関西大学の千里山キャンパスに通学するようになって何日か過ぎたある日のこと、大学正門付近でワンダーフォーゲル部(略称: ワンゲル
部、WV部)の部員から入部の勧誘を受けた。
そして、ほとんど「無抵抗」で入部することになった。実は、二歳上の兄が2年間ほど別の大学のワンゲル部に所属し、よく山登りに出かけていた。
両手を広げたほど横広の重たそうなカンバス製ザックを背負って山行に出かける兄の姿をよく目にしていた。巷では「カニ族」と呼ばれ、
それはそれで妙に言い得ていた。そんな事情もあって、半ば「待ってました」とばかりに、すんなりと入部に応じてしまった。
だが、問題が一つあった。兄弟二人して山登りにうつつを抜かす訳にはいかなかった。高度経済成長の恩恵に預かって
我が家計も随分楽になっていたとはいえ、農事の手伝いから解放されていた訳ではなかった。兄が山に出掛ける時は、私がその分畑仕事の手伝いに
精を出していた。やるべき農作業は何も変わっていなかった。変わったのは兄弟二人が大人然となり体力が向上したこと、
耕耘機の馬力数が従前より少しはアップし、農作業の効率が良くなったことくらいであった。祖父母も母も年々歳を重ね老いていく一方であったし、故に農作業での肉体的なしんどさがさほどに軽減されることはなかった。そこで着想するに至った策は、兄が部活から身を引き、
代わりに私がワンゲル部でのサークル活動を始めるということでであった。家庭はそれで円満に落ち着いた。
高校生時代には、部活での心身の辛さから自身に負けてしまい、二度までも逃げ出してしまった。その苦い体験は紛れもなく
トラウマになっていた。三度目の正直である。大学で体育会系の部活を始めるからには、途中で脱落するような情けないことは
もう二度としたくはなかった。
何としても4年間最後まで全うしたかった。トラウマから自身を解放するにはそうする他に道はなさそうに思えた。何よりも、高校生時代
に負ったトラウマについては、自身がなおも青春時代の真っ只中にあるうちに完全に払拭しておきたかった。
ワンゲル部のドアを叩き門をくぐったことは自身への再チャレンジであり、またリベンジを意味していた。トラウマ払拭のための
最後の好機といえた。大袈裟だが、大学の体育会に属する「ワンゲル部からの卒業」は、「大学法学部からの卒業」と同じくらいに重要な
ことであり、またチャレンジングな事柄のように思えた。かくして、ワンゲル部に入部し、過去のトラウマを克服するためには、
4年間の部活動に必死に食らいつき、最後の最後までやり貫くという不退転の決意を胸に、入部願い届けを提出した。
トラウマ払拭への挑戦は、自身だけの秘め事であった。ワンゲル部の先輩や同輩に知られたくないことであった。
入部以来ずっとこの方半世紀以上にわたり今に至るまで心にしまい込んできたことである。実に小さな秘め事であった。今ここで初めて
打ち明けると言うのもおこがましいことであるが、私的には実に真面目な秘め事であった。
さて、部活におけるエピソードは数え切れないほどあるが、ここでは4年間の部活の中で最も記憶に残る山行について綴りたい。当時18歳の
真のフレッシュマンであった時の事、夏季合宿は北海道の背骨ともいいうる日高山脈の縦走であった。縦走と言っても山脈のうちのごく一
部分であった。
一年生の務めとして、列車内の座席を確保するため、日本国有鉄道(当時「国鉄」と呼ばれた)の大阪駅中央コンコースに、3,4時間
も早目に並んだ。高度経済成長期にあり、また夏休みの真っ只中であったので、大勢の旅行客で溢れ長蛇の列であった。改札が始まり、重さ
30㎏ほどにもなるザックを担ぎ上げホームに上った。普段ならば重いザックであっても、先ずは膝の上に持ち上げベルトに片腕を通した後、
「えいやっ!」と気合もろとも一気に背中に担ぎ上げていた。だが今回は、2週間ほどの初めての長期合宿であり、テント、鍋・コンロ、
寝袋などの装備をはじめ、大量の食糧をぎゅうぎゅう詰めにしており、30㎏ほどにもなっていた。そんなザックを担ぎ上げるには
いつもの気合の入れ方では無理であった。
先ず座り込んでベルトに右腕・左腕をそれぞれしっかりと通してから腹筋を使って気合もろとも背負い上げ、その後両手を杖替わりに
してやおら立ち上がる必要があった。ホームに上るとザックを並べ置いた後、小物だけを手にして車内に駆け込んだ。身軽にして素早く
乗り込み席取りに向かった。その後、やおら二人ががりでザックを車窓から投げ入れた。
夜行の急行列車は日本海沿いに金沢、富山、直江津へと北上した。翌日確か富山辺りで朝日を拝んだ。陽光は徐々に高くなり、車窓から
日本海の大海原を飽きるほど眺め続けた。列車は新潟、秋田などを通過し、青森を目指して爆走を続けた。そして、日が落ちた頃列車は青森駅の
ホームへと滑り込んだ。北海道へ向かう大勢の旅客に混じって、重いザックを背負ってホームを急いだ。もちろん思う様には
走れなかった。ホームの先に階段があり、それを上り切ると狭い通路がさらに続いていた。やっと青函連絡船の舷側手摺りが見えた。我々旅人は
通路から船の甲板へ渡す小さなタラップを昇り、連絡船へと吸い込まれて行った。
船内の階段を下へ下へと降り、大座敷スタイルになっている二等船室へと潜り込んだ。ザックを通路に降ろし邪魔にならぬよう並べ、
大座敷の一角に落ち着いた。雑魚寝できるかどうか分からないほどのごった返しようであった。出航を知らせるドラの音が上甲板から船内
へとけたたましく鳴り響いた。出港して暫くして船客は落ち着きと静けさを取り戻した。エンジン音が小刻みに床から伝わって来た。
出港した頃にはすっかり夜の帳が下りていた。
夜となっては何が見える訳でもないと思ったが、初めての津軽海峡横断であり、潮風に当たるのも悪くはないとデッキに
出てみた。白い泡が生まれては後方へと広がりながら流れ去る。暫く連絡船が生み出すそんな白い航跡を眺め続けた。一度は
本州から「蝦夷」へと青函連絡船で渡って見たかった。「我、津軽海峡を横断し北の大地へと航海中なり」と、暗闇の中で
涼風を浴びながら暫し感慨に浸った。連絡船で津軽海峡を渡り北の大地を目指す旅人の心情は如何なものか、周りの旅人の表情から彼らの思い
を想像しながらの船旅となった。
船は函館の埠頭に接岸し、再び大勢の乗客に混じって大移動した。タラップを渡りターミナルの通路を人の流れに身を任せて進んだ。
階段を下ると、列車のホームに自然と導かれた。その足で、ホームに待機していた札幌行の夜行列車に乗り込んだ。座席に落ち着いて
から暫くして、生まれて初めて北の大地に足を踏み入れたという実感が湧いてきた。函館はすでに深夜であった。
夜行列車は5時間ほど爆走を続け札幌には翌日の早朝に到着した。その後、息つく暇もなく、構内の地下通路をくぐり抜け
日高本線のホームへと駆け上がった。今度は太平洋の大海原を眺めながら、我々の最終
目的地である「静内」という町へ向かった。静内から有名な名勝地・襟裳岬までは80kmほどの距離にあった。大阪を出てから静内まで
30時間ほどの長旅であった。
静内駅からほど近い海辺の砂浜にテントを張り野営した。その夜は、太平洋から打ち寄せる波の心地よい潮騒のリズムを子守唄にして
寝入った。翌日チャーターしたトラックの荷台にザックなど全てを積み込み、その上に我々5人の部員が鈴なりになって、山林管理専用の
林道を突き進んだ。日高山脈の西側から尾根に取りつくために、最奥を目指し行き着けるところまで林道を分け入った。トラックから
荷を降ろし一休みした後、道が尽きるまで奥へ奥へと進み、さらに細い獣道へと分け入り、ついには道なき道を突き進んだ。
そのうち沢を右岸から左岸へ、左岸から右岸へと徒渉を繰り返しながら歩を進めた。徒渉には登山靴は不向きであった。すぐに地下
足袋に履き換えた。さらに滑り止めとして藁草履を履いた。沢水はまるで氷水のごとく冷たかった。岸から岸へわずか7、8メートル
渡り切るまでに、何と足がしびれてくるほど半端でない冷たさであった。二日目の午後になってようやく樹林限界を抜け出て、
視界が大きく開けた。日高山脈の尾根をすぐ間近に見上げることができ、気分は爽快であった。
翌日から尾根に取り付いた。道なき道のような獣道なのか、それとも道が存在しないのか判然としない。尾根筋のそんな道なき道を
覆っているはえ松の枝は、恒常的に吹く強風のため横方向に伸びていた。時にそんなはえ松の枝を上から踏みつけながら慎重に渡り歩いた。また、時にはその下をかいくぐって進んだ。地図を読むと、ペテガリ、エサウマントッタベツ、カムイエクウチカウシなどという、
アイヌ語を冠した山座が南北に果てしなく連なる。標高1700~1900メートル級の峰々で、標高はさほど高くはない。とはいえ、標高2000メートル
を少し超える、日高山脈では最高峰である幌尻岳が、行く手北方に猛々しくそび立っていた。
飲料水を確保するにはやっかいなことが一つあった。日高山脈には谷筋から尾根筋に向かって、スプーンでざくっとえぐったかのような
氷河地形が残り、それが特徴となっている。いわゆる「カール」と呼ばれる地形である。そのカールの平坦部に万年雪が残っている
ことがある。そこをめがけて尾根筋から200メートルほど下ることになる。そこで、ガスコンロで万年雪を解かし、先ずは水を確保する
ことで明日の縦走に備える。そして、一時間ほどかけて再び尾根に這い上がった。
獰猛な野生の熊に遭遇するというリスクが非常に高かった。いつも鈴を鳴らしながらの「進軍」であった。夜にはテントの周りに
鈴を幾つも吊した。ある朝起床して見ると、別テントに留置しておいた食糧を漁ったような痕跡に気付き、胆を冷やした。時に雷雨に
見舞われた。雷雨は上空から来るものとばかり思い込んでいたが、何と水平か下方から襲ってきた。初めての経験に驚いたことをよく憶えている。
落雷を避けるためザックを放り出し、時計・ベルトなど、身につけた全ての金属製品を取り外し、必死で岩場などに身をひそめた。
かくして、実質一週間ほどの日高山脈縦走をやり終えた。当時は日高にはほとんど人が入らず、登山道も未整備であった。いわば
秘境中の秘境にある山脈での縦走であった。山脈のほんの一部の縦走に過ぎなかったが、そこに足跡を残せたことは誇りであった。
当時、日高山脈を南北に完全縦走したのは北大の山岳部といわれていた。それも雪で尾根が覆われた冬期であったという。積雪のない
夏では、道もろくに整備されておらず、またはえ松に阻まれるため、縦走に成功したパーティはまだなかったようである。
さて、今度は、山脈の東側に位置する中札内という村をめがけて尾根の支脈を下り、沢沿いにある林道を目指した。中札内から帯広
までは25kmほどの距離であった。路線バスに乗って集結地の帯広に凱旋し、知床半島縦走の別隊と合流するものと期待した。だが、
あっさりと裏切られた。登山靴を引きずるようにしてアスファルトの国道を「行軍」した。国道のあるところでは、定規で直線を
引いたように真っ直ぐ伸び少しもカーブしていなかった。本州ではそんな直線道路を見たことがなかった。そこを4㎞も歩いた。「行軍」しても、
地平線から道が次々と湧き上るばかりで、時間が止まり、帯広が遠ざかって行くかのような錯覚に陥った。忘れられない「北の大地」
での山行体験であった。
国道の両側にはジャガイモや牧草などが植わり、緩やかな起伏をもつ大平原が見渡す限り広がり、いかにも北海道らしい牧歌的風景があった。
そこにサイロや牛舎が点在していた。その雄大な自然風景を時折ちらちらと見ながら歩いた。「行軍」の殆どの道程にあっては頭を垂れ目の
焦点を足元からわずか1、2メートル先に置きつつ、惰性的に黙々と歩いていた気がする。とにかくも、日高の山歩きから解放され
心には何の緊張感もなかったがゆえに、余計に道路歩きは心身ともに堪えた。
さて、集合地点の帯広で待っていたのは、マトンの「ジンギスカン料理」であった。マトンの美味な焼肉を味わったのも生まれて
初めての体験であった。当時高級品であった「雪印」バターも本場でたっぷりと味わった。知床半島縦走グループと帯広近郊で合流し、
再会を喜び合った。翌日解散式が執り行われた。大阪から北海道にはそう再三来れないとの思いから、一年生仲間3、4人で日本最北の
港町稚内へ、さらにフェリーで礼文島へと旅した。4年間の部活で、後にも先にもこれほど印象深く記憶に刻まれた山行はなかった。
こうして、大学1年次の部活のうち何とか半ばまで無事やり終えた。
余談だが、この合宿からほぼ半世紀後の2019年9月に友人と道東へ旅した。苫小牧、襟裳岬、釧路、根室へと海岸沿いにドライブした。
途中どうしても立ち寄りたかったのが静内であった。静内は新日高町に吸収されていた。町ではっきりと思い出せるものはほとんどなかったが、
静内駅のホームに立ってみた。日高本線はその何年か前に襲来した台風によってズタズタに寸断され、ずっと不通のままで、
事実上廃線状態にあった。駅構内のレールは錆びついたままで、無惨な風景に感涙であった。そしてホームに立つ駅名板の「しずない」
を見た時、記憶が蘇った。その昔「しずない」に到着してすぐに車窓越しにザックを急いで降ろした。その時、ふと顔を上げて駅名を見た。
その時見た木製の名板がそのまま建てられていた。
道東を周遊した後の帰り道、網走から帯広へと回り道をした。もう一つ見たかったものを中札内の市街地郊外で見つけた。あの4㎞の
直線道路である。真っ直ぐ4㎞も伸びた道路はそこにしかなかった。間違いなくそこをドタ靴で半世紀前に歩いたのだと確信できた。
今回帯広から中札内へ向かう時、日高山脈を右手にずっと間近に眺め続けた。だが、その山岳風景はほとんど記憶に留めない。
当時周囲の牧歌的田園風景を時にちらりと眺めては国道を歩き続けた。だが、顔をほどんど下向きにしていた。日高の山々をじっくり眺める
余裕などなく、脳内スクリーンに山脈風景をしっかり焼き付けることがなかったからであろう。日高縦走時の他愛もない回想譚であるが、
北の大地への初めての旅は強烈な印象を残して通り過ぎて行った。青春時代の忘れ得ぬ一ページを飾るものとなった。
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