未だ見ぬ異国の地を探訪した。メキシコでは首都メキシコ・シティに所在する「海洋博物館」や、メキシコ
湾岸の最大の港町ベラクルスの海洋博物館や歴史的要塞などを訪ねた。
パナマでは「ミラフローレス閘門」にあるビジターセンターから同閘門を通過する大型船舶を心行くまで見学した。また、
遊覧船で「水の階段」である閘門を2ヶ所昇降・通過し、さらに「クレブラカット」という運河建設史上最も難所であった狭水路を経て、
ガトゥン湖とチャグレス川との合流点ガンボアまで航海した。また、スペイン統治時代ロバなどで南米の金銀財宝を輸送した地峡横断ルート
「カミーノ・レアル(王の道)」を思い浮かべながらパナマ地峡を陸路横断し、カリブ海側での財宝積出港であったポルトベロを訪ねた。
その他、長期休暇制度を利用して、米国カリフォルニア州西岸沿いにサンフランシスコからサンディエゴまで、ウォーターフロント
と海洋関連施設を訪ね歩いた。
かくして、サウジアラビアやニカラグアをベースに国外へのプライベートな旅を積極的に敢行し、画像を切り撮り続け「特選フォト」
としてアップし続けた。パラグアイ、サウジ、ニカラグアを起点にしての異国のウォーターフロント散策と海洋関連施設の巡覧の
旅については、既に第20~21章諸節において書き綴ったとおりである。
ところで、ニカラグア赴任中「ニカラグア運河」の有望候補ルート上にある河川やそれらの分水嶺をあちらこちらと随分に踏査して回った。
そして、2009年8月末にオヤテ川の源流を目指し馬で踏査していた時、辺境の山奥で心筋梗塞を患い九死に一生を得るという経験をした。
その出来事がJICAからの早期完全離職に向けて自身の背中を強く押し、辞典づくりに専念する「第二の人生」への扉を導くことになった。
正直再発することへの不安があったし、同じように奇跡的生還を果たしうるかは保証の限りでなかった。またそれを期待すべきではない
と認識していた。余命如何ほどか知る由もないが、退職後はウェブ海洋辞典づくりに専念したいと考えていた。辞典はいつの時点でも
「未完の完」にあるとしても、いずれかの段階で「中締め」を行い一区切りを付けたいという、強い願望を抱き続けていた矢先のことで
あった。かくして、ニカラグアでの出来事とその後の奇跡的生還、そして辞典づくりへの専念願望が早期完全離職を決意させた。
ニカラグア帰国後なおも1年半ほどJICAにお世話になったが、2011年3月末ついに「清水の舞台」から飛び降り完全離職へと踏み
切った。35年にわたるJICA人生をこうして閉じることになった。折りしも「東日本大震災(2011年3月11日)」が発生した同年3月末日
をもっての離職であった。大震災の発生は「明日何が起こるか分からない」ことの証左に思えた。後付けかも知れないが、早期完全離職を
後押しすることにつながった。人生に一区切りをつけ、その先でやりたいこと、やらねばならないことに取り組むことにした。
離職後ついに「自由の翼」を背にして羽ばたくことになった。極論すれば、毎日24時間のうちの大半の時間を海洋研究や辞典づくり
などの好きなことに自由に使い、やりたいことに充てることができるのは人生で初めてのことであった。
離職しての最初の頃は大いに戸惑ったが、徐々に生活のリズムが生まれ、辞典づくりに集中的に時間を割けるようになった。
辞典づくりの「中締め」の一区切りを目指して取り組んだことは、過去に編纂してきた辞典のコンテンツそのものの
総合的な棚卸しや見直しであった。コンテンツの徹底的な「選択と集中」を図り、その整理統合化とスリム化に取り組んだ。
また、過去に何十万枚と撮り溜めてきた画像の加工処理を急ピッチで進め、見出し語などへの貼り付けと辞典のビジュアル化に
本腰を入れようとした。また、それと並行して「一枚の特選フォト」の拡充とも向き合った。
そして、さらに向き合うことが可能となったもう一つのことは、未だ見ぬウォーターフロントの散策や海洋関連施設の探訪による画像の
切り撮りという目的意識をもって、計画的で長めの国内外の異郷の地への旅である。とは言え、循環器系疾患の再発に対する不安が
脳裏から離れなかった。故に当初はかなり慎重にならざるをえなかった。だがしかし、何よりも旅そのものが従前よりまして
楽しみとなり、また辞典づくりも一層楽しいものとなった。かくして「自由な翼」を背に負い希望に満ちた
第二の人生を船出させた。もっとも年金が頼りの倹約を旨とする船出であった。
先ずは、近場のオーストラリアへ1週間ほどの旅に出立した。健康に十分な自信がもてなかったことから、当時もっとも探訪して
みたかった異国であり、かつ近場の国でもあるオーストラリアを迷うことなく選択した。主治医にも許可を得ることができた。
世界三大美港の一つとされるシドニーやニューキャッスルの海辺散策と「オーストラリア海洋博物館」などの海事施設を巡った。
2か月後、タイ・シンガポール・マレーシアなどへ旅した。当時「海のシルクロード」に強い関心を寄せていた。NHK特別ドキュ
メンタリー番組の「海のシルクロード」の十数巻を、自宅からほど近い「NHKアーカイブズセンター」で閲覧したことがきっかけであった。
中国福建省の「海のシルクロード」の玄関口・泉州などは少し後回しにして、まずはシンガポール・マラッカ海峡と、
ポルトガル・英国・オランダの植民地統治の面影を残すマラッカを目指すことにした。
先ず、タイ・バンコクの伝統的儀式用ボートを保管する王立博物館を見学した後、チャオプラヤ川をロング・ボートで辿り
ながら何連も繋がれたバージの舟運風景を目に焼き付け、また彩り豊かな水上マーケットを巡遊した。
シンガポールでは「セントーサ島」の海事博物館を訪ねた。だが、博物館はなおも建設途上にあって、まだ開館していなかった。
シンガポールからマレーシアへは路線バスで国境をまたぎジョホバル側へ入国し、さらに長距離バスに乗り換えマラッカを目指した。
マラッカでは「海洋博物館」と復元ガレオン船を手始めに、ポルトガル・オランダ・英国統治の面影を残す旧市街地を散策したり、
鄭和の「南海遠征」を紹介する歴史博物館などを探訪した。旅の最大のイベントは国際高速フェリーによる
インドネシア・バタン島への渡海、即ちシンガポール海峡の横断であった。数多くの大型船が縦列に船団を組むかのように数珠つなぎと
なって双方向に航行していた。聞きしに勝るその錯綜風景は圧巻であった。見たかった海峡風景がそこにあった。海峡横断風景は瞼に
しっかりと刻み込まれ、忘れがたい貴重なものとなった。
次いで、韓国南部の港町釜山や南西部の木浦の海洋関連施設を訪ねた。この第1回目の旅では蔚山にある「長生浦コレ(鯨)博物館」
を振り出しに、木浦の「国立海洋遺物展示館(国立海洋博物館」を訪れ、新安沖で発掘された沈船の実物交易船を見学した。また、
釜山では魚貝類の剥製標本の豊富さに圧倒された「釜山海洋自然史博物館」の他、「釜山海洋大学付属海事関連展示館」を探訪した。
また麗水市に立ち寄り、李舜臣将軍が文禄・慶長の役時に「閑麗水道」で日本軍勢を迎え撃った際の戦闘用の船で、屋根には鉄の突起
がついている「亀甲船」(復元船)を見学したりした。
二回目の釜山への旅では、開館して間もない「国立海洋博物館」を真っ先に尋ねた。海洋の歴史・文化、航海・船舶、海洋科学など
の海に関するあらゆる分野を扱う総合的海洋博物館である。その他、統営に足を伸ばし、李舜臣ゆかりの史跡(統営三道水軍統制営、
豊臣軍との海戦で名高い「閑山島」や「閑麗水道」など)、亀甲船関連の歴史文化施設などを訪ねた。3回目の韓国入りでは、ソウル
の国立博物館、国立歴史博物館、李舜臣関連の博物館などの他、ソウル南西の郊外に位置する「始華湖潮力発電所」へ真っ先に向かい、海洋エネルギーに関する多くの知見を学んだ。
また、台湾の海洋歴史文化施設を巡覧するため、台北、淡水、基隆、高雄などを旅した。台北ではコンテナ船海運大手の「エヴァー
グリーン」の「長榮海事博物館」を訪ねた。また、基隆のウォーターフロント散策と陽明海運会社の「海洋博物館」と台湾の代表的
総合的海洋博物館である「国立海洋科技博物館」を訪ねた。淡江河口の都市・淡水では「淡江大學海事博物館」を訪ね、台南では
昔オランダ占領軍と戦い駆逐した鄭成功将軍ゆかりの史跡を探訪し、高雄ではフェリーで「旗津半島」にわたり、ウォーターフロント
をじっくり散策、同じく陽明海運会社の「海事博物館」、「旗津貝殻博物館」他、半島北端の灯台など、初めて見る海と港風景を楽しんだ。
「海のシルクロード」の起点ともいえる中国の浙江省・寧波や福建省・泉州を探訪したいとかねがねね願ってきた。泉州には
「海上交通博物館」という宋代の12枚の隔壁をもつ木造帆船が展示される。ところが両市訪問はまだ実現していない。だがしかし、
上海に近年開館した「上海航海博物館」を第一に、第二に「大京杭大運河」のほんの一部でも探訪すべく、生まれて初めて同運河を
この目に焼き付けたいと訪中し、何度かその畔に立った。
同運河の南の起点である杭州の「拱宸橋」と「京杭大運河博物館」を振り出しに、
南京では「宝帯橋」を訪ね、そこから飽きるまで運河を眺めつづけた。運河の十字路にある「宝帯橋」からその昔船曳人足がそこを航行する
帆船をロープで誘導した。また、鄭和の偉業を祀る「鄭和紀念館」などの見学後、揚子江を初めてフェリーで横切り、その雄大な
大河風景に暫し心を打たれた。
その他時改め、中国・香港とマカオへ何度かウォーターフロント散策と海洋博物館巡覧のため何度か探訪した。何故複数回となったか。
1回目は家族と格安の団体ツアーに参加したため海洋関連施設の見学に十分時間が取れず消化不良を起こしてしまったからである。それでも
、赤柱の「海事博物館」、「香港歴史博物館」、マカオの「海洋博物館」を猛烈な駆け足で回った。また、香港湾の九竜半島と香港島
を行き来する、例の船首尾同形のフェリーへの乗船を何度も楽しめはした。とは言え、歴史文化施設での画像の切り撮りは成果に乏しかった。
2回目の旅のチャンスがついに巡って来た。香港の海洋博物館は何と赤柱から半島側ダウンタウンのフェリーターミナルの一桟橋に
移転し、しかも新館がオープンした如く展示内容は刷新されていた。マカオへフェリーで渡海したものの、マカオのフェリーターミナルの
すぐ正面の山上に立つ歴史ある古灯台への探訪に時間を取られ、香港・マカオの両海洋博物館の充実した展示内容を全てじっくりと
巡覧しカメラに収める事ができず、またしても後ろ髪を引かれるような時間切れの見学となってしまった。かくして、また3回目の
チャンスが来るのを待った。そして、両博物館の巡覧のみを目的とした旅を実現し、所期の目的を果たすことができた。
時を経てさらに体力も気力もフルに充実するようになって、遠出の旅にも挑戦するようになった。一つは、欧州、他は南米であった。
スペインのマジョルカ島で長女の結婚式に出席した後、ロンドン経由でポーツマスに向かった。ポーツマスは国立海洋歴史地区があることで
有名で、英国海軍基地と海洋歴史文化施設のコンプレックスが同居する、私的にはこれほど魅了される港町はなかった。
19世紀の戦艦「ワリアー号」、ネルソン提督の旗艦「ビクトリー号」をはじめ、幾つもの海洋博物館やその他の海洋関連施設を丹念に
巡覧して回った。
その後フェリーで「ザ・ソレント海峡」を横切り対岸の「ワイト島」に渡り、ライドという町のウォーターフロントをくまなく
散策した。帰途では生まれて初めてホバークラフトを間近に見て目に焼き付けた。勿論、乗船してポーツマスに帰投した。ササンプトン
では海事博物館の他、かつて大西洋横断定期豪華客船がニューヨークとの間を行き来した当時の古い波止場辺りを散策した。
「タイタニック号」もその波止場から船出した。その後プリモスへ向かった。有名な「国立水族館」や中世の面影をたっぷり遺す旧市街
地の数々の歴史的史跡(例えばシタデル、古い灯台・スミートンズタワー)をはじめ、「ポーの丘」などを心行くまで散策した。
プリモスは、ダーウィンが乗船した「ビーグル号」、ピューリタンの米国への移民船「メイフラワー号」、南極探検船など、歴史に名
を残した数多くの船舶と航海者たちが出港して行った港町として名高い。さらにブリストルではブルネルの「SSグレート・ブリテン号」
博物館を、リバプールでは「マージー海洋博物館」などを、ロンドンに戻っては「国立海洋博物館」をじっくりと朝から閉館まで心往く
まで見学した。国立博物館は1980年代初めにその傍を通って以来35年にして初めて館内を巡覧できた。
その次の遠出は、アルゼンチンであった。ブエノスアイレスからウシュアイアへフライトで一気に南下した。そこで初めて「ビーグル海峡」
をボートで遊覧し、狭い海峡に浮かぶ小島にも上陸しその狭水道ぶりを体感した。帰途は長距離バスでティエラ・デル・
フエゴ島を後にし、数10年間待ち続けていたマゼラン海峡のフェリー横断をようやく実現できた。海峡では強風でフェリー運航が何時間
も休止した。暴風が治まるのを何時間か待ち、その後強風を突いて横切った時の航海は印象深い体験であった。パタゴニア南部のサン・
フリアンではマゼラン船団が越冬したという浜辺を散策した。マゼランは翌年南下を再開し遂に海峡入り口を発見し、海峡を通過しついに
太平洋へと進み出た。
次の遠出はキューバへの旅であった。往きはバンクーバーを経由した。何度かトランジットしても訪問の機会をもてなかった「バン
クーバー海洋博物館」と「バンクーバー水族館」を今回初めて館内に身を置くことができた。その後、ハバナへ向かった。カリブ海
から数キロほど運河を通り抜けた先に大きな入り江があり、そこにハバナ港があった。運河の両岸にスペインが建てた4つの堅牢な
要塞があり、その中に海洋展示室も備えられている。ヘミングウェイがかつてたむろしたハバナ旧市街地を散策したり、カストロ兄弟や
チェ・ゲバラらがメキシコから渡海したボーㇳ「グランマ号」の展示館、ヘミングウェイの旧宅や彼が愛用したボート「ピラール号」
などの歴史文化施設を巡った。また、カマグウェイなどへの団体観光ツアー2泊3日に参加し、キューバの地方都市や田園風景などを
垣間見ることができた。
第4の遠出はポルトガル・リスボン、スペイン・バルセロナ、ローマ、スイス、さらにギリシャ方面への旅であった。リスボン
ではテーベ川畔近くの「ジョロニモス修道院」、その隣の「海洋博物館」をはじめ、ヨーロッパ大陸最西端のロカ岬、ヘンリー航海皇子
が航海学校を設立し多くの航海家をアフリカ南端回航やインディアスへの航路開拓のために送り出したというザグレス岬などを回った。
国際路線バスでスペインとの越え、コロンブスが息子が立ち寄ったという修道院と「サンタ・マリア号」などの3隻の帆船(復元船)の
博物館などを訪ねた。その後セビーリャへ辿り着き、「ヒラルダの塔」内にある海洋博物館を巡覧した。また、「スペイン古文書館」
では歴史を証明する古文書、古地図などを見学した。
その後ミラノからスイス・ツエルトマット、インターラーケンなどのアルプスのトレイルを歩いたりして、海とは全く異なる山岳風景を
堪能した。その後ギリシャ・アテネへ。旅行エージェントに相談して、エーゲ海周遊プランを組み立てた。フェリーを乗り継ぎながらエーゲ海の幾つかの島嶼、特にミコノス島、サントリーニ島のウォーターフロントを重点的に散策した。特にサントリーニ島で観た断崖絶壁
に立つ白亜の家々とエーゲ海風景はたとえようのない最高の美しさであった。両島では幾つかの小さい古船具屋のような海事博物館も
訪ねることができた。
アテネに戻り、先ずは「ヘレニック海洋博物館」を真っ先に訪ねた。ガレー船の模型やサラミスの海戦のパネル展示などを通して
興味ある歴史を学ぶことができた。また、別の港では復元された実物大のガレー船などを見ることができた。その他、「国立歴史博物館」
では数多くのガレー船や海戦のパネル展示を駆け足で垣間見ることになってしまい、ひどい消化不良を起こしてしまった。再び、
アテネに旅する機会があれば、この歴史博物館から見て回りたい。
これらは完全離職した2011年4月からパンデミックが発生した2019年末までの8年間における旅であった。それらの旅行譚は
主に第20章~21章に綴られている。離職以来年金生活者の身となり、日本をベースにした海外「倹約旅行」をモットーにして、
異国での海・船・港関連画像を切り撮り、辞典のビジュアル化に向き合ってきた。パラグアイを起点にすればそれ以来、ウォーター
フロント散策と博物館巡りの旅は、20年以上経ても何も変わらないマニアック的な趣味に彩られてきたと言える。
ところが、2020年代初めになって大きな出来事があった。新型コロナウイルス(COVID-19)の世界的流行「パンデミック」
であった。2020年初めから3年ほど続いた。日本では感染者の急増や病床の逼迫に応じて、国内でも不要不急の外出
や県境をまたいでの移動の自粛など、様々な行動制限が求められてきた。そして、海外への旅は大幅に制約され、やむなく国内の
旅に切り替えてきた。時折コロナの流行が下火になる頃を見計らって、友人と息抜き的に国内の旅に出歩いてきた。
さて、2022年8~9月頃には変異株(オミクロン株など)の第7波が来襲し、ピーク時に達した時には、1日20万人以上感染し、
国内累計感染者は2000万人を越えたといわれる。されど、国内のウォーターフロントや海洋関連施設を訪ね歩くことで、海外
旅行抑制によるストレスから少しは解放されてきた。だが、余命が少ない後期高齢者が3年間も海外への旅が制限されると、
やはり若い人と違って、貴重な時間の喪失はより深刻なものとならざるをえない。
他方で、コロナに罹患もした。2022年8月12日、第7波のピーク時に友人の東さんとほぼ同時にコロナに感染した。急に喉に痛みを感じ、
咳込み、発熱した。高熱は38.9度まで上昇、3日間続いた。その後は平熱に落ち着いた。基礎疾患があり、ワクチン接種ゼロ回であったので、
自宅療養中に重症化に陥ったり、病床逼迫による入院治療不可能な事態に陥ることを内心では恐れていた。8月下旬になって抗原
検査の結果陰性となり、ほぼ全快した気分となった。強運のお陰で感染自体はその程度で落ち着いたが、その後倦怠感が3週間ほど
続き、本調子に戻るまでもどかしい生活が続いた。
そして、2023年になって待ちに待ったパンデミック終息がやってきたが、2024年8月現在なおも海外への旅は一度も実現していない
状況にある。だが、2024年の年央に偶然新聞で中国の三峡への団体ツアーの広告記事が目に留まった。即座に東さんと二人で10月の
ツアーに申し込んだ。わずか1週間の旅だが、終息後ようやく初めて海外への旅が実現しそうである。
さて、JICA完全離職以降における主な海外へのウォーターフロント散策と海洋関連施設探訪の旅についての旅行譚については
本章第2節から次章末節まで綴ることにしたい。中国・三峡の旅については旅後追記することとしたい。
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