下山すれば間もなく大学4年生となり就職活動にも本腰を入れなければならない頃であった。冬山の雪中の世界にいた私は
ふとしたことから、ニューヨークの国連本部事務局への奉職を目指すことを閃いた。それからは人生に何の
迷いもなくなった。当時はそう確信した。閃いた時が雪中世界のことであったので脳裏に鋭く刻まれたようで、今に至るまで
当時のことをよく憶えている。
大学3年生だった12月、兵庫と鳥取の県境にまたがる氷ノ山近くの冬山山中(鉢伏高原・兵庫県養父市)にて冬期合宿と称して
大学のサークルのワンダーフォーゲル部の仲間と雪上訓練をしていた。ある夜、雪上テントの寝袋で眠りに就いたが、下山後の
就職活動のことが気にかかり、なかなか寝入ることができず、悶々としていた。そんな中、何故か最近読んだ岩波新書の単行本「国際連合」
(明石康・国連事務次長著)のことを思い出していた。その時、突如として国連本部への奉職のアイデアが脳天に突き刺さった。
卒後の進路についての迷いから完全に吹っ切れた。国連職員として国際社会の平和・秩序の維持や貧困撲滅などの課題解決に
何がしかの貢献を果たしたいという志しが覚醒した。
国連奉職の夢を実現するための第一歩として、法学部から大学院修士課程法学研究科(国際法専攻)へと進学した。そして、
幾つかの偶然と巡りあうという天佑もあって、米国ワシントン大学ロースクール大学院の「海洋総合プログラム」への留学の機会を掴むこと
ができた。留学中は英語に苦労しながら必死に勉学に励み、何とか1975年10月に修了した。最初の学期でのこと、ある履修必須
教科の酷い成績に打ちひしがれ、留学継続を諦めドロップアウトして早期帰国することすら真剣に思い悩んだこともあった。年齢はすでに26歳になっていた。とは言え、アメリカ
やカナダのロースクール大学院での履修者たちのほとんどはそんな年齢であった。2学期末には学業成績は持ち直しできた
こともあって、他方国連奉職への志しは再び熱く燃え盛り、その実現可能性を信じて希望に満ち溢れた。
米国留学の結果修士号を得た私は、国連海洋法担当法務官を目指して帰国後の早い段階で国連人事局へ
アプリケーション・フォーム(履歴書などの出願書)を郵送した。最低限の応募資格要件を満たしていたはずである。欠けていたのは
専門的実務上のキャリアであった。学業を終えたばかりで何の実務経験もなかった。さて、帰国後に相当の無理をお願いして
お世話になった職場は、東京都内の西新橋に事務所を構える「潮事務所」という個人事務所であった。その規模は甚だ小さかったが、国際海洋法制や
日本の海洋政策・海洋開発の最近の動向、その他海洋を巡る
諸課題の調査研究に携わる、個人が主宰する事務所であった。国連に志願する身であることからして、わずかでもキャリア形成の一助につながり、
それをアピールできることを期待してのことであった。アプリケーション・フォームにも自信をもってそのことを記載することがあできた。
だが他方で、同事務所には一つの大きな不安材料があった。事務所の財政事情に関するものであった。日本で開催された
海洋法制に関する国際シンポジウムの討議録やその他の資料の翻訳を請け負ったり、当時国会で批准の
是非が審議されていた「日韓大陸棚共同開発協定」などに関する提言を取りまとめた研究レポートの作成などを手伝ったりしていた。
事務所は所長と私の二人だけで、時に「英企画」という半ば兄弟会社(翻訳事務所)に席を置く同年輩のイラストレーターが時に
出入りしていた。
さて、事務所の財政事情としては、月々の事務所の借り上げ費、私の人件費、新聞・資料購入費、交通費などを賄うには厳しい
経済的状況にあった。明るい将来展望を描きたかったが、事務所の将来に不安を抱き、時に悲観的な思いに引きづり込まれがちであった。
私への給与支払いを含めて経営責任を一手に担っていた所長が置かれた厳しい経営環境や所長自身の苦しい胸のうちを慮って悶々とすることが
多かった。他方、実績につながると思い、週末などには、マンガン団塊の開発と海洋環境保全、中国の領海法、国際海峡の通航と非核三原則など
に関する論文を学術誌に投稿したりして、自身の実績作りにも励んだ。
悶々とすることが多かった1976年の春先のこと、朝日新聞(朝刊)に掲載された「職員募集」という一つの広告記事が偶然目に
留まった。それが人生に「革命」的な転機をもたらすことになった。「政府開発援助(ODA)」の実施機関である「国際協力事業団(JICA)」
が社会人中途採用者を募集するという広告記事であった。世界の発展途上国への日本政府の技術協力や無償資金協力などの実施を
担う政府系特殊法人であった。青年ボランティアを発展途上国に派遣する「青年海外協力隊(JOCV)」の活動も所管していた。
迷うことなく応募し、都内・広尾にある協力隊事務局・訓練所で一次試験(筆記試験)を受験した。その後、二次試験(面接試験)を受けるに至り、
運よく合格できた。
当然のことながら、給与がきちんと支払われ、私的な懐事情は真に安定し、それがどれほど有り難いものであるか、身に沁みた。
茶封筒に入った正真正銘の「給料袋」なるものを受け取った。生まれて初めての経験であった。前事務所の財政基盤を振り返れば、私
の経済生活は薄氷の上に成り立っていたようなものであった。JICAへの就職によってそのような状況から脱却することができた。
毎日緊張感をもってしっかり働き、月末近くには給料を頂けるのは誠に有り難かった。何よりも、東京での一人暮らしの生活基盤が想像以上に盤石
となり、心の中に明るい灯がともり心身共に温かくなった。それに、何百人もの仲間と仕事を共にすることになり、孤独感からも
一挙に解放された。
発展途上国へのODAの実施部隊としての実務を担い、それを通じて国際社会へ何がしかの貢献ができる
立ち位置を得る一方で、今後JICAの仕事を通じてどの程度海のことと関わって行けるのか、私的には大いに関心を寄せていた。
内心多少の期待を抱いていたが、その内容や程度について具体的イメージを描くのは難しかしく、未知数であった。確かなことは、
国連海洋法務官としての専門職を目指して実務的なキャリアを積み上げ、他方でポストの空きを長期にわたり待機するという観点から
すれば、何がしかのプラスのキャリア形成に資するものであり、ポジティブな働き場所に違いないということであった。そして、入団して数年後には、
「水産技術協力室」で4年近く勤務し、その後引き続いてアルゼンチン海軍所轄の「国立漁業学校」での技術協力プロジェクトの「JICA
業務調整員」としてアルゼンチンへ赴任(3年)することになった。JICAという職場の中ではこれ以上の配属先は望み得ないという
ほどの勤務環境と立ち位置を得ながら海洋漁業プロジェクト運営の実務経験を積み上げることができた。
とは言え、JICA勤務の初期の頃は、海との関わりが見通せない状況に置かれていたので、海洋法制・政策に関する研究テーマを真剣に模索し、
自主的な研究を続ける他なかった。即ち、仕事上海とのつながりはほとんど期待薄だったので、自主研究という形で「二足のわらじ」
を履く以外に、海洋法制や政策に関するキャリア形成を積み上げられる方途はなかった。当時「第三次国連海洋法会議」は佳境に
入りかけていた。先ず、日本の海洋政策や海洋開発の動向などについての自主研究の結果を4~8ページの「ニュースレター」(邦語版)
に取り纏め、その発行に取り組み始めた。さらに、非営利の任意研究団体としての「海洋法研究所」の創始を構想し着手を始めた。
「潮事務所」顧問の浅野長光先生(東京水産大学海洋法講師)に相談し協力をお願いし、その活動を始めた。かくして、正に二足のわらじを履き
マルティワークを少しずつ軌道に乗せるべく足を一歩前に進め始めた。
何時のことか思い出せないが、国連に出願して1,2年経た時のこと、国連本部の海洋法担当事務局のアナン局長から突然に
エアメールを頂いた。
「残念ながら、現在海洋法担当法務官ポストの空席はない」との趣旨が記されていた。わざわざポスト状況を直接連絡
して頂いたのは、ワシントン大学でW.T.バーク指導教授の下で修士号(LL.M)を修めたが故のことに違いないと勝手に想像した。
バーク教授は国際海洋法の分野では世界的にその名が知られていた。エアメール受信の正確な年月日の
記憶はないが、1976~7年の頃だったと記憶する。
1970年代初めから始まった「第三次国連海洋法会議」は1975年当時まさに佳境に入りつつあったが、国連海洋法事務局では林司宣(のりたか)氏が日本人の海洋法
担当法務官として同会議に深く携わっておられたことは分かっていた。会議が佳境に入るなか、同氏が法務官ポストを
離任され空席となるのはいつのことか、全く予測不可能なことであった。国連海洋法条約が実際に採択されたのは、その5年後
の1982年であった。少なくともそれが採択され、署名のために開放され諸々の付帯業務が完了するまでは、そのポストが空席になる
可能性はほとんど期待できないと推測していた。それもあって、ポストの空席見通しなどを、アナン局長に執拗に照会する
ことは甚だはばかれるところであった。少なくともそう思い込んでいた。アナン局長からそれ以来連絡を頂くことはなかった。少なくとも条約が採択されるまでは
とても空席はないものと頭から思い込んでいた。また、条約採択後は海洋法事務局の法務官ポストは削減されることになると勝手に思い込んでいたのも事実である。
国連へのアプローチがいかにも消極的で受動的であったに違いなかったと、当時の思いを振り返って深く反省することになった。
さて、JICA入団後の最初の配属先は「研修事業部」であった。発展途上国から来日する多くの技術研修員と日常的に関わった。担当した
技術研修には、当時通産省傘下の地質調査所、海洋科学技術センター、東京大学・海洋研究所他、多数の研究機関が全面協力する「沿岸資源探査集団研修コース」
の運営管理、国連工業開発機構(UNIDO)からの要請により「深海底資源探査開発技術に関するチェコスロ
バキア研修員向けの個別研修コース」の設営と運営なども手掛け、海との関わり合いをそれなりにもつことができた。国内の政府系海洋研究
機関、公団、大学などとの協議や、研修員に同行しての視察など、そのつながりは大いに刺激となり、研修業務に遣り甲斐をもって取り組めた。
後から考えれば、アナン局長に先ずはJICAへの就職のこと、海洋関連研修を含むODA技術研修プログラム・オフィサーとしての
勤務の他、日本の海洋法制や政策に関する自主的な海洋研究と「ニュースレター」の発行など、
最近における海との関わりを手短に報告しておくべきであった。少なくとも、研修事業部3年間の実績を踏まえて履歴書などをアップ
デートしておくべきであった。
余りに消極的過ぎたことが今更ながら悔やまれた。それが当時の第1の失敗であった。
国連でのポスト空席状況が変わらなくとも、履歴書などをアップデートすることで国連人事局や海洋法事務局とのパイプを保つべきであった。
空席状況の如何にかかわらず近況の一報を入れるだけでも、アップデートされた履歴書やその付帯物としての通信文は、人事局のロースター内の
しかるべきフォルダー内に間違いなくファイリングされたはずである。それをしなかったのは私の怠慢以外何ものでもなかった。ポストの
空き状況の直接的な照会でなくとも、1~2年に1回でも、また国連海洋法担当法務官の職にあった林氏が今もって在職中
であるか否かにかかわらず、例え一方通行的なものとなったとしても定期的に近況などをメモにして報告するか、または履歴書をアップデートするだけでも、国連との
間でパイプをつないでおくことができたはずである。だが、何故かそんな気は回らず、体も動かなかった。思うに、JICA研修事業部における
技術協力の遣り甲斐と醍醐味にかなり埋没していたのかも知れない。
その後、1979年から1983年までの3年余り、「水産業技術協力室」に配属された。世界中の途上国において展開される数多くの
漁業関連プロジェクトを密に運営管理した。例えば、漁撈技術向上のためのチュニジアの「マディア漁業訓練センター」プロジェクトでの
座学・実技訓練、水産高校などでの漁業教育、ホンジュラス地先のカリブ海での水産資源調査、魚介類の増養殖などに関する
「インドネシア浅海養殖プロジェクト」、アラブ首長国連邦ウム・アル・クウェインにおける「水産増養殖センター」の設計や建設
に対する施工監理業務などに従事した。プロジェクトの実施条件などの合意形成、専門家へのプロジェクトの運営相談や評価などのために、
現地サイトへ数知れず出張した。「海洋総合プログラム」で学んだノウハウをフルに活かしながら、やり甲斐をもって
水産分野における国際協力に真正面から向き合った。
さて、水産室での「独り言」が思わぬ方向へ私の運命を導いた。「独り言」がもたらした2年後の人生航路の「転針」に驚愕する
ばかりであった。同室に配属された前半期は、担当地域としてはイスラム圏諸国が多かった。
そこで、半ば冗談に「担当プロジェクトが余りにイスラム諸国に偏っているので、たまには中南米のプロジェクトなどを担当したい」と
仲間の先輩職員に聞こえるように、個別的なバーター取引を提案したいと半ば明示するような独り言を発した。
結果、先輩職員との間でアルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」と交換することになった。そして、それを成立させるための
合意形成交渉にベストを尽くした。1983年には3度も日本・アルゼンチン間を往復し、同プロジェクトの技術協力と無償資金協力
に関する協議に深く関わり、その成立に全身全霊をもって取り組んだ。国連海洋法会議では丁度その頃、「国連海洋法条約」が1982年に
採択され各国の批准に付されていた。他方、同プロジェクトの樹立に目途をつけた私は、プロジェクトへのJICAの「業務
調整員」としての赴任を人事部に認めてもらおうと、上司に働きかけるとともに、他方でスペイン語能力向上に情熱を燃やし続けていた。
かくして、プロジェクト調整員としてアルゼンチンへの赴任が認められることになった。水産分野での技術協力に3年余のキャリア
を既に積んでいたことから、また、国連では1982年に条約が採択されことから、履歴書をアップデートし、人事局とアナン
局長に送付し、もってロースターに履歴書や通信文をファイリングしてもらっておく好機であった。当時連絡を取っていれば、何がしかの
空席情報やその他のサイド情報を得られていたかもしれない。だが、履歴書をアップデートする機会も、また
サイド情報を得るきっかけも再び逃してしまい、1984年にはアルゼンチンへと旅立ってしまった。当時アルゼンチン赴任に前のめりになり、
少なくとも3年間はほとんど国連のことは頭の片隅に追いやられていた。何よりもましてプロジェクトに全力投球する
必要があった。
だが、それは言い訳に過ぎなかった。赴任中であっても履歴書のアップデートや「疑問符付きの照会」をしていれば、国連当局から
「履歴書を受領しフォルダーにファイリングした」旨の
返信を得ると同時に、何らかの空席などのサイド情報が書き添えられていたかもしれないと悔やまれる。そうしなかったのは怠慢以外何ものでもなかった。当時林司宣
氏は在職中と分かってはいたが、そんなことに頓着せず、少なくとも履歴書をアップデートし、近況を知らせる短信を同封しておくだけ
でもよかった。
水産部門での対途上国ODA援助に従事していること、国連奉職になおも情熱を燃やしていることを知ってもらえたはずである。
また、「国立漁業学校プロジェクト」に勤務中であっても、ポストに空席が出れば知らせてほしい旨をレター末尾に追伸でそっと
添え書きできたはずである。しかし、それもしなかった。全く思い付かなかった。アルゼンチンでの業務に浮かれていたのではなかったのか、それとも赴任中に
ポスト空席がオファーされても迅速に転職に応じることができないので気後れしてしまっていたのか。
というのは、赴任途中で転職することになれば、アルゼンチン赴任を強力に支えてくれた上司や、1年遅れであっても赴任を懇願していた
プロジェクト・リーダーや、ハードな交渉の過程で日本側へ幾度も歩み寄りの努力を示してくれたオルティス漁業学校長などへの一種の恩義や私の赴任を受け入れてくれた彼の特別の期待を裏切るようで、
それは到底できないとの忸怩たる思いがあった。
アルゼンチンでの勤務を途中で放棄して転職するなど、いくらなんでも過去数年の経緯からしてありえないことであった。
だが、そういう事情があったとしても、今から考えれば、赴任前においても、また赴任中であっても、ましてや帰国後においても、
少なくとも1~2年に一度は、履歴書のアップデートと、数行の近況報告くらいをしたため、それらを国連人事局ロースターなどにファイリングして
もらうべきであった。それをしなかったのは、余りにも消極的で受動的であり、志しを忘れたかのような不作為であり、
悔やまれることであった。忸怩たる思いでずっと苛まれた。雪上テントの中で国連奉職を閃き、固く決意し、歩んできた人生を慮って、もっと真剣に自身の行動を正すべきであった。
自分で自らの人生の夢と志しを貫徹することを忘れ、自らそれを押しつぶしてしまったようなものであった。だが、他方で別の思いを抱いていたことも
事実である。水産室での技術協力とアルゼンチンでの仕事に合計7年間も携わり、それらに最強のやり甲斐をもって向き合い、そして
それを「天性」の職務と受け止め満足してしまっていたのであろう。JICAの技術協力に埋没し、国連への思いは「一時中断」していた
かのようであった。
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