確かに、サウジアラビアから2007年に帰国し役職定年を迎えた頃は、その後の身の振り方を考える一つの機会ではあった。当時58歳であったので
未だ若く「自由人」となって辞典づくりに専念するには早かった。迷そこで迷わず、一にも二にも再び在外の国際協力最前線で働く
ことを切望した。サウジに赴任中に人事部から照会があり、再就職斡旋における希望としてそれを申し出ていた。当初は南太平洋
のサモアへの赴任につき内々に打診されたが、やはり中南米地域への赴任をお願いした。
その結果ニカラグアに赴任(2007年)することができた。中米地域への赴任は、第二の人生として真に願ったり叶ったりであった。
ところが、ニカラグアの辺境の山奥で心臓大動脈を閉塞するという事故から奇跡的にも生還できたことが、その後の身の振り方
を真剣に見つめ直すことを決定づけた。特に今後における海洋辞典づくりの継続の仕方と締め括り方に
ついて見つめ直すきっかけになった。とはいえ、帰国後すぐにいとも簡単にそれをなしえた訳ではなかった。ニカラグアから帰国後
再就職斡旋の一環としてJICA本部の「健康管理センター」に再雇用された。先ずは同センターにてしっかりと勤めを果たすことに
努力した。片や、海洋辞典づくりに専心専念するためのJICAからの完全離職のタイミングのことが時々頭の片隅にもたげてきていた。
時間軸を先ずはニカラグアからの帰国直後のことや「健康管理センター」での勤務のことに据えたい。帰国後は、最優先でいずれかの
専門病院で精密な診察を受け、ニカラグアで処方された薬について改めて投薬内容を確定する必要があった。
心臓発作の再発を防止し、今後生きながらえて行く上での重要なプロセスであった。かくして、JICAの「国際協力人材部」
所属の同センターに勤務する産業医との相談結果に従って、新宿区戸山にある「国立国際医療研究センター」に一週間ほど
検査入院することになった。そこで心臓循環器系と内分泌系の専門医の診察・指導の下、心臓病や糖尿病などの病状を診断するための
いろいろな精密検査を受けた。糖尿病の疾病レベルがどの程度なのか、5日間ほど続けて毎日4~5回血糖値測定に臨んだ。また、
生活習慣病を食生活面から改善するため、連日妻と共に、塩分やカロリー制限などに関するいろいろな講義を受講した。生活習慣病の
徹底した改善によって心臓発作の再発防止を徹底するためである。その教育入院の真の狙いどころを初めて知った。そして、再発防止
と健康維持のために生涯にわたる数値コントロールと服薬に付き合っていくことになった。
その後にあっては、定期的に心臓機能や血糖値(HbA1c)などの状態や服薬の効能などをチェックし最適の薬を処方してもらう
ために、同医療研究センターの循環器と内分泌の主治医の元へ2ヶ月に一度通うことになった。さて教育入院から退院しても、
服薬やその日量から無罪放免となることからほど遠く、ずっと定期的に通院し服薬を続ける覚悟が求められた。その時以来現在まで
既に15年以上にもなるが、今もって定期的に通院し、血液検査や心電図検査をもって健康状態を専門医に診る診てもらっている。
生きながらえるにはこの通院・診察と服薬の継続が必要不可欠となっている。時が経れば少しは服薬量が減るものと期待してきたが、
見事に裏切られてきた。だが、一病息災とはよく言ったもので、大きな既往症を抱えるがゆえに、日常の食生活や運動など
に心掛けつつ生き長らえてきたといえる。
さて、退院して間もなく「健康管理センター」に常勤嘱託として勤務を始めた。帰国してから1か月後の2009年11月からであった。
かつてのサウジアラビア事務所勤務時代(2004~2007年)に役職定年の対象年齢となり、その後OBへの再斡旋の一環として再雇用され、
ニカラグア調整員事務所に赴任していた訳である。その後、若い頃の職員課での勤務経験が縁で、
二回目の再雇用斡旋として同センターにお世話になることがニカラグア赴任から内々に決まっていた訳であり、大病した私の健康
管理を鑑みてのセンターでの再雇用という特別配慮を受けたものではなかった。とは言え、偶然にも同センター所属になった結果、何かと産業医の目が届くことになり、また
身近で健康相談を持ち掛け易かったことは幸運であった。
実は、ニカラグアに2007年に赴任して1年半ほど経た頃に、「国際協力人材部」の次長職にあったY氏から、帰国後の就業場所として
内々に同センターに誘ってもらっていた。そして、帰国の暁にはそこにお世話になった次第であるる。当時同センターの実務責任者をしていたのが
同部次長職にあったY氏である。Y氏とはかつて人事部職員課にて数年苦楽を共にした。役職員のための「健康管理室」はかつて
人事部職員課の所轄下にあった。そんなY氏から声を掛けてもらい、いわばかつての古巣へ出戻ることになった。昔とった杵柄ではないが、
かつての経験や知見を少しは生かせられると大いに喜んだ。全く経験のない部署で再雇用される
のは結構辛いものがあると思っていたからである。かくして、同センターがJICA奉職における最後の勤務場所となる見込みであった。
ところで、JICAにはかつて健康管理に関わるセクションが三つも存在していた。一つは役職員の健康管理に携わる「健康管理室」、
二つには途上国にて技術協力に従事する派遣専門家のためのそれ、三つは「青年海外協力隊(JOCV)」のボランティアのためのそれであった。
役職員、専門家、協力隊員の健康管理をそれぞれの健康管理室において別々に取り扱っていたが、それを改め三セクションが
「健康管理センター」に統合されていた。
統合化された同センターでは、毎年数千人に及ぶJICA関係者(役職員の他、専門家やその家族、JOCV隊員ら)の健康
管理に何らかの形で直接・間接的に関わっていた。センターの特徴の一つは、JOCV隊員などの派遣人数の多い在外事務所には、
看護師の資格をもつ「健康監理員」を総計15名ほどを派遣し、常日頃から在外勤務の職員・専門家・隊員らの健康管理に力を注いで
いた。
在外に赴任する健康監理員は、専門家やJOCV隊員などに傷病などの有事が発生した際には、あらゆる手だてを尽くして最善の
治療を受けられるよう現地の病院などと掛け合う。事務所は特定の現地医師と顧問契約を交わし、日頃から当該国の医療・保健衛生や病院・
診療所情報を収集したり、有事には現地顧問医師から必要な助言や支援を得る。
監理員は、日頃から隊員の健康状態を把握したり、定期健康診断を計画し執行する。有事には病院への入院のアレンジ、治療に当たる
医師との面談を通じての治療状況の情報入手、またその情報を本部の同センターに伝達しJICA顧問医らの助言を得る。緊急時
には近隣の医療先進国等への緊急移送のためのさまざまな支援に当たる。
在外日本大使館には医務官が常駐しているが、日頃から情報交換や相談をしながら対処に万全を期す。
専門家、JOCV、職員も、JICA独自の互助組織である「海外共済会」を通じて医療保険に加入し、海外でのあらゆる疾病をカバーできる
体制にある。家族による療養見舞いなどに際して現地に赴く場合の渡航費なども給付される。
ニカラグア事務所にも健康管理センターから常駐の健康監理員が派遣され、所員や隊員らの健康管理や相談業務に携わり、また現地の医療
保健事情に関する情報収集、医療関係者とのネットワーク構築などに当たっていた。私の奇跡的生還があったのも、監理員の
常駐と彼女の任務遂行があったればこそであった。監理員派遣制度をはじめ、健康管理に資するハードおよびソフト・パワーが
いかに充実しているか、ニカラグアでその証左を見た。30数年のJICA勤務の中で、自身の罹病のために監理員に初めてお世話になった。
改めてJICAのもつ医療支援体制の充実さや、そのソフトパワーの威力を改めて認識させられた。現実に、自分自身がそのソフトパワー
に救われる一人となった。
ところで、「健康管理センター」には法定上義務付けられている「産業医」と称される医師が勤務していた。その産業医は職員課勤務
時代からずっと変わらず、女医のDr. H 氏であった。実は、女医のご主人は「国立国際医療研究センター」の病院で心臓循環器科の部長さん
であった。帰国後の通院先について幾つかの選択肢があったが、女医のご主人に主治医をお願いし、命を預けることを決めていた。
検査入院して、心臓エコーやCTなどの検査を手始めに、ずっと後にはトレッドミルにて体に負荷を掛けながら血管に投影剤を注入し、
MRIによる心臓機能や冠動脈などの硬化状態を調べる精密検査を受けた。既述の通り、検査入院中には糖尿病疾患のタイプやレベルを
認定するための精密検査をはじめ、生活習慣病の改善のための指導や教育講座を受講した。かくして、ニカラグアでの処方箋につき改めて確定してもらった。
定期的通院と言っても、病院に毎日出向いて歩行訓練などをしたり、心臓のリハビリテーションを行なうためではなかった。退院後も普通の
生活ができていた。だが、普段の生活や通勤においてしっかりリハビリや体力回復を行なう必要があることをマジに認識させられた。
心筋梗塞の発症やステント留置施術の経験以前における心身の状態と、それ以降におけるそれとの間には余りにも大きな落差が
あった。
大病以前にあっては、パラグアイ(2000~2003年)、サウジアラビア(2003~2007年)、ニカラグア(2007~2009年)の
いずれの勤務地であっても、自分で言うのもおこがましいがエネルギッシュに業務に励んでいた。公私共々精力的に業務に就き動き回って
いたという密やかな自負があった。そんな元気一杯の在外での日常勤務から180度転げ落ちてしまった。
心身共に、体全体に何か重たい負荷がのしかかり、足取りは途端に重たくなり、頭の回転は鈍くなり、何においてもスローペースな判断と動作しかできない
ような状態になっていることを自覚させられた。かつては覇気やエネルギーがみなぎる心身の状態であったはずである。それが施術後は目に見えて減退し、
歩く足取りは極端にゆっくりとなった。恐らく他人が私の歩く後ろ姿を見たならば、80歳以上の後期老齢者がのろのろとした
足取りで歩いているように見えたことであろう。
心臓の筋肉細胞が一度壊疽を引き起こすと、元への回復は望めず、それだけ心臓機能が低下するらしい。自身の心臓がどの程度壊疽の
ダメージを受け、機能低下しているのか気がかりであった。ニカラグアでの施術以降幸いにも胸痛を感じることはなかったが、
動悸がしたり、脈拍が飛んだり早まったり、不整脈が時に起こった。兎に角、心臓発作と施術の前と後では、日常生活を送る上での力強さや
精力は全く違うものになっていた。
体から湧き出るエネルギーが施術前後でこれほど大きく異なるものかを発症を経験して初めて知った。病み上がりの状態がまだまだ続いて
いたと言える。
ところで、2009年11月から始めた「健康管理センター」での仕事をざっくりと言えば、国内・海外で勤務する1,200名ほどの職員に対する
健康管理に携わる、センターに勤務する看護師らへの補佐と助言であった。定期健康診断(定健)の実施を請け負ってくれる
外部の医療機関、医薬や医療関連の消耗品などの納入会社、血液検査を受託する医療機関など、毎年適正な入札などを経て選定
する必要があった。それらとの契約書締結に至るまでの実務的な手続きにも全面的に関わった。
地方勤務の職員が地元の特定医療機関で定期健康診断(定健)を受診できるよう側面支援をした。また、JICA東京本部での定健用レントゲン車が公道・私道で駐車
できるスペースを確保するなど、定健の円滑な実施に向けていろいろなアレンジに務めた。定健結果に基づく産業医による総合所見の作成に関わる補助的業務、
在外勤務職員からの健康上の相談に応じる同センターの職員担当看護師が抱える職務上の悩みや課題などへの日常的な助言も重要な職務で
あった。時に産業医の指示で、在外勤務職員の感染症罹患の実態把握のため、全在外事務所からのデータ収集と取りまとめに注力もした。
勤務後、半年くらいの間は不整脈などに悩まされ、自身でも心配になることもあった。勤務中にどうも心臓の動きがおかしく
感じられ、センター内でタイミングよく看護師に心電図を取ってもらったこともある。その結果を主治医に見せると、早速24時間心電図を
記録できる携帯型ホルダーを装着させられたりもした。
自身の体力回復状態や心臓の「元気度」を推し測れる身近なバロメーターがあった。職場への最寄り駅は東京メトロ南北線の市ヶ谷駅
であったが、同駅で下車して歩き始めるとすぐのところに距離にして100mほどの坂道があった。坂を登り切ると
「日テレ通り」の平坦な道であった。その坂道を毎朝登ると心臓の調子、体力の回復状況を自覚できた。当初は
その坂道は心臓破りのようなきつい坂道であった。毎朝後期老齢者のごとくゆっくりと息をハァーハァーと弾ませ
ながら登っていた。
一気に登り切れず途中息切れのため何度か立ち止まった。一息も二息もついて息を整えることが多かった。杖でもほしくなる気分であった。
こんなにも心臓機能が低下し体力も落ちているのかと、はっきりと自覚でき情けない気持ちであった。だが、それが現実の症状であった。
やはり心筋が一部壊死していて心臓機能はそれなりに低下しているとの感じていた。
普段においても、脈拍が飛んだり早くなったりして乱れることが多かった。時には心房細動のようなことも起こった。
1年ほど何かと心臓の動きが安定せず、いろいろな自覚症状を体験した。服薬としては、降圧剤、抗血小板剤、高コレステロール抑制剤、
血糖値降下剤など幾つかの薬を処方されていた。もっとも、ビールなどの多少の飲酒は禁止されなかった。時に友人らと飲むとつい
つい気が緩み、ハイテンションとなり、中ジョッキで2~3杯のビールとレモンサワー3~4杯も飲んでしまう。そんな日の
夜には大抵頻脈が起こり、横になって寝ていられないほどドキドキ状態になった。
帰国直後の検査入院以来、狭心症などの発作のため息苦しいとか、胸痛に襲われるような兆候はなかった。だが、心臓の動きが不安定で心配
になることもあったので、二か月に一回の通院を苦痛に感じることはなかった。むしろ、通院の必要性を納得した上で、薬の
処方箋をもらわねばとの思いで背中を押されるように通院していた。いつもは心電図と血液検査であったが、時に心臓エコー検査や尿検査も受けた。
兎に角、通院が面倒くさいとか嫌だなどと言っておられなかった。
二度と発作を引き起こさないように、数10項目の血液検査値を基準内に抑えるために意識的に努力することは、奇跡的生還に恵まれた
ことに対する当然の「義務」であった。
通院が2年目になった頃でも、歩く足取りはなおもゆっくりしたものであったが、例の坂道を息切れのために途中で立ち止まる
ようなことはなくなり、一気に登り切ることができるようになった。日頃から極力歩くことを心掛け体力増進に努めていた。
通勤電車内で揉まれることも結構体力向上に役立っていたようだ。一か月単位くらいで振り返ってみてのことであるが、同じ坂道を毎朝登ることで
体力がどの程度増進しているかを実感できるようになった。
しかし、坂の上にある交差点の信号が点滅して横断歩道を急に、それも本気で小走りで駆け込んだりすると、可なりの息切れが起こる
のは変わりなかった。
徒歩も意識的に少し早足にして負荷をかけるように努め、体力向上を目指した。
毎日の電車通勤そのものや、その途上における往復3㎞ほどの歩行も、また階段の昇り降りもリハビリになると思い努めてそうした。
路線バスにはできるだけ頼らないようにした。かくして、服薬追加の効能もあってのことであろうが、不整脈もほとんど起こること
がなくなり、例の坂道もほぼ普通のペースで一気に登ることができるようになった。とは言え、まだ登り切ったところで、一息二息入れることが多かった。JICAから完全離職したのが2011年3月末であったが、その頃には、その坂道を
普通の足取りで登り切っても、肩で大きく息をつくこともなくなっていた。心臓の調子も良くなり、体力も向上してきたと自覚すること
ができ内心すこぶる嬉しかった。
センター勤務2年目となって業務をはじめ体力向上も順調であった。職務上の責任やストレスで心臓に大きな負担が掛かるような
日常の勤務ではなかったし、それに何よりも体力・気力とも随分回復してきたと自身でもはっきりと自覚できた。そんな頃、自然と
何処かへ旅に出て見たいという思いが芽生え始めた。旅に出る意欲が出てきた
ことが嬉しかった。だが、海外への旅はさすが当時の回復状態では未だ心細かった。国内であれば、万が一体調が悪くなって救急
対応が必要な場合でもなんとかなりそうと考えた。とは言え、行先としては近場を考えた。当時最も訪ねてみたい近場の旅先としては
東北地方であった。気仙沼や石巻辺りの三陸海岸南域の海と港の散策、さらに幾つかの海にまつわる博物館をはじめ歴史文化施設
を巡ってみようと計画し始めた。久々の旅のプラニングであり、テンションは一気に盛り上がり、何かリビングルームに陽光が差し込む
ようであった。
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