さてその後、南米大陸本土南端に在る最大の地方都市リオ・ガジェゴスで下車した。何とおよそ30年振りである。1984年から30歳
半ばの若かりし頃の赴任地であったマル・デル・プラタ(Mar del Plata, MdP)から、車に家財道具一式を積み込み、妻と1歳と6歳の
二人の娘を伴って一路南下し、5日目にこの地へ辿り着いた。
思い出深く懐かしい町である。赴任直前にアルゼンチンと英国とが「フォークランド諸島」の領有権を巡って戦争となった。リオ・
ガジェゴスはその島嶼とほぼ同緯度にある。
当時浅はかにも、リオ・ガジェゴスからフェリーでフエゴ島まで渡海し、その後ウシュアイアまで陸路をドライブしようと考えた。
フェリーは同地から直に出航しているものと思い込んでいた。だが、実はそうでなかった。車をこの地に置いて飛行機でウシュアイア
との間を往復しようとも考えたりした。だが、風がいつも強かったし、帰路のフライトを確保できるか、また1歳そこそこの幼児の体調は大丈夫か
気にもなっていた。あの当時リオ・ガジェゴスからウシュアイアまで車で南下することも諦めたことはまさに正解であった。
同地からウシュアイアまでの地理を事前に何も学習できていなかった故に、南下したとしても、恐らくチリとの国境線上で、
チリへ出国する許可をJICA事務所から得ていないことに気付き、引き返していたに違いない。南下を諦めたその後は、アンデス山脈の
麓に沿って北上し何千kmも旅を続けた。結局のところ、ウシュアイアまで旅することは叶わず、「マゼラン海峡」も「ビーグル水道」
も初認することはできなかった。今回のウシュアイアへの旅で、ようやくその宿願を果たすことができた。胸にずっと抱え込んできた
心残りな「忘れ物」を今回しっかりと取り戻すことができた。
さて、日が暮れる前に安ホテルでも探さねばと、殆ど人を見かけない静寂な市街地をぶらついた。運よく手ごろな安ホテルを
見つけることができ、ベッドに荷物を掘り投げ、身支度を整えて町をぶらついてみることにした。とはいえ、目指そうにも
わずかな高層ビル群すらセントロ(中心的ビジネス街)にないようであった。実は訪ねたいところが二か所あった。港と博物館である。
今日は先ずその下見を兼ねて出掛けてみた。
翌日、港の方向へ真っ直ぐ足を進めた。想定した通り入り江らしき海にぶつかった。海を横目に見ながら岸壁に沿って海岸通りを進んだ。
それには理由があった。およそ30年ほど前に、家族4人でキャンプと生活用具一式を車に積み込みパタゴニアを大きく周回する旅に出たが、
このリオ・ガジェゴスには夜遅くに到着した。町はだだっ広くて方角を見失い道に迷いそうであった。
先ずは自身の居場所や位置をはっきりさせるためにこの海岸通りに出て、その後「ACA」という宿泊施設に辿り着こうとした。暗闇
の中を海岸通りに沿って進むと、作業場内の石炭積み出し用ベルトコンベアか何かが、髙い塔のような構造物と岸壁に停泊する
船との間に渡され、ガラガラと大きな作業音を発していた。暗闇の中ではそれが何なのか分からなかったが、その下をくぐり抜け太平洋ことだけは
はっきりと記憶する。今回それが何だったのか確かめたいと海岸通りを歩いた訳である。他人からすれば、何とくだらないことに拘る
ものだと、いぶかしがるに違いない。
さて、想像していた通り、ベルトコンベアによる船舶への積み出し用の大きな構造物がそこに残されていた。ボーキサイト鉱石や石炭を船に
積み込んでいたのであろう。作業場のその建物は今では錆だらけである。港湾は「マゼラン海峡」入り口にある「ビルヘネス岬(Cabo Virgenes)」
(一万一千の聖母の岬) 辺りの地に移設されたという話を、散歩する人から訊いた。
岸壁沿いにさらに進むとマレコン(Malecon。海岸大通りのこと)に出た。産業的なものは何一つ残されておらず、静かな住宅街の様相であった。
海岸通りの一角には、朽ちた漁船がキールと肋骨だけを残して放置されていた。岸沿いの公園の一角に大気中のオゾン濃度の自動計測・
遠隔送信機器が設置されていた。そこにはJICAの協力で設置されたという銘板が貼り付けられていた。何と誇らしいことか。
公園のすぐ近くに「アルゼンチン自動車連盟」の宿泊施設が目に入った。「ACA」と書かれた大きな広告塔が傍に建てられていた。
広告塔の「ACA」マークは全国統一され、それ自体を象徴する商標であった。日本でいえばさしづめ「JAF」のような公益団体で、
「ACA」は自身の会員のために全国にモーテル式の宿泊施設を展開していた。30年ほど前に家族と宿泊した「ACA」のモーテルがこんなところに立地して
いたことを改めて再認識させられた。いずれにせよ、1980年代の頃の活気溢れる姿には見えなかった。リオ・ガジェゴスは、車で
フエゴ島へ渡る直前に所在する南米大陸最南端の最大都市であるが故に、「ACA」の宿泊施設はそう簡単には無くなってしまうことは
なかろうと、勝手に想像しつつ立ち寄ることもなくそのまま素通りしてしまった。
市内にはミニの海洋博物館があることをネットで調べていたので、アナログ地図を頼りに訪ねてみた。先ずアルゼンチン・コーストガードの
支部を訪ねた。そこにはブイや艇体などがモニュメント風に屋外展示され、小さな展示室もあった。その後にミニ博物館も訪ねた。
掘っ建て小屋のような超ミニの展示館で、その周りの敷地内にはカッターボートや錨などが陳列されていた。だが、あいにく休館日のようで
閉じられていた。それらの陳列が無ければ海事展示館とは気づかないかもしれない。
さて、翌日再び長距離路線バスに乗り込んで、大西洋岸沿いに北上した。途中バスにトラブルがあり、リオ・ガジェゴスに引き返し修理に
2時間ほど要した。先を急ぐ旅ではないことが自身の心を穏やかなものにさせていた。他の乗客も、思い思いにのんびりと修理が終わるのを待っていた。
ブエノス・アイレスへ30時間以上かけて向かおうという路線バスにとって、数時間のロスタイムなど意に介さなかった。少しスピードを
上げて走行すれば遅れを十分取り戻せることなのであろう。誰も気にすることのない、おおらかな大陸縦断の旅である。バスでの座り心地は
飛行機のエグゼキュティブ・クラス並みの快適さであった。
バスは2時間ロスした後出発し、私は一人「プエルト・サン・フリアン」という小さなラグーンの畔にある漁村で下車した。何故そんな
田舎町にわざわざ立ち寄ったのか、それには訳があった。
マゼランは大西洋(当時は「北の海」と称されていた)から「南の海」への「通り道」を求め、大西洋岸を南下した(西洋人では
初めてバルボアが現在の太平洋を視認したが、当時はまだ名称がなくバルボアは「南の海」と呼んだ)
だが、ついに冬が接近したことから、止む得ずこの地の深い入り江に船隊を引き入れ越冬した。そして、船舶の修理や乗組員の休養、
飲料水などの補給などを行なった。
さて、その越冬地となった入り江を一目見たかった。一見したところ、ラグーンの北側には狭水道があり、大西洋と入り江とを
つなぐ唯一の通路となっていた。それ以外は長大な砂州で遮蔽されていた。奥行きもあり、湾奥は砂浜であり、船を陸揚げして
船底を日干しにしたり清掃するには最適のように思われた。
実はその漁村の入り江を180度見渡せる海岸には、マゼランの越冬を記念して、マゼラン船隊の復元された一隻の船(実物大のレプリカ)
がラグーン(入り江)の岸辺に据えられ一般公開されていた。訪ねた時には、「マゼラン海峡」に面するチリの最南端の港町プンタ・
アレーナスから大勢の観光客が大型バスで訪れていた。復元船そのものが目途なのか分からないが、やはり「サン・フリアン」という
小漁村の歴史的存在意義を知った上での彼らの訪問と理解した。私も同類であった。実は、
時代はずっと後のことになるが、西回りで太平洋を横断し世界周航を果たした英国人フランシス・ドレークも同じようにこの地で越冬した
ことが知られている。
当地で、入り江沿いに小さな郷土博物館があることを知って訪ねることにした。マゼラン船隊が越冬した当時のこと、船団の一隻
が翌年春に再び南下するための準備の一環として斥候の航海に出たが、この地の少し南方にて難破した。乗組員は船を捨てサン・フリ
アンに戻って来た。実は、その時の難破船の部材・破片であるという小さな木片が発掘され、展示されていたのである。そのことは
訪問して初めて知った。偶然にして歴史的木材との驚嘆の出会いであった。
博物館は地味な展示がほとんどであったが、木片はガラスケースに厳重に収められていた。いろいろな科学
的見地から、その木片がマゼラン船隊の船のものであるという説明が累々となされていた。その真偽と信ぴょう性について論じる
知識はないが、そこに展示されていることに非常に感激させられた。マゼランはその後、今でいうマゼラン海峡入り口にある
「ビルヘネス岬(Cabo Virgenes)」 (一万一千の聖母の岬) を発見し神に感謝を捧げた。そして、その水道を何十日もかかって
通り抜け「南の海」に出でた。彼は後にその海を「太平洋」と名付けた。
さて余談であるが、英国人海賊フランシス・ドレークの世界周航とパタゴニアでの越冬についてもう少し触れておきたい。
1577年11月15日午後のこと、フランシス・ドレークが座乗する「ペリカン号」 (ガレオン船) を含む5隻の船隊が、イギリス南部
プリモスを出港した。ドレークが航海の最初から世界周航するつもりであったかは定かではないらしいが、彼は大西洋を横切り、南米大陸
東岸沿いに南下した後、「マゼラン海峡」を通過、さらに南米大陸西岸沿いに北上し、ペルー、パナマ方面へ向かう航海に就いた。
ところで、南米大陸東岸沿いに南下したドレークらは、かつてのマゼラン船隊と同じように、現在のパタゴニアの「プエルト・
サン・フリアン」(南緯49度30分辺り) で、1578年の冬を越した。南半球では6~8月頃が真冬に当たる。
その後、越冬から目覚めたドレークらは、同年8月20日「マゼラン海峡」へと進入した。航海の出資者の一人であるクリストファー・
ハットン卿の紋章に因んで、彼の旗艦「ペリカン号」を「ゴールデン・ハインド号 (Golden Hinde)」へ改名したのは、
海峡入り口の「ビルヘネス岬(Cabo Virgenes)」を回った辺りである。
9月4日に「マゼラン海峡」を無事通過したものの、その通過後に2か月間余りも悪天候に見舞われたため、
南米最南端周辺海域 (現在彼の名をとって「ドレーク海峡(Drake Passage)」と称される) を彷徨い続け九死に一生をえた。
ドレークは、後にオランダ人ハウステンによって「ホーン岬(Cape Horn)」 と命名された南端地点にクイーン・エリザベス I 世の
名を刻んだ石碑を据え付けた。
その後、ドレークは10月30日に錨を揚げ、南米大陸西岸沿いに北上を開始し、バルパライソ (チリの首都サンチャゴの外港)、
アリカ (チリ)、カジャオ (またはカリャオ。ペルーの首都リマの外港) などを経て、翌1979年6月に北緯48度付近の現在の米国
ワシントン州オリンピック半島辺りまで北上した。その後、6月17日に、現在のサンフランシスコの少し北にある泊地 (北緯38度30分辺り。
今日「ドレーク湾」と称される) に停泊した。
ドレークは航海途上で幾つもの海賊行為を働いた。最大の「成果」は、南米西岸沖でスペイン船「カカフェゴ号」を襲撃し、
約18万ポンドという莫大な金銀財宝を強奪したことであろう (当時の出資者には相応の配当がなされた)。
ドレークは、英国出港当初には世界周航計画をもちあわせていなかったといわれるが、「ドレーク湾」で揚錨した後太平洋を横断し、
スパイス・アイランドと呼ばれた「モルッカ諸島」の一つである「テルナーテ島」に辿り着いた。その後、
1579年12月12日にインド洋横断と喜望峰周回を目指して出航し、ついに1580年9月26日英国の「プリモス水道」まで帰還した
(港には接岸せず)。ここに、ドレークらはマゼラン船隊の航海者に次いで史上2番目の世界一周の航海を成し遂げた。
休題閑話。翌日サン・フリアンから再び路線バスに乗り込み、コモドロ・リバダビア、プエルト・マドリン(バルデス半島への
入り口にある港町)、バイア・ブランカなどの地方都市を経て、昔3年間(1984~7年)勤務した「アルゼンチン国立漁業学校」のある
マル・デル・プラタ(MdP)に戻った。当地では、当時家族ぐるみで親しく付き合った友人たちを訪ね歩き再会した。
今までの生活振りなどをあれこれと語りあった。
友人の案内で、港の防波堤の突端まで散策したりもした。漁港の船溜まりには、船体がオレンジ色にペイントされた小型沿岸
漁船がたくさん係留され、港内の繁殖地に棲みつくアシカ (lobo marino de un pelo) が漁船に乗り移り、気持ちよさそうに船上で
寝そべっている。岸壁のあちこちにも、彼らの棲家であるが如く巨体を横臥させている。当時から変わらぬ漁港の風物詩で
ある。
ところで、そこに3,4頭の犬がアシカを船上や岸壁から追い払おうと寄ってたかって吠えている。時に、アシカもうるさいと
ばかりに歯をむき出しにして、犬に噛みつく素振りを見せて蹴散らそうとする。40年前と同じ港景がそこにあった。犬たちは単なる
野良犬という訳ではない。飼い主がいて、漁船船主団体からいくらかの報酬を得て、犬に仕事をさせているのであろう。犬とアシカ
との真剣な闘いや船溜まり風景を懐かしく眺めながら、暫しセンティメンタルな面持ちで波止場界隈をたむろした。
漁港の埠頭からわずか数百メートルほどの距離にある同漁業学校にも立ち寄った。海軍退役大佐であったかつての校長は
既に学校を去り、アンデスの麓のワインの大産地であるメンドーサに夫人と移住してしまっていた。だが、現在の校長や旧知の
航海学教授などに経緯を表しご挨拶にと訪れた。だが、あいにく勤務時間とは大幅にずれていてまだ出勤していなかった。
守衛さんに事情を話し、許可をもらって校舎内に足を踏み入れて見て回った。
既に30年ほど経つが、森敬四郎プロジェクトリーダーと私が執務していた管理棟の小さな部屋を覗いてみた。校長室と
副校長室の対面にあったその部屋は、今は倉庫に利用されていた。さすが海軍直轄の学校だけあって、海軍の教え通り美しくきちんと
整理整頓が施され、30年以上経ていてもまるで新築校舎のままであるかのように錯覚するほどであった。誇らしい限りであった。
「国立漁業学校」は1985年に日本の無償資金協力の一環として建設された。その後10年ほど技術協力(南米諸国の漁業関係者を
対象にした同校での第三国技術研修も含めて)が実施された。世界中どこを探しても、30年以上当初目的に沿いつつこれほど
まで行き届いた保守管理がなされてきた教育施設はないと思えるほどである。アルゼンチンでは、船舶の航海・機関運航の海技資格は、
商船、漁船、河船に分かれている。そして、同学校は漁船の航海士・機関士の海技資格を取得させるための海軍所管の教育機関となっている。
マル・デル・プラタ(MdP)のダウンタウンや海岸通りなどをそぞろ歩きしながら、懐かしの旅を満喫した。そして、全く
新しくオープンしていたバスターミナルから再び路線バスに乗り込みブエノス・アイレスを目指した。
バスはパンパと呼ばれる大平原を疾走する。パンパでは1,000km疾走してもまだ見渡す限りに牧草地、牧場、農地が広がる。
そんなパンパの中を貫通するブエノスへの国道をその昔数え切れないほど往復した。30年前とほとんど変わらない車窓風景を5時間
ほど飽きることなく眺め続けた。
かくして、2週間ぶりに無事首都に帰着した。心には満足感に満ち溢れていた。「マゼラン海峡」と「ビーグル水道」の渡海は
亜国赴任(1984~87年)以来の夢であった。今回、30年の時を経てようやくその夢が叶った。いずれもわずか1、2時間の渡海で
あったが、心に深く刻み込まれ忘れることのない感涙の体験となった。
さて、私がフエゴ島へ旅している間、妻と長女はパラグアイへセンティメンタル・ジャーニーをしていたが、今回の旅で初めて
3人揃って隣国ウルグアイへ遠出することになった。ブエノスの国際フェリーターミナルから高速フェリーに乗り込み、ラ・プラタ
河を横切った。
大陸河川のスケールはとにかく半端ではない。パラナ川 (パラグアイ川が合流する)、ウルグアイ川などが合わさって
ラ・プラタ川という一本の大河となって大西洋に注ぎ込む。川幅100kmほどあり対岸はほとんど見えない。コーヒーとミルクを
混ぜ合わせたカフェ・コン・レェーチェのような色に染まる。高速フェリーでも数時間かけてラ・プラタ川を横切り対岸の
ウルグアイの町「コロニア・デル・サクラメント」という町に到着した。
コロニアには小さな旧市街地があり、スペイン・コロニアル風の建物が多く遺されていて、植民地時代にタイムスリップしたかのようだ。
古い要塞跡の一角に小さい「海洋博物館」や歴史を感じさせる古い灯台があって、じっくりと散策した。博物館には、帆船模型の他、
スペイン植民地時代の航海や歴史に関する展示パネル、絵画などが陳列されている。
マゼランは世界一周の航海に出た時、この辺りにバルボアが視認したという「南の海」へ通じる「海の道」が本当に存在するか否
かを確かめるために、探索分隊を送り出して調べさせた。だが、「水の道」をいくら北上しても淡水が続いたので、それ以上遡上する
ことを諦めた。マゼランはその後南下を続け、サン・フリアンの入り江で越冬し、翌年ついに、後に「太平洋」と名付けた大洋
に抜け出る「海の道」、すなわち今に言う「マゼラン海峡」への入り口を発見し、苦難の航海の末大洋に出でたことは既述した通りである。
その後私は家族と別れ、路線バスに飛び乗り首都モンテビデオへと向かった。パラグアイ赴任中の2002年に訪問して以来の2度目
であった。初回訪問時には真っ先に首都近郊の海沿いにある「海洋博物館」を訪ねたが、曜日が合わず休館の憂き目にあった。
今回はそのリベンジのつもりでわざわざ500kmも路線バスに乗り、首都を目指し再訪しようとした。だがしかし、今度は何とその博物館は
閉鎖されてしまっているようであった。愕然とした。結局2回も博物館から冷たく見放されてしまった。旅していると時々こういう
ことが起こる。二度も運に見放されようとは、不甲斐なかった。真剣にネットで十分事前検索しておくべきであったであろう。
とはいえ、ウェブサイトであっても最新情報にアップデートされていたかどうかは疑問なしとしない。
止むを得ず、足は自然とモンテビデオ港のウォーターフロントへと向いた。「国会議事堂」近くの「自然史博物館」に寄り道したが、
どうも開店休業の様相であった。市街中心部をぶらぶらとウインドウショッピングしながら通り抜け、緩やかな坂道を下って港へと向かった。
なるほど、旧市街地は小高い丘の上に築かれていることがよく分かった。マゼランはこの丘を見て「モンテビデオ、我山を見たり!」
と叫んだことは真実であろうと自己納得させられた。
あろうことか、ブエノス・アイレス行きフェリーの午後便は既になかった。ウルグアイ海軍の数隻の艦船がすぐ対岸の埠頭に停泊する
港風景を暫く眺めた。もう風景を切り撮る気力はもう消え失せていた。その後気を取り直して、バスターミナルに戻り、コロニアに
取って返すことにした。コロニアでようやく今日のフェリー最終便を捉まえてブエノスに帰着した。
一泊二日の短い旅であったので軽く考え過ぎ、余りの行き当たりばったりの旅となり、成果の少ないものになってしまった。
もう少し緻密に下調べをしておくべきだった。とはいえ、コロニアではミニではあったが目途にした「海洋博物館」や、コロニアル風
旧市街の歴史的要塞跡などを今回初めて訪ねることができ、それで良しと自身を慰めざるをえなかった。独り旅で悲観的になるのは、
旅の楽しさを破壊させてしまうので禁物なり、と自身に言い聞かせた。
ブエノスに帰着した翌日、JICAブエノス事務所員の旧友と再会したり、昔何度も家族や友人と食事に出掛けた韓国料理店を訪ねたり、
さらには「ラ・ベンターナ」でのタンゴ演奏会のショーを楽しんだり、「レコレータ」に眠るエバ・ペロン夫人の墓地に献花したり、最後の
カフェ・コン・レーチェをカフェテリア「トルトニ」で味わったり、昔ピストルを胸に潜ませた日系人に何千米ドルもの金をゆすられ
そうになり何時間も交渉したパリ風カフェテリア(サンタ・フェ通りのクリジョン・ホテル隣)を覗いて見たりした。詰まるところ、
ブエノスを去り難く別れを惜しんで思い切りあちこち飛び歩いてしまった。最高の出戻りの旅となった。2014年3月3日~31日のことであった。
余談だが、最後にマゼランの世界周航についてもう少し触れておきたい。
ポルトガル人航海探検家フェルディナンド・マゼラン(Ferdinando Magellan; 1480?~1521年)の率いる5隻・乗組員277名からなる
船隊が、スペイン王国の支援を受け、1519年9月20日スペインのセビーリャを出港し、西回りで香辛料の産地で有名な「モルッカ
諸島」を目指した。 南米大陸南方に存在すると憶測され、かつ「南の海」へと通じるという海峡 (後のマゼラン海峡)を発見し、そこを
2か月かかって横断し、大洋(後に「太平洋」と名付けられた)へと船を進航させた。そして、その大洋を横切ってフィリピン諸島
に到達した。
マゼランは 1521年、フィリピンのセブ島に隣接する
マクタン島で原住民との戦闘のさ中に負傷し不慮の死を遂げた。その後、2隻となっていた船隊は、ついにモルッカ諸島に到達し、
大量の香辛料を買い入れた。出港後浸水してしまった僚船を残して、「ビクトリア号」一隻が、インド洋を横断し、喜望峰を周回して、1522年
本国に帰還、西回りの史上初の世界周航(1519~1522年)を成し遂げた。生還できたのはわずか18名の乗組員であった。
マゼランのプレ世界周航の略史をもう少しひも解くと、1504年マゼランはインドに航海した。その後マラッカ、モルッカ諸島(香料諸島)など
に滞在し、1512年に帰国した。その後、少なくとも2回ポルトガル国王に謁見する機会をもった。先ず、俸給引き上げを直訴したが
却下された。その後、1515年末または翌年初めに、モルッカ諸島への派遣を懇請したが、これも却下された。
ポルトガル王室による将来展望に見切りをつけて、マゼランはポルトガル北部の港町ポルト(またはオポルト)に移り、そこで天文学者
ルイ・デ・ファレイロ、熟達した船乗りのジョアン・デ・リスボアらと交遊した。
1517年10月、ポルトから海路でスペインのセビーリャに移った。その後、僚友セラーンが滞在するモルッカ諸島へ西回り航路で
向かう航海計画を立てた。そして、スペイン国王カルロス一世 (国王在位1517~56年; 神聖ローマ帝国皇帝カール5世のこと)
に謁見し、同計画への支援を懇請した。1518年3月22日、カルロス一世とマゼランとの間でモルッカ諸島の発見に関する協約が成立した。
1519年9月20日、グアダルキビール川(Guadalquivir)河口のサンルカル・デ・バラメダ港(Sanlúcar de Barrameda)で最後の
補給を済ませた「ビクトリア号」他5隻からなる船隊の総司令官たるマゼランは、277名の乗組員を率いて出帆した。船隊構成は、「トリニダード号」(110トン)、
「サン・アントニオ号」(120トン)、「コンセプシオン号」(90トン)、「ビクトリア号」(85トン)、「サンティアゴ号」
(75トン)であった。マゼラン自身が乗艦する旗艦「トリニダード号」が常に先頭を進み、4隻がその後に続くよう指揮を執った。
西アフリカのヴェルデ岬諸島を通過した後、1519年12月13日に現在のリオ・デ・ジャネイロがある「サンタ・ルシア湾」に到達した。
その後、南米大陸東岸沿いに南下し、「サンタ・マリア岬」(現在のウルグアイ首都モンテビデオの200kmほど東方; 最寄の都市は
ローチャ Rochaである)に到達した。同地より西方に連なる海岸線沿いに航海を続けたところで山を視認した。マゼランはその地を
「モンテ・ビディ」(「山を見た」という意味)と名付けた。現在のモンテビデオである。
海岸線はなおも西方へと続いていた。航海士ジョアン・デ・リスボアはかつてこの地に到達し、この海岸線を西方に辿れば「南の海」
(現在の太平洋のこと; バルボアがパナマ地峡を横断して、西欧人で初めてその先に海があることを認めた) に出られる海道があり、
モルッカ諸島に到達できることを期待した。マゼランは彼と同様にその期待を抱いて西航した。
1520年1月10日に現在のラ・プラタ川(río de La Plata; モンテビデオから150kmほど西方に位置する)河口に到達したマゼランは、
最も小型の「サンティアゴ号」をもって内奥へと踏査させたところ、淡水が塩水化することなく、結局河川であることが判明した。マゼランは「ソリス川」
と名付けた。これが、マゼランによる「モルッカ諸島」に向けた探検航海におけるラ・プラタ川との歴史的な出合いである。
更に南下を続け、「サン・マティアス湾」(Golfo San Matías; バルデス半島(Península Valdés)の北側にある大湾)を調査した後、
現在のアルゼンチンのサンタ・クルス州にある町サン・フリアン (San Julián)の入り江に錨を降ろして越冬することにした
(1520年3月31日から8月23日まで越冬; 南半球における厳冬期は6~8月頃である)。
航海再開後、「サンティアゴ号」がサン・フリアンの南80kmほどにあるサンタ・クルス川(río Santa Cruz)の河口付近で難破した。
彼ら乗組員はサン・フリアンに何とか戻り合流を果たした。
1520年10月21日、現在のマゼラン海峡の東側の入り口(「一万一千の聖母の岬 Cabo Virgenes」から海岸線は西方へ大きく
くびれている)に達した。そして、ついに南米大陸南方に存在すると憶測されていた、「南の海」へ通じるかもしれないという
狭水道 (後のマゼラン海峡) を発見した。
水路を進む過程で「サン・アントニオ号」が一方的に船隊から離脱し、本国に向けて逆航するという
行動を取った。同号は1521年5月6日にセビーリャに帰着した。3隻となった船隊は、難航を重ねながら、現在の南米大陸本土側のパタゴニア
とフエゴ島 (Tierra del Fuego; 「火の大地」という意味) との間にあるマゼラン海峡を西方に向け通過し、ついに11月28日、後に
「待望の岬」(カボ・デセアード Cabo Deseado) と命名された岬を最後に、大洋へと抜け出た。
船隊はチリ沖を北上しながら、針路を徐々に北西から西寄りに転針し、3か月余りかかって、後に「太平洋」と名付けられたその
大洋を横断し、ついに1521年3月6日マリアナ諸島に到達し上陸を果たした。同諸島の旧称は「ラドロネス諸島」 (Ladorones=
Ladrone Islands) である。「ladrones」 (複数形)とはスペイン語で「泥棒たち」という意味で、当時「泥棒諸島」と呼ばれた。
そして、3月16日、フィリピン諸島のセブ(Cebu) 島に到達した。4月27日、マゼランはセブ島に隣接する「マクタン島(Mactan Island)」
における原住民との戦闘の最中に負傷し、それがもとで不慮の死を遂げた。
マゼランの死後、スペイン人のフアン・セバスティアン・デ・エルカーノ (Juan Sebastián de Elcano; 1476?~1526年) が航海
の指揮を引き継ぎ、「トリニダード号」と「ビクトリア号」の2隻で、1521年11月8日モルッカ諸島ティドール島に辿り着いた。
1521年12月18日2隻は同島を出航したが、直後に「トリニダード号」が浸水したため同船を放棄し、エルカーノの指揮の下、
「ビクトリア号」だけが航海を続けた。インド洋を横切り、喜望峰を周回し、西アフリカ沿岸を北上し、1522年9月6日ついに
スペイン・セビーリャへ帰着した。ここに史上初の世界周航(1519~1522年)を成し遂げた。生還できた乗組員はわずか18名であった。
航海半ばにしてこの世を去ったマゼランは「世界最初の世界周航者」としてはその名を残すことはなかった。即ち、一航海をもって
人類史上初めて世界周航を果たすという名誉は与えられなかった。だが、1519年からの西回り航海と、過去における東回りでのインディアス
方面 (マラッカ、モルッカ諸島など) への航海とを結び合わせれば、マゼランこそが人類史上初めて世界周航を成し遂げた人物であった
と考えられている。大西洋から、当時「南の海」とされていた太平洋への狭水道、即ち「マゼラン海峡」にその名を残した。
そして、南米大陸本土はその海峡をもって尽きることになる。
マゼランの旗艦「ビクトリア号」の復元船をかつてスペイン・バルセローナの「ランブラス大通り」を南に少し下った所の岸壁
に係留されているのを目にしたことがあった。全長約26メートル、最大幅6.7メートルほどの船で、その余りの小ささに驚かされた。
人類が地球は球体であること、それを実証し、かつその大きさを実体験したのは、わずか18名の航海者であり、今からわずか500年
ほど前のことであった。マゼランのこの史実すらもごく最近の出来事に過ぎないことを改めて認識させられる。
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