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    第16章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに海外の協力最前線に立つ(その2)
    第2節 米国東海岸の海洋博物館を巡る旅に出る


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       第16章・目次
      第1節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第2節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く(その1)
      第3節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く(その2)
      第4節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
      第5節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第6節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう




米国ボストンの海軍工廠埠頭に係留される「コンスティテューション号」
米国東海岸の海洋博物館に展示されるアメリカズ・カップ参加艇



  思いがけず、「海なし国」パラグアイで2か所もの船舶博物館を発見したことが大きなきっかけとなり、是非とも希少価値の 髙いそれらの博物館を「ウェブ海洋辞典」で紹介しようと思いついた。博物館の紹介は辞典を単にビジュアル化することに繫げる ばかりではない。切り撮ったいろいろな画像を見出し語などの語彙に添えることによって、文字での語釈にプラスした形で、語彙に関する情報を 重層化するのに役立つことに繋がるてる。

  辞典ではその用語を文字で簡潔に説明するのが基本だが、一枚の画像は500文字以上の説明書きに優るも劣らないものと期待しての ことでもある。辞典・辞書は一般的には文字の世界である。例えば、邦字見出し語に対し英仏西葡語などの対訳を記し、また必要に 応じて語釈を付したりするわけで、一般的には「文字ばかりの世界」、「文字の大海」である。だが、文字ばかりだと、無味乾燥的であると 敬遠されがちとなろう。辞典に画像(写真)やイラストを貼付し、文字による語彙説明を補い、辞典全体をビジュアル的することで コンテンツを一層豊かにできるものと、船舶博物館見学をきっかけに思い付いた次第である。

  パラグアイ近隣諸国のアルゼンチン、ブラジル、チリ、ウルグアイなどの「海あり国」には幾つもの本格的な海洋博物館がありそうで、 海や港でのウォーターフロント風景などの被写体をはじめ、博物館などでの展示物画像を切り撮るために足を運びつつあった。そして、 赴任して2年目にして、3年の赴任期間中に一度しか巡って来ないビッグチャンスがやって来た。つまり、長期間(30日間)にわたる健康管理休暇を取得できる機会のことである。本邦へ一時帰国することも制度的には可能であった。ところが、当時は家族全員でパラグアイ生活をして いたので、私は妻や娘ら家族に会うため日本へ一時帰国する必要がなかった。そこで、今思えば画期的なグッドアイデアを閃いた。一時帰国を 米国への長期休暇旅行へ振り替えることにした。その心は、米国の東海岸沿いに、海洋博物館や水族館などの海の歴史・文化・科学 関連施設を毎日のように訪ね歩いて、それらをウェブ辞典上で紹介しようというものであった。

  その前準備として、半年ほどかけて、インターネットを通じて米国東海岸沿いの主要都市にある海洋博物館などのリストを作成する ことにした。それと並行して、博物館巡りの順路、モーテルなどの宿泊先事情、レンタ・カーやグレーハウンドなどの交通・移動手段、 ノートパソコンやデジタルカメラの装備と活用法など、あれこれ旅のプランを少しずつ思い巡らせ固めていった。 ネット検索は大いに役立った。現在のような「グーグル検索」はなかったが、「ネットスケープ」のような検索エンジンを使いながら、 幾つかの主要な海洋博物館サイト内にあるリンク集へアクセスし、先ずは「海洋・海事(maritime, marine)」の名を冠する博物館、それも 東部沿岸諸州の博物館の基本情報を掻き集め、如何なる経路を辿るかのラフな計画を練り上げて行った。

  最も重宝した情報源としては、米国の主要な海洋・海事・艦船関連の博物館などのまとめサイト、即ちディレクトリーサイトで あった。それをゲートウェイにして、東部諸州ごとに主要博物館サイトへ芋づる式にアクセスすることができた。 海洋博物館、潜水艦・艦船博物館、漁業・捕鯨関連博物館、水族館など、予想を遥かに超える館数の存在にはびっくりであった。 博物館の規模は大小さまざまであるが、個性豊かな博物館が目白押しであり、いずれの博物館をどういう経路で巡覧すればよいものか、 迷うことが多かった。辿り着いた巡覧の策としては、絶対逃す訳にはいかないという、このジャンルでは大変名高い海洋博物館を 最優先訪問リストに挙げ、その他は時間があれば立ち寄るという割り切り方にした。ネットサーフィンしながら旅程をあれこれ 構想するだけでも、毎日楽しい夜なべ「仕事」であった。

  さて、巡覧の旅は米国での夏期休暇シーズンである7月を避けて、8~9月期とした。2002年8月19日にアスンシオンを出立し、 予備日を一日見込んで30日間の旅とした。当時50歳過ぎでまだしも若かったので、レンタカーをボストンで借り上げ、25日間ほど 費やして総延長3,000kmを遥かに超えてドライブした。毎日ほぼ2、3ヶ所の海洋博物館などの文化施設を訪ねる結果となった。 気軽でのんびりとした散策の旅どころではなかった。振り返れば、ノルマに追いかけられた半ば仕事のような「知的冒険の旅」ともいえた。 海洋・海事博物館、捕鯨・漁業博物館、船舶博物館、灯台博物館、水族館など70ヶ所近い (うち水族館10か所ほど) 施設の他、わずかながらも 歴史的史跡も訪ねた。施設近隣の海岸、港・マリーナなどのウォーターフロントエリアを濃密に散策することもできた。

  先ず最初に旅の経路についてざっくりと触れたい。マイアミに上陸した後数日間のんびりとマイアミビーチ辺りやマイアミの ダウンタウン近傍のマリーナやマーケットプレイスなどを散策した後、空路ボストンへ移動した。ボストン市内の「ティー・ パーティ(茶会)事件船」や「ニューイングランド水族館」の他、海洋歴史 地区にある「コンスティテューション号」博物館を訪れた。その後、日を改め、旧大陸から「メイフフラワー号」でやって来た清教徒 一団が上陸したプリモス、ジョン万次郎ゆかりの捕鯨基地であるニューベッドフォード、世界的に有名な海洋博物館の一つがある ミスティック、海洋学部を擁する大学町ロードアイランド、海洋歴史文化施設が集積するリバー・フォール。コッド半島先端のプロ ビンスタウンで折り返した後、捕鯨基地として栄え今は捕鯨博物館の建つ「ナンタケット島」にフェリーで訪れ、さらに海洋研究のメッカ 「ウッズホール海洋研究所」にも立ち寄った。一端ボストンに戻った後、北部諸州に向けて移動した。 メーン州、ニューハンプシャー州の海岸沿いの海洋博物館や灯台などを周遊したが、ポートランドで反転し再びボストンへ帰還した。

  かくして、フロリダの遥か南西沖合に浮かぶキーウェストを目指し大西洋沿いに南下した。本土から「ロングアイランド」にフェリーで 渡海し、島内の海洋博物館などを訪れた。ニューヨークは遠巻きに迂回し、フィラデルフィアとその対岸のカムデン、さらに南方のボルティモア を目指した。同地でも幾つかの海洋博物館・艦船博物館や水族館などを訪ねた。その後、首都ワシントンも大きく迂回して、バージニア、 ノース・カロライナ、サウス・カロライナ、フロリダ諸州の大西洋岸沿いにある数多くの海洋博物館・研究所や灯台を訪ねながら 南下し続け、ほぼマイアミを素通りした後、海上に架かるハイウェイを、潮風を一杯に浴びながらキーウェストへと疾走した。 米国本土最南端とされるキーウェストで沈船からの金銀財宝などを展示する博物館、ヘミングウェイの旧邸宅などを訪ねた後、マイアミ に戻り、そこでも幾つかの海洋関連施設を訪ねた。最後は、旅の起点としたマイアミ・ダウンタウン傍のハーバーサイドにある マーケットプレイスで、3,000㎞余の長距離ドライブの無事を感謝しつつ、最後のプチ贅沢な夕食を楽しんだ。

  さて、当時デジタルカメラの普及が世に浸透し始めていて、スティールカメラと併存する状態にあった。パラグアイにいた頃には、 フィルム代やその現像費を全く気に掛けることなく、デジカメで無制限に画像を切り撮れたことは大変ラッキーであった。だが、画像記憶用 メモリーの容量は少なく、メモリーカードを何十枚も持ち歩いた。毎日ほぼ100%それらの記憶媒体を使い切るくらい撮影したので、 必ずその日のうちにパソコンへ全画像を取り込んでおく必要があった。当時外出先で手軽にノートパソコンをインターネットに 接続することもできず、またスマホという文明の利器もなく、それ故にドライブしながら行き当たりばったりの手法でモーテルを 探す毎日であった。

  毎日の目標としては、モーテルへのチェックインを午後5~6時頃に行ない、その後一時間以内に夕食を近場で済ませるようにしていた。 というのは、メモリーカードからの画像データのノートパソコンへの取り込みスピードは随分のろまであった。データの取り込み作業と デジカメ用バッテリーの充電にほぼ毎日深夜まで3~4時間も費やするという、夜なべ仕事を余儀なくされていた。そして、 移動しながら何処ででもスマートフォンでネット検索ができる時代ではなかったし、カーナビという利器も装備されていなかったので、 毎晩アナログタイプの道路地図帳を広げては、明日訪問予定の博物館などの大体の位置やルートについて目星を付けておく必要があった。

  翌朝は大抵のこと、買い込んでおいたパンやジュースなどを急いで食し、8~9時頃にはモーテルを後にするようにしていた。 それをほぼ毎日繰り返した。毎日平均して画像400枚、メモリーにして800MBほどを切り撮った。撮影した画像総数は10,000枚、その総計メモリー は20GBほどに達した。訪ねた海洋・海事博物館、一般公開される水上艦船・潜水艦・3檣帆船、灯台などは、総計70ヶ所以上にのぼった。 水族館は8ヶ所ほどであった。港町のウォーターフロントでは、潮風にあたりながら岸辺の街並みやマリーナなどの美しい港景を眺めたり、 マリーングッズ・ショップなどを覗き込んだ。時には、風光明媚な海岸に建つ灯台周辺をたむろしたり、海浜公園などの白砂を踏み しめながらのんびりと過ごしリフレッシュを図った。午前中に宿泊地近傍にある博物館を巡覧し終えた後に、次に目途とする博物館が所在 する都市に長距離移動するか、あるいは逆に午前中に何百㎞か長距離移動した後の午後に、次の博物館を巡覧するかであった。

  アメリカのモーテルはさすがに快適であった。料金も手頃であり、長距離ドライバーにとって利便性は髙かった。モーテルは 大都市に入る手前の郊外の国道沿いに多く所在していた。同質性を期待できるフランチャイズ・スタイルのモーテルもある。現代のような スマホ時代であれば、即座にリーズナブルなモーテルをいとも簡単に見つけ予約もできよう。当時は全くの行き当たりばったりだったので、時に 夜8時を過ぎても見つからなくて焦る時もあった。また、見つかっても「空き室なし」の表示が多くなった。ほとんどのケースでは、 何とか陽のある夕方頃にはモーテルを見つけ転がり込むことができた。またそれを心掛けた。

  モーテルの自室の玄関ドアの前に、車を後ろ向きにしてパーキングさせ、後部トランクからバッグなどを室内のベッドに投げ入れたり、 運び込んだ。その便利さは申し分なかった。54歳の頃であったので、体力も気力も十分キープしていた。連日博物館やウォーターフロント などを巡りつつ、東海岸のリアルな自然風景も楽しんだ。ほとんど疲れを知らなかったが、さすがに肩が凝ってだんだんと首が 回らなくなったのは苦痛であったが、一晩寝れば何とか肩こりはほぼ解消した。

  休題閑話。2002年8月19日、アスンシオンから空路で、積年の「憧れの地・マイアミ」へ向かった。マイアミには南米やカリブ海諸国 への業務出張時に度々トランジットした。だが、いつも乗り換えのためだけの通過点に過ぎなかった。空港外に足を伸ばしダウン タウンやマイアミビーチのウォーターフロントなどをゆっくりと散策したことはなかった。だから、一度はビーチなどに出て存分に 海と戯れたかった。20年ほどの思いがやっと叶って、そのチャンスにありつけた。

  さて、翌日ダウンタウンをうろついた後、すぐ近くの「ビスケーン湾」に臨むウォーターフロントへ向かった。 「ベイサイド・マーケットプレイス」でランチを取ながら、先ずは優雅にゆったりとした時間を過ごした。眼前のマリーナにはさんさんと 陽光が降り注ぎ、海面はキラキラ星で埋め尽くされていた。パラグアイとは丸で違うパラダイスのような異次元の空間がそこにあった。暫し、 開放感と夢心地がないまぜになるような世界に浸った。

  マイアミのダウンタウンの沖合には幾つもの砂州が形成され、それらがフラットな島々を構成しているようで、ダウンタウンとは 幾つかのコーズウェイなどで結ばれている。マイアミビーチはその島の一つにあった。8月末近くのシーズンオフのこと、夏場の喧騒とは 程遠く、浜で戯れる人はまばらで閑散としていた。白砂のビーチは人工的に拡幅されたのか、意外と幅が広いことに驚いた。 ビーチの背後には高層のコンドミニアムが連なり、それと並行して厚板張りの遊歩道が続く。そんなサブトロピカルなパラダイスの ようなビーチ界隈を心行くまでたむろした。その後、マーケットプレイスに戻りインナーバーバークルージング船に乗り込み、正にお上りさんになって、有名俳優や大富豪の別荘をはじめ、ダウンタウンの高層摩天楼やガントリークレーンが林立する外貿コンテナ埠頭などを船上から眺め、 大いに精神的な滋養にした。21日には空路ボストンへと向かった。ボストンから大西洋岸沿いにマイアミまでレンタカーで南下してくる計画であった。

  余談だが、ダウンタウンのカメラショップに立ち寄り用足しをした。パラグアイ在住であることもあって、ボリビア出身という 店員と雑談した。身の上話になり、ボリビア人である彼は何と「国際協力事業団・JICA」の水産養殖プロジェクトで勤務していた ことを知った。マイアミでJICAつながりの青年に遭遇したのには少々びっくりであった。そして、御多分に漏れず当該技術協力プロジェクト ではカウンターパートの低い定着率に繋がっているのではないかと気になってしまった。同プロジェクトは当時まだ継続中であった はずである。結局彼は養殖関係の仕事を継続することなく、マイアミに出稼ぎにきたのであろうか。彼の人生の選択についてマイ アミの地まで来てとやかく言うことではないと思い、プロジェクトを去ってマイアミで働く事情を敢えて尋ねることはしなかった。

  ボストン到着後、下見のつもりですぐにクインシー・マーケットプレイス(Quincy Market Marketplace)やウォーターフロント をたむろした。ボストンは米国の数ある近代的大都市の中でも米国の歴史・文化を色濃く漂わせていた。翌22日、「ボストン茶会事件船・ 復元船(Boston Tea Party Site Ship)」を再現した博物館に立ち寄ったが、残念ながら閉館状態にあった。 だが、川中に設置された浮き桟橋に繋がれた復元船や茶箱保管倉庫らしきものを橋上から眺望できた。 当時米国の宗主国であった英国による課税政策を不当とする人々が、1773年12月16日に港に係留されていた英国船を襲い、342個の茶箱を海に 投げ込んだ。この事件が、当時英国の統治下にあった米国の人々を独立革命へと向かわせたという。いわば「導火線の発火点」のようなきっかけ を生んだ。博物館には茶箱を積んでいた3隻のうちの1隻である「ビーバー号」のレプリカが係留されている。

  その後、ウォーターフロントへ再び足を運び、インナーハーバー・クルーズ船に乗船し心地よい潮風に吹かれながらボストンの摩天楼 風景を楽しんだ。「バンカーヒル記念塔」が建つ丘の麓近くにある有名な「チャールズタウン海軍工廠ヤード(Charlestown Navy Yard)」 まで周遊し、そこで下船した。同工廠は1800年に米国海軍の最初の造船施設としてオープンしたものである。正に米国海軍の造船 史の第一歩を刻んだ海洋歴史地区へタイムスリップした。

  工廠敷地内には、現在でもなお現役戦艦として米海軍に登録される戦列艦「USSコンスティテューション号(USS Constitution)」 が係留され一般公開される。木造ではあるが204フィート (約62m) 長の堂々たる浮かぶ「要塞」である。同艦に乗り込みじっくり 見学した。近くには古い倉庫らしきレンガ造りの建物を活用した「USSコンスティテューション号博物館(USS Constitution Museum)」があり足を踏み入れた。

  同敷地内にはその他、第二次大戦と朝鮮戦争に就役した「駆逐艦カッシン・ヤング号(USS Cassin Young 793)」も公開される。 第二次大戦中この工廠は、320隻の艦船を建造したという。2,000隻がドック入りし、11,000隻の艦船を艤装し、3,000隻のオーバー ホールや修理を行なったとされる。工廠内のドライドックNo.1には「USSコンスティテューション号」が1833年に最初に入渠したこと でも有名である。ヤードの埠頭にはデンマークの航海訓練帆船「デンマーク号(Denmark)」が親善訪問のため停泊中で一般公開 されていたので、乗船見学する機会をもった。翌23日には、再びクインシー・マーケットプレイスを含むウォーターフロント界隈を のんびりとたむろした。「ニューイングランド水族館(New England Aquarium)」も訪ねた。

  さて、8月24日からレンターカーで、ボストンからプリモス(Plymouth)の町とその近郊の史跡「ピルグリム・プランテーション (Pilgrim Plantation)」へ向かった。8月27日までの4日間に、ボストン近郊都市のプリモスをはじめ、昔捕鯨基地として有名な ニューベッドフォード(New Bedford)、「ミスティック・シーポート(Mystic Seaport)」という有名な海洋博物館がある ミスティック、コネティカット州でも特に風光明媚なナラガンセッツ(Narragansett)海岸地区、 海洋学部を擁するロードアイランド大学(Univ. of Rhode Island)、その昔造船と船舶交易で繁栄し現在では海洋・艦船博物館が 集積するプロビデンス(Providence)(ロードアイランド州都)とその近接都市のフォール・リバー(Fall River)などを周遊した。

  「ピルグリム・ファーザー(Pilgrim Fathers)」と称される清教徒一団の移民がヨーロッパ大陸から「メイフラワー号」で新大陸を めざした。同号は、1620年に英国プリモスを最後の寄港地として出帆し、2か月ほどの航海を経て、一団は新大陸の地に上陸し入植を開始した。 今はその上陸地はプリモスと呼ばれ、その上陸を記念して建てられた門には「1620」と刻まれた「上陸の岩(Landing Rock)」が 設置される。当時において上陸の第一歩が刻印されたとされるが、真偽のほどは不明である。彼らの上陸後に築いた最初の入植地を リアルに再現したパークが「プリモス・プランテーション」である。17世紀のプリモス周辺の様を可能な限り忠実に再現した歴史保存村 といえる。建物だけでなく、村民スタッフによって当時のままの生活が再現されており、当時の世界にタイムスリップすることができる。 プリモス・ハーバーの埠頭には復元された「メイフラワーII号(Mayflower II)」が係留される。

  同プランテーション内には「ピルグリム・ホール博物館」があり、メイフラワー号の乗船者たち所縁の品々が収蔵される。 清教徒は聖書を権威の唯一の源として受け入れ、聖職者による階級制度を廃止し、教会に集う会衆が教会を司ることを主張する。 このように、メイフラワー号に乗船した清教徒は、英国国教会から分離し、自らの教会を作ろうとした人々であった。当初にはオランダに 身を寄せていたことから「ピルグリム(巡礼者)」と呼ばれている。1620年にメイフラワー号が最初に上陸を試みた地はコッド半島先端の 現在のプロビンスタウン(Provincetown)であったが、定住に適さないとの判断から、半島によって取り囲まれる湾の奥に位置する 現在のプリモスの地に上陸した。

  プリモスからニューベッドフォードへ向かった。米国捕鯨史に連関する世界最大級の美術品と遺物を所蔵する「ニューベッド フォード捕鯨博物館(New Bedford Whaling Museum)」を見学し、港地区のウォーターフロントをそぞろ歩いた。港の埠頭(Harbor & Wharf, New Bedford)には、1841年に建造された、米国最後の生き残りの3本マストの木造捕鯨船(314トン; 最古の浮かぶ米国 商船でもある)が船舶博物館として係留・一般公開される。同博物館で一枚の歴史的な古写真に出会った。1800年代中期のニューベッド フォードの港内を切り撮った写真である。数え切れないほどの 捕鯨帆船で埋め尽くされる様を見て取れる。当時の捕鯨業の最盛を物語るもので、圧巻という他ない。 1857年には329隻の捕鯨船(米国の593隻の全捕鯨船の半分以上)がニューベッドフォードに登録されていた。館内には多くの捕鯨帆船 模型、捕鯨のための用具、捕鯨船や捕鯨シーンの絵画、鯨骨格標本、航海用具、海獣の牙などの彫り物(スクリムショーという水夫らの 慰み細工)などが展示される。なお、2002年8月当時、ニューベッドフォードの水族館は建設中にあった。

  ところで、四国・土佐出身の漂流民「中濱万次郎」、別称「ジョン万次郎」らを救助した米国捕鯨船はこのニューベッドフォードを 基地としていた。万次郎は土佐中ノ浜の生まれである。貧しい漁師の倅であった、当時14歳の彼は、1841年仲間とともに出漁中に 高知沖で遭難・漂流し、無人島 (鳥島) に漂着するにいたった。半年後、米国捕鯨船のホイットフィールド船長に偶然救出され、ハワイへ。 万次郎自身は、同船長の故郷であるマサチューセッツ州フェアヘブンへ連れられ、そこで「文明教育」を受けた。フェアヘブンは ニューベッドフォードの入り江をはさんだ対面の町である。異国の学校に通い、英語・数学などを学び、最新の航海学、捕鯨術、造船 技術などを修めた。また、捕鯨船に乗り込み世界の海へ船出し、航海・捕鯨の数多くの経験を積んだ。正に幾つもの偶然かつ数奇な運命 に導かれてのことであった。

  だがしかし、万次郎の望郷の思いは断ちがたく、遭難から約10年後となる1851年に苦難を経て帰国を果たした。その後は、土佐藩 に次いで幕府にも仕える身となった。1860年には、「日米修好通商条約」の批准書交換のための幕府使節の通訳官として、 「USSポーハタン号」の随行船である「咸臨丸」にて、艦長・勝海舟、福沢諭吉らとともに太平洋を渡った。 幕府・明治政府の下で、開成学校 (東大の前身) 教授などの要職に次々と任じられた。誠に稀有にして偶然の成り行きに導かれつつ、 時に他者に求められたことを「人生の選択となす」として受け入れつつ、彼は近代国家・日本の黎明期にあった江戸末期から明治 初期の世を駆け抜けた。彼が歩んだ人生をひも解けばひも解くほどに、深く魅せられるところ大である。 享年72歳にしてこの世を去り、現在は東京・豊島区の「都立雑司ヶ谷霊園」にて永眠する。

  さてその後、ニューポート(New Port)の「ボーウェンズ埠頭(Bowen's Wharf)」や「ヘレショフ海洋博物館(Herreshoff Marine Museum)」を訪れた。同博物館には、1992年の「アメリカズカップ」に参加した競争艇「ディファイアント号(Defiant)」が展示される。 ニューポートはかつてアメリカズカップの舞台でもあった。すぐ傍の桟橋には、風筒を回転させることによって船の推進力を得る、 当時でも現代でさえ稀なロータリー船が係留されていた。奇遇の出合いに大いに興奮した。

  その後、今回の旅で是非とも訪ねたかった博物館の筆頭格であったコネチカット州の海洋テーマパーク「ミスティック・シーポート (Mystic Seaport)」へ向かった。余談だが、当日夜遅くになってやっと見つけ駆け込んだモーテルは「クリスタル・ペンギン・モーテル(Krystal Penguin Motel)」という、ペンギン大好きの女将が経営するモーテルであった。ライトアップされていたモーテルの電色看板が ペンギンをあしらっていた他、室内外には多種多様のペンギンマスコットやフィギュアで埋め尽くされていた。

  翌8月26日わくわくしながら旅のハイライトの一つである「ミスティック・シーポート海洋博物館(Mystic Seaport Museum)」に直行した。 シーポート博物館では、自然の静穏な入り江に、大型帆船2隻の他、漁船・ヨットなど何十隻もの大小の古そうな船が係留されている。 入り江を取り囲む広々とした陸上敷地内には多種の展示館が建ち並んでいる。ある展示館では、船首像、精巧な各種帆船模型、船舶絵画、 ハーフモデル、手用測鉛などを展示する。ウナギの筌などの漁撈具の展示館、木造ボート製造工程を展示する工作館、奴隷貿易 の史料などの展示館といった具合である。大型帆船「チャールズ・モーガン号」では、展帆の実作業も披露される。 ロープワークや滑車動作を体験するコーナーもある。なお、敷地内には「ミスティック水族館(Mystic Aquarium, Institute of Exploration)」が併設される。その後、ニューポートへ向かったが、同市に所在する「海軍戦争大学博物館(War College Museum)」や「港歴史博物館 (Museum of Port History)」には立ち寄る時間がなかった。

  翌27日、ロードアイランド州の中でも最も美しい海岸と称えられる「ナラガンセッツ海岸(Narragansett Coast)」へ向かった。 同海岸の自然美をじっくりと鑑賞した。そして、周囲の海辺風景と調和する「ジュディース・ポイント灯台(Lighthouse, Point Judith)」 をウェブ辞典の格好の「一枚の特選フォト」の被写体とした。同州では、海洋学研究で有名な「ロードアイランド大学海洋学部」に立ち寄り、 暫しキャンパスを散策した。その後フォール・リバーを目指して移動した。トーントン川に架かる巨大な橋の袂には、「フォール・ リバー海洋博物館(The Marine Museum at River Fall)」の他、幾隻もの艦船が係留され一般公開されている。

  例えば、「戦艦コーブ&海洋博物館」、戦艦「USSマサチューセッツ号 BB59(USS Massachusetts)」、駆逐艦「USS Joseph P. Kennedy Jr. DD850」、潜水艦298、その他揚陸艦などが入り江の一角に展示される。因みに「フォール・リバー海洋博物館」には、 河川や海洋航行の旅客船・外輪船・軍艦などの数多の船舶模型、捕鯨関連のいろいろな模型・用具、帆船模型、1849年建造の 「ジュピター号」の模型、1900年代初期に建造された5本マストのスクーナー「マリー W. ボーウェン号(Mary W. Bowen)」、 船舶絵画、航海計器、ロープワークなど盛りだくさんの陳列品で埋め尽くされている。 その他、「タイタニック号」の大型模型や数多くの遭難関連資料、「フォール・リバー・ライン(Fall River Line)」社所属船舶の 数々の船舶模型 (蒸気船「ピューリタン号(Puritan)」、「シティ・オブ・ターントン号(City of Taunton)」など)が展示される。

  さて、8月28日からいよいよコッド半島(Cape Cod)の縦断ドライブに出かけた。それにしても、ボストンからコッド半島にかけてのマサ チューセッツ州の緑豊かで美しい自然は言葉では語り尽くせないものがある。半島先端の漁業・観光の町プロビンスタウンへ向かう 途中のどの風景を切り取っても、自然保全が行き届いていて、半島全体が大自然公園あるいはリゾートエリアそのものの様相であった。 「ピルグリム記念塔・プロビンスタウン博物館(The Pilgrim Monument & Provincetown Museum)」を訪ね、ウォーターフロントをたむろした。港の桟橋にある「海賊博物館(Pirate Museum)」にも立ち寄った。沈船から引き揚げられた数々の財宝などが展示される。 コッド半島を縦断する国道沿いには数々のレストランが点在するが、ドライブしながら船やシーフードをあしらったユニークなデザイン の広告ボードを目で追うだけでも楽しかった。

  翌日にはコッド半島中程の南岸にある港町ハニス(Hyannis)から、その沖合いに浮かぶ「ナンタケット島(Nantucket Island)」 へフェリーで渡海した。同島はかつて捕鯨基地として栄えことで知られ、是非とも訪れたかった。波止場から一歩町に踏み入れると 、そこは緑に包まれたこじんまりした市街地であった。そして、波止場界隈をはじめとする市街地を歩き疲れるまで散策した。 訪問の目当ては勿論「捕鯨博物館(Whaling Museum)」であった。捕鯨帆船模型、小型ボートで鯨を追いかけ仕留めようとする 鯨捕りらの実物大のジオラマ、スクリムショー、数多くの捕鯨用具、鯨骨格標本、船舶画や捕鯨シーンの絵画、捕鯨船の図面、航海計器、 船の修理工房、灯台光源レンズや装置などが展示される。ミニであるが「ナンタケット水族館(The Nantucket Aquarium, Maria Mitchell Association)」も訪ね巡覧した。

  その後、ファルマスという町を経て、その先にあるウッズホールへと向かった。目途としたのは世界的に有名な「ウッズホール海洋研究所 (Woods Hole Oceanographic Institution; WHOI)」であった。当日は猛烈な雨が止みそうになかったので致し方なく、森深く広大なキャン パスとその周辺をドライブしながら、「海洋生物学研究所(Marine Biological Lab.)」、「ウッズホール科学水族館」、 その他「ウッズホール歴史博物館(Woods Hole Historical Museum)」の「ウッズホール歴史コレクション(Woods Hole Historical Collection)」の一つとして埠頭に係留される全装帆船(tallship)など、車窓からの寸景で我慢するという残念なキャンパス巡りと なってしまった。キャンパスを心行くまで散策し、またラボやライブラリー内部にまで足を踏み入れたかったが、悪天候で叶わなかった。

  キャンパスの一角には「国家海洋漁業サービス(National Marine Fisheries Service; NMFS)」所管の水族館があったが、 何故か休館中の様相であった。わずかに「ウッズホール歴史博物館」だけには、館のすぐ玄関前に駐車できたので立ち入ることができた。 さて、その後は一路ボストン近郊にあるノース・クインシー(North Quincy, MA)という地区を目指した。

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    第16章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに海外の協力最前線に立つ(その2)
    第2節 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く


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      第1節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第2節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く(その1)
      第3節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く(その2)
      第4節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
      第5節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第6節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう