1994年3月のある日人事部職員課で勤務中であった私は、唐突に人事課長に呼び止められ課長室に招き入れられた。そして、課長はニコニコ
しながら、「実は中内君、次の異動先として財団法人・日本国際協力システム(JICS)へ行ってもらいたい」と出向の内示を言い渡された。
全く想定していなかった人事であった。課長は普段から「ニコちょん」と自称していて、ニコニコしながら厳しい人事をすることを自笑しつつも
誇りとしているようであった。JICS勤務を聞かされた時は正直なところ唖然とした。一瞬心の底で「それはないのでは、、、」と思ったが、
言葉を噛み殺した。「何故私がJICS勤務なのか」という思いが真っ先に脳裏に去来したのは紛れもない事実であった。そんな思いが
脳内回路を瞬時に駆け巡った。だがしかし、その思いは別の電気信号に変換されて戻ってきた。周回してきたその電気信号とは
「出向を受け入れるべし」という真逆の答えであった。
人事部に在籍していた当時の私にとっては、JICS勤務の再考を願い出るような選択肢はなかった。それにはある理由があった。
10年ほど前のことだが、アルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」への赴任の切実な願いを時の人事課長に、間接的ではあるが申し出て、
すんなりと叶えてもらった。赴任の承諾だけでなく、ある追加的な特別の配慮も得ていた。実は赴任の直前になって英国と「ア」国間
で「フォークランド戦争(マルビーナス戦争)」が発生し赴任が危ぶまれた。水産室での勤務はすでに丸3年が経過し、いつ人事異動しても
おかしくないタイミングにあった。しかし、戦争が落ち着くまで水産室に1年ほどそのまま勤務を続けることができた。
その後英国の勝利で戦争が終結し和平が成立した結果、無事赴任の辞令を受け取ることができた。
人事部に勤務していたこともあって、自身の人事記録にはそのような経緯がテークノートされていてもおかしくはないと思っていた。
そして、さらに、「ア」国立漁業学校プロジェクトへの赴任を巡るこの人事上の借りは、いずれ返すことが求められても何ら
不思議ではないと覚悟していた。今回のJICS勤務は人事部からその「お返し」を求められたものであろうと、その内示日に帰宅
する道すがら自分勝手な解釈を考えた。思い過ごしかもしれないが、遠からず近からずそんな人事もあろうかと、その日の内示を
半ば無理やり自己納得させた。ところで、「ア」国への赴任絡みで私が背負うことになった人事上の借りは想像以上に大きかった。
JICSへの「出向」で借りは帳消しになるものとその当時は考えてもいた。だが、借りを完済し帳消しにするのはまだまだ遠い先の
こととなった。実はJICA人生を卒業する頃になってそのことを思い知らされることになった。
人事部に在籍してきた職員が人事課長からの直々の内示に正面切って不平不満たらしく再考を願い出るのは如何なものなのか、という
思いもあった。また、願い出ればどんな別の「望まない異動」が待ち受けているのか、全く想像もできなかった。いずれにせよ、
脳内回路の電気信号は、JICSへの出向の内示が撤回されることなどありえないことを示唆していた。
かくして、内示を受けたその場で、即座に「これも人生なり」と達観と諦観をもってJICS出向を受け入れた。どんな「遠回り」や「回り道」
の人生になるのか想像もつかなかったが、社会人一年生の如く期待と不安を胸に新しい職場に通うことになった。ところが、
後で振り返れば、3年間のJICS勤務において「黄金の光り」が我が身に差し込むという出来事に遭遇することになろうとは、人生は摩訶
不思議であった。かくして、1994年から97年までの3年間、三井新宿ビル46階から同じビル内の8階にあるJICSの「業務第2部」に勤務した。
さて、JICSの業務について簡略に触れておきたい。日本政府による発展途上国への政府開発援助(いわゆるODA)は、有償資金協力、
無償資金協力、技術協力の3つ形態に大きく分けられる。JICSが関わるのは後者2つの協力であった。まず技術協力であるが、JICAの技術協力専門家が、単独あるいは
グループで途上国に赴き、技術的ノウハウを伝えながら「国づくり、人づくり」にいそしむのに色々な資機材が必要となる。
JICAはそれらの資機材を商社入札に付して調達し現地プロジェクトサイトへ海送したりする。ところで、資機材のいずれの品目
についても、複数の商社が理論上応札可能となるように技術仕様(スペック)を作成し、もって適切に価格競争原理が働くよう十分配慮
しておく必要がある。本来この仕様作成はJICAの「調達部機材課」の最たる本来業務である。さて、JICSは当該仕様の素案づくりを
JICAから受託し、同機材課による入札を補佐し、資機材を円滑・効率的に調達・海送(時に空送)できるよう側面支援する。
これが「業務第1部」の主要業務であった。
「業務第2部」の業務は無償資金協力に直に関連していた。無償協力を目的・ジャンル別に分けると幾つもの形態があるが、JICSが、
外務省やJICAの無償資金援助業務を側面支援するために関わる協力形態としてはそれほど多くはなかった。JICSが深く関わったのは例えば、
米・小麦・トウモロコシなどの主要穀物の増産に資するためになされる「食糧増産援助 (略称2KR)」を始め、楽器や音響・舞台装置などの
文化的資機材を支援するための「文化無償」、ワクチンなどを国際機関などを通じて調達し援助する「医薬品無償」、
資材の調達に当たって無償協力資金の使途が原則として問われない「ノン・プロジェクト無償」などである。
その他にJICSが関わったのは「一般無償」といわれる援助であった。「一般無償」は政府の無償資金協力予算のうちでも最大のシェアを
占めていた。一般無償援助の対象は極めて広範囲に及ぶ。例えば、道路・橋梁建設、発電・上水下水・通信・鉄道などの社会インフラ施設の
建設、巡視船・フェリーなどの船舶建造、学校などの教育や病院・診療所などの医療・保健施設の建設などである。
JICSが一般無償で関わったのは当該施設に関連する援助ではなくほとんどの場合小規模な資機材の援助であった。しかも一連の援助実施
プロセスのうちでも入り口部分に相当する「事前調査」、あるいは出口部分に相当する「フォローアップ調査」であった。
その他「簡易機材調査」では基本設計調査を皮切りにして、その後JICAの推薦を受けて被援助国政府の代理人(コンサルタント)となって
機材調達・据え付け・技術指導まで請け負うことも重要な業務であった。
外務省の全責任の下で実施される無償資金協力に関して言えば、政府系特殊法人のJICAや公益財団法人のJICSが業務上関与する
内容や程度は援助形態ごとに異なっていた。JICSのミッションの基本的な使命としては、途上国から日本政府に無償援助要請が
なされた資機材について、JICAから委託を受けて様々な技術的調査を行なうことである。具体的には、
資機材要請の背景、技術的妥当性、援助に掛かる概算額、援助の効果などを調査し、報告書に取りまとめ、JICAに提出することである。
JICAはそれらを精査のうえ外務省に報告する。外務省はそれに基づき、無償援助の内容・額などを閣議に諮り、政府として援助につき
公式決定を下すことになる。
JICSが外務省から直接的に無償資金協力業務を請け負うケースもある。その典型例が「ノン・プロ無償」であった。
日本と被援助国との間で当該無償援助プロジェクトの実施が約束された後、JICSは被援助国政府とコンサルティング契約を結ぶ。
JICSは当該政府の代理人として、同国から要請される資機材の技術仕様を詰め、入札図書一式を作成し、国際入札(日本法人アンタイド方式)
に付す。そして、落札業者を通じて資機材を調達し同国に納入するという業務も担っていた。特定プロジェクトのための資機材ではなく、
途上国が経済社会発展に必要とする資機材であれば原則何でも調達可能であった。例えば、セメント、鋼材、アスファルトなどの
建設資材などを購入するために必要な資金が供与される。途上国はそれらを調達して、道路、橋梁などの社会インフラ基盤整備を
図ることになる。JICAは当該無償資金協力には一切関与しておらず、JICSが特命に預かる形で関わっていた。
「ノン・プロ無償」の場合、被援助国はそれらの資機材を入札手続きなどを経て国内販売し、その得られた資金は「見返り資金
(カウンターパート資金と称される)」として当該国の国庫の特別口座にデポジットされ、さらなる経済社会発展のための資金源として
有効活用されることになる。JICSが当該国政府の代理人として資機材の詳細設計から納入まで請け負う一連のコンサルティング業務
に対する報酬(コンサルタント料)は、日本政府からの無償供与資金の中に予算化されている。
休題閑話。さて、無償資金協力に「食糧増産援助(2KR)」という援助スキームがあるが、その2KR の援助対象資機材は、被援助国の
主要穀類の増産に寄与するはずの肥料、農機具、農薬などである。JICSでの最初の私の職務は、「業務第2部2KR課」が所掌していたこの援助に
関するものであった。
発展途上国での主要穀類は米、小麦、あるいはトウモロコシなどである。それらを自給できず輸入に大きく依存することが多々みられる。
当然の政策として、それらの生産性を向上させ、できる限り輸入量を削減し、国家財政支出を節減することが追求されることになる。
それらの農作物の増産に最も必要とされる資材が各種の化学肥料である。その他、病害による減収に対処するための農薬や、生産効率を直接的に向上させることにつながる耕耘機、トラクター、コンバイン、
精米機などの農業機械である。
被援助国の農業の一般事情、主要穀物の生産や輸出入状況、農業生産用資機材の輸出入状況などを調査する一方、要請される資機材の内容・
数量に関する妥当性、その調達に要する概算額などについて、報告書に取りまとめJICAに提出する。JICAはその報告書を精査のうえ、
フォーマリティーを整え外務省に提出する。外務省はその報告書を踏まえて2KR援助に関する閣議決定のための準備を整える。
2KR援助の対象国は年間50か国以上である。また、援助額は一か国につき数億円から最大5億円程度である。要するにJICSは、途上国
への2KR援助に関する閣議決定に役立てられる技術的基礎資料作りを担っている。
JICSは、JICAからの委託を受けて毎年の如く2KR被援助国へ現地調査団を派遣し、農業生産の一般事情、主要穀物の単位面積
当たりの収量や輸出入状況、農業生産資機材の輸出入状況、国内販売・流通事情などの最新データを収集し、報告書に取りまとる。
同書は、JICAが今後2KR援助の内容や妥当性を検討するうえでの基礎的技術資料と位置づけられる。JICSには年月を経るごとにこれらの農業生産関連データ
や資機材の技術的情報などが蓄積されてきた。また、職員の調査能力は年々向上していた。2KR資機材での入札は日本法人のみが参加できる、
いわゆる「日本タイド方式」であったが、複数の応札商社間で適切に価格競争が成り立つよう技術仕様(スペック)を作成すること
が肝要であった。
2KRには「ノン・プロ無償」と同じく「見返り資金(カウンターパート資金)」の積み立て制度がある。これは大変意義のある
優れものとなっている。被援助国政府は、日本から供与される償還不要な資金を用いて調達したそれらの農業
生産資機材を、国内での適正な入札手続きなどを経て、農協や民間業者に販売する。その売上金は政府の国庫特別口座に
納められ積み立てられて行く。そして、被援助国の政府関係機関と日本大使館・JICA事務所が適宜協議を重ねつつ、その資金を当該国の経済社会発展のための
具体的プロジェクトに有効に活用されるというものである。
約12年後の2007年に赴任した中米のニカラグアで図らずも目にした同資金の有効活用の好例がある。ニカラグアでは太平洋側と大西洋(カリブ海)側
とを結ぶ重要な幹線道路の一本だけが80%ほど舗装済みであったが、残部20%は未舗装であった。半年間の雨期中に道路は目だって傷み続け、
通行に支障を来していた。見返り資金が実際に活用されて辺境地にあるその砂利道を再整備し、住民や物資が円滑に往来できる
ように取り組んでいた。資金が循環し更なる発展に生かされるという好例である。
国民の社会生活の利便性と経済生産性の向上につながるものであった。見返り資金の有効活用の様を目の当たりにして心が大いに高揚した。その整備の落成式典
には、在ニカラグア日本大使の他、同国のオルテガ大統領も出席しての開所式が現地で開催された。正に国家プロジェクトとしての
力のこもった取り組みであった。
また、後年ブータンに出張した折のこと、2KR機材の利用現場に遭遇したことがあった。ヒマラヤ山中の嶮しい山また山が連なる
辺境地の山間部にある小さな農村において、2KRにて供与された耕耘機にトレーラーを繫ぎ、農業資材や農作物を運搬していた農民
に出会った。その活用の様を眼の当たりにして大いに感激したことを思い出す。またブータンの首都ティンプー
に所在する「農業機械化普及センター」では2KRによって供与された多くの農機具を含め様々な農業用機械類の修理・保守が行われていた。
その再生利用に真剣に取り組んでいる様に触れ、関係者の努力に目頭が熱くなり感激し、またセンター職員の努力へ感謝であった。
見返り資金の積み立て一般状況を始め、具体的にいかなるプロジェクトに活用されているかを管理監督するのはJICSの本来業務
ではなかった。だが、JICSの報告書においてその活用や積立状況などの情報が網羅されることが暗黙のうちに期待された。2KR資機材が適正かつ有効に活用され
食糧増産に結びつくだけでなく、2KR援助の結果積み上げられた見返り資金が他のプロジェクトに有効に投資され、経済社会的発展の
好循環が生み出されることが大いに期待される。見返り資金の積み上げと使徒をフォローし、実際にその有効性や相乗効果の確証を
得るにつけ、2KR業務に携わったことの誇りが自然と胸に込み上げて来た。
もちろん、2KRに課題がなかった訳ではない。被援助国で病害が発生しなかったことによるものか定かではないが、未使用の
2KR農薬が倉庫に長くストックされたままとなり、しかも農薬の一部が遺棄され環境上問題であるとマスコミ報道されたことがある。
また、当時であっても農薬の一部が土壌や生産物に残留し健康被害への影響などが世界的に大きな関心を集めていた。子供の頃日本の農村でもよく見かけたホタル、
メダカ、カエル、ミミズなどの小動物が近年では見かけなくなった事例が多い。長年の農薬散布の影響とも考えられる。
2KR供与の農薬について、当時にあっては害虫駆除などのためどこまで適正に利用されて
いるか、あるいは未使用農薬をどう適切に保管や処分されているのか、十分な関心を払って被援助国政府と協力してフォローすることは
少なかったと思われる。そのことに忸怩たる思いがある。当時国内の農薬製造業は特定構造不況業種として法的に位置づけられ、
政府が手厚い産業保護政策を執っていたことも影響したのかも知れない。農薬使用の現況や管理体制などにもっと関心を払って現地
調査し、技術的な視点から何らかのコメントを報告書に記し明示することが大事であったと振り返る。
私は農家の出であり、12歳の少年の頃から25歳になるまで米作りや種々雑多の野菜栽培などのため田畑で土や泥にまみれながら育った。
学生でありながらも農協組合員の資格が付与されるくらい田畑で勤しんだ。JICAやJICSで農業分野での国際協力の一端を担うのにまったく違和感はなかった。2KR課の誰よりも
農業を経験してきたと内心自負していた。それがJICSでの2KR課において自信をもって仕事ができた
所以であったかもしれない。青少年の頃からの土いじりの経験が高層ビルの一室での2KR業務に対する自信の下支えとなるとは
思いもしなかった。
もちろん、JICSに着任して数ヶ月間は出向者としては当然の如くに雑多な通過儀礼的な洗礼を甘受した。
当時、JICSの管理職の全員がJICAからの出向者で占められていた(もっとも専務理事だけは外務省出向者であった)。他方、
2KR課には、15名ほどの若い職員や若干名の年配のベテラン常勤嘱託が勤務していた。一人一人と向き合い、少しずつ意思疎通を図り、
課員の個性なども理解した。何の違和感もなく課員とベクトルを合わせ協働するという実感を得られるよう
になるまでには、それなりの精神的ストレスを伴った。また、出向者としても、課の責任者としてもそれなりに疎外感や孤独感を味わった。
いずれも初めての人生経験であった。特に出向者というのは着任後暫くは「異邦人」そのものであり、どうしても一種の「違和感」を甘受せざるをえなかった。
それは自身を成長させる良薬のようなものと自己納得するほかないものであった。
JICS勤務におけるそんな当たり前の体験のことよりも、最も忸怩たる思いに駆られたことがある。
無償資金協力は、「業務第2部」の50名ほどの職員が常日頃勤しむ業務であり、政府開発援助(ODA)の中の一つの重要な部分を構成する
ものであった。だが、無償資金協力について、何たるかの十分な経験と予備知識をもたず、それ故に何となく目に見えない後
ろめたさとプレッシャーを背中に感じながら日々業務をこなしたことである。
だから、そのことに関して自信をもってどっしりと構えて処するという訳にはいかなかった。無償協力の業務知識についてキャッチアップするのに時間が
必要であった。そして、半年もすれば知識も増し、そんな後ろめたさも徐々に氷解し、日々業務に精励することができた。だがしかし、
数年後になって無償協力業務の真の奥深さを身をもって体験させられることになった。
JICSの若い職員の先頭に立って業務するに当たり、無償協力業務についての知識不足は自助努力で補うことができたが、それだけでは
十分でないことを悟ることになった。職員と一致協働して、外務省やJICAというクライアントからの求めに応え、コンサルタントとしての
役務を供し、その対価としての報酬をいただくには、自身の全ての「人間力」を賭し、万事に当たることの大切さを知った。ある日のこと、自身の全人格を曝け出し、
全人間力をもって課員と向き合うことを決意した。職員が仕事に邁進し、そのもてる能力を発揮し、質の高い仕事をこなすという視座の下
、業務上の環境を整備することに心を砕き、それに集中するようにした。それからはすっかり肩の重石が取れ、皆のベクトルが同じ
方向に向き始めることが多くなったような気がする。
さて、JICSに勤務したことで、海からはさらに遠くに離れてしまった。それに、「海洋法制・政策ニュースレター」をはじめ、英語版
「海洋白書/年報」の類の発刊も1989年末頃までのことで、JICA人事部やJICS勤務の1990年初めから1994年頃にあっては、全く何の
論稿も編纂できない状態になっていた。ただ、海の語彙拾いとデジタル入力だけは続けていた。海洋博物館や水族館などへの関心
について前のめりになっていた訳でもなく、通りすがりに立ち寄って見る程度のことであった。また、当時はスチール写真の時代で
あった。撮影したそれら多くの写真をデジタル語彙集に張り付けるなどという発想も何ら持ち合わせていなかった。
だがしかし、JICS勤務も丸2年になって、たまたまニカラグアへ農道整備用のトラクターなどの「簡易機材調査」のために、
「タスク」というコンサルティング会社の森氏と調査に赴いた。そのことがきっかけとなって、語彙集づくりに革命的変化をもたらす
ことになった。後から振り返れば、海との関わりの観点からすれば、JICSへの出向は「遠回り」の人生ではなかった。図らずも、
森氏はインターネットへの「水先案内」をしてくれた。インターネットへの入り口へと導いてくれたことを踏み台にして、ついに
「オンライン海洋辞典づくり」の世界へと足を踏み入れることになった。
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