パラグアイは「海なし国」でありながら、2ヶ所もの「船舶博物館」があることを現地で知った。その存在は知的好奇心を大いに刺激してくれた。
迷うことなく早い機会を捉えてそれらの博物館を訪ねることにした。博物館の施設内容としては極簡素なものであったが、その見学はあるアイ
デアを閃かせてくれた。パラグアイに赴任した機会を最大限に利用して、近隣の「海あり諸国」に出掛け、港町や海辺を散策するだけでなく、
海洋辞典の「ビジュアル化」という目的意識をもって、その国の海洋博物館や艦船博物館、自然史博物館、水族館などを訪ね歩いてみ
たいという強い意欲が湧いてきた。そのことが、ポジティブな心を湧き立たせることになり、嬉しい限りであった。
アルゼンチンに1980年代中期に3年赴任していた頃、ブエノス・アイレスの「ボカ地区」の岸壁やブエノス旧港(現在のプエルト・
マデーラ地区)のウェットドック(感潮式船渠)などに係留・展示される船舶博物館の「ウルグアイ号」や「サルミエント大統領号」などを見学したことがあったものの、それは
ほんの通りすがりのたまたまの見学程度であった。アルゼンチンの何処にどのような海洋博物館があるかほとんど気にもかけていなかった。
ラ・プラタ川河口の大水郷地帯の最大都市ティグレに船遊びに出掛けた時、海洋博物館の存在を知っていながら全く素通りした。
だが、パラグアイ赴任で大きく目覚めた。いずれアルゼンチンを再訪できる機会が巡ってくることを待ち焦がれ、その時にはしっかりと
それらの博物館の展示品画像などを切り撮る意欲に燃えていた。
「海なし国パラグアイ」から飛び出して、近隣諸国のまだ見たことのない海辺や博物館などを訪ねることを思いついたのは、まさに
パラグアイ赴任がきっかけであった。訪ねる楽しみがあるだけでも、パラグアイでの生活を明るいものにさせてくれた。
それに、当時のウェブサイトの海洋辞典は文字ばかりであったので、海辺や博物館などでもっと積極的に画像を切り撮って、辞典をビジュアル
的に豊かなものにするのも、それはそれで一つの進化形であるに違いなかった。
その第一歩として、近隣諸国にある海洋博物館などを積極的に訪ね展示品を紹介するのもグッドアイデアであると大いに前のめり
になって行った。かくして、文字羅列の無味乾燥な辞典のコンテンツも画像でビジュアル化され、辞典訪問者にとって近づきやすく
、また取っ付きやすくさせるに違いなかった。
辞典のコンテンツをビジュアル化することでその進化を図ることができるばかりでなく、辞典づくりそのものをより楽しいものに
できそうであった。かくして2回目の南米赴任のチャンスを最も有効に活かすことができるとの想いであった。デジタルカメラをぶら
さげてパラグアイから飛び出して、積極的に近隣諸国のいろいろな海の世界を散策する旅に出ることを視野に入れ始めた。旅のプラニングも、また
辞典づくりもますます楽しくなった。週末や有給休暇を利用して近隣諸国に出掛け海辺で潮風に当たることの意義も倍加した。海外赴任者に
認められる日本への長期休暇一時帰国の権利を振り替えて、近隣諸国や米国などへのそんな海洋博物館巡りの旅に出ることも構想
した。
振り返ってみれば、港町に足を踏み入れ散策しながらも、海洋博物館の存在をほとんど気にもかけず素通りしてしまっていた
ことがいかに多かったことかと思う。素通りしてしまったそんな港町や海洋博物館を再訪して今度はしっかり見学して回りたい。
通りすがりに一度は見学した博物館であっても、新たな目的意識と視点をもって行なう二度目の訪問は新たな発見をもたらして
くれるという期待があった。
海洋博物館だけでなく、知的好奇心の幅を広げて自然史博物館や自然科学館なども訪ねてみたかった。たくさんの魚貝類や海洋哺乳
動物の骨格や剥製標本などの画像取得も期待できる。ローカルな郷土博物館であっても、思いがけない展示品に遭遇するかもしれない。
因みにずっと後に遭遇した驚きの体験があった。アルゼンチン・パタゴニアへの二度目の旅で、サン・フリアンという小さな漁村に立ち寄った。
同漁村はかつてマゼランが世界周航途上において越冬したことで有名だが、そこにある小さな郷土展示館にたまたま立ち寄った。
マゼラン艦隊のうちの一隻が近くの海で沈没したことは知られていたが、何と当時の艦隊のうちの当該沈船の木片であるという
遺物が展示されていた。科学者の調査分析結果の説明書きが添えられていた。小さな郷土館であっても、こんな歴史的遺物
(真偽のほどは100%ではないにしても)に出会うこともあるものだと、驚きと興奮を隠せなかった。
2000年当時はデジタルカメラの黎明期であったといえる。本格的に一眼レフのデジタル・カメラが世に普及し始めた頃であった。
私も買い込んで使いこなす努力をしていた。画像の画素数はまだ少なかったし、一個の記憶媒体に撮り込める画像枚数は数百枚
程度であったと記憶する。充電式単三電池4本を使用するカメラであった。だが、バッテリーの使用可能時間数や、また記憶容量も現在と
比較して圧倒的に少なかった。
日を追うごとに辞典のビジュアル化への期待値は高まって行った。辞典づくりや私生活の記録のためだけでなく、仕事のためにも
デジカメをオモチャのようにして写真撮影を楽しんだ。パラグアイの艦船博物館をはじめ、アスンシオン港の風景、パラグアイ川やパラナ川の
河川風景、プッシャーボートとバージのある風景、アルゼンチン・ブラジル・パラグアイを隔てる国際河川上に引かれている目には見えない
3国国境、巨大な「イタイプ・ダム」や迫力ある「イグアスの滝」の瀑布風景など、海ではないが内陸河川の水辺風景などを撮りまくった。
パラグアイ北西部の国土の半分ほどを占める「チャコ」地方の、特にパラグアイ川沿いの水辺は鳥類の楽園であった。その自然風景などを
デジカメに収め、赴任先の「企画庁」のホームページを通じてその素晴らしい自然の魅力を発信し、エコツーリズムを誘い込もうと
材料集めに現地踏査したこともあった。
デジカメは海洋辞典のビジュアル化を進めるうえで画期的でベストな文明の利器であった。従前のアナログカメラ
では、髙い経費を掛けて現像するまでその写り具合は全く分からない。それにアナログ写真をデジタル化するには、当時としては高額
の専用スキャナーが必要であった。また、そのデジタル化にはそれなりの手間が掛かった。スチール写真を200枚も撮影した場合にはネガ
の現像・写真の焼き回しに6,000円ほどもかかる計算であった。だが、デジカメの場合、画像を何枚撮っても、駄作を消去して
ベストショットだけを簡単に残すことができた。記憶媒体からパソコン本体にデータを移管すれば、媒体を何回でも使い回しする
ことができた。画像の写り具合を確認しながら撮影することもできた。カメラからパソコンへの取り込み、編集加工などの全てを自由
自在かつ手軽にできた。
ところで、画像が一気に増え、辞典のビジュアル化による進化は飛躍的に進展するはずであった。だが、時が経つに
つれて辞典への画像の貼り付けに慎重となった。辞典のフォルダーやファイルの階層構造の設定がまだ未熟で十分固まっていなかったからである。
画像を辞典に貼り付けリンクすればするほど、その後におけるファイル名の変更、ファイル収納先の変更など、
階層構造の修正を繰り返すたびにリンクの手直しが増え続けて行った。
デジタル画像をページに貼り付けても、そのリンクの手直しをすることがほとんどなくなったのはずっと後になってのことであった。
即ち、コンテンツの「選択と集中」を進め、階層構造がほぼ確定することができてからのことであった。因みに、「選択と集中」によって
画像のリンク設定を確かなものにできるようになったのは、パラグアイ赴任からほぼ10年後のことで、JICAから完全離退職した
2011年頃からのことであった。
休題閑話。2002年4月のこと、アスンシオンからチリを目指した。チリで最も訪ねてみたかった場所は、その最南端にある
「マゼラン海峡」であった。マゼランによって達成された歴史上の偉業の一つは、大西洋から「南の海」(スペイン人征服者バルボア
がパナマ地峡の南方の海岸で視認した、今でいう太平洋のこと)へ抜ける「海の回廊」の発見であった。西欧人で初めてパナマ地峡を横断し
「南の海」を視認したバルボアは、その海を「南の海」と呼んでいた(パナマ地峡は東西方向に連なっており、北にある大西洋岸から
地峡を南へ横断したので、視認した海は「南」に存在した)。その海峡を一度はこの目で見たかった。アスンシオンからその海峡
まで3,600km以上の旅であり、決して近くはなかった。だが、日本から訪ねるとすれば、40時間くらいは優に掛かるはずであった。
パナマ運河が開通するまでは、北米東岸のニューヨークなどから西岸のサンフランシスコなどへ行き着くには、
南米最南端の「ケープ・ホーン」の回航を余儀なくされた。「咆える南緯60度」と称される海域に位置する「ドレーク海峡」を
避けたい多くの船長は「マゼラン海峡」を辿った。故に、同海峡に面する「プンタ・アレーナス」は多くの船舶が通過往来し補給・
港湾都市として発展した(同じくマゼラン海峡に面するアルゼンチンのウシュアイアも同様に発展した)。
アルゼンチン赴任時(1984~1987年)、海峡の岸辺まで残すところ100kmほどの距離にある、アルゼンチン・パタゴニア地域南端の都市「リオ・
ガジェゴス」まで旅したが、海峡の岸辺に立つことはできなかった。今回の2回目の南米赴任が絶好のチャンスであった。
折角の機会であるが故に、チリ最大の港町「バルパライソ」の海辺も散策したかった。それに海洋博物館や自然史博物館なども見学したかった。
先ず、サンチャゴ市内の「オイギンス公園」内にある「市営昆虫・貝殻博物館」に立ち寄った。昆虫類や貝類に特化した自然科学館であった。
翌日、路線バスで、120kmほどの距離にあるバルパライソに向かった。バルパライソの町は太平洋岸沿いに南北に細長く伸びる平地に
しがみついているように見えた。海岸線のすぐそばまで丘陵地が覆い被さるように細長く南北に伸びる市街地に迫っていた。住宅は
平地だけでなく、その背後の丘陵地の斜面や、さらに上方の標高数百メートルはあろうかと思われる丘頂付近にまで広がっていた。
余談だが、パラグアイ赴任中チリで「中南米地域の在外事務所長会議」があり、サンチャゴへの出張の機会に恵まれた。
サンチャゴの外港であるバルパライソは首都から100km以上も離れており、気軽に立ち寄れるような距離ではなかったし、公務出張
の身で訪ねる時間的余裕などは全くなかった。だが、この時に土地勘ができ、いずれ改めてバルパライソや最南端の町プンタレーナス
などを是非訪ねてみたいという期待を膨らませることになった。水産室勤務時代に中米ホンジュラスへ出張した折、
太平洋岸の「フォンセカ湾」のマングローブ林越しに入り江を眺望したことがあった。中南米で初めて眺める太平洋であった。
だが、垣間見たのは広々とした太平洋ではなく閉鎖海に近い深い入り江の海であった。かくして、生まれて初めて中南米で太平洋を眺めたのは
バルパライソでのことであった。
さて、先ず散策したのは港地区の中心街にある「ソトマヨール広場」や「プラット埠頭」、海軍総司令部、太平洋戦争の
「イキケ海戦記念像」、さらにチリ海軍の「バルパライソ海洋&海軍博物館」などである。
博物館では海軍の歴史、近隣諸国との海戦の歴史、南極大陸での観測活動などに関するいろいろな展示物を見学した。また、
「バルパライソ自然史博物館」にも立ち寄った。
スペイン語で「アセンソール」というケーブルカーで市街地の下町から丘陵地の急斜面を辿った。その丘上からは眼下にバルパライソの街並みや港全体を180度
鳥瞰することができた。その先には太平洋が広々と横たわっていた。丘上には普通の一軒家を利用した「コクラン卿海洋博物館」があり、
それ故に探訪したものであった。だが、展示品のほとんどは市街地の「海洋&海軍博物館」に移管されつつあるとのことで、見るべきものは
そこにはなかった。早速、同司令部近くの高台にある「海洋・海軍博物館」を訪れた。チリで初めて訪れた本格的な海洋博物館であり、
わくわくしながら巡覧した。チリでしか見られない海洋歴史文化遺産の数々を見学することができた。
その後バルパライソ郊外の高級海浜リゾート地とされる「ビーニャ・デル・マール」に足を運び、「海洋文化博物館」と称される海岸沿いの
施設を訪ねた。だが、全面改装中のため休館中であった。折角なので、路面電車に乗り太平洋岸沿いに南下し、郊外にある小さな漁港
の船溜まりをのんびりと散策し、初めてチリの漁村や浜で働く漁民風景などを写真に切り撮った。
その後サンチャゴに戻り、空路にてパタゴニアを南下し、最南端の港町「プンタ・アレーナス」へ向かった。そこで初めてマゼラン
海峡を拝むことができた。港の埠頭界隈を心行くまでたむろして、マゼランが約1月もかかってようやく通り抜けたという「海の回廊」を
しみじみと眺め、一人感慨にふけった。マゼランはその後、何とマリアナ諸島のグアム島上陸まで太平洋上の島嶼を一度も視認し上陸する
ことなく太平洋を横断した。偶然にも彼の大洋横断は、全く島嶼に出くわさないルートを辿ることになってしまった訳である。太平洋は広大
といえども数え切れないほどの島嶼が存在する。にもかかわらず、そんな稀有な斜航横断ルートを辿ってしまったことは極めて
偶然なことであった。
「プンタ・アレーナス」には3,4の博物館がある。小さいが「プンタ・アレーナス海軍・海洋博物館」や、パタゴニアの開拓史や民俗
博物誌などを紹介する「サレシアーノ地域博物館」、その他「マゼラン大学自然科学部ラ・パタゴニア 研究所海洋館」などである。
パタゴニアでの開拓の歴史、海峡周辺地域の自然地理、極地に関する自然環境や動植物などを紹介する自然・社会科学関連施設群であり、
興味深く多くを学ぶことができた。
市街地の一角にある公園には、海峡の町のシンボルとして「マゼラン立像」が建てられている。立像の足元にはパタゴニア原住民
が座っているが、見方によっては西欧人のマゼランがパタゴニアの先住民を足元に置き従えるような印象を抱かせる像であるという。昨今では
先住民を蔑視するモニュメントとして批判に曝されているという話をどこかで小耳にはさんだ。更に南方の「ビーグル海峡」へと
足を伸ばしたいのはやまやまであったが、それは諦めてマゼランたちの航海を偲びながら飽きるまで海峡を眺め、飽きてはまた街の散策
を続けた。
さて、3年間のパラグアイ赴任中何度かブラジルを訪れることができた。いずれも週末の土日に1~2日間の有給休暇をプラスしての
ごく短い旅であった。単独行の場合も、また家族と共にした場合もあった。私的には、旅行期間の長さにこだわるというよりも、むしろ
自身の脚で立ち、自身の目で見たいものをしっかり観ることが重要であった。「マゼラン海峡」の次に訪れたい港町はサントスであった。
時を遡ればブラジルへの初めての旅は1983年のことであった。「アルゼンチン国立漁業学校プロジェクト」の設立に関する合意形成を目指して「ア」
海軍と交渉するためブエノス・アイレスに出張した折の帰途に、リオ・デ・ジャネイロに立ち寄り、調査団員と市中を散策した。
その後、ブラジルの地に足を踏み入れたのは、2000年にパラグアイに赴任して以降のことであった。
一度目は下見のつもりで一人で旅した。兎にも角にもブラジルの海岸にて潮風に当たりたかった。本当は空路サンパウロに降り立ち
路線バスを利用してその外港であるサントスに辿り着きたかった。それが最短ルートであった。だがしかし、当時JICAの規定上、職員がサンパウロへ公務以外の目的で立ち
入ることは禁止されていたことから、サントスへの旅を諦めていた。ところが、ふとしたことから、サンパウロから300kmほど南西にある
サンタ・カタリーナ州都の「クリチバ」という都市を経由して、先ずはブラジル南部諸州の海辺を散策する旅を思いついた。
「ポルト・アレグレ」などの海景色をまだ見たこともなかったし、
いくつかの海洋博物館もありそうであった。
クルチバはドイツ系の美しい町で、街並みも整然とし安全で居心地が良かった。そこには
JICA技術協力プロジェクトが実施されていて、同期入団の和田氏がリーダーを務めていた(ただし、彼はJICAを早くに退職し別組織に
転職し、そこからの専門家としての派遣であった)。彼と再会し夕食を共にしながら近況を語り合った。彼は帰国が視野に入っていたので、
彼に頼み込んでポルトガル語の辞書などを譲り受けた。いずれポルトガル語の海洋辞典づくりも念頭に置いていたからである。
その後、空路で「ポルト・アレグレ」へ飛んだ。そこから路線バスで「リオ・グランデ・ド・スル」へ南下した。大学の海洋博物館などを訪ねるためであった。
「リオ・グランデ・ド・スル」では、「リオ・グランデ市立博物館」をはじめ、「リオ・グランデ海洋学博物館」、
更にリオ・グランデ連邦大学財団の「海洋博物館」などをじっくりと見学した。これがブラジルでの初めての本格的な海洋博物館への訪問
であった。新鮮であった。喜々として博物館巡りを楽しんだ。ただ、残念ながら、リオ・グランデ州ペロータス (リオ・グランデ市近郊)
にあるという「ペロータス海洋博物館」への立ち寄りは叶わなかった。かくして、往路と同じルートを辿り、クリチバまで引き返した。
クルチバで市中散策するうちに少し欲が出て、路線バスで2時間ほどかけてブラジル高原を一気に下り、大西洋岸の歴史ある漁師町
「パラナグア」へ出掛けることにした。クルチバから70kmほどの距離である。歴史民俗郷土史を展示する市中の小さな「パラナ連邦大学・人類学および民族学博物館」に立ち寄り、
伝統的漁具などを見学した。風光明媚な海辺をのんびりと散策して、「海なし国」パラグアイでのストレスを大いに発散しリフレッシュし、
鋭気を養った。その後、クリチバに戻り空路アスンシオンへ帰着した。
さて、今回の旅で少し土地勘を得たこともあって、ふとしたことからサンパウロを経由せずサントスへ旅する方法を閃いた。ラッキーであった。サントスも
青少年の頃から一度は訪ねてみたいと憧れていた港町であった。その方法とは全くシンプルで、いわば「コロンブスの卵」であった。即ち、アスンシオンから空路クリチバへ、そこから
路線バスでサントスへ向かうという迂回路の行程であった。
かくして、2001年11月のこと、ブラジルへ2度目の旅に出立した。それもまた一人旅となった。家族(妻と次女)は
サントスへ旅する興味はなかったようである。それにサントスの港博物館、漁業博物館、海洋博物館・水族館、旧港の埠頭への訪問
など興味を抱くことのない施設への散策に付き合わせることも忍びなかった。初回の「予行演習」通り空路でクリチバに入り、その後路線バスでサントスへ向かった。
通常ならばサンパウロから路線バスで行くのが最短ルートであったが、サンパウロ市街地を経由してサントスへ辿ることはできなかった。
当時サンパウロへはJICAの内規上公務以外では立ち入れなかったからである。
だがしかし、苦肉の策として閃いたのが、空路で大きく迂回してクリチバに入り、そこから路線バスでサントス入りをめざすルートであった。
サントスはブラジル移住を目指す日本人にとっては記念すべき上陸起点となった。1906年(明治39年)に、日本人移民646人がハワイへ
送り届けられた。そして、「皇国殖民会社」(当時の社長は水野龍氏)の依頼を受けて、1908年(明治41年)4月28日、ブラジルへの
初めての日本人集団移住者781人名(そのうち、40%以上の325人が沖縄県人であった)が送り出された。当時移住者が乗り込んだ
ブラジル移民船が「笠戸丸」であった。「笠戸丸」は神戸を出港し、同年6月18日にサントス港の埠頭に着岸した。
第一次日本人集団移民のブラジル初上陸であった。その「笠戸丸」が着岸したという埠頭に一度はこの足で立ってみたかった。
「笠戸丸」が着岸した「第14番埠頭」の位置は、埋め立てなどで少し変わっているようであった。だが、埠頭をあちこち散策した結果、
同船が着岸したはずの、いかにも古い倉庫が岸壁沿いに並ぶ埠頭を見つけた。「笠戸丸」が凡そ100年前に第一次日本人移民を
乗せて到着した、その埠頭である。それらしき「第14番倉庫」そのものがまだ残されていた(ずっと後になって、倉庫内の側壁に ⑭ と
書かれた、大きなペンキ文字が残されていることを知った。それが「第14番倉庫」であることを示す唯一の証しであるという)。岸壁は
拡張のため埋め立てられ、その位置は少しずれているという。たが、古い倉庫が残され、昔の埠頭の趣きが色濃く残されていた。
かくして、青少年時代に抱いていた夢がついに実現した。青少年の頃の夢として、神戸~パナマ運河~ベレン(アマゾン川河口)
~リオ・デ・ジャネイロ~サントス(サンパウロの外港)~ブエノス・アイレスの南米航路の船乗りになってサントス港に身を置くこと
である。当時からコーヒー積出で有名なサントス港の埠頭に「あるぜんちな丸」などの大型貨客船(移民船)を着岸させ、当時
としてはブエノス・アイレスに肩を並べる華やかなりし大都会サンパウロを訪れてみたいと思い描いていた。サンパウロは当時は
東京よりも繁栄した大都会であったといわれる。
夢見た頃から優に40年ほどの歳月が流れていた。青少年時代に描いていたサントス港への接岸の夢、勿論船乗りとしての入港では
ないにしても、40年にしてやっと夢が叶い、「笠戸丸」が着岸した辺りのサントス港岸壁の土を踏むことができた。流線形の
優美な移民船「ぶらじる丸」や「あるぜんちな丸」が数多くこの埠頭に接岸し、何万人と言う移住者とその家族が
この埠頭から上陸して行ったに違いない。サントスの埠頭に立ち、潮風に吹かれた時は感極まり涙が出そうであった。
古い倉庫が立ち並び石畳が続く埠頭を暫しぶらつきながら、何をするでもなく佇み戯れた。サントスの旧港風景をしっかりとこの目に
焼き付けた。
さて、サントスでは目途にしていた幾つかの博物館を訪ね歩いた。大西洋からサントス港に入港する場合、船は「サンビセンテ島」を
めがけてやってくる。そして、入港船は怖ろしいほど急カーブをなしている狭水道入り口へと進んでくる。昔、日本からの多くの
移民船が通過したはずの、サントス港へのアクセスチャネルの入り口に立った時、再び感激で感涙するところであった。それはさておき、その入り口近くの一角
に民間経営の「海洋博物館」があり、そこを何とか探り当てて訪問した。規模は小さいが、海事に関する展示品が所狭しと
並べられていた。その後、「漁業博物館」を訪ね、ブラジルの漁具漁法や漁業一般事情をいろいろと学んだ。
さらに「港博物館」にも足を運んだ。親切にも、館長が「日本の船の写真もあるよ」と指し示してくれたのが、1950~60年代に南米移民船
として活躍した大阪商船の例の「あるぜんちな丸」、「ぶらじる丸」であった。両船の雄姿が、あたかも成人式に臨む乙女の晴れ姿
を切り撮った写真であるかのように額にきちんと収められていた。青少年の頃に航海士となって日本と南米を行き来したいと憧れた頃の、
あの優美な移民船の雄姿が飾られていたのには感激した。サントスでもいかに両移民船が注目されていたかを思い知った。
両移民船の写真や絵画を見るたびに航海士を夢見ていた頃のことを思い出す。遠い過去のことになってしまったが、私の心にしっかり刻まれ
決して忘れることはない移民船の雄姿である。港博物館では、額に収められた「笠戸丸」や「第14番埠頭」の写真なども展示されていた。
1908年に日本から初めて集団移民を送り届けた「笠戸丸(6000総トン)」の当時の写真を初めて見たのは同館でのことであった。
サントス港がコーヒー積出とともに発展した歴史的系譜の一端を知ることができた。初めての集団移民の多くはコーヒー栽培農園での過酷な労働に従事した。
さて時改めてのこと、サントス市営の水族館の他、サントス市街が立地する「サンビセンテ島」からフェリーでその狭水道の対岸に
位置する「グアルジャ地区」に渡り「アクアムンド」という近代的な水族館を訪ねた。ブラジルで初めて訪れた本格的な水族館である。
その後、サントスから路線バスでサンパウロ郊外にある「サンパウロ大学海洋博物館」を訪ねた後、空路アスンシオンへ舞い戻った。
三度目のブラジルへの旅は2002年1月のことであった。今回は家族4人で旅することになった。アスンシオンから空路クリチバへ向かい、
市内の繁華街などをそぞろ歩きした後、路線バスでサンタカ・タリーナ州の海辺の都市「サンフランシスコ・ド・スル」へ向かった。
目途は「海洋博物館」の訪問であった。大きな倉庫を改装したような博物館に数多くの船模型などが展示されていたのが印象深かった。
最大の展示はカヌー、小型沿岸漁船、帆船などの数え切れないほどの船模型である。特に巨大な帆掛け式アウトリガーやカヌーを
含む数多くの実物の展示は圧巻であった。さすがに国立の海洋博物館だけあった。翌日、路線バスで海岸線沿いにサントスへと直行した。
翌日、家族でホテル近くに広がる白砂の海浜をぶらついたりした後、路線バスでサントスの旧市街地区を一通り
散策した。現在では歴史的名所となっている「コーヒー取引所」も訪れた。大勢の日本人移民がかつてコーヒー・プランテーションにおいて
安い労働力として身を粉にして働いたという苦難の歴史が何となく頭の中をよぎった。その後、新しい発見を求めて
前回の旅でも訪れた「市立水族館」、「漁業博物館」などの海洋関連文化施設に立ち寄った。
日を改めて、路線バスで「ウバテュラ」という大西洋岸沿いの海辺の町へ一人出掛け、少し個人的繋がりのあった「ウバテュラ水族館」
の館長を訪ねた。その後、バスを乗り継ぎリオ・デ・ジャネイロへ向かった。目途は、旧市街の「プラサ・キンゼ地区」の「11月15日広場」の
すぐ近くの風光明媚なウォーターフロントにある「海洋文化センター」という海洋博物館を訪ねることであった。
博物館は「グアナバラ湾」に面し、その地先にはブラジル海軍基地が所在する「コブラス島」 が浮んでいる。
「海洋文化センター」は本格的な海洋博物館で、見学するにつれその充実ぶりに鳥肌が立つ思いであった。主要展示テーマとしては、
優雅な船室をもつガレオータ「国王6世号」、航海の歴史、ブラジルにおける海底考古学の紹介、アルベス・カマラ・コレクションなどであった。
因みに館内での主な展示物としては、実物の漕ぎ船 (ガレオータ)「国王6世号」、羅針盤・クロノメーター・ハンドログなどの
航海用具、櫓櫂、古い地図や地球儀、ガレー船・バイキング船・カラベラ・ガレオン・クリッパーなどのさまざまな船模型、船首像、
艦砲システム、沈船から発掘された考古学的遺物(貴金属、陶磁器、食器類など)、船・カヌー・筏の絵画などである。
展示品の陳列は室内だけでなく、埠頭には軽装軍艦、潜水艦、タグボートなどの幾つかの艦船が係留・公開されている。
例えば、軽軍艦「バウル号」、潜水艦「リアチュエロ号」の他、1910年英国で建造された2本の煙突をもつタグボート「ラウリンド・
ピッタ号」などである。
同センターでは多くの画像を切り撮った。まさに、ポルトガル植民時代からのブラジルの海と船にまつわる歴史、
文化、技術などを学べる知の宝庫であった。余談であるが、同センター近傍に所在する「海軍博物館」は残念ながら休館であった。
さてその後、バスでサントスへとんぼ返りして家族と合流した。翌日サントスからアスンシオンへ帰投した。短い旅であったが、幾つもの
近代的な海洋博物館や水族館などを見学でき、海洋辞典のビジュアル化への大きな一歩となりそうで、その喜びは大きかった。
ブラジルへの4度目の旅は、ウルグアイに在住の日系農家へ嫁いだ日系人の友人の結婚式に出席した折であった。ウルグアイ
への旅は初めてであった。出席の機会を利用して先ずはアルゼンチンへと向かった。ブエノス・アイレスを経由したのには理由があった。国際高速フェリーでブエノスから
川幅100kmほどもあるラ・プラタ川河口水域を横断してモンテビデオへ渡海してみたかった。また、17世紀にマゼランが世界一周航海
の途上で来航し名付けたという、ウルグアイの首都・港町モンテビデオの港風景と丘上にひろがる街並み風景を見ながら入港
してみたかった。
先ずアスンシオンから空路ブエノス・アイレスへ。港近くの「レティーロ駅」から路線電車でラ・プラタ川河口の大水郷地帯にある
ティグレを散策した。今回は「海事博物館」は再訪せず、迷路のような巨大な水路網を巡る遊覧を楽しみ、その水郷風景を再び目に
焼き付けた。久々に「ビエッホ・アルマセン」にて本場のタンゴ演奏も楽しんだ。私的には、1983年に初めてブエノスの土を踏んだ時に最も感激した
スポットであった。JICA同期の河合君の案内で我われ調査団員はタンゴの生演奏に酔いしれた。そこで初めて本場のタンゴに触れた。
決して忘れることのない感動を体験した。翌日、ブエノス・アイレス港の国際フェリー乗り場近くの埠頭に停泊する、アルゼンチン海軍の
航海訓練帆船「リベルター号」や、海軍所属の砕氷船にも偶然遭遇しその雄姿をしっかりと切り撮った。その後、高速フェリーに乗り込みモンテビデオへ。
2時間近く疾走しても、大河の水はカフェ・ラテ(ミルクコーヒー)の色に染め上げられていた。
マゼランがモンテビデオと名付けた港町をじっくりと海側から眺めることができた。港の背後にはそれほど高くはないが丘陵地が
横たわり、そこに市街地が広がっているのが見て取れた。マゼランがその丘陵を見て、「我モンテ(山)を見たり」と叫び、モンテビデオと
名付けたと言い伝えられている。モンテビデオの港内にはウルグアイ海軍の基地があって、何隻もの小型艦船が停泊して
いるのが印象的であった。
当時、マゼランは世界周航の途上でこの地にやってきた。何故か。このラ・プラタ川が大西洋から「南の海」(現在の
太平洋)へ通り抜けることができる「海の通路(回廊)」なのか否かを確かめるためであった。彼は先遣隊を派遣して、このラ・プラタ川を遡上
することを部下に命じた。大デルタ地帯の中のいずれの川筋を辿ったのかは知らないが、先遣隊が遡上を続けても結局淡水のままであり、
川であることを確信した。彼はジパング(日本)やカタイ(中国)に通じる「南の海」への回廊でも狭水道でもないものと判断した。
マゼランは踏査に見切りをつけて、大陸沿いに更に南下を続けた。そして、パタゴニアのサン・フリアンで越冬せざるをえなくなった。
翌年ついに「マゼラン海峡」への入り口にある岬を発見し、それを「百万回マリア様に感謝する岬」と名付け、狭水道へと船を進めて行った。
そして、1か月間も費やして複雑に入り込む狭水道を無事通過し、バルボアが視認した「南の海」と思われる大洋に出ることができた。
さて、路線バスでウルグアイの内陸部にある田舎町へ向かい、教会での友人の結婚式に参列した。夜の祝宴は途中で退席して
モンテビデオに戻った。翌日、モンテビデオ市内の「海洋博物館」に出向いたが、生憎の休館日であった。友人の元JICA専門家に小一時間
ほどホテルで再会した後、路線バスで百数十km東方の「プンタ・デル・エステ」へ先を急いだ。同地は風光明媚な海岸風景を擁し、ウルグアイでも
有数の海洋リゾート地であり、ポルトガル植民地時代の要塞なども遺されている。同地に立ち寄った目途は郊外の「ラ・バーラ・デ・
マルドナード」にある海洋博物館であった。ウルグアイの海の歴史と文化の他、海洋生物(鯨類・魚類・甲殻類など)の豊富な標本の展示がなされ、
多くの画像を切り撮った。
翌日、空路でブラジルのサンタ・カタリーナ州「サンタ・カタリーナ島」にある海浜の町フロリアノポリスへ向かった。
フロリアノポリスには美しい海とビーチが広がり、「海なし国」のパラグアイの人々に圧倒的な人気を誇っていた。国内外の避暑客に
余りの人気振りなので、その地を一度は訪れ散策してみたかった。正に予想通り、この世のパラダイスを謳歌したいという
避暑客で大賑わいであった。ビーチから出立する小型遊覧帆船でクルージングヨット・ツアーに参加した。ヨットは海風を受けて、
同島最北西端の少し本土寄りに浮かぶ島(Ilha Anhatomirim Grande Floripa)へと快走した。そこにはポルトガル時代に建てられた
大規模で堅牢な要塞(Fortaleza de Santa Vruz de Anhatomirim)があり、その内部に設営された小さな海洋歴史展示室を見学することができた。
余談だが、4度にわたる旅の他に、ブラジル領に何百歩か足を踏み入れたことがあった。パラグアイ北東部に「ペドロ・ファン・
カバジェーロ」というブラジルとの国境の町がある。陸地の国境のない日本では到底体験できない面白い町であった。「チャコ」
地方を北西へと横切り「ポーソ」という田舎町へ。その後は東へ横切って、その国境の町へ。途中、1864~70年の「三国同盟戦争」
で時のパラグアイ大統領ロペスが戦死したという丘を訪ねた。さて、カバジェーロ市街地に一本の大通りがあり、真ん中に
幅数メートルの花壇式の中央分離帯がある。その中央が国境線となっている。
両国市民は大通りに沿って立ち並ぶショップを右に左にと横切りながら、買い物をして用を足すのである。
中央分離帯が国境線であると人に指摘されなければ、車も人もそこに国境線があるとは知らずに無意識に両国を行ったり来たり
することになる。それを良いことにして内陸部へ深く越境すれば、何処かで官憲の検問に引っ掛かることになる。
パラグアイ赴任中アルゼンチンへも何度か旅をした。初回は、2000~2001年の年末年始に、家族(妻・次女)で里帰りした。
いわばアルゼンチンへのセンチメンタル・ジャーニーそのものであった。エセイサ国際空港でレンタカーを借りて市内に向かった。
市街地へ通じる懐かしい道、何度行き来したことか。ブエノス・アイレスで最も華やいだ「フロリダ通り」は歩行者天国であり、
再びお上りさんになってウインドウショッピングをしながらそぞろ歩きをした。タンゴ・ショーなども楽しんだ。私は1993年の
「生活環境実態調査」以来のブエノス再訪であったが、妻にとっては15年振りで、次女は当時1~3歳児でアルゼンチンでの記憶などあるはずもなかった。
「プエルト・マデーロ」という、再開発されたブエノス旧港地区のウェットドック(感潮式船渠)界隈を散策したり、そこに係留展示される艦船博物館
「サルミエント大統領号」などを再訪した。さらに、「ボカ地区」にも足を伸ばし、同じく艦船博物館の「ウルグアイ号」を再訪した。
また、三人でラ・プラタ川河口域にある大水郷地帯の町ティグレにも足を伸ばした。アルゼンチン赴任中(1984~87年)ほとんどその存在
を気にもかけなかったが、2000年のその訪問時に初めてアルゼンチン海軍所轄の「国立海事博物館」を訪ね、数多くの画像を切り撮った。
海洋辞典づくりを始めてから初めてのアルゼンチンにおける本格的な海事博物館の見学となり、数多くの展示物を切り撮ることができた。
ブエノス郊外にあるブエノス・アイレス州都ラ・プラタには、ラ・プラタ大学付属「自然史博物館」があり、約15年振りに再訪し、
改めて鯨・イルカ類などの数多くの海洋哺乳動物の骨格標本などの画像を切り撮った。
その後、かつて何度も行き来した大草原「パンパ」の道を辿ってマル・デル・プラタへドライブし、大みそかから正月3日までそこで
過ごした。家族ぐるみで交流していた近隣の友人家族らとも再会を果たした。長女(当時5~7歳)とほぼ同年代であった子ども達とも再会した。
もう20歳前後の立派な大人であった。かつて住んでいた住宅やその周辺がどうなっているのか、わくわくしながら訪れた。
長女が通ったドイツ系幼稚園・小学校や、かつて勤務していた「国立漁業学校」を訪れ、何人かの元同僚や旧友と再会した。
漁港に隣接してシーフードレストランや鮮魚店などが集積するコンプレックス界隈を散策したりして、まさにセンチメンタルな
感慨にふけった。港内にはトドの営巣地があり、沿岸漁船が係留される岸壁や、時に漁船船首甲板上にトドが寝そべる姿は変わら
ない風景であった。
その後、マル・デル・プラタを出立してパタゴニアを大西洋岸沿いに南下した。途中「トレス・アロージョ」という田舎町で、
次女が3歳になるまで乳母として世話をやいてくれた夫人を、住所を頼りに探し出し彼女宅に辿り着きついに再会を果たすこと
ができた。感激であったが、次女にとっては実質的に初めての対面となった。その後、南下を続け野生動物の宝庫であるバルデス半島へ。また、同半島を
周回して、自然の海に戯れるオルカ、トドなどを観て回った。その後、半島の最寄りの港町プエルト・マドリンにある本格的な「海洋博物館」
を訪ねた。さらに大西洋岸沿いに南下し、「プンタ・トンボ」にあるマゼラン・ペンギンの野生の営巣地を訪れた。海岸沿いの営巣地
に集まる無数のペンギンの風景は圧巻である。その後は、海から離れ、無味乾燥的な風景が延々と続く広大なパタゴニアを横断した。
途中、化石化した大木が転がり、まるで「月の砂漠」のような景勝地に立ち寄った。アンデスの麓にある、「南米のスイス」と称されるバリローチェを再訪し、
数日アンデスの大自然の中を散策した。その後、再びパタゴニアを横切り、ネウケン、バイア・ブランカを経てブエノスに戻った。
大豆、小麦、トウモロコシ、牛肉などの農牧産物の積出港として繁栄するカサブランカでは、郷土展示館のような「港博物館」
を訪ね、辞典の材料集めをした。
さて、その後2001年6月のこと、単独でマル・デル・プラタに舞い戻った。同地に新しく創設されたという貝類標本の展示に特化した
「貝博物館」の他、近代的な「水族館」を見学したかった。同博物館はかつては郷土博物館のようなものであったが、アルゼンチン
赴任中は一度も足を運んだことがなかった。だがその後、何万種という貝類標本を展示する専門館として開設されたことを
知った。当時マル・デル・プラタには水族館すら存在しなかった。実際に訪問してみて、その貝類標本の多種多様性と、学名・
スペイン語標準名の分類表示など、その展示の充実ぶりにびっくり仰天した。大変立派な貝類コレクションの陳列がそこにあった。数日かけても
貝標本の切り撮りは終えられず、再訪の機会を見つけることにした。だがしかし、その何年か後に貝類標本のオーナー兼館長は閉館
することを決定したらしいことを、ずっと後に小耳にはさんだ。オーナーにとっては恐らくは元々ボランティア精神での展示で
あったのであろうが、見学者数も伸びず、さすがにその気力を喪失してしまったのかもしれない。撮影に疲れ果てていたが、
最後にマル・デル・プラタ郊外の「プンタ・モゴーテ」の地に新設されたその近代的な水族館を訪ね、アシカショーなどを楽しんだ。
こうして、3年間のパラグアイ赴任において、週末や有給休暇の他、専門家の長期休暇制度などをフルに活用し、「海あり近隣
諸国」の海辺や港界隈をたむろしてリフレッシュを図り、また海洋博物館、自然史博物館、水族館、その他史跡・景勝地などを訪ね歩いた。
博物館などはその国の海の歴史、文化、技術、自然などを知るうえで「知の宝庫」であった。また、数多くの貴重な画像を収めること
ができた。パラグアイ赴任中「海あり国」への旅を通して何十万枚もの画像を切り撮った。その極めつけの好例は、
米国東海岸に沿っての30日間に及ぶ博物館巡りの旅であった。その冒険的な度については後節で触れたい。今もってその時の画像を
加工処理しながら辞典サイトへのアップを続けている。いろいろ旅を続けてきたが、世界は余りに広く、未だ見ぬ海の景色や海洋
歴史文化施設などに満ち溢れている。が積み残されている。パタゴニア最南端のフエゴ島南部の狭水道「マゼラン海峡」やそれに面する
港町ウシュアイア、さらに南の「ビーグル海峡」への旅も是非実現したいと希望を持ち続けている。
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