キューバの首都ハバナには4~5日滞在し、旧市街(セントロ)とその界隈を朝から晩までほっつき歩き回った。特にスペイン・
コロニアル風の情趣がたっぷりと遺される旧市街を心往くまで探索した。そして、アーネスト・ヘミングウェイが1930年代の10年間ほど
暮らした常宿の「ホテル・アンボス・ムンドス」を訪ねた。
ホテルは旧市街の目抜き通りの一つである「オビスポ通り(Calle del Obispo)」に面していた。
彼が寝泊まりしていた部屋は、小さな展示室として公開されていた。5階の角部屋の「511号室」が彼の住処であった。そこには釣り
上げた獲物の巨大カジキマグロ(英語名 marlin、マーリン)と共に誇らしげに納まる1930~40年代の彼の諸写真、フィデル・
カストロやチェ・ゲバラと肩を並べる古写真などが飾られている。部屋にはまた、彼の愛用のタイプライターや釣り具、手紙類などが展示されている。
ホテル6階の屋上テラス&バーからは一層見晴らしよく、旧市街の街並みを眺望できる。その他、ハバナ港から外海へ通じる長さ
1kmほどの狭いアクセス・チャネル (運河・狭水道)、その運河をはさんで対岸の丘の上に建つ「カバーニャ要塞」や「チェ・ ゲバラ
第一邸」の他、彼の執務室のあった館などを遠望できる。
正面眼下には「市立歴史博物館」(旧スペイン総督の官邸)が建つ。そのパティオ (中庭) にはコロンブスの立像が据えられている。
その他、近傍には「自然史博物館」が控えている。さて、同ホテルの屋上バーではじめて本場
のモヒートなるものを試飲した。ヘミングウェイが愛飲したモヒートは、キューバの名産でもあるラム酒にスパークリング・ウォーター、
ミント、レモン、砂糖などを加えたカクテル(但し、彼は砂糖抜きとしていたといわれる)であった。
旧市街の目抜き通りといえば、銀行、ショップ、カフェ、レストラン、バールなどが建ち並び、歴史的賑やかさのある「オビスポ
通り」である。通りは「プラサ・デ・アルマス (武器の広場)」から始まり、市立歴史博物館や自然史博物館、「ホテル・アンボス・ムンドス」など
の前を通り、その少し先にはヘミングウェイがよく通った小さなバーがある。更に通りが尽きる処には同じく彼がよく通った「バール・
フロリディータ」がある。
観光客がたむろするセントロ・エリアは、「アルマス広場」から1~2kmの範囲内に集中している感がある。
ある通りの一角にて普通の建物を改造したミニ水族館が観光客向けにオープンしていた。キューバ周辺海域のトロピカルな
魚に好奇心を掻き立てられ少し道草した。
ハバナ港の埠頭の一角に観光客のために設置された大型メルカード(市場)があり、キューバ土産
としての木工細工、絵画、民芸品、その他雑貨品を扱う数多くのショップなどが軒を連ねている。セントロのあちこちにある食用油や砂糖、
パンなどの政府配給品を取り扱うミニショップの他、観光客や裕福な市民が出入りする、品揃いも豊富な大型スーパーマーケットなど
後学のために中をぶらついたりした。また、セントロのみならず、郊外にあるアグリメルカード (農産物市場) や果物市場など幾つか巡り、
庶民の台所事情を垣間見た。市場での野菜・果物の品揃いは豊富で、庶民風買い物客で活気付いていることの意外さに驚かされた。
さて、「アルマス広場」から狭水道(アクセス・チャネル、運河)から遠くないところに遊園地&公園があって、その一角にサム
ライ姿の仙台藩士・支倉常長の銅像が立つというので足を運んだ。銅像は「プエルト通り 」(マレコン/Malecónとも称される) 沿いに立ち、
日本を望郷するかのようであった。江戸時代の1600年代初期に、仙台藩主・伊達政宗の命を受け、慶長遣欧使節を率いてイベリア半島に
上陸後、ローマ教皇の住まうローマのバチカンへと旅した。
銅像の台座銘板に刻まれる説明書きを要約すれば、以下の通りである。支倉常長は1613年に仙台を出立した。当時の仙台藩主・伊達政宗の
命で、「発見の時代」にあったヨーロッパに向けて、友好親善大使の資格にて派遣され、太平洋と大西洋を横断し、スペインそして
ローマに到着した。そこで国王フェリペ3世とパウロ5世教皇との謁見が許された。支倉常長は異国の地での多くの窮乏に耐えて、
様々な困難を克服しながら彼の使命を果たした。7年間の苦難の旅の末、懐かしい故国の地に戻った。1614年7月に、スペインへ向けて
大西洋を横断する途上において、船はハバナの町にも寄港した。彼はキューバの地に足を踏み入れた、史上初の日本人の一人であった。
ところで余談だが、1519年にスペイン人によって建設されたハバナは新大陸植民地支配の一大拠点となり、またスペインと新大陸
との交易の中継地として繁栄した。1545年には、現在の南米ボリビアのアンデス山中において「ポトシ銀山」が開発された。そこで
豊富な銀が安価に採掘され始め、1500年代後半には大量の銀が生産されるようになった。
銀インゴットの輸送ルートの一つはパナマ地峡にあるパナマ・シティ(太平洋側)およびポルトベロ(カリブ海側)、そしてハバナ
経由であった。即ち、ポトシ銀山から陸路でペルーのリマへ、リマ外港のカジャオ港からパナマ・シティに海上輸送された後、パナマ
地峡の陸路である「カミーノ・レアル」(王の道、スペイン王に通じる道) を横断し、ポルトベロ(Portobelo)へ。そこから再び
輸送船に積み込まれ、ハバナへと集められた後はスペインのセビーリャへと輸送された。海賊からの略奪から防御するために、1500年代
中期には5~600トン規模の帆船へと大型化され、さらには1000トンクラスのガレオン船へと発展した。また、海賊対策として、ハバナから船団を組んで大西洋横断
の途に就くことが多かった。
さて、1492年コロンブスが新大陸 (現在の西インド諸島の「エル・サルバドール島」) へ到達後、キューバ島北西岸の入り江に
スペイン人が入植し、そこを居住地としたのは1519年のこととされる。それがハバナの始まりである。
スペインはその後、キューバを重要拠点の一つとして、メキシコやその他の中米地域、さらに南米大陸全土へとその勢力圏を広げて行った。
ハバナは16世紀後半に、「新世界」で最初に要塞化された。そして、特に17~18世紀にかけて新大陸との植民地貿易の重要
拠点あるいは中継地として隆盛を極めた。繁栄のピークを迎えたのは、18世紀後半から19世紀初頭にかけてであった。
他方、ハバナが繁栄するにつれ、英国・オランダ・フランスなどの新興列強諸国の敵対や対抗勢力からの武力攻撃に対し、
さらにはカリブ海を跋扈する海賊による略奪行為に対し常に警戒と防御を怠るわけにはいかなかった。
ハバナをハバナらしくさせているのは、旧市街地に遺されるスペイン統治時代の要塞やコロニアル風街並みだけではない。キューバ革命以降
米国の経済制裁を受け続けてきたために、1950年代製の大量の米国製乗用車が国中を走り回り、今ではクラシックカーのオンパレード
を観ることができること、そしてあたかも1950年代にタイムスリップできることである。特にハバナでしか見られない独特の情趣を醸し出している。
あたかもハバナのセントロやその界隈は1950年代で時が止まっているかのようである。世界中を見渡してもそんな風景に出会える処
はないように思える。
さて、敵対勢力や海賊からハバナを防御するため、ハバナ湾口(カリブ海からハバナ港へのアクセス・チャネルの出入り口)の両岸に、
植民地時代の16~18世紀にかけて築造された4基の堅牢な要塞がある。最も訪れたかったのは、旧市街地への侵入を防御するそれらの
歴史的遺物であった。しかも2基の要塞内には海洋にまつわる歴史文化展示室が設営されている。それらを是非とも見学したかった。
ハバナを訪れてみて何故スペインが港をハバナに築造したのか、そして4基の要塞を築造したのか、よく理解することができる。
ここで要塞築造の略史について少し紐解いてみたい。
(1)アクセス・チャネル(運河、狭水道)の出入り口の先端部に2基の要塞が築造されている。先ず、北側の岬の突端部の高台に
「モーロ要塞(Castillo de los Tres Reyes Magos del Morro)」が、そしてその南側の対岸の旧市街地にあって、かつ湾口海沿いの
平地に立地する「プンタ要塞(Castillo de San Salvador de la Punta)」が、16世紀末から17世紀にかけて、数十年間の歳月をもって
築造された。
そして、かつては2基の要塞の間には、同チャネルの出入り口(湾口)をまたいで太い鉄鎖が張られ、敵船や海賊船によるハバナ市街
やハバナ港への侵攻を防いでいた。両要塞は潜在的侵攻者に対して多くの大砲が睨みをきかせ、軍事的威圧感を与えていた。特に
「モーロ要塞」はカリブ海最強の砦といわれた。
(2)同チャネルを1kmほど内陸へ進んだ両岸には、先ず北側高台には「カバーニャ要塞(Fortaleza de San Carlos de la Cabaña)」が、そして
南側の旧市街地の平地には「フエルサ要塞(Castillo de la Real Fuerza)」が築造された。「フエルサ要塞」は16世紀半ばに築造が
開始され、同後半に築き上げられたもので、ハバナ最古の要塞である。創建時は木造であったものの、石造りに再建された。
(3)4基の要塞のうち最後に築造されたのが「カバーニャ要塞」である。1762年に「モーロ要塞」を迂回して岬に上陸した英国軍
によって、いわば同要塞の背後から侵攻され、11か月間ほど占領されたという屈辱の歴史をもつ。そのことから、防御体制を強固にするため、
18世紀後半の1774年に「カバーニャ要塞」が新たに築造されたという経緯がある。その後、スペインは条約に基づき、フロリダを
英国に譲渡する代わりに、「モーロ要塞」の英国による占拠が解かれその返還を受けた。
特にボリビアのアンデス山中において「ポトシ銀山 (Potosí)」が開発されて以降、ハバナの街や港がさらに発展し、新大陸の金銀財宝を
輸送する船団の集結地となったことの幾つかの理由が同地に身を置いてみて分かった。入り江(ハバナ湾)はいわば酒徳利のような形で、外洋から幅100
メートル、長さ1kmそこそこの狭水路(アクセス・チャネル、運河/Canal de Entradaと称される)を辿ると、その奥に広々とした海が
広がり、そこにハバナ港がある。因みにフロリダ海峡を横切りハバナに近づくと岬に小髙い丘が見える。
実はその背後にその狭水路、およびほぼ閉鎖湾が隠されている。北風や西寄りの風が遮蔽され、かつ外敵からほぼ完全に防御されうる最良の
内湾が広がると言う訳である。まさに天然の良港中の良港となっている。外洋とはその狭水路のみをもって通じている。
植民地時代、特に17~18世紀にかけて、ハバナは新大陸との植民地貿易の拠点あるいは中継地として隆盛を極めた。
そして、英国などの敵対国からの攻撃や海賊による略奪行為などに対し常に警戒を怠る訳にはいかなかった。
故に、堅牢な要塞が狭水道沿いに4基も築かれ、大砲で睨みを効かせ、防御が固められてきた。中南米のメキシコ・ベラクルス、
ペルー・リマのカジャオ、パナマ・ポルトベロ、コロンビア・カルタヘナなどを経由して、中南米大陸の金銀財宝がハバナへと運び込まれた。
そして財宝は、少なくとも年1回本国から派遣される船団に積み込まれ、セビーリャへと輸送された。そして、スペイン王国の財政を
16世紀以降数世紀にわたり支え続けた。
旧市街地の一角にある「国立自然史博物館」やコロンブス銅像が中庭(パティオ)に建つ「市立歴史博物館」 (旧スペイン
総督官邸)のすぐ近くに立地する「フエルサ要塞」の中に「海洋展示室」が設けられている。1500年代中期にアンデス山中の「ポトシ
銀山」で採掘された銀のインゴットや植民地時代の銀貨、コロンブスの旗艦「サンタ・マリア号」などの多くの帆船
模型、航海用具、帆船の船体構造・艤装模型などをはじめ、スペインやキューバを軸とした海洋交易や中南米植民地統治の歴史・文化の
一端が展示される。
余談だが、ポトシは南米ボリビア南部のアンデス山中の標高3,500~4,000メートルにある町である。
1545年に当地で銀山が発見された。以後豊富な銀が安価に採掘され始め、1500年代後半には 大量の銀が生産されるようになっていた。
特に1570年代に導入された「水銀アマルガム法」(精錬法の一つ)、および「ミタ (mita)」という先住民族のインディオに割り当て
られた強制労役制度によって、銀の生産量は飛躍的に増加して行った。そして、ポトシは、メキシコの「サカテカス (Zacatecas) 銀山」
とともに、新大陸における銀山の代名詞になった。スペイン語の「potosí」は「無尽蔵の富」を意味する一般語となっている。
既述の通り、ポトシ産出の銀インゴットは、パナマ・シティ~パナマ地峡(カミーノ・レアル)~ポルトベロを経て、ハバナに一旦
集積され、スペインから派遣されたガレオン船団によって本国へと輸送された。
海洋展示室は「モーロ要塞」にも設営されている。運河入り口北側の岬突端の岩山に石垣を積み上げた堅牢な同要塞
には2つの海洋展示室があり、コロンブスの第一回探検航海の船隊3隻の模型とともに、彼の4回に渡る航海のルート図や
探検史を語るパネルの他、ピンソン船長らの絵画などが展示される。またその隣室には、英国侵攻部隊が「モーロ要塞」の背後から
攻め入り、ついに要塞を攻め落とし占拠したことを描写する戦争画の他、英国艦船が要塞に向け激しく砲撃する海戦場面を描いた
絵画など数十点が展示されている。なお、展示点数は多くはないが、羅針盤、天体高度観測器、四分儀などの航海器具も
陳列される。
さて、日を改めて小さな漁村「コヒマル(Cojímar)」へ2月8日に出掛けた。ハバナから海岸沿いに車で20~30分
ドライブした東方の地にコヒマルはある。ハバナもコヒマルもキューバ島の北岸沿いにあって、「メキシコ湾流(ガルフ・ストリーム)」
が大河となって流れるフロリダ海峡に面している。湾流域は、 世によく知られたマーリン (英語marlin; カジキマグロ) などの大物
釣りの絶好の海域である。
1954年のこと、米国人作家アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899~1961年)がノーベル文学賞を受賞した。
その受賞に大きく貢献したとされる彼の傑作「老人と海」の舞台になったところがコヒマルである。小説の着想は、コヒマルの漁師が巨大カジキを釣り上げたという実話から得たといわれる。
コヒマルには小さな入り江があって、その入り口には小さな要塞「トレオン・コヒマル」が建つ。その傍らには、ヘミングウェイの死後、
漁村の漁師らが錨などの鉄を持ち寄って鋳造されたという彼の胸像が据えられている。
ヘミングウェイはフロリダ半島沖合に浮かぶ島「キー・ウェスト (Key West)」 に12年間ほど暮らした後、
1939年にハバナへと生活拠点を移した。 同年から1960年までの21年間(彼の生涯のほぼ3分の1)をキューバで過ごすに至った。
ハバナの旧市街にある「ホテル・アンボス・ムンドス(Hotel Ambos Mundos)」を常宿にしていたが、ハバナ郊外の「サンフランシスコ・
デ・パウラ」(ハバナ南東の郊外15㎞ほどにある)という小漁村近くの丘の上に建つ大きな屋敷に移り住んだ。 彼の旧邸宅は「フィンカ
・ヒビア (Finca Vígia)」として知られる。スペイン語「ビヒア」とは望楼、「フィンカ」とは別荘のことで、「望楼のある別荘」という
意味である。
ヘミングウェイは愛艇の「ピラール号」を漁村コヒマルに碇泊させるとともに、愛艇に乗ってカジキマグロなどの大物を追いかけ、
湾流が東流するフロリダ海峡沖へ数え切れないほど船出した。愛艇の船長はキューバ人漁師のグレゴリオ・フエンテス(Gregorio Fuentes)
であった。彼はグレゴリオに全幅の信頼を寄せていた。
彼にとってグレゴリオは船長であるとともに、よき話し相手、飲み友達であり、大の友人であった。
ヘミングウェイ自身の湾流での大物釣りの実体験、グレゴリオとの長く深い交わり、そしてコヒマルの漁師たちとの交流などの 全てを
結実させたものといえるのが「老人と海」であった。彼はそれを「フィンカ・フィビア」で書き綴った。そして、1952年に出版した
(1954年にノーベル文学賞を受賞した)。
彼が愛艇を係留し、よく釣りに出かけたというコヒマルの海辺には、彼の行きつけのレストラン&バー「ラ・テラーサ」がある。
日改めてそのレストランを訪ねた。そこには、彼の写真などが飾られている。彼が厚い信頼を寄せていたピラール号船長のグレゴリオ・
フエンテスの肖像画や写真、フィデル・カストロ国家評議会議長 (当時) とヘミングウェイが大物釣りの大会時において談笑する写真
(年代不詳)、チェ・ゲバラと彼との談笑写真などがバーの壁面に飾られている。
また、入り江に臨むレストランには、船長や友人らと談笑し飲食を共にしたテーブルと椅子が当時のままに残されている。テーブル
には「着席御遠慮下さい」とのプレートが置かれ、今では亡き彼の特別専用席となっている。私もそのバーのカウンターで彼が愛飲
した例のモヒートを飲んでみた。当日キューバ葉巻は持ち合わせてはいなかった。実は禁煙して10年以上も経っていたが、葉巻一本
でも手に入れて格好を付けてモヒート・グラス片手に喫煙する姿を記念写真として切り撮るべきであった。
さて、さらに日を改めて、ヘミングウェイの旧邸宅と愛艇「ピラール号」(ピラールとは聖母マリアの名前)を訪ねた。邸宅の書斎
には沢山の書物、愛用の机・椅子やベッドなどの家具が残されている。彼は背丈の低い本棚の最上にタイプライターを置き、立ったまま
執筆していたという。
愛艇はかつてコヒマルに繋がれていたが、今は邸宅に陸揚げされ保存される。ボートはもう少し手を伸ばせば触れることもでき
そうなほど身近に展示されていた。彼が何度も着座したに違いない艇尾のトローリング・チェアを眺め感動を憶えた。彼の亡き後は、遺言により
旧邸宅や愛艇などの全てがキューバ政府に寄贈された。現在は「ヘミングウェイ博物館」となっている。
さて、フィデル・カストロやチェ・ゲバラらによるキューバ革命が成就した1959年1月から2年半後となる1961年7月に、ヘミング
ウェイは母国アメリカでライフル銃をもって自ら命を絶った。グレゴリオは2002年104歳にてこの世を去った。
米国の租借地があるキューバ島東部の「サンチアゴ・デ・クーバ」という歴史ある地方都市に行きたくて、「キューバ航空」直営の
切符取扱い事務所へわざわざタクシーで足を運んだにもかかわらず、事務所は閑散としており、フライトの予約も購入もできないこと
が分かった。1か月後も同じだという。路線バスで行くには24時間ほどかかるらしく、諦めることにした。因みに、そこには米国が
租借する有名な「グアンタナモ基地」がある。また、そこにもスペイン統治時代の堅牢で巨大な要塞「サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城
(Castillo de Morro)」があり、館内には海洋関連の展示もなされているという。
さて、サンチャゴへの旅は絶望的となっていたものの、ふとあることを思い付いた。早速日本人スタッフが勤務する旅行代理店
を訪ね、地方都市へのバスツアーの可能性を探ることにした。運よく2泊3日の地方ツアーに空きがあり、40人ほどの外国人観光客
にジョインできることになった。
車窓に流れる田舎の牧歌的な田園風景を眺めながら、ハバナから500kmほど離れた地方都市へ足を伸ばすことができた。
最終的にはそれぞれに歴史や趣き・景観などが異なる4つの都市を周遊することができた。そのうち、シエンフエゴスの町は、
最も印象深いものであった。かつてサトウキビなどの大プランテーション経営で財をなしたフランス人植民者たちによって
築かれた町であった。興味はその町にあった訳でなく、道中ガイドに頼み込んで、名前は忘れてしまったがある歴史的に有名な
渓谷に立ち寄ってもらった。
その渓谷には広大な平野部が広がり、かつては見渡す限りサトウキビが栽培されていた。キビを収穫し製糖工場に運び
込む鉄道も敷かれていた。今もレールが遺る。かつてこの大農園では大勢の黒人奴隷が酷使されていた。農園主の邸宅近くには
奴隷を監視するために建てられた、高さ50メートルほどの監視塔が今も遺されている。スペイン人をはじめ大勢のフランス人なども
カリブ海の島嶼に入植して以来、大西洋をまたぐいわゆる「大三角貿易」が連綿と続けられていた。そして、アフリカからカリブ海
諸国・南米大陸に連れてこられた数多の黒人が400年以上も重労働に耐えて耐え忍んで来た。それを象徴するかのような監視塔を見上げれば、
彼なの苦難の歴史を思わずにはいられなかった。
ツアーはその他にトリニダードという都市をも周遊した。旧市街がユネスコ世界文化遺産となっていて、市街地に建つ教会の鐘楼
からはコロニアル風の街全体を見渡すことができた。見下ろす街並み風景はスペイン植民地時代の面影を色濃く残し、
フォトジェネティックであった。トリニダードもかつて西欧人らの大プランテーション経営で繁栄した町である。
ツアーの道中ではまた、チェ・ゲバラがかつて率いた反政府部隊が、政府軍の武器弾薬輸送列車を襲撃し大打撃を与えたという、
歴史的現場をも訪れた。さらに、チェ・ゲバラの遺体が埋葬されている「霊廟・記念館」を訪れる機会を得た。撮影禁止であった。
かくして、今回の地方都市ツアーはキューバの滞在を大いに豊かにし価値あるものにしてくれた。地方の牧歌的な田園風景を道中数多観ること
もできた。もっとも周遊した都市は観光地としていずれもそれなりに整備されている印象をもった。異邦人による通りすがりでは、
一般市民らの真の暮らし振りや生活実態に深く迫ることは到底叶うことではなかった。
因みに、ハバナの民宿での宿泊費は一人一泊20米ドルほどであった。それは一般公務員の給与の1か月分に相当すると聞かされた。
民宿経営者はドルの現金収入がある一方で、普通の庶民は手に入れ難いパンやバター、ジャム、砂糖などを宿泊客用への提供を理由
に調達できるはずであった。ドル収入に対する納税は厳しくコントロールされるのであろうが、客からのチップなどでの副収入で
少しは潤うことが想像される。いずれにせよ、外国人観光客相手のキューバ市民はそうでない一般人に比べてかなり実入りが良いという話は
よく聞くところである。他方で、一般市民への生活品の配給量は少なくなりつつあるとも聞く。一般市民の生活が果たしてどのように
成り立っているのか、真の姿はなかなか見えないところである。
旧市街のある小さな博物館でガードマンのような職員が共産党機関紙(政府の広報新聞)である「グランマ」を読んでいたので、
それを売ってほしいとストレートに頼んだ。彼は急な話に驚いた様子で、最初はもじもじと渋っていた。だが交渉を続けるうちに、
5ドルで買うことができた。大金である。彼は党機関紙を外国人に個人の裁量で売ってしまっていいものか、一瞬戸惑った表情をしていた。
そして次に、彼は得た金をどうすればいいものか、上司に報告すべきかポケットにねじ込んでおくべきか、内心迷っている風に
見て取れた。勿論、想像に過ぎないが、交渉過程での彼の表情や仕草などからそのように感じた。
一般市民は日常的に何をもって生業とし、政治経済について何を思い、本当のところはどんな暮らしぶりなのか、教育や医療面では
すべて無償であるなか仕事・職業や社会保障面での充実性、一般社会生活の満足度などは如何なものか。経済社会的共通課題や政府
・政権のガバナンスへの思い、あるいは「国民皆で貧しさ等しくシェアする」ことへの思いなどについて、これからも関心を払い理解
を深め続けたい。次回キューバを訪れることがあれば、一般市民の本音に迫ることができるよう一層の工夫に努めたい。
[暫定資料]ヘミングウェイ関連の略史
・ 1899年、米国イリノイ州のシカゴ郊外の町オーク・パークに生まれる。
・ 5年ほどのパリ生活を終えて、米国フロリダ半島南西沖に浮かぶ小島にある港町キー・ウェスト (Key West) に12年間ほど暮す。
(当時の邸宅が博物館として公開されてきた。彼は大のネコ好きで、邸内には当時の愛猫の数え切れないほどの子孫が住みついてきた)
・ 1939年、キー・ウェストからキューバのハバナに生活拠点を移す(同年から1960年までの21年間、即ち生涯のほぼ3分の1を
キューバで過ごした)。
そして、ハバナ郊外のサンフランシスコ・デ・パウラ(ハバナの東方14㎞ほどにある)という小漁村近くの丘の上に邸宅をかまえるまでは、
ハバナの旧市街にある⌈ホテル・アンボス・ムンド Hotel Ambos Mundos⌋を定宿にした。
(ホテル5階の511号室が彼の部屋であった。その部屋から旧市街の他、外海からハバナ港に通じる運河、その運河沿いに建つモーロ要塞や
カバーニャ要塞などを望見できる。同室は現在も一般公開され、当時の手紙類、タイプライター、釣り具などが展示されている)。
・ その後、サンフランシスコ・デ・パウラの邸宅に移り住む。⌈フィンカ・ビヒア⌋ (望楼をもつ別荘の意味; Finca Vígia)
として知られる。
彼はそこで⌈老人と海 (The Old Man and the Sea, El Viejo y el Mar)⌋ を執筆した。邸宅敷地内には、
かつてコヒマルに停泊させ、大物釣りに用いられた愛艇⌈ピラール号⌋(Pilar; 聖母マリアの名前)が保存されている。
・ 1952年、⌈老人と海⌋が出版される。
彼はほとんどの作品を1920年代中期から1950年代中期にかけて書き上げたが、⌈老人と海⌋は彼の作品のうちでも晩年に
近い小説となった。翌1953年、ピューリッツアー賞を受賞する。
・ 1954年、ノーベル文学賞を受賞する。⌈老人と海⌋はその受賞に大きく寄与した作品となった。
・ 1959年1月、キューバ革命が成就する。即ち、1959年1月、フィデル・カストロ、チェ・ゲバラ等が率いていた革命軍が首都を制圧し、
20年以上独裁的政権を率いていたバティスタ大統領はドミニカ共和国に亡命し、政権は崩壊する。
(ヘミングウェイはそのニュースを米国アイダホ州サンバレーで知らされた。革命の3か月後にキューバへ一時帰国する)。
・ 1961年1月、米国はキューバと国交断絶するにいたる。
・ 1961年7月、ヘミングウェイ、ライフル銃にて自殺。享年62歳であった。
・ 1967年10月、チェ・ゲバラはボリビアの山中で捕まえられ、その翌日射殺される。
・ 2015年3月現在、米国オバマ政権はカストロ政権と国交正常化に向けた外交交渉を行なっている。
オバマ大統領の任期の残余期間中に両国外交関係がどう正常化され、現在まで半世紀以上も続いてきた米国による対キューバ経済制裁が
どう解除されて行くのか、世界的に注視されている。
(フィデル・カストロが国家評議会議長を退いた後は、キューバ革命を共にした実弟のラウル・カストロが議長職を引き継いで来た。
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