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    第13章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第1節 日本の技術協力に期待するサウジアラビア


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     第13章・目次
      第1節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア
      第2節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活
      第3節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その2)/砂漠へのピクニック
      第4節: サウジの異次元文化に衝撃を受ける
      第5節: 「海のラクダ」ダウ船を追い求め、時計回りに半島諸国を旅する(その1) /ドバイ、バーレーン、カタール
      第6節: 「海のラクダ」ダウ船を追い求め、時計回りに半島諸国を旅する(その2) /ドバイ(再)、オマーンなど


全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル (要約・基礎編)」→ [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


  思うに2003年晩夏のある日のこと、出勤と同時にパソコンを立ち上げメールをチェックして唖然とした。その中に「在外オリ エンテーションはいつ始めますか」というような タイトルのメールが目に留まった。総務部在外事務所課から一通の社内電子メールが届いていた。職員が在外事務所に赴任する場合、 同課は、その職員に必要かつ適切な必要な研修プログラムの編成や諸手続きを担うほか、在外事務所自身のマネッジメントを支援するもので、いろいろな実務を統轄 する部署である。

  さて、メールのヘッドラインを開封して読んでみた。「貴殿のサウジアラビア事務所への赴任に当たり、派遣前研修を実施します。その ための日程などについて打ち合わせをしたい」との趣旨であった。上司から何の内々示はもちろん、正式の内示も受けておらず、 寝耳に水であった。赴任先がサウジであったことから、メールにどっきりであった。最初は悪いジョークか何かと思いつつ、 兎に角真偽を確かめるためにすぐに折り返して 返信すると同時に、電話連絡をした。事務所課は、内示に先行して研修の実務連絡が届けられてしまっていること、また人事部から発せられている 人事の伝達のパイプがどこかで詰まっていることを察知して、「分かりました、人事部にすぐ確認を取ります」ということに なった。内示伝達パイプがいずこで目詰まりを起こしていたかは定かでないが、後日人事部長が内々に所属部にやってきて調整に乗り出した。その後、 正式の内示となった。

  最初にメールを読んだ時には、「何故、私の次の赴任先がサウジなのか」との思いが一瞬脳裏をよぎった。JICA職員でも、サウジと聞けば大抵の職員は後ずさりした。 尻込みをして、何とかして赴任の内示をパスしたいと考えることが多かったはずである。業務・生活環境がイスラム諸国の中でもアフガニスタン に次いで厳しいことに違いなかった。それに、最も特異な宗教的習慣などの文化をもつ国であろう。

  自身の職務履歴を振り返れば、確かに中近東地域やアラブ・イスラム諸国との接点が多かったのは事実であった。そんな 業務経験が人選の一つの基準となったとも思った。個人的には内面的に人知られず、イスラム世界の異文化に多少の関心があった ことも確かであった。例えば、チュニジアには何度も業務出張し、イスラム文化に興味を覚えた。また、アラブ首長国連邦UAEの 養殖施設の建設の施行監理に、3年も従事するなどの経験が人事部の目に留まったのかもしれなかった。アラブ語は別にして、通常は 英語圏に分類される中近東地域に経験と関心がある人物というレッテルが知らぬ間に貼られていたのであろう。   因みに、それ以外にイスラム諸国への出張経験やプロジェクト担当経験もそこそこにあった方である。トルコへの調査2回、 ヨルダン1回、エジプト1回、インドネシア数回、パキスタン1回などであった。 アラブ・イスラムの世界に生理的違和感がある訳ではなく、むしろその異文化に関心があった方である。なぜならば、水産室時代 スペイン語を学び、その後アルゼンチンの漁業学校プロジェクトに赴任しその語学能力を磨いた。そのスペイン語と文化はイベリア半島で アラブ語とイスラム文化と交わっていた。また、その繋がりで、スペイン文化と融合してきたアラブ文化に何となく魅せられて 来たのかもしれない。アラブ文化を色濃く残す。とはいえ、人事部からすれば、私の南米地域やアルゼンチンへの赴任や出張による それらとの関わり具合や経験は、むしろ例外的であったのであろう。端的に言えば、私は中近東アラブ・イスラム地域に関心を抱き、 それを専門領域にするという、人事上のラベルが貼られていたのであろう。

  JICSへの出向をもって借りを返したと思っていたが甘かった。若い時に人事部に希望を申し入れてアルゼンチンへの赴任を認めてもらえたという、人事部に一種の借りがあった。2回目の赴任についても 中南米でありたいと願い出て、無理をきいてもらった。希望通りアルゼンチンに赴任させてもらい、そこで偶然にも海の語彙集づくりに 取り組むきっかけを与えてくれた。2度目の海外勤務でも中南米への赴任につき無理を聞き入れてくれた訳である。その恩義を、このサウジ赴任 で完全に精算できることになったと思い込んだ。いわば借りを返す絶好の機会を作ってもらったということらしい。これは自身の勝手な 解釈であったが、遠からず近からず当たっていよう。 水産室4年在職、さらにアルゼンチン漁業学校赴任3年、パラグアイに3年も赴任させてくれた恩義に報いて、ほぼ即座に赴任を決意した。

  パラグアイへの赴任時にも中南米希望を申し出て考慮してもらったこともテークノートされているのであろう。そのもう一つの恩義もあったとも言えた。 確かに、JICSに出向したが、それだけではまだ借りが残されていたようだ。JICSへの出向人事を受け入れたことで、100%とまではいか ないが、ほとんどはその借りを返したと考えていた。だがしかし、そうではなかったことを再認識させられた。中南米への赴任の人事で 余ほど借りを作っていたらしい。今回のサウジアラビア赴任で、ようやく晴れて人事上の借りを完済できることになるらしい。人事部も よく考えたものだ。役職定年も近づいているなか、借りを返さずお役御免にはしてくれなかった。 人事の借り、未だ借金が残っていたとは。サウジへの赴任をもって人事上の借りを完済することができた。 

サウジへの赴任をもって人事上の借りを完済する。   アルゼンチンへの赴任によってスペイン語能力をかなり身に付けたとはいえ、だからといって中南米地域・スペイン語のエキスパート という人事評価を受けていた訳ではなかった、と内心ではがっかりした。その後パラグアイにも3年赴任したが、それでもその その評価はなされていなかったということが分かり、失望はさらに大きかった。だがしかし、人事部は全く別の視点をもっていた。 人事部は私を英語人材とは見なしていなかった。過去2回も、自身の希望通り南米への赴任において特別配慮に預かったといえる。 だから、人事部からすれば、人事部から私への貸しを未だ十分に返し切れていないという判断であろう。 サウジアラビアへの赴任を受け容れることで、私の負っている人事部への借りを精算してもらうという見方の方が当たっている と思われた。かつへ人事部からJICSへの出向をしたが、それでは不十分であったということに違いなかった。

  頭を切り替えた。何よりもヨーロッパに近いし、北欧、南欧いろいろ旅も出来ると前向きに思い直した。頭の中は最初は頭真っ白に なってしまったが、メール受信の翌日内示がなされたた当日には納得していた。中南米文化圏からイスラム文化圏の世界にどっぷり浸り、異文化と向き合うのも悪くないと割り切った。 それにヨーロッパへ旅するにも近いし、周辺のアラブ諸国をも訪ねることも楽しみであると、前向きにとらえ単身赴任を覚悟した。 スペイン語文化圏を離れ、イスラム文化にどっぷり浸り、他の異文化をもっと深掘りできるのは悪くはないと頭を切り替えた。 とはいえ、20年のJICA経験をもってしても、サウジアラビアの余りにも異なる生活環境と価値観の相違を感じていた。かくして、着任後 想像以上に強烈で衝撃的な「異郷文化の洗礼」を受けることになった。

  家族を帯同するか否かが問題であった。サウジアラビアでは女性が自由に動き回れる機会は極めて限られ、中南米文化と 全く異なり私生活を楽しめないであろうと、家族に同行を勧めもしなかった。家族も、サウジ生活に関心も示さなかった。どうせ尻込みを して同伴に同意するはずもないと、頭から先入観を抱いていた。家族に赴任のことを話しても「一人で行ってらっしゃい。 ご苦労様」という感じで、家族同伴など期待もしていなかったし、彼らもそのつもりは全くなかった。長女24歳?で、パラグアイ遊学のため2年遅れで外大をようやく卒業 したばかりであった。1979年生まれ、次女19歳はその当時留学中で日本にいなかった。 単身赴任でも何とか自炊生活をし、面白い異文化体験ができるのものと前向きに考えた。 かくして、2004年・平成16年11月に赴任することになった。帰国は後任者の派遣が遅れて3年4か月後の2007年・平成19年6月27日となった。 2年7か月も赴任してしまった。パラグアイから帰国して1年半ほど後のことであった。

渚 1979年8: 赴任2000年11=平成12年、21歳+α 外大卒後3年目? 2022
美帆 1984年8: 赴任2000年11=平成12年、16歳+α  高校1年になる?。2022
赴任は2004年11.

  赴任を終えてサウジアラビアから帰国する頃には管理職ポストオフによる早期退職が待ち構えていた。アルゼンチンとパラグアイ 赴任にまつわる人事絡みの特別配慮という過去の「貸し」を、早期退職になる前にサウジへの赴任をもって完済するようにいかにも強制 されているような、有無を言わさぬ痛撃の人事采配であった。確かに私が二度も受けたあの「借り」は大きいものであった。いつか「利息」を 付けて返す羽目になるであろうと薄々覚悟はしていた。

  サウジでは、JICAは政府開発援助(ODA)の実施機関としての独立したステータスがなかった。日本大使館の経済部の一部として 存在していた。だが、公用車も私用車も在外公館の外交官ナンバープレートではなく、国際機関のそれを取り付けていた。日本の援助機関が独立した活動 を行なうことは承認されていなかった。形の上では、JICA職員は大使館経済部所属の「経済アタッシェ」となっていた。 そのことは極少数の政府関係者だけに認識されていただけで、日本サイドでは「JICAサウジアラビア事務所」と位置づけられていたし、また 対外的にも日本の援助機関としてのJICAの存在が認知されていた。

  効率的な治安維持を図る観点からであろうが、全ての外国公館は外交特別地区に指定された広大なエリアに押しこめられていた。 リヤドの市街地はリングロードと呼ばれる環状道路によって大きく取り囲まれているが、その特別区はその外側に隣接し、 その周りは砂漠であった。リングロードから特区へのアクセスロードには、武装兵士らが装甲車を横に配備し検問に当たっていた。 特に米国大使館の周囲はさらに厳重な検問と警備体制が強化されていた。 かつては、JICAはその大使館内に執務室をもち援助活動をしていた。しかし、私が赴任した時には、数キロメートル離れたリヤド 市街地に近い一般居住区に事務所を構え、大使館と少し物理的に距離を置いていた。事務所は一般住宅の借り上げであり、「日本大使館 経済部分館」という表札を掲げていた。だが、私が着任する数年前に前所長が暮らしていたいわば社宅のすぐ傍で自爆テロ事件が発生し、所長が 重傷を負った。そのことから、事務所自身の治安対策の一環として、その表札を取り外していた。

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治安ー前任者テロ爆破事故、あちこちで襲撃事件、米国領事館、石油施設、内務省へのテロ。JICA=大使館も警戒、一軒家の1階の窓すべて半分コンクリート で防御、看板も削除。 霞が関でもかつてオウム真理教/地下鉄サリン事件、1995年3.20が発生した。私も、頻繁に外務省での会合のため乗降していた。 何年も前、1993年2、貿易センタービル下の地下鉄駅でテロ爆破事件が発生した。その時地下鉄で移動していた。爆破でその 一駅手前で乗客全員が降ろされ、地上に出ろと指示されたこともあった。

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  サウジアラビアはアラビア半島の多くを占有するが、その国土のほとんどが不毛の砂漠か、西部地方に見られるように数千メートル 級の山岳地帯である。その砂漠のど真ん中に首都リヤドがある。東西南北500~1000km辿っても土漠や砂漠である。その昔のこと、ざっくりと 言えば、遊牧民ベドウィンがその広大な砂漠をラクダのキャラバン隊を組んで往来していた。他方、幾つもの部族がアラビア半島を舞台に 共存し、また勢力争いを永く繰り広げていた。中央アラビアのナジュド地方ではかつてOld Diriyahディーリャは200年前の首都リヤドの跡 である。サウド家は小さなオアシスであったディルーヤを拠点にしてかつては支配勢力を保っていたが、ワッハーブ・ラシード家との 部族間の抗争の末リヤドから湾岸地域へと追われていた。

  そんな中、1902年、20歳半ばのアブドゥルアズィーズ・イブン・サウドEmir Abdul Aziz bin Abdul Rahman Al-Saud青年がサウド家のリヤド復興を果たした。 40人ほどのわずかな手勢を引き連れ、アラビア半島東部ペルシャ湾岸からネジド砂漠を横断し、リヤドへ舞い戻りマスマク城を急襲し占領した。 サウド王家先祖伝来の本拠地リヤドをラシード家から奪回し、リヤド都市城壁内・旧市街のマクマク城を攻め落とし奪還しナジュドで建国したのである。 マスマク城塞は1893年にリヤドのラシッド家を守るための本拠地として建設されたものである。

  彼が1902年1月15日にマクマク城を攻め入り奪還してからは、周辺諸族と部族間闘争や政略的婚姻などを繰り返し、 他部族を束ね次々と支配下に置き、勢力を半島に広げた。そして、ついに、1926年までに 西部のヒジャーズ王国を制圧した。1932年には、さらに周辺諸族を統一して 現在のサウジアラビア「サウド家のアラビア」王国を創国した。イスラム教の聖地メッカとメディナの擁する「2聖地の守護者」と もなった。つまり、マスマク城を襲撃し陥落させて以来30年、1902年ー1926年の四半世紀に、アラビア半島の諸部族・諸王侯(Najd, Hasa, Hejaz, Asir地方の部族) を統一し、二大聖地の守護者となった。 その後彼はサウジアラビアの初代国王となり、建国の父といわれることになる。 1902年のことリヤドのマスマク城に攻め入り勝利を収めた。そのことが「サウド家のアラビア」の起点である。

  ところで、イスラム教の宗教派閥スンニ派とシニア派がある中で、サウジアラビアは大きくはスンニ派に属するが、その中でもワッハーブ派の宗教派閥に 属する。ワッハーブ派とは、コーランとスンナへの復帰を唱える。アラビア半島で18世紀に興った初期イスラム運動である。 コーランとスンナへの復古主義の傾向をもつ。そして、ワッハーブ派はイスラム教の中でも厳しい戒律を維持することで 知られる。重要なことは、サウード家の権力掌握する過程でイスラム・ワッハーブ派の宗教運動と結びつき、政治・軍事権力を掌握 するサウド家はワッハーブ派を庇護し、ワハーブ派は権力に正当性を与え相互にもたれ合った。サウード家が勢力拡張するにつれ、 ワッハーブイズムが半島全域に広がることにつながった。そして、相互に支えつつ、相互の支持基盤が形成されていった。 権力と宗教の強靭な結びつきが維持される国家となった。

  メッカ巡礼者からの収入やナツメグ生産くらいしか収入はなかったが、その後石油が発見され、その生産・埋蔵量は増大し、 権力と支配の経済的基盤が固められていった。1949年には産油の全面操業によって経済繁栄への道筋が開かれていった。 1953年になってアブドゥルアズィーズ初代国王はこの世を去った。 その後、紆余曲折を経ながら、彼のファミリー、特にスデイリ・セブンと称されるスデイリ家のハッサ妃の7兄弟らが国王を次々と継承した。 初代国王には36人の息子がいたという。

  1990年イラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機が発生した。スデイリ家ファハド第5代国王は、米軍の サウジ駐留を認めたことから、過激派は聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留したことに反発した。 そのことが後に、ウサーマ・ビン・ラーディンが反米テロを組織する原因になった。 ファハド第5代国王は、私が赴任中であった2005年に世を去った。その後後を継いで第6代国王に即位したのは、第5代国王の異母弟である、出自傍流の ラシード家アブドラー(アブドゥッラー)・ビン・アブドゥルアジーズ(母親は王家と敵対したシャルマン族ラシード家出身である)が即位後継 した(だが、6代国王は2015年に死去、その後は異母弟のサルマン第7代国王が即位した)。

 休題閑話。サウジアラビアは1932年の建国以来、アブドゥルアジーズ初代国王をはじめサウド家のロイヤルファミリーの直系男子 が代々権力を世襲し、絶対的専制政治を行なってきた国である。国王を頂点に、ロイヤルファミリーの出身者が、内政・外交、軍事、治安・ 警察を司る主要閣僚を務め、またリヤドやメッカなどの州知事を独占する。サウジアラビアのガバナンス・統治の本質、あるいは究極の 国家命題は、サウド家ファミリーの団結の下、その絶対的王制の永続的な維持を図ることである。その頼みの綱としてきたのは、 原油・石油化学工業関連製品の輸出収入である。その国家財政の基盤は余りにモノカルチャー的であり、その脆弱性については誰にでも 理解されるところである。

  絶対的王制による支配の正当性は、自国民に対する医療や教育、社会福祉をはじめ、電気、水、通信、 ガソリンなどに対する国庫からの手厚い助成が維持されてきたところに求められる。そして、国民への多大な経済社会的恩恵を付与 する代わりに、政治的権利や言論・表現の自由などは大幅に制限されてきた。国王は立法権をもつ閣僚評議会メンバーを任免する。 立法権をもつ「国民議会」は存在せず、あるのは国政への助言機関である諮問評議会であるが、立法権はない。国民の政治への異論異議 は許されず、国政への参加はなきに等しい。

  サウジ家による絶対王制の維持のためのは、石油資源とその関連石化産業への過度の依存からの脱却すること、 即ち国家や国民生活を新たに支える産業の振興、多角化を図り、経済基盤を重層化すること、もって王制維持基盤を盤石化し続ける ことに他ならない。地球温暖化の危機が叫ばれる中、石油資源は、いずれは他の代替エネルギー、特に再生可能エネルギーにシフト していくことが予見されている。石油資源への需要の減退が辿る先にあるサウジの基盤崩壊の前に、それら資源 に頼らない、十分な産業的多角化と経済基盤の盤石化にする必要に迫られている。

  自国民、特に若者に雇用場所を確保できず、一般国民の経済生活が不安定になれば、サウド家による絶対王制の正当性への信頼を 減退化させ、その基盤を根底から揺るがしかねない。サウジは人口の7割が30歳未満の若い国である。それらの若い世代に労働倫理 を教育し根付かせ、安定雇用を供し続ける必要がある。膨張する若年人口を吸収できる産業を振興し、雇用を安定化させ続けることが、 まさに国家経済社会政策の基本である。サウジはそのモノカルチャーからの大転換が手遅れにならぬよう、真剣に模索している ところに違いない。石油とその石化産業を基礎にした国家近代化の黎明期以来の変わらぬ国家基本構造からの脱却を急いでいるといえる。

  さて、サウジ政府の重要で基本的な政策は、外国企業による資本投下、新規の工場を誘致し、若者らを吸収し彼らに安定した新たな雇用の場を 確保し続けることである。外資による非石油産業の誘致を進め、即効的にその重層化を図り、かつ経済基盤を強固にするという狙いである。 それによって絶対的王制の安定維持につなげる重要な一施策でもある。そして、もう一つの基本政策は、「サウダイゼーション」 (サウジ化)であった。当時、6~700万人以上の外国人技術者・労働者が働いていた。外資系も民族系であれ、その既存の企業に対して、 毎年5%ずつ外国人技術者・労働者をサウジ人に置き換え雇用するよう法的制度を整え、産業界に圧力をかけ続けていた。 この政策も即効的に新たな雇用の場を生み出すための手立てではあった。だが、そう簡単には「魔法の小槌」にはなりそうになかった。

  サウジ政府は、外国人技術者・労働者のビザの延長にあたり、サウジ人の雇用率のアップを達成しない場合はビザ延長を認め ないなどの締め付けを強化するという圧力をかけたといわれる。また、サウダイゼーション化率を毎年アップするということでもあった。 だが、民間企業にとっては、髙い労働意欲や職業倫理感と技術的能力をもつ外国人技能者・労働者を可能な限り低賃金で雇い入れる の方が手っ取り早く、経済合理性の観点から理に適っていた。

  労働意欲・職業倫理の乏しいサウジ青年を一人前の勤労者に鍛錬することのコストと彼らの将来展望を考えれば、おのずと企業家の指向は 理解されよう。サウジ青年は一般的に公務員志望が多く、空調が行き届いた快適な室内での管理的な職務を好む傾向が強い。 工場内でもクーラーの効いた管理部内にて、肉体的労働を供する製造に対する工程を管理する仕事を圧倒的に好むところであった。 工場で油にまみれ汗水たらして働く職務は敬遠するのは誰もが知るところである。 「給与を払うが出社はしなくてもよい」というのが企業家の本音であろう。かくして、表向きサウジ人雇用率をアップさせる 目的で、実際には勤務実態のないサウジ人の「幽霊社員」があちこちで横行することが囁かれていた。 サウダイゼーション政策は思うようには進捗しないのが実情といえた。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 ともかく、その時点では対象国であった。サウジは産油収入でもって電気、ガソリン、電話、教育費、医療費、社会保障費、水など に国民に莫大な補助をしてきた。他方で、数百万人の外国人労働者を受け入れ、いろいろな分野で技術、労働力を依存してきた。 他方、企業にはその外国人比率を毎年低減させ、サウジ人に置き換えるよう行政指導してきたが、それを型どおり無理やり 進めると自国企業は競争力を失いかねないジレンマがある。

ビザの延長抑制政策をもってサウダイゼーションを促進しようとしている。 だが、取って代る技術力ある、また勤労意欲ある、厳しい労働環境でも働くサウジ人がいるか、養成できるかが大問題である。 過去も、今後もこの政策は変わらないであろう。一人当たりGDPからすればもう被援助国たりえない。DACにカウントされない。卒業国となる。サウジは有償でも技術協力を求める。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

  サウダイゼーション化という基本政策にサウジ王権の苦悩がそこに凝縮されていた。事業の経済合理性と利益を追求する民間企業 にとっては、サウダイ化は何かと負担が大きく、総論賛成だが各論は正面切っての反対というわけにはいかない、ジレンマの多い 政策であった。確かに若者らにいかに多くの安定した雇用を生み出せるかが政府の悩みであったが、他方で労働倫理をもつ有能な人材を 育成することが急務であった。国家の将来は若者らを吸収できる企業の新規誘致と人材の育成である。 サウジのアキレス腱はこの2者がマッチングしないとサウジの経済社会発展は望みえなくなる。かくして、サウジは日本や欧米先進 諸国からのさまざまな技術援助や連携を渇望し、産業基盤の重層化・多角化・強靭化・近代化へつなげたいというのが実相である。 

  サウジは日本などの技術協力を渇望してきた。当時、無償で政府開発援助としての技術協力を実施していたのは日本くらいであった。 ドイツの援助機関(GTZ)はすでに有償ベースでの技術協力に踏み込んでいた。JICA事務所は援助機関としてのステータスは認められず、 日本大使館の経済部の一部門の名の下に技術協力を展開してきたが、JICAの技術協力そのものは過去30年以上にわたり 歓迎されてきた。そして、サウジ側は援助を受け入れるために必要な学校施設なのの施設や、必要とされるや資機材などのハードの多くを自ら 準備するため莫大な国家予算を投入してきた。そして、人材を育成するためのさまざまな技術ノウハウを真摯に受け止め学ぼうとしてきた。 石油王国とはいえ、予見される将来「脱石油立国」という国づくりをめざすサウジにとって、その苦悩は半端でない。 サウジほど真に技術に飢え渇望する国を知らない。お金を払ってでも技術が欲しい国であると理解した。   だがしかし、サウジは世界的な大産油国であるがゆえに国民総生産GDPは相当高いものがあり、ODAからの卒業も取りざたされていた。 OECDの開発援助委員会(DAC)の規定によれば、3年間連続して一人当たりのGDPが一定の基準額(1万ドル)を超える場合には、 「発展途上国」とはみなさず、卒業することになっていた。それも特例的な扱いとしての基準額であった。ほとんどの先進国は無償での 技術援助からは手を引き、有償での政府・民間ベースでの技術ノウハウの移転システムに移行していた。日本がいくら対サウジ援助を 続けても、統計上DACのODA実績にはカウントされなくなる。また、日本の大蔵省もJICAがODA予算をもってサウジに援助することを 認めないことになる。JICAは法律上「開発途上国」へのみODAを執行できる。従って、サウジの卒業後に協力を続けると法律違反と 見なされて四④。いずれにせよ、何らかの別の民間協力や、有償によるJICAの技術協力などの別のスキームでしか対応できない。

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●  日本の技術協力、真剣な眼差し
サウジのような産油国にJICAはODAをもって政府開発協力をする必要があるのかという疑念は出てくる。OECDのDAC統計では 一人当たりGDPは途上国の対象国にはない。ただし、3年間この基準を上回るならば対象国からはずすというものであった。 はずされれば、いくら援助しても途上国へのODA実績にはカウントされないし、またJICAは途上国を対象に支援するので、はずれれば 別のスキームで援助される必要がある。要は法律上サウジを対象国にして援助はできない。それが外務省の方針であり、大蔵省からは ODA予算が認められないことになる。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

  休題閑話。さて、具体的なプロジェクトにもどしたい。サウジから最も期待され、しかも成果の上がった技術協力 プロジェクトは、紅海沿岸の商業・港湾都市ジェッダで実施された「自動車整備研修所プロジェクト(SJAHI)」である。 特筆に値する重要なプロジェクトで、サウジに大きなインパクトを及ぼし、日本およびJICAの技術協力の存在をサウジのみならず欧米援助諸国 にも広く知らしめて来たといえる。現代の自動車は電子制御などのシステムが組み込まれ、自動車整備技術といっても習得するには そう生易しくはない。しかし、サウジ青年にその自動車の整備技術の基礎をみっちり学ばせ、サウジ社会に送り出すという協力の 意義は極めて大きいものである。 5~6百万人の外国人技術者・労働者をサウジ人に置き換えるためにサウジ人材を育成することにつながるモデル事業である。まさに サウダイゼーション化政策の象徴的存在であり、その具現化を担ったものといえる。

  同研修所のすべての施設・資機材は基本的にサウジ側の負担によるものである。日本側は基本的に、日本の主要自動車メーカー で組織される「日本自動車工業連盟」の全面的バックアップの下に、長期の技術専門家を派遣し指導にあたった。連盟からは実習に用いる何台もの最新モデルの 自動車などを供与されていた。サウジ人自動車整備士を養成する、一種の職業教育訓練を施す場であった。島嶼には サウジ側には十分な技術的ノウハウをもつカウンターパート教官がまだ育っていなかった。故に、指導方法としては、フィリピン人の 中堅整備技術者を実習・座学を施す担い手兼に人専門家の助手として雇い入れ、かれらを介してカウンターパートを手厚く要請しながら 学生に教授するものであった。

  指導は何も技術ノウハウだけでなく職業倫理の向上にも向けられた。サウジ青年は一般的に、エアコンの効いた快適な事務所などの労働環境で、手を汚すこと なく管理的な仕事をよしとする傾向にある。国家公務員や事務管理職的な執務を指向し、いわゆるブルーカラーのような工場労働を 好まない。油にまみれで汗を流す労働にはほとんど苦手といえる。研修所では技術だけでなく、整備士の作業服を着用し、 汗を流し油に塗れながらきちんと整備に取り組み、きちんとした整備を行い、顧客に引き渡し、その信頼に応えられる人材育成することが 目標である。若者の意識改革が進め、しっかりと職業倫理を会得する必要がある。将来自動車整備の現場の最前線 で高い職業倫理をもって働けるよう目指しての技術協力である。

  同所で3年間、英語にて、全生徒寄宿生活を行いつつトレーニングを積む。時間を厳守することから、全てにわたり規律正しく、 整理整頓と清掃を行なうことなど日本的職業倫理を養うべく徹底される。全ての入校生は入学に当たって、先ず 日本の自動車販売会社に雇用され、彼らは社員として訓練校へ派遣される形をとる。毎年数百名の青年整備士を送り出し、事前に雇用契約を交わした メーカーの整備サービス事業所に配属される。サウジ政府は訓練経費の何割かを訓練校に補助金として 支払うことになる。日本の技術協力の最有望なモデルとされた。青年らに技術とともに意識改革を促し、 高い職業倫理を身に着けるための職業訓練としてサウジ政府と職業訓練庁によって高く評価されてきた。

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  SJAHIはサウジ社会に模範的プロジェクトと認識され大きな好インパクトを与えてきた。それをモデルケースにして、当時いくつかの 類似のプロジェクトが創始されようとしていた。一つは「プラスチック研修所」プロジェクトであった。日本の石油化学工業関連企業などの 協力を結集して、さまざまなプラスティック製品の成型に従事する工場労働者を職訓する構想である。赴任中、どんどん建設工事は進んだ。 こは純然たる民間協力ベースであったが、指導に当たる日本人民間技術者をJICA技術専門家と位置づけるのか、またJICAが派遣経費を負担し、 かつ公用パスポートを付与するかどうかなど、サウジ・日本の協力形態につき協議が東京で続けられた。そして、いろいろ紆余曲折 を経て結局はサウジへの技術協力からの「卒業が近い」こと、これまでずっと民間ベースの協力として協議と合意が積み重ねられてきた こともあり、JICAはそのプロジェクトにはいかなる形でもプロジェクトに関与しないとの取扱いになった。

・ 自動車整備関連の職業訓練協力: 自動車整備に関する技術ノウハウだけでなく、若者に油まみれになりながら労働・職業倫理意識に変革をもたらすことにつながる 協力については既に触れたとおりである。若者に新しい職域の創成をもたらし、職域のすそ野を広げ、技術労働者のサイダイゼーション 化に寄与するもの。自動車販売・保守産業におけるサウジ人の雇用率アップにつながる。幽霊社員などは混じり様がない。

サウジは産油・石化に代わる新しい雇用の場や産業を自国に根付かせ、サウジ人材を養成し、脱石油、ポスト石油に備えて国家・国民が 生き延びる方途と基盤を一日も早く盤石なものにしたいという異形の大国の悩みと本音を理解しつつ、 JICAの使命は、を理解し、いろいろな将来の発展、課題克服のための種を播き続けることである。

特にSJAHIは高い評価をえ、サウダイゼーションに寄与してきた。だが、卒業の可能性はどんどん近づいていた。 JICAはこの国家の存亡にかかる、泣き所の社会問題解決に少しでも資するために多大な貢献をしてきた。その代表的プロジェクトが SJAHIという自動車修理研修所プロジェクトである。

サウジ青年を、寄宿させながら日本車の整備を3年間理論と実習をし、勤労・社会職業倫理などを学ぶ。そんなことは外国人の エンジニアや整備工にやらせておけばよい、ということをやめ、サウジ人が汗を流し、油まみれになって顧客に応える、という ことの訓練をしてきた。

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  もう一つは「電気製品保守修理研修所」の設立であった。日本は多種多様の電気製品(複写機などの事務機器をはじめ、冷蔵庫、洗濯機、 電子レンジ、電気コンロ、テレビ、ミシンなど)を輸出し、サウジは重要な顧客であった。 ここでも日本の電子電気関連工業界はその研修所の設立、ソフト面での技術協力を求められた。当時まだその建物の姿は見えなかったが、 真剣に協議が続けられていた。職業訓練庁の副総裁はこのプロジェクト実現に真剣に取り組んでいた。JICAがいかなる形で関与するかは、 当時非公式にしろ何の協議も進んではいなかった。同庁が独自に日本の販売企業や商社と水面下で協議を重ねていた。

  いずれにせよ、SJAHIが最適の好例・モデルとなり、これらの2の新規プロジェクトだけでなく、同庁は米国、ドイツなどとSJAHIに 類似した研修所の創設も話をもちかけていた。それほどインパクトが大きかった。 民間ベースで創始運営されてきた。サウジにとって、ハード的な受け皿については全面的に負担する一方で、外国政府・企業には技術 ノウハウというソフト面での人材養成に対する協力を求めていた。例え有償で対価を支払ってでも青年の新規就労のための基盤づくり に真剣であった。サウダイゼーション化を進める大きな一歩になるということであった。

  JICAによるサウジに対する技術協力プロジェクトは、極論すればどんなプロジェクトでも歓迎されといえる。日本への信頼は髙かった。 外国企業をサウジに誘致し、雇用を生み出す一方で、サウジ側は必要な全経費を支払うので人材育成することに手を貸してほしい というのが同政府の本音であろう。自然再生可能エネルギーや原子力発電などの開発が進む中、グローバル規模での脱炭素社会化への 取り組みが待ったなしの状況に追い込まれている。サウジのその焦りをひしひし感じる。職業訓練はもとより、あらゆる技術ノウハウ をなりふり構わず渇望する。有償を前提に協力ほしいのが本音であるが、他方でその対価に見合う優秀な技術指導者を派遣してほしい というのも本音である。

  無償の技術協力であっても、技術ノウハウの移転とその成果をしっかり求められた。平たく言えば、 お茶を濁すような援助に対しては、時に正面切って歯に衣着せぬ厳しいのコメントを浴びせられた。語学力と技術力に長けた優秀な 専門家を派遣して欲しいとの要望をストレートに厳しい指摘、求められた。出来売れば複数の専門家候補の紹介を受け、サウジ側が日本に出向いて 面談し人選したいと、職業訓練庁副総裁から、本音をぶつけられた。JICA30年のキャリアの中で幾度となくストレートに要望された。 JICAの技術協力には一般的に高い評価受けていたが、他方語学力への苦言を何度も呈され、あげくに複数の専門家候補にサウジが試験 したいと言い出す羽目になった。さすが即座にやんわり断る。 これには、その場は軽く受け流し胸に収めたが、まともに反論できなかったことが悔しい限りであった。要するにいろいろなプロジェクトがあり、混交玉石であった。

  さて、在任当時におけるその他の協力プロジェクトにはいろいろあった。協力領域は多岐にわたっていた。SJAHIなどの職業訓練関連以外の 他に、その他の赴任当時のプロジェクトを紹介したい。

・ 自然環境保護関連: アラビア半島西部には数千メートル級のアシール山脈が数千㎞も連なるが、そこの植生を今後どう保全するかが 「サウジ自然保全委員会」の重大関心事であった。特にその山地に生える、ある樹木の減少が深刻で、その保全に資するための広範囲の 植生実態調査と保護計画の検討・作成への協力に取り組んだ。

・ 看護対応能力向上: 毎年ハッジと称される海外のイスラム教徒のメッカへの巡礼がなされる。時に偶発的な大事故に巻き込 まれことがある。保健省はその緊急発生時において迅速で適切な医療サービスを提供する必要がある。救急対応策の一つとして、 トリアージ法を取り入れ看護対応能力を向上させるためのプロジェクト。

・ 女性起業家育成: 女性が就労する上でさまざまな宗教・社会慣習的な制約につき改善を図ることはサウジ社会全体に課せられた 基本的テーマであるが、他方で女性による起業を促進する指導者を育成し、就労の場を拡大することも重要なテーマである。 女性の起業を促進するさまざまなノウハウを提供するプロジェクト(日本での技術研修をメインとする)。

・ 女子大学での教育と管理レベル向上: サウジでは基本的に教育は男女別学であるが、特に女子高等教育の制度や女子大学における教育内容や教育、 カリキュラム編成、大学の運営管理、学生保護者などのステークホルダーと大学側との関係性や学務的マネッジメント法、 就職指導など、女子大教育向上プロジェクト(日本の女子大での技術研修をメインとする)。 10人ほどの大学教育関係者(全員女性)を日本での特設研修に2年度にわたり招聘した。

・ 貿易促進制度: 日本のJETROのような貿易振興機構づくりをはじめ、貿易を促進する制度設計に助言する専門家による商工省への 協力プロジェクト。

・ 電子・電気・機械技術教育の向上: JICAはかつてリヤド電子電気技術学院における電子・電気・機械分野の技術教育の向上を図る ためのプロジェクトに協力した。その後のリヤド短期大学へと発展につながり、さらに電子制御などの電子工学や電気・機械工学分野の 教育レベルのさらなる向上に資するためのプロジェクト。

・ 下水処理技術の向上: 下水道の浄化効率を向上させ水資源の再利用率を高めるための技術向上を探るプロジェクト。

・ 省電力普及のための開発調査プロジェクト: サウジは石油が豊富でほとんどが石油火力発電で電力を賄い、それによって未来永劫 電力を無尽蔵に得られるわけではない。将来の石油枯渇に備えて電力をいかに節約するかが社会的課題となる。消費者レベルにおける 省エネ意識の向上をいかに国民に浸透させていくか、その方策を探るための省エネ化可能性調査プロジェクトの実施。

・ 水資源を探る開発調査: サウジでは水を制する者が国家を制するとまでいわれる。サウジの泣き所は水不足である。 国民・産業に必要な水はほとんど海水の淡水化によって賄われてきた。西部のヒジャーズ山地諸都市では海水を淡水化水した 数千mまでポンプアップしている。砂漠の地下には化石水が眠るという。しかし、天水によって補充されることはない。 使い切れば水は枯渇する。現在でも、紅海・ペルシャ湾の海水を淡水化した水に深く依存する。石油資源が枯渇すれば水確保も困難となり、 生命線である。悩みは水資源の舷海成、国の成長限界性である。サウジで最も水資源開発の可能性のある地域は、相対的に空気中 に水分の多いアシール山脈地方である。そのワジ(涸れ沢)などの地下には雨水が伏流している可能性がある。その地下水を地下ダムによって堰き止めて、それを汲み上げる事が有望視されている。 ワジなどに伏流する地下水がいずこにどの程度存在し、その開発可能性はいずこにあるかを探る基礎的調査プロジェクト。

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、悩みは水資源、国の成長限界は水、化石水はいずれ枯渇、地下水ダム建設。 1万年以上前の項羽が地下の帯水層に閉じ込められた化石水。補給はほぼない。水位低下深刻、地下水資源は2040年までに枯渇。 ダムを造り雨水を溜める。 下水を再処理、都市周辺の工業・農業用水へ回す。歳ではオアシス、地下水全く不足、淡水プラントなしでは生活賦課。水が生命線。

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  ところで、JICAはかつて長く海水の淡水化技術の向上による水の製造のための技術協力を実施してきた。特に逆浸透膜などによる 淡水化の性能・効率性を高めるための研究協力を強化し、長年にわたりその淡水化事業に技術支援してきた。だが、赴任当時にはこの 支援は終了し、民間ベースでの協力に移行していた。

  前所長社宅のあるコンパウンドにテロリストが大きな自爆テロは世界に衝撃をもたらしたが、それ以降数年以上滞っていた 省電力と水資源関連の重要な開発調査案件を実施に移すことか懸案となっていた。 国民、企業に電気の省エネ化、節電をいかなる手法で浸透させ、実効性あるものにするかの調査。 そのため、JICA本部から安全対策調査団を招聘し、安全性の確認を要請した。調査団が派遣され、リヤドやアシール地方のプロジェクト 対象地域などにおける安全事情が調査された。その結果を踏まえ、本部調査部がようやく調査に着手することになり、大きく前進 させることができた。(テロなどで過去に長く滞っていたプロジェクトを淡々と前にころがし、執行した。)

  さて、サウジのODA卒業がいずれ日程に上がるのは時間の問題であった。内々に関係者とソフトランディングを模索した。 卒後に備えての水面下での動きを模索活発化した。 2003年当時、サウジの被援助国からの「卒業」が近い将来のこととして近づいていた。いずれかの民間公益法人が有償ベースか、 中東協力センターなどがもつ別の政府系支援スキームに乗り換える他なかった。JICAにも有償での 技術協力スキームもあったが、その実行には課題があった。JICAでは、対価をもらって技術協力をすることに慣れておらず、その システムも十分に整備されているとは言い難い状態であった。有償技術協力ともなれば、英語力・コミュニケーション能力の髙い 技術者をリクルートできるかが必ず大きな課題となる。所定の成果が上がらなければ、サウジから契約金の返還どころか、 損害賠償を求めらることになりかねない。

  かつて有償技術協力につき内々に両国間で協議がなされたようだが、瑕疵担保条項を協定文書のなかに盛り込むか否かで大論争になり 交渉は頓挫したという。すなわち、有償で技術移転を約束しながらその成果が約束通りの内容・レベルまで達成しえない場合は、 その経費を精算し返還するということが制度化されることになる。決裂すれば法的措置を執ることになりかねない。その覚悟ありや。 JICAはタフなサウジ政府とその諾否論争に耐えられるか。結局、JICAにも有償技術協力に関する内規はあるにはあったが、その後 サウジは技術協力から卒業したという。することになる日も近かったといえる。その数年後になるが、有償での人材育成などは、 別の民間公益法人(日本国際協力センター・JICEなど)が引き受けたという。 * JICA有償協力でなく別のスキームへのソフトランディングを模索、何故、別の交易法人ベスト。固定観念がなく住む図協力隊。JICAは 瑕疵担保条項を盾にしたクレームや訴訟などには耐えられない。優秀な人材・専門家をリクルートし送れない可能性が高い。 ただし、コンサルタントであれば経費は何倍もかさむが人材を確保できるかも。じっくり制度設計と大蔵・外務省との調整が必要である。まず条項に合意などできない。これまでの技術協力においては外交的に ほぼ100%瑕疵担保に守られてきた伝統に慣れて来たから。

  ところで、2004-7年に在任中、脱石油後のサウジの将来展望にいくつか思いをはせた。京都議定書の後の世界の温暖化ガス CO2の排出削減に就き国際合意がなされず、その方向性がまだ全く見通せなかった頃であった。サウジは石油大国として潤ってきた。 だが、石油資源への依存は石炭のように減り、利用はいずれ下火となろう。石油大国のサウジは財政上大きな困難に直面可能性がある。 だが考えた。サウジは砂漠に覆われ、太陽光がさんさんと降り注ぐ広大な国土がある。太陽光発電・自然再生エネルギーがある。 砂漠から石油が産出し大いに潤ってきたが、今度は石油以外に何もない砂漠をエネルギーを生むものに変えることができる。 砂漠に太陽パネルを敷き詰め、有り余る電力を送電線にて欧州などに輸出する一方、海水電気分解し水素を製造し、世界中に輸出する。 水素輸送は困難ならば、水素を別の形に変えて貯蔵・輸送・輸出できる。第二のエネルギー源の創出と輸出、水素エネルギーの輸出大国となる 可能性もあることを見て取った。私的には太陽光発電で水分解で水素製造輸出、第二の石油・エネルギー水素輸出大国の可能性、

  二つめは、JICA本部と海外の協力最前線とタグを組み、サウジ人青年にアフリカでの協力現場を案内し、発展途上国の抱える 貧困や様々な医療・教育格差などの社会問題への取り組みの現状を視察する機会を提供し、サウジ人がその取り組みに関心を持ち、 寄与できる場を学ぶ、模索してもらいたい。中には文化ショックとなる。サウジ青年の意識改革に大きなインパクトを与えるかも。 毎年1000名のサウジ青年をアフリカやアジアの途上国に送り込み、日本や他の援助国がその研修に協力するという構想を練った。 それが日本を含むODA卒業年から10年計画を模索した。機会があれば、国王やロイヤルファミリーは無理かもしてないが、経済企画庁の国際局長らに話したいと願っていた。

悩み: かつて砂漠に石油産出、石油の時代到来、大産油で国家財政潤沢、それに王権・王室・国の全てが依存する。 幸か不幸か、そこから脱石油の時代がいずれ来る=エネルギーシフトが来る、枯渇するか、シフトにうまく乗れるか、 それまでに新しい国のマルティ経済基盤を創造する必要はそこから始まった。その戦いは今でも続き、待ったなしの情勢。 サウジ王権は石油資源に依存するモノカルチャーから重層的経済基盤構築へのソフトランディングに間に 合うのか懸念する。国民との社会契約が果たしえなければ、専制的王政の正当性が崩れかねないことにつながる。

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全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル (要約・基礎編)」→ [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


    第13章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任
    第1節 日本の技術協力に期待するサウジアラビア


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     第13章・目次
      第1節: 日本の技術協力に期待する石油王国サウジアラビア
      第2節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その1)/欧米式コンパウンド生活
      第3節: サウジアラビアにおけるプライベートライフ(その2)/砂漠へのピクニック
      第4節: サウジの異次元文化に衝撃を受ける
      第5節: 「海のラクダ」ダウ船を追い求め、時計回りに半島諸国を旅する(その1) /ドバイ、バーレーン、カタール
      第6節: 「海のラクダ」ダウ船を追い求め、時計回りに半島諸国を旅する(その2) /ドバイ(再)、オマーンなど