自ら発意した訳ではないが、地中海西部のスペイン沖に浮かぶマヨルカ島(スペイン領)へ旅することになった。
2012年5月16日に日本を出立し、帰国したのは6月9日のことである。実は、長女が結婚し新しい人生を歩むことになり、二人の自作自演で
マヨルカ島でささやかな式を挙げるためであった。長女は画家・イラストレーターであり、感受性が普通とは一味違うところがあった。
「芸術家」というのは時と場合によっては独特のこだわりがあるらしかった。
結婚式も自身で描いている通りにとことん納得するやり方を追求し、式を自らプロデュースすることで憧れと夢を具現化したかった
のであろう。親が考えるような世間一般的なスタイルでの挙式や披露宴を執り行なうことなど念頭
にはなかったようである。かくして、地中海の紺碧の海と澄んだ青空を背景にして、
ほとんど身内だけでのささやかな結婚式を挙げるべく、家族4人で出かけた。新郎の両親らとはバルセロナのホテルで合流する
手はずであった。
マヨルカ島での挙式場所となった山小屋風のこじんまりとしたホテルは常緑樹林が生い茂る山々に囲まれていた。ホテル西方の遥か
遠くには地中海を臨み、その反対側では緑溢れる連山を臨み、その山あいには「ソレル(Sóller)」という小さな町が見え隠れしていた。
町のカテドラルからは今にも鐘のかすかな音が風に運ばれ聞こえてきそうであった。
ソレルの町から北へ山あいの谷筋を辿って行くと、「ポルト・デ・ソレル」というすこぶる風光明媚な港があった。そして、
5月の春季であったので至る所で原色で彩られる花が咲き乱れていた。
さて、地中海の透き通るようなブルースカイの下、花に包まれたホテルの小さなガーデンで、
純白のウェディングドレスに身を包んだ新婦とタキシード姿の新郎とが、家族や友人が見守る中で結婚指輪を取り交わした。
マヨルカ島での実にささやかな式であった。それことが、新郎新婦が人生の門出としたかった憧れの儀式であったに違いない。
挙式で新郎新婦の姿を追いかけカメラワークに奔走したのは次女であった。花婿の両親や兄夫婦と叔母、我々夫婦、長女の友人などごく
少人数であったが、最高の思い出となった。
翌日のこと、全員で眼下に見えるソレルの町へ出掛けた。そして、市内のとあるレストラン併設のこじんまりとしたガーデンで、
マヨルカ・ワインを傾けながらランチをとった。その後、地中海風とスペイン風を併せ持つ古い街並みが続く市街中心部で思い
思いにウインドショッピングしたり、街中風景を求めて散策して回った。
トラムのようなローカル電車に揺られ、山あいの谷筋を下り、港のある「ポルト・デ・ソレル」へと足を
伸ばした。ポテンシャルツロの町と港は、大きくゆったりと粗半円状に湾曲しているポケット型サンド・ビーチの東端に面していた。
湾口は狭く、その両側から小さな岬が突き出している。その両岸の崖上には白亜の灯台が建っていた。
街の背後には岩だらけの丘がそびえる。そこから湾全体を見下ろすと、「これがマヨルカ島だ!」と叫びたくなるような、そして
また絵葉書にしたくなるような風光明媚な風景が広がっていた。湾の内海をはじめ、ポルトの街や港・マリーナをワンセットにした
絶景を眺めれば、息つくのも忘れるほどであった。まさにマヨルカ島を代表するリゾート地の一つであった。マリーナをぶらぶらと散策し、
海岸通りに軒を連ねる土産物店などでショッピングしたり、サンドビーチの水際沿いを散歩したりして、贅沢なひと時を過ごした。
港やマリーナとは反対側に位置する湾口西側の高台崖上には灯台が立ち、それをめがけて足を伸ばした。そこから湾外に広がる地中海の
ブルーオーシャンを見下ろした。湾内に目をやれば、美しく弧を描く白砂のポケット・ビーチが、その背後には緑濃い連山の
パノラミックビューがあった。
翌日フルに、全員が思い思いに時間を過ごすことになり、一人ぶらっとポルトのマリーナへと再び出掛けた。乗り合わせたタクシーの
運転手と会話するうちに、港近くに海洋博物館があることを聞き出した。これ幸いとそこに案内してもらった。何と昨日たむろした
街の背後の丘に在る断崖傍に建っていた。そこからは湾内の港やマリーナを見下ろす絶景と、その反対側に広がる地中海を同時に眺望
することができた。ところで、博物館はあいにく日曜日のためなのか、開館していなかった。今度いつこの地に戻ってこれるか。
恐らく戻って来ることは粗ないものと諦めた途端心残りが深まった。
明日はマヨルカ島を離れバルセロナに向かい、その足でイギリスへ向かう予定であった。新婚の二人はギリシャへ、家内はそのまま
帰国し、次女はドイツかフランスへ、新郎のご両親などはパリへ、そして私はロンドンへと、
全くばらばらの方向へ旅立った。
ロンドンでは、市内でもインド人などのアジア系住民が多く暮らすと見受けられる地区の一角にあるホステルに投宿した。部屋は予感していた
通り、狭く急な階段を3階まで上り、さらにその上にあるロフト(屋根裏部屋)であった。天井はまさに斜めに張った梁で支えられていた。
小さなガラス窓を開けると、幾つもの同じようなロフト窓が折り重なっていた。雨露をしのげる屋根とベッドがあれば、私的には上出来
であった。
ロンドン市街でどうしても見物しておきたかったのが、英国人海賊フランシス・ドレークが世界周航を成し遂げた「ゴールデン・
ハインド号」(復元船)であった。勿論、英国を離れる前に必ず訪ねたい他の第一の施設は、テムズ川沿い
のグリニッジにある「カティー・サーク号」と「英国海洋博物館」であった。
ロンドンに到着したその日は、まだ日が暮れるまで少し時間があったので、早速「ハインド号」を目指して散策に出た。マゼランに
次いで世界周航の大航海を成し遂げたドレークの旗艦「ハインド号」 (元々は「ペリカン号」という名称) がテムズ川
沿いのドックに係留されているという。
地下鉄でテムズ川に架かる「ロンドン橋」(そのすぐ下流には有名な「タワー・ブリッジ」がある)方面を目指した。
「ロンドン・ブリッジ」駅で下車し、後は徒歩で「ロンドン橋」のたもとをくぐり、
川沿いに200メートルほど歩を進めた。「ハインド号」の姿が突然ビルの陰から現われた時には全身鳥肌が立った。そして二つの
ことに驚いた。一つは、ビルとビルとの谷間にあるごく狭小で、テムズ川本流に直に接するウェット・ドックに浮かんでいたことである。
そして、もう一つは、船の余りの小ささであった。
140トンにも満たない。コロンブスの旗艦「サンタ・マリア号」もそうであるが、こんな小さな船でよくぞ世界周航を成し遂げた
ものだと感嘆するばかりであった。ビルとビルの谷間のわずかなスペースを掘り込んで
築かれた泊地なので、係留場所を事前にしっかりと地図上で確認してからでないと、同船に辿り着くのは難しいかも知れないという印象
をもった。スマホ片手にグーグルマップで検索しながら辿れる時代ではなかった。ともあれ、日没までは小一時間ほどあったので、
船舶博物館となっている同号の船内を隅々まで心行くまで丹念に見て回った。一度は見てみたかった特別な船であった。
ドレークは世界史的にみても有名な海賊の顔をもつ。カリブ海のあちこちで大暴れし、金銀財宝を略奪し、英国王室の財政を潤す
のに顕著な貢献を果たしたのは有名な話である。詳細は前章前節の「「ベラクルスでの恨み」を忘れなかった海賊ドレークについて」を
ご参照いただきたい。彼は数々の金銀財宝の強奪、母国を大いに利した数々の軍事的戦功のお陰で、エリザベス女王からナイトの
称号まで得た。
大西洋ばかりでなく、例えば太平洋ペルー沖でもスペイン船「カカフエゴ号」を襲撃し、金銀財宝をごっそり略奪したことは既に触れた。
その略奪航海後、太平洋を横断し世界周航を果たすことになった。英国を出帆する時からその計画を持ち合わせていたかどうかは
疑わしいらしい。スペイン海軍の艦船に数々の痛撃を与えもした。それらの事績は大きい。彼の最盛期に達成したこととしては、人類史上
2番目となる世界周航と、1588年にスペイン無敵艦隊を打ち負かし大打撃を与えたことであろう。
余談だが、テムズ川に浮かぶもう一つの艦船である、第二次大戦の巡洋艦「ベルファスト号」(ロンドン橋の少し下流に係留公開
される) の艦内を見学する時間を逸してしまった。またの機会とすることにした。
さて翌日、列車でドーバー海峡に面する英国有数の港湾・軍港都市ポーツマスに向かった。ヨーロッパで最も古く大きな海軍
基地がある町として知られる。また、英国海軍ホレーショ・ネルソン提督の旗艦であった「ビクトリー号(H.M.S. Victory)」
が係留公開されている。「海洋博物館」なども所在する、「ポーツマス・ヒストリック・ドックヤード」と称される一大海洋
歴史文化特別地区もポーツマスの重要な一角を占める。
ポーツマスの駅を降り立つと、目と鼻の先に在る桟橋に係留公開される3本マストの機帆船が出迎えてくれた。1860年の建造当時
としては最速最強の軍艦「ウォーリア号 (H.M.S Warrior 1860)」であった。英国はかつてフランスとの建艦競争に対抗する一環
として同艦を建造した。22年間の任務に就いた後は、倉庫や作業場などとしての活用といった不名誉な役目を担っていた。だが、1979年
にそんな状況から脱して、ハートルプール(Hartlepool)に曳航され、そこで多額のコストをかけて原初の状態に 復旧されたという。
海軍工廠歴史地区「ポーツマス・ヒストリック・ドックヤード」の敷地内には、「英国王立海軍博物館 (National Museum of the
Royal Navy)」をはじめ、ネルソン提督の旗艦で一級戦列艦の「ビクトリー号」(訪問時には補修中であった)、「ローズ
マリー号博物館 (Mary Rose Museum)」などの海洋歴史文化ファンには垂涎の的である諸施設が広い工廠敷地内に分散所在する。いわば
海洋歴史文化施設のコンプレックスを形成している。
「ヴィクトリー号」の艦内をくまなく巡覧して回った。海洋博物館では、船模型、フィギュアヘッドなどをはじめ、航海の歴史、
英国海軍の歴史、奴隷貿易などを学べる資料が数多展示される。なお、「マリー・ローズ号博物館」は建ち上がったばかりで、近々
の一般公開に向けて準備中であった。その日はポーツマスに着いたばかりで、地区内をざっと巡覧しただけであったが、翌日には
丸一日じっくりとヤード内の諸施設を見学することにした。
ところで、ポーツマスは「ポーツマス・ハーバー」という奥行きの深い湾に面し、その中心街は湾の入り口付近に立地する。
現在のポーツマスのシンボルであり最大のランドマークは、帆船マストとセールをモチーフにした「スピネーカー・タワー (Spinnaker
Tower)」であろう。
同タワーから半径1kmほどの範囲にある市街地には、その「ポーツマス・ヒストリック・ドックヤード」をはじめ、
鉄道終着駅の「ポーツマス・ハーバー・ステーション (Portsmouth Harbour Station)」、ウォーターフロント沿いにあって近代的ショッ
ピング・モールのある「ガンウォーフ・キーズ (Gunwharf Quays)」、「ソレント海峡」をはさんでポーツマスとその地先に浮かぶ
「ワイト島 (the Isle of Wright)」との間を行き来するシャトル・カーフェリーの発着ターミナル (Car Ferry Terminal)などがある。
市街地から少し離れたところに位置するのが「オールド・ポーツマス地区 (Old Portsmouth)」であり、ポーツマスの古い街並みが
残っている他、「ソレント海峡」を見下ろすネルソン提督の銅像が立っている。
一日中飽きずにそれら界隈を見て回った。また、「ガンウォーフ・キーズ」のすぐ対面にはゴスポート (Gosport) という
町があり、入り江を渡す小さなフェリーで「王立海軍潜水艦博物館・HMSアライアンス号」(Royal Navy Submarine Museum and H.M.S.
Alliance)などへも出かけた。
ポーツマスの沖合には彼の有名な「ワイト島」が浮かぶ。翌々日のことになるが、「ザ・ソレント」と称される海峡をカーフェリー
で横断し、同島の海峡町「フィッシュボーン」に渡ったが、そこはフェリーの発着場くらいしかない辺ぴなところであった。
親切な地元の方にヒッチハイクのお世話になった後、路線バスを何とか捉まえて「ライド」という島内でも大きな港町へと辿り着いた。
ライド市街中心部の目抜き通りには週末を楽しむ大勢の日帰り旅行者で埋め尽くされ、街はなおもサマー・バケーションのような
賑やかさに溢れていた。今回の旅ではじめて全ての肩の荷を降ろし、街中あちこちそぞろ歩きを
楽しんだ。対岸にはポーツマスの町が海峡をはさんでより身近に横たわっていた。ポーツマスと島の間をフェリーがシャトルするだけでなく、
ホバークラフトも行き来している。その発着場で生まれて初めて、ホバークラフトの実物を至近距離からまじまじと観察した。
暫くの間子どものようにホバークラフトの発着する様子を飽きもせず眺めていた。
観入るだけではなく、ポーツマスへの帰途に一度は乗船体験してみることにした。一生に一度のワクワク体験となった。
ホバークラフトの下方周囲には超巨大なゴム製浮袋を目一杯に膨らませているような格好である。特に発着
時に聞こえてくる空気の吐き出し音と、船尾の巨大な推進用ファン(巨大な扇風機のようなもの)の回転音には、凄まじい爆音性が
あった。出発時にはそのファン二基がフル回転し轟音を立てる。他方、ゴムの浮袋は極限まで膨張し、機体の下からは空気流が地面に
向け猛烈に叩きつけられながら吐き出される。
飛行機に乗り込むため用意される移動式で小型のタラップを昇り、ホバークラフトに乗り込んだ。生まれて初めての体験であった。
「ザ・ソレント海峡」をわずか数十分で横切りポーツマスへと戻った。ホバークラフトの船内では、推進ファンや浮上させるための
空気流の轟音のために乗客のホバークラフト内での会話は全くかき消されてしまう。吐き出される空気流によってっ橈水族館の飛沫が
巻き上げられるので、窓から眺める海峡景色は今一つ鮮明さに欠けてしまう。
翌日、ポーツマスからサウサンプトンへ電車で向かった。サウサンプトンはロンドンから100kmほど離れているが、
ロンドンのいわば外港といえよう。昔英国と米国ニューヨーク間を飛行機ではなく大型定期豪華客船が大西洋横断航路に就航していた
時期があった。1950年代くらいまではその最盛期であった。そして、その定期客船時代には、英国から米国に向かうライナーは
このサウサンプトンを発着場にしていた。ロンドンから大西洋を横断し新天地に渡海するうえで、サウサンプトンはロンドンに最も近い
出港地(いわば外港)であったようだ。
1912年4月氷山に衝突し沈没した例のオーシャンライナー「タイタニック号」もここから出港した。
市街中心部には「海洋博物館」もありじっくり内部見学した。また、数多のライナーがかつて頻繁に発着したという歴史的に
由緒ある埠頭をはじめ、その周辺のウォータフロントを心行くまで散策した。そして、フェリーにて入り江を南行し「ザ・ソレント海峡」
を横切り再び「ワイト島」へと渡った。余程海峡と島の思い出作りをしたかったのかも知れない。
船上からサウサンプトン港や入り江などの大よその地形や様態を理解することができた。フェリーは思いのほか大型であった。
何か大型定期客船で大西洋を横断してニューヨークへ向かうかのような気分であった。他の大勢の船客とともにフェリー最上甲板で
心地よい潮風に吹かれながら海峡横断の船旅を楽しんだ。このフェリーでも「ワイト島」に向かう乗船客の多さに驚かされた。
その後、「ワイト島」のイースト・カウズという港に着岸し下船した。そこから路線バスにてかなり内陸部にある田舎町の「海洋博物館」
を訪ねた。航海や潜水、海賊などの海にまつわる雑多な用具や遺物などが所狭しと展示されていた。近代的な海洋博物館とは程遠かった。
童心に帰って展示文物の中から何か宝物探しをするかのような気分で巡覧した。子ども用プレイ・グラウンドを含むアミューズメント
施設のようであり、またグルメ好きの家族向けレストランなども配され、週末の行楽客を内陸部へ呼び込むためのレジャーコンプ
レックスであるかのような施設であった。
それでも、同博物館には、本格的な近代的海洋博物館ではめったにお目に掛かれそうにない掘り出し物に出会える
ような独特の情趣があって、私的には童心に帰ってそれなりに楽しめた。こうして、サウサンプトンからの日帰りの船旅とワイト島の
田園風景とユニークな博物館を巡る旅は、大いに心を癒してくれた。
さて、その後「コーンウォル半島」の西端近くにある港町プリモスへ列車で向かった。プリモスも歴史ある町で、旧市街には中世の
雰囲気がたっぷりと漂っていた。プリモスの最大のランドマークは「ポー丘」にある城壁に囲まれた「シタデル」という大きな
要塞である。ポー丘は市街地南側の海に面する丘である。潮風に吹きさらされる広々とした芝生公園のようになっている。その丘に
隣接するのがシタデルで、長らく英国陸軍の駐屯地となって来た。
「ポー丘」をはさんでシタデルの反対側には大きな海軍基地があるが、そこまでは足を伸ばすことができなかった。
ポーの丘には「スミートン・タワー」という灯台をはじめ、フランシス・ドレークの銅像や戦争記念碑などのモニュメントだけが立ち
並んでいる。同タワーは元々プリモスを臨む湾の沖合に建てられていたもので、灯台の役目を果たしていた。だが、今では新灯台に
取って代わられ、この丘に移設され今に至っている。「ポー丘」の前面沖合に広がる茫洋たる海こそ「ドーバー海峡」への南西側入り口に当たる海域である。
今では銅像となって祭り上げられる元海賊のドレークは「ポー丘」からドーバー海峡に睨みを利かせる。かつて英国連合艦隊はこの
沖合で「無敵艦隊」と謳われたスペイン艦隊がドーバー海峡めがけて南西方向から(即ちイベリア半島方面から)攻め入って来るのを
今か今かと待ち構えていた。当時ドレークは英国艦隊副司令官に任命され、その艦隊の実質的な指揮権を掌握していた。
ドレークは艦隊司令官らとそのポーの丘で、スペイン艦隊が海峡に入り込んで来るのを、ゴルフに興じながら待っていたという。
ドレークがゴルフに耽溺していた訳ではない。彼の戦術であった。艦隊指揮官らの最高幹部がおろおろしている姿を部下の海軍兵士らに
見せれば、彼らは動揺したり戦闘士気を低下させかねないとのドレークの深慮から、指揮官らは十分な心の余裕のあるところを見せるために、
ドレークらはゴルフに興じながら無敵艦隊の動向に関する報を待ち受ける作戦であったという。
かくして、艦隊を視認したという偵察船からの報を受けたドレークは艦隊に出撃命令を下した。ついには、両艦隊はフランスの
カレー沖で大海戦となり、ドレークは火船を敵艦隊に放つという海賊らしい戦法で、スペイン艦隊をドーバー海峡北東海域において
撃破し、壊滅状態に追い込んだ。その海戦こそが歴史に深く刻まれた
1588年の「アルマーダの海戦」である。スペインはこの敗北で国家存亡の危機に陥った訳ではないが、衰退へ向かって歩み出す
一歩となった。
ところで、話しは少し遡って、ホレーショ・ネルソン提督(Vice Admiral Horatio, Lord Nelson)のことに触れたい。ネルソン
提督は、艦隊の旗艦「ビクトリー号」をもって1805年「トラファルガーの海戦 (The Battle of Trafalgar)」で戦ったが、船上で負傷し
それがもとで落命した。同旗艦はポーツマスの海軍工廠内のドックに保存されていることは既に述べた。
さて、「トラファルガーの海戦」とは、スペインのトラファルガー岬の沖において、英国艦隊とフランス・
スペイン連合艦隊との間で、1805年10月21日になされた海戦である。18世紀末から19世紀初めにかけて約20年間にわたり展開された
いわゆる「ナポレオン戦争」における最大規模の海戦であった。
歴史は少し遡るが、1789年フランス・パリで革命が起こった。即ちパリの民衆による「バスチーユ牢獄」の襲撃である。
その後フランス・ルイ16世の絶対王朝が崩壊した。他の欧州諸国は、その革命の波及を恐れ、フランスに干渉し戦った。そして、
時は1800年代初め、フランスにおいてボナパルト・ナポレオンが実権を握る時代となった。
「トラファルガーの海戦」がなされた1805年当時、欧州大陸はフランスの皇帝ボナパルト・ナポレオンの勢力・支配下に置かれていたが、
海上の支配権については英国下にあった。英国は海上封鎖を行い、フランス軍による英国本土への侵攻を防御していた。ナポレオンは、
当時その支配下においていたスペインとの間で連合艦隊を組織し、英国の海上封鎖を突破し、かつブローニュの港に集結させていた
35万人のフランス軍兵士を英国本土に上陸させるという計画であった。英国はそれを阻止すべく、ホレーショ・ネルソン提督が率いる
艦隊を差し向け対峙させた。
英国艦隊は、「ヴィクトリー号」を旗艦とする戦列艦27隻、フリゲート4隻。他方、フランス・スペイン連合艦隊は、ピエール
・ヴィルヌーヴ提督率いる「ビューサントル号」を旗艦とする戦列艦33隻であった。ネルソン提督は、仏西連合艦隊の隊列を分断
するために、その隊列へ2列縦隊で突っ込むといういわゆる「ネルソン・タッチ」戦法を展開した。
激戦の結果、英国側の損害は、艦船の大破・拿捕0隻、死者449名、戦傷者1,214名であった。他方、連合艦隊側のそれは、艦船の大破・
拿捕22隻、死者4,480名、戦傷者2,250名、捕虜7,000名であった。ヴィルヌーヴ提督自身も捕虜となった。他方、ネルソン提督自身は
フランス軍狙撃兵の銃弾を受け、その生涯を閉じた。「神に感謝する。私は義務を果たした」と言い残して息を引き取ったという。
「トラファルガーの海戦」によってナポレオン戦争が終焉を見た訳ではない。その海戦の2か月後 (1805年12月)、フランスは
「アウステルリッツの戦い」に勝利し、戦争の主導権を奪還した。だが、その約10年後の1815年の「ワーテルローの戦い」でナポレオン
は敗北した。ナポレオン戦争の終結は、その「ワーテルローの戦い」まで待たねばならなかった。「トラファルガーの海戦」によって
フランス海軍は弱体化し、英国に対する経済封鎖を貫徹できなかったことが、フランス敗北の一つの重要な要因へとつながって行くのである。
ナポレオン戦争後ヨーロッパでは「ウィーン体制」と称される新たな秩序が形成された。
休題閑話。さて、後の歴史において名を刻むことになる数多くの船がプリモスの港を出航して行った。
ピューリタンなどを乗せた「メイフラワー号」がプリモスに一旦寄港して船舶修理・食料積み込みなどを完了した後、このプリモスを
最後の寄港地として新大陸に向けて、1620年に出港して行った。その出港を記念する門がプリモス港口の岸壁に建つ。米国のマサチューセッツ州
プリモスのウォーターフロントには、その逆に上陸記念の門が建てられている。
航海の後に「種の起源」を著わしたダーウィンも、英国艦「ビーグル号」にてこの地を船出した。南極点到達を目指した探検家スコットらも
この地を船出し、ノルウェー人の探検家アムンゼンに次いで世界2番目の極点到達を果たした。だが、スコット隊はその帰途に遭難し全員が
この世を去った。
フランシス・ドレークはプリモスを最後に英国を離れ航海に出た。そして、人類史上2番目となる世界一周航海を1580年に成し
遂げた。もっとも、既述のとおり出立当初から世界周航を企図していたかは定かでないという。「トラファルガーの海戦」で勝利した
ネルソン提督らの艦隊はもちろんプリモスから海戦に向かった。このように、プリモスは数多く
の歴史的航海の起点となり、多くの人物が歴史的事績を刻んで行った。
その後、「コーンウォル半島」北側の付け根辺りにある港湾商業都市ブリストル経由でリバプールに向かった。ブリストルで途中
下車しウォータフロントを散策したのには訳があった。4本マストの機帆船「グレート・ブリテン号 (Brunel's SS Great Britain)」
を訪ねるためであった。今は船舶博物館となっている。かつて廃船となり朽ち果てていたところを回収され修復された。現在は、
市街地を流れるエイボン川の畔にあるドライ・ドックに据えられ一般公開されている。
ドックの水門は締め切られ、中は排水されている。ロンドン近郊のグリニッジの「カティ・サーク号」の保存・展示と全く同じスタイルで、船の喫水線辺りからドックの上縁にかけて
総ガラス張りにされている。ガラス下にある船底へ降り立ち、ドックの底から船体や舵・スクリューなどを間近に見上げることができる。
なお、ドック脇を流れるエイボン川を行く水上遊覧バスに乗って川辺伝いに周遊し、船上からブリストルの街並み風景を楽しんだ。
その後、電車で150kmほど続く田園地帯を北上し、世界的ロックバンド「ビートルズ」の故郷であるリバプールへと向かった。
マージー川が市街中心部を流れるが、宿はその対岸の静かな住宅街にあった。思いもよらず不便なところに宿を取ってしまった。
川を渡すフェリーは夕方6時頃には運航終了であった。止む無くタクシーで大回りして地下トンネルをくぐりようやく辿り着いた。
翌日真っ先に「アルバート・ドック」に面する「マージー海洋博物館」を訪ねた。特に「タイタニック号」関連の展示が充実していた。
干満時におけるマージー川の水位の落差は大きく、そこに港湾を建設することは大変な難事業であった。そのことをリバーフロント界隈
の散策を通じて学んだ。港湾建設事業の伸長なくしてリバプールの産業振興を見ることはなかったといえる。
特に長年の正確な河川水位の観察による科学的知見の蓄積は不可欠であった。それに貢献した人物の名前をメモし忘れてしまったが、
彼は長年潮位を観察し続け、それがリバプールに感潮式ドックをマージー川沿いに築造するうえで最大の貢献を果たしたという。
市街散策でそんな歴史も学ぶことができた。
幾つかの感潮式ドック跡周辺を散策すれば、リバプールの港湾がどのように整備され発展したかのさわりと跡を理解できる。
ウォータフロント地区にはかつて産業革命の頃から開発された感潮ドックがたくさん存在し、多くの貨物船が停泊し、倉庫群が
ドック沿いにぎっしりと配されていた。今では再開発に押され倉庫群もドックも少なくなっているようだが、特定のウォーターフロント
地区は再整備され、今では大勢の観光客や市民の憩いの場となって賑わっていると見受けた。
ドック傍には、例えば「リバプール博物館」や科学技術関連の博物館など数多くの文化施設が整備されているが訪問の機会をもてなかった。
「アルバート・ドック」の東側に隣接し水路で繋がっている「サルゾウズ・ドック (Salthouse Dock)」には、ナローボート(ロングボート)
という英国ではよく見かける屋形船が数多く係留される。英国では蜘蛛の巣のように、幅の狭い内陸運河のネットワーク
が張り巡らされている。ナローボートはそんな運河を通行できるように、船腹はわずか数メートルほどだが、全長は20メートル
ほどもあるすごく細長く居住性もあるハウスボートである。
リバプールからロンドンに戻る列車の車窓から見た風景を忘れられない。緩やかな起伏が連なる緑豊かな
田園地帯が続く風景を楽しんでいた時のこと、用水路のような狭い内陸運河が鉄路のすぐ傍まで近接したり遠ざかったり
する風景に出会った。そして、何艘ものハウスボートがゆっくりと進み行くという、のどかな風景に接した。ブリストル
のタクシー・ドライバーから、この地からロンドンまで運河を伝って行くことができると聞かされ驚いたことを思い出す。
さて、ついにロンドンへ舞い戻る日がやってきた。
ロンドンに戻った翌日早速電車でグリニッジに向かった。目指すは「国立海洋博物館」である。
30年ほど前の1980年代初めにチュニジアへ出張した折のトランジットを利用して初めて立ち寄った。ティー・クリッパーの「カティ・
サーク号」はドライドックに屋外展示されていた。しかし間もなくして火災のために大損壊を受けたことをマスコミ報道で知った。
その後、1995年頃のJICS出向時代にJICAのアフリカ中近東所長会議が開催されロンドンに出張した折、休日を利用して修復状況など
を知るため再度出向いた。だが、なおも修復中で船の影も形もなかった。それ以来の訪問となった。
チャリング・クロス鉄道駅からグリニッジに向かった。行ってびっくり。「カティ・サーク号」が完全な形で再興され公開展示され
ていた。「カティ・サーク号」が立派に蘇り、ドライドックに収められていた。船の喫水線辺りからドックの上縁までの船体周りが
全面的に総ガラス張りとなっていた。水面に浮かんでいるかのようで、見違えるほどの壮観な姿に鳥肌が立ちまくってしまった。
館内に入れば、船底やキールを下から覗き見ることができるし、またプロペラや舵をはじめボルト締めの
船体鋼板まで間近に見ながらぐるりと周回することができた。
ブリストルで観た「グレート・ブリテン号」と同様に、その斬新で奇抜なアイデアで素晴らしい復活を遂げていた。かつての大火災
事故でかなり消失したものの、ティー・クリッパー実物船の再興は世界中の船舶愛好家たちに感動感激をもたらさずにはおかない
ものであったに違いない。
グリニッジには過去3回ほどは足を運んだように思うのだが、何故か「海洋博物館」本館内を巡覧することはなかったようだ。
博物館の建物や館内の展示文物の写真一枚も残されていないのである。記憶を辿っても本館内をじっくりと巡覧したということを
殆ど思い出せない。思い起こせば、水上バスのグリニッジ発着場のすぐ傍のドライドックに入渠していた「カティ・サーク号」に
釘付けになり、その写真撮影に全ての時間を取られてしまい、本館見学はいつも時間切れになってしまっていたような気がする。
あるいは、本館の存在を知っていただけで、是が非でも館内を見学し展示文物の画像を一枚でも切り撮りたいという切なる思い
に欠けていたため、サーク号から引き返してばかりであったのかも知れない。いずれにせよ、ウェブ海洋辞典づくりを始めようとしていた
1995年のネット元年よりも以前の頃のことである。画像をもって海洋辞典をビジュアル化するという目的認識などを擁する以前の
話である。
だが、今回の旅では2日間にわたり、館内のほとんどの展示文物をじっくり丹念に隅々まで観覧して回った。そして多くを画像に収めた。
余りにも展示品と説明書きが多くて、画像を撮りながら見て回るだけで精一杯であった。ネルソン提督関連の遺品や
航海用具、多くのフィギュアヘッド、昔実際に反乱に見舞われた英国軍艦の「バウンティ号」にまつわり展示品など、展示文物の一点
一点を丁寧に時間をかけて切り撮った。だが、それでも7~80%の巡覧であった。全てを納得の行くところまでは見て回れなかった。
今回もまたロンドン市内の「大英博物館」と「自然史博物館」などを訪問する時間を確保することはできないまま、英国南部
海岸沿いの海と船を巡る旅はこうして終わりを迎えた。初めて英国の海洋歴史文化地区や施設をじっくり回ることができた。
「コーンウォル半島地方」とブリストル、リバプール、ロンドンだけの旅であったが、心に大きな充足感をもたらしてくれた。
いつしか北アイルランドやスコットランド地方にも海と船の景色を求めて旅できる機会を心待ちにしたい。先ずは机上プランを
あれこれと練ることから楽しみたい。
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