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    第16章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その2)
    第6節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう


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       第16章・目次
      第1節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第2節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く(その1)
      第3節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く(その2)
      第4節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
      第5節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第6節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう



  さて、アルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」に関わり始めた頃、何とアルゼンチンと英国との間で南米パタゴニア沖に浮かぶ フォークランド(マルビーナス)諸島を巡って戦争が始まってしまった。そのため、アルゼンチン側とのプロジェクトの合意形成のための交渉は かなりずれ込んでしまった。だが戦争は懸念したよりずっと早く終結した。そして1983年の一年間に技術協力や無償 資金協力の調査団に加わり3度も往復してプロジェクトの成立に取り組んだ。さて、1984年春から87年3月まで赴任すること になり、「タンゴとパンパ」の異国で家族と共に3年間過ごした。帰国時には既に39歳を迎えていた。 「国連海洋法条約」は1982年に採択され、その批准のため各署名国に開放されて間もない頃であった。それが発効したのは大よそ12年 後の1994年のことである。日本が批准し加盟したのは、その2年後の1996年のことであった。

  アルゼンチン赴任2年目の1985年に入ってすぐに一つの閃きを得て、あるチャレンジングなことを始めた。プロジェクトではスペイン語 ・英語・日本語の3ヶ言語で、航海・船舶運用、漁業、魚貝類の同定、漁獲物処理などに関する専門的な語彙が日常的に飛び交っていた。 それを拾い集め大学ノートに書き留め、海洋関連語彙集づくりに取り組むことにした。スペイン語圏での漁業学校勤務は、そんな 語彙拾いと海の語彙集づくりをするにはベストな語学環境や立ち位置にあった。それにプロジェクトの専門家らにとってもいずれ役立つは ずのものであった。

  語彙の蓄積は早い段階から、大学ノートによる「アナログ的書き溜め方式」を卒業して、デスクトップ・パソコンの日本語ワープロ ソフトを使ってのデジタル入力方式に切り換えた。さすがに語彙の修正や入れ替えが自由自在となり、効率は抜群にアップした。 そして、2年間そのまま続けた。1987年3月末の離任に当たってそれをどうするか悩んだ。語彙集はプロジェクトの実用に資する までには至らず残念であった。とはいえ、途中で語彙集づくりを放棄する訳にはいかず、帰国後も語彙拾いと語彙集 づくりに取り組むことにした。語彙集づくりはどういう結末を迎えることになるのか、それを気にかける余裕は全くなかった。 語彙づくりを止めれば、またそこで全ては終わりそれまでの努力は無に帰すことになる。一日30分でも語彙づくりに没頭すると、ストレスは 緩和され、一服の清涼剤あるいはリフレッシュ剤としての効能をもたらしてくれた。何故か。少しずつでも語彙の蓄積を行えば、 その成果を可視化することができ、それを肌で実感しえたからである。日常勤務において語彙集づくりを通じて海と関わり続けられること はアルゼンチンでの仕事と生活を楽しくしてくれた。そして、遣り甲斐が湧き出るチャレンジングな目標となりつつあった。

  1987年春にアルゼンチンから本帰国し、その後1994年までの7年間、予想した通り海と関係のない国内部署を渡り歩き、 海から遠ざかることになった。1987~89年に配属となった「農計部農業技術協力課」では、途上国で農業試験栽培事業を行なう日本企業 に対する投融資(JICAの長期低金利のローンの提供)を通じて、途上国での農業開発を支援するという業務に携わった。 純然たる民間事業への支援を通じて途上国への社会経済的発展に資する汗を流すことは新鮮であった。常に事業の経済採算性を注視 する必要があることから、当該業務は大変新鮮であり遣り甲斐をもって向き合った。

  1989~92年に配属となった「調達部契約課」では、JICAが実施するODAの海外調査事業に従事するコンサルタントの選定や契約の締結、 不可抗力発生時などにおける契約上のトラブル・シューティングなどに携わった。私の法的バックグラウンドからすれば、 一度は配属されてもおかしくない部署であった。

  ところで、契約課で思いもしなかった運河調査案件に関わることになった。 日米パナマ三カ国からなる国際組織「パナマ代替運河調査委員会」からの要請であった。運河の代替案を多元的かつ詳細に検討し、 同委員会に報告する任務を担うコンサルタントを選定することになった。その選定のための国際入札に必要とされる関係書類 一式を作成するという業務を同委員会から外務省を通じてJICAが請け負うことになったものである。その他、数え切れないほどの技術協力や無償資金 協力関連の海外調査(例えば、開発調査、基本設計調査など)に携わるコンサルタントを選定し、 事業が完了するまで見届け続けた。コンサルタントのリクルートと契約履行の見届けは常に緊張を伴うものであったが、遣り甲斐の ある法務関連業務であった。

  1992~94年に配属となった「人事部職員課」では、国際協力のために国内外の最前線で働く1,200名の職員を支えた。社会保障 関連手続き、定期健康診断の実施やその他健康面でのサポート、何百戸という数多くの社宅の管理、その他福利厚生面での 改善などに日々向き合った。丁度45歳前後でのことであり、中核を担う職員としての責務も重くなっていた。業務内容はそれまでの海外プロジェクト事業運営とは異なり、 いわゆる「官房部門(非事業運営部門)」に属する「縁の下の力もち」的な職務が多かったが、それぞれの立ち位置をわきまえつつ、 最善かつ遣り甲斐をもって取り組んだ。他方、他部署からの依頼を受けて、意外にも年間数回程度の海外調査もこなし続けた。 かくして、JICA本部の3部署での7年にわたる国内業務はJICAマンとしての経験値の幅を大いに増進させてくれた。

  7年間の国内勤務では仕事上ほとんど海との関わりは無くなってしまい、海から遠ざかった。海との関わりは海洋語彙集づくりの他には、 海洋法制・政策などの自主的な研究とその成果としての「海洋法制ニュースレター」や「海洋白書・年報」に類する報告書(英語版) づくりのみであった。それらはプライベートなこととはいえ、相当の個人的エネルギーの投入が求められるものであった。 プライベート時間におけるこれらの取り組みを通して、私的には何とか海との関わりを維持し「二足のわらじ」を履き続けた。

  繰り返しになるが、アルゼンチンから帰国後2つ私事に取り組んだ。一つは海洋語彙集づくりを再開し、それを通じて独自に 海との個人的な関わりを求め続けた。パソコンを買い込み、今まで以上に語彙集づくりへの取り組みに情熱を燃やし、 ますます前のめりになった。語彙集づくりが「人生の新たな目標」になりつつあった。もちろん、国連奉職への志しに 取って替わるところまでは至らなかったが、遣り甲斐と醍醐味と楽しさ、その社会的意義を大いに感じ入って果敢に挑戦しようとしていた。 過去を振り返れば、語彙集づくりのチャンスは人生で2度あったものの、何の成果も得られないままとなっていた。今回は 3度目の挑戦でもあったので、ここで諦めることなどできなかった。また語彙集づくりは英語版「海洋白書・年報」づくりと 重なり合っていた。語彙集はその「白書・年報」づくりの副産物となる一方で、後者を推進するための補助エンジンとなっていた。

  もう一つの取り組みは、「海洋法研究所」の活動再開である。その中核的事業に据えようと決意したのが、自主的で独立独歩の 海洋研究、特に日本の海洋法制・政策や海洋開発の動向などを取り纏めた英語版 「海洋白書・年報」づくりであった。片や邦語・英語版「ニュースレター」の再発行はほとんど副次的なものとなっていた。 同研究所代表の浅野長光先生との二人三脚で、再び英語版「白書・年報」づくりに向き合い、秘かに熱く情熱を燃やした。 これらの2つの取り組みはいずれも余暇時間を活用したプライベートなことであったが、社会的価値と遣り甲斐に突き動かされる チャレンジであった。

  JICS勤務時代の1990年代中頃にインターネット時代が到来してからは、「ウェブ海洋辞典」づくりに専念集中することになり、 英語版「白書・年報」づくりについては十分なエネルギーを傾注できなかった。今から振り返れば、当時のウェブ海洋辞典の中に英語版 「白書・年報」を少しずつでも組み入れ、一つのホームページとして統合化し、同時並行的に世界へと発信すべきであった。 渾身の力とエネルギーを振り絞ってそれを実現すべきであった。だが残念ながら、現在までそのアイデアは実現されるところまでは 至っていない。未だ諦めることなく2024年の今日まで胸に温めている。1990年代中期のウェブ辞典の黎明期における アイデアをなおも追いかけたい。現在でもその具体化と実現に向けて希望を繫いでいる。

  休題閑話。アルゼンチンから帰国後のこととして、その帰国報告を兼ねて、また国連出願時の履歴書のアップデートを願い出て、国連 人事局や海洋法事務局と通信のやり取りをすべきであった。そして、国連人事ロースターに眠る 自身の履歴書に追加的にファイリングしてもらうべきであった。例え一方通行になったとしても、そんな通信を送り届ける べきであった。だが本来のJICA業務と、私的な2つのビッグチャレンジに前のめりになっていた故のこと、そのことには気が回らず、 体もついていかなかった。さらに言えば、目の前の当座の「二足のわらじ」を履く情熱に酔いしれていたのかも知れない。

  時は少し遡るが、1994~97年にかけてJICAから公益法人の「国際協力システム(JICS)」へ出向となった。そして、語彙集づくりに 対する決定的な転機が出向中であった1995~96年に訪れた。あるコンサルタントとニカラグアへ「農地整備用機材調査」 のため出張した時のことである。彼はその当時世界中で話題となっていたインターネットのことについて、口角泡を飛ばしながら熱心に解説してくれた。 帰国後ネットサーフィンの実演まで披露してくれた。その時から全てが変わった。世界中のパソコンがネット上でつながり、情報が 瞬時に世界と共有しうることを実経験させてくれた。海洋語彙集を「ウェブ海洋辞典」として広く世界に発信し、共有し、役立てて もらえれる可能性があることを即座に悟った。ネット時代を迎え、語彙集づくりは今までとは全く異なる次元へと「グレード アップ」することになった。

  かくして辞典づくりの方向性を見定め、その可能性が一挙に広がった。デジタル語彙集の「ウェブ辞典化」を 押し進め世界へ発信するというという大目標が目の前に出現した。英語版「白書・年報」すらネットで発信できる可能性があった。 だが、既述の通り、辞典づくりへの圧倒的な前のめりのために、「白書・年報」づくりそのものは先細って行った。今でも後悔している。 だがしかし、2024年の現在になっても、それにチャレンジしても遅くはないという思いがある。

  浅野所長の他界が大きく響くことになった。結局英語版「白書・年報」づくりの継続や辞典との統合化には手が回らな かったが、ウェブ辞典づくりについてはネットで発信すべく集中的に取り組んだ。それまで10年にわたり創り上げ、自身のパソコン 内部のみに存在する語彙データを世界と共有できることになった。それはまさに晴天の霹靂であった。ついにそんな情報通信の 革命的技術進歩の恩恵を享受できる時代がやってきた。語彙データが日の目を見ることになった。これまでの語彙拾いの 努力が報われることになり、感謝感激で涙が溢れんばかりであった。かくして、ここに人生の新しい大目標が生まれ落ちた。 一生かけても「完成点」には到達しえない目標ではあったが。

  1997年頃JICSからJICAへ復帰し、「無償資金協力業務部・業務第二課」に勤務した。JICAには業務上幾つかの中核的 部署があったが、無償資金協力関連部署は合計8課もあるほど中枢的であった。実はJICSでもこの無償資金協力業務 に3年間従事していた。JICSは公益法人でありながら、本来民間企業がこなすコンサルタント業務(資機材や土木建築物関連のプロ ジェクトの基本設計調査と、それに続く被援助国政府の代理人としての調達や建設の施工監理業務)にも携わっていた。 資機材案件を中心に途上国政府の代理人となり、国内外の調査をこなし、資機材調達の入札を取り仕切って納入業者を選定し、 その納入・据え付けなどの監理業務もこなしていた。

  その経験が買われたのか、中国・南西アジア地域と中南米全域を担当する無償資金協力業務に 2年ほど携わった。足掛け5年無償資金協力に深く関わり、職務上の経験値を大幅にアップさせることになった。おまけに、同部 業務第二課時代に日本側のコンサルタントと納入業者、更に被援助国政府を巻きこんだODA不正取引事件に巻きこまれもした。 カリブ海・ドミニカ連邦の首都ロゾーでの漁港整備計画での設計ミスによる修復事業にも初期対応した。他方、プライベートな世界では ウェブ海洋辞典づくりに励み続けた。海の辞典づくりは私を海の世界に引き戻し、海を友にすることでいつも心を落ち着かせてくれた。

  記憶を辿ってみれば、国連奉職への願望や志しを意識的に失って行った訳ではなかった。だが、結果的に志しは 自身の頭の片隅に追いやられて行った。思い起こせば、情熱が少しずつ色あせて行ったというのが真相であろうか。何故か。 1990年代中頃のネット時代到来でウェブ辞典づくりが新しい人生目標としてパッと大きく花開いたからであった。そして、 ウェブ辞典づくりが人生の次の新しい目標となった。国連奉職への志しに取って替わるものと確信したのは、「ウェブ海洋辞典」 がネットを通じて世界に発信できた頃であった。即ち、ウェブ辞典づくりが本格的に軌道に乗った1990年代末期の頃であった。すでに50歳であった。

  他方、「国連海洋法条約」が1982年に採択され、ついに1994年に発効もした。世界では同条約への関心が国際場裏から徐々に薄れて行ったのと同じように、 私の国連への関心も薄れ行くことを自覚していた。国連海洋法事務局はその役目を終えて、その規模は縮小されることは十分予想された。 事実、国連海洋法務官の林司宣氏は1996年に国連を離れられたことをずっと後で知ることになった。林氏は1971年に国連本部に 奉職され、その後同条約が発効し日本が批准をした1996年まで、25年間在籍されていた訳である。1996年のその頃は、 私はJICSに勤務し、私事としては「ウェブ辞典」づくりに情熱を燃やしていた頃と重なる。
(国連海洋法務官に空席ができ「募集中である」ことは、さらにずっと後で知った。既にJICAを役職定年し、その後契約ベースで赴任していた ニカラグアから帰国して間もない頃であったと記憶する。既に還暦を過ぎJICAから完全離職する少し前のことであった)

  さて、更に決定的な転機が訪れた。13年ぶりに2000年~2003年まで南米パラグアイに赴任することになった。2000年には52歳となっていた。赴任によって 「ニュースレター」は勿論のこと、「海洋白書・年報」づくりは途切れることになった。再びの中断であった。希望を繫いだのは、 「ウェブ海洋辞典」づくりを続けるには、パラグアイは内陸国ではあるがスペイン語圏であり、よい語学環境にあると思えた。 事実、自宅のデスクトップパソコン、プリンター、ハードデスク、ソフト類など全てのデジタル資機材をアナカン荷物としてパラグアイに持ち込んだ。そして、 3年間赴任中その語学環境と私的な時間を生かして、ウェブ辞典の「進化」と世界への発信を中断させないように取り組むことになった。

  スペイン語圏であるパラグアイでは西和・和西海洋辞典づくりに大きな刺激をもたらしてくれた。「海なし国」でありながら 海軍を有するが、実は2つも「船舶博物館」が所在することを知った。その稀有な博物館をウェブ辞典サイトで紹介することにチャレンジした。その過程で閃いたのが、近隣の 「海有り諸国」であるアルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイなどの海洋博物館やその他海洋歴史・文化・自然系施設を探訪し、 それらを紹介するページづくりである。それと同時に、画像を関連見出し語などに貼り付けビジュアル化することを思い付いた。 パラグアイからの帰国後になるが、アルゼンチン赴任中に切り撮ったそれら諸国での数多の画像から特選したフォトをもって 「海と船のギャラリー」を辞典内に創り、辞典の充実を図ることにした。辞典づくりは「進化」の歩みを止めることはなかった ものの、3年間の「パ」赴任は国連奉職への情熱を思った以上にクールダウンさせてしまったといえる。

  国連奉職への志しのフェーズアウトを決定的にした近因や直因は、ウェブ辞典への一層の前のめりであった。その遣り甲斐と醍醐味 が突出したからである。ウェブ辞典に「白書・年報」づくりを組み入れることは現実にできなかったが、その可能性があることはいつも 明るい期待をもたらしてくれていた。

  大目標を得たことが最大かつ直接的な要因であったが、他方間接的な遠因が幾つもあったと感じる。 時が経るにつれ、いつしか国連への情熱は徐々に薄れて行った。新たな大目標を得たのは、ウェブ辞典づくりと世界への 発信が眼前に大きく開けた1990年代中頃のことであり、国連への情熱のクールダウンはそれを起点にして始まって行った。振り返ればそういうことであった。 とはいえ、情熱喪失の間接的な要因や背景をそれなりに総括しておかねばならないと思い立ち、ここに記憶を辿ってみることにした。

  国連海洋法務官への情熱がさめる間接的な要因をいくつか列挙するとすれば、先ず年齢が一番の要素であった。国連奉職への 情熱がみなぎり、最もエネルギッシュであったのは30歳代であり、志願への 最適齢期でもあった。だが、30代のほとんどの時期を、JICAの水産室や「アルゼンチン漁業学校プロジェクト」で過ごした。 国連の一専門機関である「食糧農業機関(FAO)」の水産局に勤務する国際公務員と同じような立場で、途上国の水産セクターにおける 振興のために向き合っていたようなものであった。そこには、大きな自己満足、醍醐味、遣り甲斐があった。 現実的な観点からすれば、国連に採用されるに最も相応しい時期は、アルゼンチンからの帰国直後であったであろう。JICAでの水産関連業務を 通じてキャリアを積み、スペイン語もそこそこ堪能となっていた頃であった。年齢は40に達する目前であった。ラストチャンスと思える 年代でもあった。かくして、国連に再チャレンジするにはそれなりの高エネルギーを必要とし、その頃には相当高い「年齢の壁」に ぶつかっていた。

  アルゼンチンから帰国後9年ほどJICA本部の国内部署(農技・契約・職員の3課)に張り付き、予想通り、もはや仕事で海に 関わることは期待できなくなっていた。海洋関連のキャリアアップにつながる部署はほぼなかった。それは十分覚悟していたことであり、 折り込み済みであった。故に私的には、ウェブ辞典づくりや英語版「白書・年報」づくりなどの二足のはらじを履いて、何とか海との 関わりを維持し、自主的にキャリアアップを図ろうとしていた。だが、自ずと限界を感じざるをえない状態が長く続くことになった。

  国内勤務を通じ「JICAマン」としての経験値はアップし、給与面や待遇、仕事上のポジション、その責務の重さなどの全ての 側面において、徐々にアップすることを実感していた。年俸も入団以来右肩上がりで、国連のそれと大差があるとは思えなかった。 特に海外赴任した場合はJICAから国内俸も支給され、年俸の可処分所得ベースでいえば恐らく国連のそれと比して劣るとは 思われなかった。JICA入団後既に15余年が経ち、中堅部員であり、責務もかなり重くなりつつあった。 トータルに見れば、当時経済成長期にあったこともあり、JICAでの国内外での勤務は居心地よく十分満足感を得られる状況にあった。

  さらに、国際社会への貢献、即ち発展途上国の「国づくり人づくり」に携わることの誇りや遣り甲斐は増殖される一方であった。 目指した国連海洋法担当法務官という国際公務員の立場ではないが、政府系特殊法人・国際協力事業団の職員として、 途上国の人々や異文化に交わりつつ、何がしかの国際貢献に関われるという立ち位置にあった。 国連に奉職しなくとも、JICAを通じすでに国際貢献への末端を担っているという自負や誇りも生まれていた。 だから、その裏返しになるが、JICAという居心地の良い居場所を放り投げて国連にチャレンジする気概とエネルギーを 再び燃焼させるには相当辛いものがあったのも事実である。

  他方で、過去の国内外における公的業務や自主的海洋研究を通じて自身の「実力」を如実に自覚させられるようになっていた。例えば、 英語やスペイン語でどれほどまで専門的内容を伴う論理的展開を行ない、ステークホルダーと互角に渡り合っていけるのか。 自身の真の実力を冷静に見つめ直した場合、それに懐疑的になることも多くなっていた。特にアルゼンチン帰国後9年間は、 海外出張の機会も多かったとはいえ、国内業務に塩漬けになっていた。 ましてた、国際海洋法関連の業務領域でステークホルダーと日常的に喧々諤々渡り合って切磋琢磨してきたわけではない。今後英語・スペイン語 をもって法務官としての職務を果たしうるのか、自問自答するたびに一抹どころではない不安感を覚えざるをえなかった。

  大量の公式・非公式文書を読みこなし、国連の法的立場・見解や加盟諸国のそれらを迅速に取りまとめ、各国にタイムリーに提供し、 また様々な会議を取り仕切り、上司・同僚や関係者への専門的報告や提言、その他論理的見解などを適格に発信できる能力は 十分なのか。自身の国連専門職員としての真の適格性やコミュニケーション能力、実務能力などを真剣に顧みると、自信が持てなくなって いる自分に気付くことも多かった。故に、海洋法務官の空席ポストを求めて国連へ積極的にアプローチすることに億劫となり、 消極的・抑制的になっ ていたことを自覚しつつあった。

  また、多国籍の専門職員間で、表には現われてこない激しい「出世競争」に勝ち抜いていく覚悟がいる。それに立ち向かえ るだけのどんな能力を持ち合わせているのか、時に自問自答した。 今となっては、国連本部の多国籍職員間での激しいポジション争いとなる異空間に飛び込み、多才異才な外国人上司の下で厳しい 人事評価に自身を晒しながら、彼ら職員に入り混じって勤務することに気後れし、空席ポスト探しに能動的、積極的になれず、 二の足を踏んでいたのかもしれない。

  かくして、諸般の事情と自身の複雑な想いが交錯し、それに長く引きずられてきたのが実相かもしれない。 何故、国連への志しを自然消滅させるかのようにそれをクールダウンさせてしまったのか。若かりし頃神戸商船大学への受験を 強い覚悟をもって諦めたように、国連奉職への志しを諦めたものではなかった。いつしか自然と遠ざかってしまったといえる。 大目標はいつの間にか色褪せ、憧れと志しはゆっくりと時を経ながらほぼ脳裏から消えて行った。いわば自然消滅的な「燃え尽き 症候群」といえるものだったのであろうか。 「国連に奉職できなくとも・・・・」という思いを惹起させ膨張させながら、いろいろな言い訳を心に住みつかせてしまった。 法務官への志しや情熱を失っていくことを是とする魔物を心に住みつかせてしまった。そこには忸怩たる思いがあった。だが、 他方で新たな志しを見つけそれに邁進する決意を固めた別の自分の存在があった。ネットへのウェブ海洋辞典の発信を継続させる という決意をもってパラグアイへ赴任する自分がいた。すでに50歳を過ぎていた。

  特に30歳代であったアルゼンチン赴任前後において最大限積極的かつ能動的アプローチを取っていれば、その後の人生航路は また違った方向に進んでいたかもしれない。反省すべきことは幾つもある。とはいえ、JICAという職場での天職の全うと、 「ウェブ海洋辞典」づくりという海との関わり、そして二足のわらじを履くことを選択肢としてチョイスしたことに全く悔いは ない。結果的にみれば、JICAでの天職の全うと、辞典づくりという二足のわらじを履き続けた。そして、JICAから完全離職 した後はずっと「一足のわらじ」を履いて、海洋辞典づくりに無心に、そして楽しく取り組んできた。海を共にしてこれからも人生の 豊かさを感じ続けたい。

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    第16章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その2)
    第6節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう


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      第1節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第2節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く(その1)
      第3節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く(その2)
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