アルゼンチンに置き忘れてきたものがある。それは「マゼラン海峡」や「ビーグル水道」の横断、クルージングである。中南米に3度、
延べ8年間赴任しながら、アルゼンチン最南端の「ティエラ・デル・フエゴ島」、そして海峡の町ウシュアイアを訪ねることができなかった。
ウシュアイアの「監獄&海洋博物館」を探訪できなかったこともさることながら、「ビーグル水道」をクルージングしたり、「マゼラン海峡」を
渡海したりはできなかった。私的には、大変心残りのこととしてずっと糸を引いてきた。しかし、フエゴ島に旅したいという
強い意欲と、それを口実にすることとがないまぜとしながら、いつしか再びパタゴニアの土を踏み海峡界隈をたむろするチャンスを
ずっと持ち続けてきた。
さて、アルゼンチンへ再訪する機会は2011年3末日のJICA完全離職から3年後にやってきた。旅の挙行は2014年3月3日から31日まで
となった。2014年3月、東京に次女を残して、アルゼンチンで幼稚園から小学2年生まで過ごした長女と妻の家族3人で旅に出た。
当時ブエノス・アイレスに赴任中であった友人のご主人が早晩本帰国命令を受けブエノスを離れることになるとのことであったので、
その前に訪亜し「邸宅」に転がり込めればという安直な算段で遠出することになった。
我が家族での相変わらずの旅の流儀であるが、亜国では妻・長女とは一部の訪問地を除いて殆ど別々の行動となった。先ず最初の
4日間ほどはほぼ同じ行動であった。家族3人とその友人とでブエノスで有名なカフェテリア「トルトニ」に出掛け、カフェしながら
あれこれと顎がくたびれるほどに取りとめもない昔話や世間話をした。ペロン元大統領夫人のエバ・ペロンの墓がある「レコレータ」の近くの
ショッピングモールをぶらついたり、「サンテルモ」の蚤の市に出掛けたりした。
時に、別行動しながら思い思いにブエノス市街でのたわむれを楽しんだ。
ところで、エバ・ペロン(1919年~1952年)は私生児として生まれながら、第二次大戦後アルゼンチンの大統領となった陸軍大佐
ファン・ペロンと結婚しファーストレディーとなり、政治にも関与するようになった人物である。貧困層の人々に莫大な施しをした
こともあって、親しみをもって「エビータ」と呼ばれ、今でも墓地への献花は絶えない。私も、1983年に初めて亜国へ出張した折、関係者
らと週末に興味本位で訪れたことがあった。訪問はそれが最後ではなかった。というのは、著名なアルゼンチン・タンゴ歌手カルロス・
ガルデルやその他大物政治家らの墓所もある一方、墓地は広くて込み入っているのでとても一度には目途にする墓所には辿り着けなかった
からである。
私は、今は再開発され市民の憩いの場になっている旧ブエノス・アイレス港の「プエルト・マデーロ」地区に出掛け、ウェットドックに
浮かび公開されている「サルミエント号船舶博物館」を再び見学した。また、電車でブエノス近郊にあって、ラ・プラタ河の河口域
にあるデルタの大水郷地帯の一角に在る町「ティグレ」へと1時間ほど揺られて出向いた。電車は相変わらず使い古された車両のままで、
時間が止まっていたかのようであった。車内風景には成長を感じさせる片鱗さえもなかった。
「ティグレ」は週末や行楽シーズンに気軽に訪れることができるブエノス近郊のちょっとしたリゾート地である。巨大なデルタ
地帯が町の東側に広がり、ラ・プラタ川の支流やその支脈や人工水路などが迷路のように複雑に入り組んでいる。「ティグレ」では、
そんな支流・水路をいろんなタイプの遊覧船でもって幾つかの遊覧コースを楽しむことができる。ワインにランチを取りながら遊覧を楽しめる
コースも用意されている。勿論アマゾン川河口には到底及ばないが、広大なデルタなので周遊するといってもそのごく一部をかする
程度のものである。
「ティグレ」にはアルゼンチン海軍所管の「海事博物館」がある。1984~87年に「国立漁業学校プロジェクト」の業務調整員として
赴任していた折は、傍を通りかかっても館内に足を踏み入れたことはなかった。その後2000年からパラグアイに赴任した当時にあっては、
既に海洋博物館巡りやウェブ海洋辞典のための画像撮影に目覚め、一度は内部見学し展示文物を撮影していた。今回パラグアイ以来
10数年ぶりに真剣な館内見学を実現できたことを喜び、全く新鮮な目と新たな視点の下に展示文物を切り撮ることができた。
博物館での展示内容は、ほとんど変わってはいなかったが、もう一度最初から陳列品を一点一点
丁寧に見学し、スペイン語での説明書きを含めて、画像に切り撮った。古代の船模型、各種大小の帆船模型、海軍艦船の模型や絵画、
海軍提督やその他の著名な将官の絵画・写真、屋外には英国との「フォークランド戦争」時に使われた戦闘機や小型軍用船などの
実物展示がある。
ところで、日露戦争に際しては日本はアルゼンチンから2隻の軍艦を譲り受けた。同国はイタリアで建艦していた2隻を
日本に売却することに合意した。後に軍艦は「日進」「春日」と名付けられた。日本海海戦当時同国の武官が東郷平八郎司令官らとともに
旗艦艦上から観閲したとされる。博物館にはそれらの軍艦のいずれかに載せられていたピアノなどのゆかりの品が展示される。
ところで、妻と長女はかつての赴任国パラグアイへ旅立つ準備をしていた。家族2人は同国首都アスンシオンに出向き、思い出深く
懐かしの市街風景の中に身を置き、友人らとの再会を楽しむ手はずであった。他方、私は今回の旅の主目的地
であるウシュアイアへ準備を真剣に始めた。私が目指したのは、過去に果たしえなかった最南端の地への旅であった。亜国最南端
のフエゴ島のウシュアイア、ビーグル海峡、マゼラン海峡などを散策することであった。旅のルートはもちろん、毎日の行動計画を
今一度おさらいし、航空券や宿泊の手配などを進めた。旅程は12日間ほどの予定であった。帰途はウシュアイアから同プロジェクト
があったマル・デル・プラタを経由し、ブエノスまで全て路線長距離バスを予定した。総距離は凡そ2,800kmであった。2人の運転手
による休憩なしの運転でも、「マゼラン海峡」の渡海を入れて最低35~40時間は要することになろう。
まず国内フライトでウシュアイアへ向かった。「アルゼンチン氷河」をはじめ幾つかの氷河が湖に崩落するところをまさに眼前で
見ることができる有名な観光地へのゲートウェイとなっている「カラファテ」の空港にストップオーバーした。着陸する頃には、
雄大なアンデスの山岳風景が眼前に迫り、グリーンとブルーがないまぜになったような氷河湖独特の色に染まった湖のすぐ傍らに
伸びる滑走路に着陸した。その後フエゴ島を目指して飛行したが、あいにく天候がすぐれず、下界の景色は殆ど見ることができなかった。
1時間後にはウシュアイアに着陸すべく降下し始めたが、なおも雲の中であった。だが、座席の背もたれを元の位置に戻した頃、
厚雲が突如途切れて視界が開けた。何とビーグル海峡の上空を、それも海峡に沿って飛行していた。どんどん高度を下げ、周囲の峰々
から中腹へ、さらに山裾まで降下してきた。曇り空だったとはいえ、下降しながらも「ビーグル水道」に沿って、その上空を飛行していた。
そして海峡の水面がどんどん近づいてきた。天候からして期待をしていなかったが、上空からじっくりと海峡を俯瞰でき、どんな姿を
しているのかを知ることができ、心が100%以上満たされた。そして、これから海峡の港町を散策すると思うと、子どものようにワクワク
して興奮はピークに達してい。空港は海峡沿いの平地にあった。
季節は3月で、南半球では初秋に当たるが、ウシュアイアでは、「ビーグル水道」両岸の山々はかなりの冠雪をいただいていた。滞在中、
みぞれにも歓迎され、防寒具を手放すことのできない肌寒い日々が3日ほど続いた(ウシュアイアは南緯55度辺りにある。北緯55度と
いえば樺太の少し北に相当する)。
ウシュアイアの市街中心部では坂が多かった。背後には海抜1千~2千メートル級の峰々が控え、山裾から海峡の水際に向かって
急傾斜していた。市街地全体がスキー場とすれば、初心者・中級者用の素晴らしいゲレンデになるに違いないと想像した。宿泊地は海岸
ゼロメートルからそこそこ急な斜面を登り切ったところにあった。幾つもの東西に伸びる通りが海峡に並行して走っている。
観光客らで賑わう街一番の銀座通りには、土産店、旅行代理店、レストラン、カフェテリアなどが建ち並んでいる。先ずは、土地勘を
養うために、目抜き通りや海岸通りをぶらぶらしながら、ウインドウショッピングを楽しんだり、スナックを食したり、
カフェ・コン・レッチェ (マグカップにコーヒー半分、ホットミルク半分) を飲みながら、ゆったりとした贅沢な「海峡を見下ろす時間」をつぶした。
目抜き通りの端から端まで、歩いてもせいぜい30分ほどであった。
翌日から活発に周遊して回ることにした。真っ先に「監獄&海洋博物館」を訪問した。目抜き通りの東はずれにある海軍基地のすぐ
傍に博物館があった。かつてアルゼンチン最南端の「地の果ての監獄」であったが、その獄舎や独房をそのままそっくり博物館の展示室に改装されていた。
独立した監獄舎が一地点からヒトデのように4方へ伸びており、その一地点の場所でしか服役者は会合することができない構造に
なっている。いわば扇子のような形でもある。各舎は2階まで吹き抜けになっている。かつ、2階の独房は互いに向かい合い、その前の
通路は回廊式になっている。そして、今では各独房が展示室になっている。
大西洋と太平洋の両洋をごくわずかながらショートカットできる「ビーグル水道」も、マゼラン海峡と同じく船舶通航の難所であった。
同水道で多発した海難のことを手始めに、灯台や航行援助施設、パタゴニアやビーグル海峡周辺の古海図、南極での科学調査、海上保安
活動などについて関連文物をもって展示する。同博物館には2日間にわたって通い詰め、館内陳列をじっくりと見学した。
ウシュアイアのウォーターフロントにも何度か足を運んで散策した。最大の港湾施設は海峡に向かって斜めに長く突き出した一本の
幅広の埠頭である。埠頭の付け根にはゲートがあるが自由に出入りすることができた。埠頭手前の海岸通りに面して「南極事務所」があった。
その展示館では、アルゼンチン政府の調査研究活動が写真パネルや地図、その他資料で紹介されていた。
そこから徒歩10分ほど海岸通りを行くと、「地の果て博物館」という地域博物館があり、そこも訪ねた。パナマ運河が開通する
までは、「ビーグル水道」は両洋を結ぶ海の通路として、「マゼラン海峡」と同様に、数多の船舶が利用していたし、また港町ウシュ
アイアは海峡通過船舶に便宜を提供する重要な港町であった。「マゼラン海峡」に面するチリ領のプンタ・アレーナスも同じことが言えた。
埠頭には船体舷側の上縁まで真赤に塗られた、1,500トンほどの幾つかの遠洋漁船が停泊していた。アルゼンチン沖の広大な大陸棚
上に広がる排他的経済水域やその他の南西大西洋海域で操業する漁船なのであろう。かつては船尾竿に日章旗を掲げた大型トロール船も
操業することが許されていた時期もあった。パタゴニア中部の港町プエルト・デセアードには日本水産の日ア合弁漁業基地すらあった。
埠頭には、中型の観光客船も停泊していた。いわゆる「咆える40度線」と称される、暴風雨が吹き荒れることで
知られる海域を巡航し、南米大陸最南端の「ホーン岬」を周回してチリのプンタ・アレーナスなどへ航海するのであろう。
実は、そのホーン岬を周回してプンタアレーナスに向かう観光船が近々船出するとの情報を、市内の旅行代理店に立ち寄った折に掴んだ。
帰途の長距離バスのリオ・ガジェゴス(パタゴニア本土最南端の町)までの運行状況を調べ、先ずは切符を手配した。バスはブエノス
まで運行されていた。
現地で、「ドレーク海峡」を経て「ホーン岬」を視認し、チリのプンタレーナスまで巡航する大型クルージング船による3泊
ほどのツアーがあった。船内3泊ほどのクルージングらしかった。随分と迷った。一応の粗々の旅程を描いていたが、ブエノスに
戻る日は決めていなかった。パタゴニアへの放浪の旅にして、身を拘束する何の予定もないので、クルーズ船に乗船して「ホーン岬」
周回を体験すべきか、代理店のソファーに腰を下ろし、時に坂下の「ビーグル水道」を見下ろしながら思案した。チリ入国ビザも、
アルゼンチンへの再入国も問題はないはずであった。
プンタ・アレーナスからどうブエノスに戻るか。国際バスでリオ・ガジェイゴスまでは水平移動し、その後予定通り
パタゴニアの大西洋岸沿いにマル・デル・プラタ、ブエノスを目指すか、いろいろ思いをひねくり回した。
結局は思いとどまった。「吠える40度」海域にあるホーン岬を周回し、岬となっている島を初認するというチャンスは二度と巡って
来ないだろう。だから、岬周回の航海は魅力的であった。急ぐ旅ではなかったはずであったが、何故諦めたのか。
その最大の要因は天候にあった。
ウシュアイアに滞在してきた間ずっとこのところ天候が芳しくなかった。当地に到着して以来空にはほとんど雲が低く垂れ込めたり、
厚い雲で覆われたりしていた。青空はほとんど見られなかった。ウシュアイア滞在での初期の天候がかくも思わしくなかったので、
凄い期待を胸に乗船したとしても、「ドレーク海峡」海域での天候が悪く、折角の「ホーン岬」も雲や深い霧のために見れないという
結果になれば、残念至極であるし、また乗船したことを後悔することになるとの思いに至った。それにプンタ・アレーナスには
かつて何日も訪ねたことがあったので、そこへ旅する理由は余りなかった。
だが、アルゼンチンから帰国した後のこととして、悪天候のためホーン岬を視認できないとネガティブに思い込み過ぎてクルージ
ングを敢行しなかったことを多少悔いたこともあった。また、再び置き忘れて来てしまったという感覚に襲われもした。だが、悔やみ
切れないという訳ではなかった。「またパタゴニアやウシュアイアに舞い戻る強い口実を手にした」というほどのものではないが、
再訪するための言い訳と、その希望的可能性くらいは胸の片隅にしまい込んだ。
ところで、「ビーグル水道」をはさんですぐ南側に横たわるのがチリ領の「ナバリーノ島(Isla Navarino)」である。同島以南
にもチリ領である幾つかの小さい島嶼が散らばるが、その島嶼の最南端に彼の有名な「ホーン島」の「ホーン岬(Cabo de Hornos、
Cape Horns)」がある。南米大陸最南端はその「ホーン岬」において名実ともに終わる。同岬以南においては、「ドレーク海峡」
(Strait of Drake)を隔てて、1000kmほど南方に白い大陸・南極が横たわっている。
「ビーグル水道」は全長約240kmにおよぶ海峡である。英国人チャールズ・ダーウィンが、英国軍艦「ビーグル号」に乗艦し、
足掛け5年間に及ぶ世界一周の探検航海を行った際の経路であり、同水道の名前はその軍艦名に由来する。
ダーウィンが乗艦した時の航海は、「ビーグル号」の探検航海としては2回目のものであった。1831年12月27日にプリモス西近傍の
デヴォンポート(Devonport)を出港し、1836年10月2日に「コーンウォル半島」西端のファルマス(Falmouth)に帰還した。
ダーウィンが「ビーグル号」に乗り込んだのは弱冠23歳の時であった。「ビーグル号」はバーク型3檣帆船で、排水量242トン、
全長27.5メートル、全幅7.5メートル、吃水3.8メートル、砲6門の小型船であった。バーク型とは前2本のマストに横帆、最後尾の
マストに縦帆を装備する。
さて、「ホーン岬」の周回は諦め、「ビーグル水道」での遊覧に出掛けることにした。180度を見渡すと私の視界の前には、
どんよりと鉛色に染まった空を背景に、冠雪を抱いた山々が連なり、反対側には「ビーグル水道」の狭水道が横たわっていた。
幅員は狭い所では4~5㎞ほどであろうか。市街地から眺めると海峡の中ほどに幾つもの大小の岩島や岩礁が点在しているのが見える。
素人目にも狭水道は岩礁などが多く航行には危険なことがよく見て取れる。特に夜間は危険極まりないようだ。そんな水道を小型の
遊覧船で暫く周遊できることになった。
海峡の東方沖合には小さな岩礁があり、その上に小さな灯台が立つ。その直ぐ近くの岩礁には多くのアザラシ(lobo marino de un pelo)
が寝そべる。クルージングしているうちに壮年の船長と言葉を交わす様になった。何と私が3年間勤務していたマル・デル・プラタの
「国立漁業学校」の卒業生であった。話がはずんだところで、船長の指示の下、私は舵輪を握って、市街地沖合の海峡中央部に位置する、
次の物標兼目的地である小島に向かって航行した。舵輪は水流にキックされ腕に圧が伝わってくる。舵を少し回すにも意外と重量感が
感じられた。さて、小さな桟橋で上陸し、その丘の上まで登り詰め、海峡を360度見渡した。ここで初めて、
長年の思いであった「ビーグル水道の真っ只中の岩礁に立つ」という企てを遂げることができた。万感の思いが込み上げ、感涙したくなる
ほどであった。
さて、旅行代理店で国際路線バスの運行時刻などを確かめ、切符を手にしていた私は、いよいよウシュアイアを離れパタゴニア本土
の最南端の町リオ・ガジェゴスへ向かった。早朝暗いうちから埠頭前のバス停で大型長距離バスに乗り込み、午前5時には出立した。
リオ・ガジェイゴスまで所要時間は12時間の予定であった。
ざっくりといえば、フエゴ島の東半分がアルゼンチン領で、西半分がチリ領である。フエゴ島ではアルゼンチンとチリとの国境線が
南北に引かれている。先ずアルゼンチン領を北方へ縦断し、「リオ・グランデ」という町から道路は西方へと向かう。すると
アルゼンチン・チリ国境線のずっと手前の町にある国境検問所でパスポート検査、荷物検査を受け、チリ領に入り、
そのまま「マゼラン海峡」に突き当たる。そこにチリが運航するフェリーの発着場があった。だが、そこには桟橋も
何もない。道路が突然海峡を前にして海中へと没して行く。道路の水際には幅広のコンクリート敷きの斜路(ランプウェイ)があるだけである。
その斜路を前にして立つと「マゼラン海峡」が全面に立ちはだかっている。
発着場に着いてみると、あいにく西寄りの強風が吹き荒れており、情報を得て来た運転手曰く、「今は時化のために、フェリーの
運航は中断されている。何時に再開されるか分からない。明日になるかも知れない」という。一瞬ドキッとさせられた。猛烈な風の
ために対岸からのフェリーがやって来ず、いつ再開されるか見通しはなかった。
眼前に広がる海峡では白波(ホワイトキャップ)が激しく立ち騒いていた。バスが走っている間は分からなかったが、
バスが停車し、まして周囲に遮るものが何もない海峡までやってくると、強風が西から吹きすさんでいることがよく分かった。
海峡の水面では白波が強風で吹き飛ばされ、飛ばされた泡のために海面全体が白っぽく、吹雪のような有様であった。急ぐ旅でもないし、
次の予定が押し迫っている訳でもなかった。リオ・ガジェゴスやその先での宿泊についても何も予約してもいなかった。
マゼラン海峡での「風待ち」ならぬ「凪待ち」であった。
乗客は何の慌て焦る様子も全くなく、のんびりと過ごす風であった。岸辺近くの荒涼とした空地には掘っ建て小屋のような粗末な
カフェテリアがぽつんと建っていた。バス内で何時間も待機した。しかし時々、カフェテリアへスナック瑕疵を買い求めて足を運んだ。
そして、カフェ・コン・レッチェ(ホットミルク入りコーヒー)をすすりながら暇つぶしをした。バスに戻った時には、
日本から持参した米国人作家クライブ・カッスラー著の海洋冒険小説を読みふけったりして暇つぶしをした。
この先はっきりとした旅行計画があるわけではなく行き当たりばったりであった。急ぐ旅をしている訳でもないし、全く勝手気ままな
放浪の旅の身であった。今まさにそんな立ち位置と身の上にあることを自覚すればするほど、感謝の上にまた感謝であった。
「凪待ち」の間に一つの小さな発見をした。多くの車両が列をなして待機していたが、恐らく気付いた者は私くらいでなかったかと
推察する。時に小説から目を移し、窓越しに海峡を眺めていた。かなり大型の一隻の貨物船が海峡の東側(即ち大西洋側)から
こちら側に西航してくるのを車窓から眺めていた。ところが、小説のページを読み進んでも、船の位置は同じではないか。こんな嵐の
中で海峡の一点に留まっているのは不思議なことだと疑問に思い出した。そこで、船の進み具合を確かめるべく、ずっと目を凝らして
観察することにした。それほど暇であった訳である。
西寄りの風が余りに強烈だったので、その大型貨物船は難航しているらしく、数分間見詰めていてもどうも同じ
位置に留まっているとの印象を強くした。どれほどのスピードで、この向かい風の暴風の中で進航しているのか推測するために、
窓枠のある一点に照準を定め、ずっとその進航度合を、10分、20分とじっと見守っていた。時に目を小説に移し、また船の動きに目をやった。
だが、時間が経過しても、貨物船はどうも同じ位置にあって、一向に前進していないと確信するようになった。
最初に貨物船を見た時は確かに動きがあり、こちらに向かってやって来ていた。何度も船を凝視したり、時に目を離したりはしていたが、
何時の間にか船の姿はとうとう消えてしまっていた。ひどい向かい風のため、大型船でさえも前進を阻まれ、強風に抗することを諦め、ついには反転して引き返さざるを
得なくなってしまったらしいと見て取った。恐らく強風をやり過ごせる陸陰まで引き返えして行ったに違いないと、勝手な想像をした。
逆風に後ずさりして一旦引き返し待避することなどありうるのか。「マゼラン海峡」ならではの航行の異様さにびっくり仰天
させられた。それが第一ステージであった。実はその後、貨物船と思いがけない所で再会することになった。
見渡す限り海峡と荒地だけが広がる辺境地に立つ例のカフェテリアへ、暇に耐えかねて再び出向いた。そこでカフェを飲みながら、
暴風に晒される海峡を窓越しにぼんやり眺めたりしていた。さて、何処からともなく朗報を小耳にはさんだ。
暴風が少しは下火となったらしく、対岸の港で待機していたフェリーの運行が再開されるという。そして、対岸からこちらに向けて
フェリーが出港したという。白波が泡となって吹きすさぶ海峡をフェリーが必死になって向かってくる姿を遠くに視認して勇気をもらった。
フェリーが着岸する時間になって、なおも吹きすさぶ船着き場のコンクリート製スリップウェイに出てフェリーを出迎えた。そして、
車両や乗客らがフェリーのランプウェイを渡って下船するところを格好の被写体として画像に切り撮った。フェリーは自身の船首部に
取り付けた鋼鉄製のランプウェイを前方に下げて、それを陸地側のランプウェイにガリガリと押し続けながら停泊し、下船時の安全を
確保していた。
乗船に際しては、路線バスとその乗客が最優先された。先ずバスの我々乗客が歩いて乗船した。その後待機中であった他の車両が一斉
にフェリーへと吸い込まれて来た。間もなく出港し対岸に向かった。フェリーは海岸沿いにずっと西航した。その後対岸の港に向かって
一気に海峡を斜めに横断し始めた。対岸もチリ領である。フェリーは猛烈な強風の中を横断していた。風が吹きすさび、しぶきが舞い上がり、
対岸の景色は霞んでいた。それでも肉眼で何とか対岸のフェリー発着場らしきところを見通すことができた。
私も上甲板に出てみた。猛烈な風のなか甲板の手摺りにしがみつきながら歩くのも身の危険を感じるほどであった。へたをすると
突風で船外へ吹き飛ばされそうであった。しかし、「マゼラン海峡」をこんな暴風の中で渡海したことは生涯忘れることはなかろうと、
内心喜々として海峡横断航海を楽しんだ。本当に忘れがたい貴重な体験となった。
さて、横断中の時間を少し戻してみると、フェリーは暫く沿岸と並行的に航行し、すぐには海峡を横切ろうとはしなかった。
不思議に思っていた。理由は後で分かった。海峡を横切って中央部辺りに達した頃、例の大型貨物船がフェリーの右舷後方から近づきつつ
あった。フェリーが先に横断するのか、貨物船が先に直進して行くのか、どうするのか寒風の中ずっと凝視していた。
貨物船は暴風をものともせずどんどん近づいてきた。そして、あれよあれよと言う間に、フェリーの右舷前方をフルスピードで
通過して行ったではないか。見上げるような巨船であった。それこそ4~5万重量トンはあろうかというバルクキャリアのようであった。
想像するに、フェリーは貨物船を通過させるタイミングを見計らっていたようだ。先にバルクキャリアを通過させ、フェリーはその後
海峡を安全に横切る形を取ったと推察した。双方の安全のためであろう。巨大船でさえも海峡を吹きすさぶ猛烈な暴風には敵わない
こと、そして海峡横切りには細心の注意を払い安全確保に努めていることを理解した。
対岸の港といっても、フェリーの乗降のための大がかりな埠頭・岸壁やターミナルビルがある訳ではなかった。フェリーは自身の
鋼鉄製ランプウェイを陸地側のコンクリート製ランプウェイにガリガリと擦り寄せ押し付けながらホバリングしていた。
まるで強襲揚陸艦がやりそうなことであった。港の施設といえば、フェリー会社の事務所や付帯施設、コーストガードの出先事務所
くらいなものであった。
我われのバスもフェリーから吐き出された。かくして、1985年以来の夢、「マゼラン海峡」の横断をやっと果たすことができた。
決して忘れることのない感涙の渡海であった。バスは砂利道を砂埃を上げて、アルゼンチンとの国境に向けて原野を走り続けた。
そして、チリ領から再び国境線を越えアルゼンチン領へと入った。国境の検問所では、乗客はバスから降りて荷物検査を受け、パスポート
コントロールを通過した。その後、牧場なのか原野なのか何なのか見分けがつかないパタゴニアの大地を、リオ・ガジェゴスに
向けてひたすら疾走し続けた。
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