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    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3節 雪上テントの中で人生最高の閃き、国連法務官をめざす


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       第2章・目次
      第1節: 北海道の日高山脈を縦走し感涙する
      第2節: 先輩にはキャンパスで、自然には山で厳しくしごかれる
      第3節: 雪上テントの中で人生最高の閃き、国連法務官をめざす




  夏季にはオゾンで満ちた樹林の山中を歩き、秋季には紅葉で彩られた自然のど真ん中を歩き回り、冬・春季には白銀の世界へと足 を踏み入れた。それはいつも新鮮で非日常的な体験をもたらしてくれた。特に田舎育ちの私には白銀の世界に惹きつけられた。

  WV部OBたちが自己資金を持ち寄って建てた山小屋が兵庫県養父郡の 鉢伏山の南側に広がる鉢伏高原にあった。いわば部活のホーム グランドであった。冬や春には高原は雪に覆われた広々とした雪原となり、一般スキー客用のゲレンデにもなった。 山小屋はそのゲレンデの南端近くにあった。ゲレンデとスキーリフトがどんどん開発され、気が付けば山小屋がゲレンデのけっこうど真ん 中に取り残されてしまっていた、というのが実情である。

  12月下旬近くになれば、国鉄の福知山線や山陰本線を乗り継いで「八鹿」という駅で下車し、その後路線バスで終着地の丹戸という 村を目指した。丹戸の集落の勝手知ったる裏道に入り、ほぼ村人だけが通る細い野道を登って高原にたどり着くと、大パノラマが開ける。 高原の北側に鉢伏山が座っている。そこから西方に尾根筋が伸び、そのずっと先には兵庫と鳥取との県境をなす、ひと際高い氷ノ山が そびえ立つ。

  山小屋で投宿するのは最初と最後日くらいで、ほとんどの場合我々部員はテントや鍋釜一式などの山行用具や食糧などを詰めたザックを背負い、 山小屋を後にする。雪山での縦走を想定して、スキー客をできるだけ避けて、檜・杉が生い茂る、雪深い樹林の中へ分け入る。ゲレンデに 響き渡っていた大音量の音楽も聞こえなくなる。全員で横一列となり肩を 組んで雪を踏み固め、テントを張るための平地を造成する。そこにテントを設営し、固めた雪のブロックを切り出して、風雪からテントを護る ように周囲に積み上げる。これらは雪山縦走ツアーのための訓練の一つである。

  夜のうちに新雪が深く積もれば、訓練にはもっけの幸いである。翌朝にはワッカ(深雪上を歩くための大きな木枠)を履いてラッセル訓練をする。 先頭を行く2年生のサブリーダーを先頭に、脚を膝の高さくらいまで雪に食い込ませながら孤独な闘いに挑む。 先頭のラッセル者は最も体力を消耗する。時間を見計らい二番手の一年生へ順次交 代しながら前進する。鉢伏山の稜線には雪庇ができ、また時にはアイスバーンとなってカチカチに凍っている。 雪庇を遠巻きに しながら、登山靴にアイゼンをセットして登攀の訓練をしたりもする。

    時には、早朝にすべてを撤収して、次の目的場所へと移動する。 テント設営跡はアイスバーンのように凍ってしまっている。スキー板を 履いたまま重さ15から20kgのザックを担ごうとすると、時に滑ってひっくり返る。止む無く氷上に腰を下ろし、ザックのベルトに両手を通し、 ザックを背負い起き上がろうとする。だが、スキー板が邪魔して足がもつれ、思うように上手く立ち上れない。こうして、同輩はザックを担ぎ上げ 立ち上って出発のスタンバイができるまで、何と2、30分もかかった。彼はそれでかなり体力を消耗し、ほぼほぼバテ状態であった。 冗談ではなく実話である。

深々と積もった新雪の上で転ぶと、ザックもろとも身体が雪中に深く沈み込み、さらにスキー板が絡み合い、 思い通りザックも板もコントロールできず、もがき苦しむ。結果、これまた立ち上がるのにひと苦労する。一年生には何でも初めての 経験であり、雪山でのいろいろな身の処し方やサバイバル法を学習していくことになる。

  山スキーならではの特殊な用具の一つに、スキー板の表側に取り付ける金具がある(カンダハと称していた)。その金具に普通の登山靴を セットしたり外したりできる。普通のスキー装備の場合では、板と靴がしっかりと固定されるが、山スキーの装備では、歩行に合わせて 靴のかかとが浮くようになっている。従って、ノルディック・スキーのように、板を滑らせながら歩行しても足に負担をかけずスムーズに進むことができる。

  二つ目の特殊な用具にシールという帯のように長い人工皮革がある。雪と接する面はアザラシの皮のようにザラザラしている。 スキー板の裏面にこの皮革を取り付けて、雪上を登攀したり滑降するのである。登りでは皮革面は逆目となるようできている。 かなりの勾配のあるスロープであっても、スキー板を履いたまま、ストックを上手く使いながら、後ろにずり落ちる ことなく登ることができる。下りではその逆に、スピードを抑制しながら滑降することができる。 スキー板を履いて何十kmにわたって連峰を縦走するには必需品である。是が非でも使い慣れておく必要があった。 使いこなせれば体力の温存につながる。難点としては、シールを装着したままで斜面の滑降中に停止しようとすると、スピードのセーブが 効きすぎて身体が前のめりになり、ザックが背中から押してきて、前傾姿勢のまま転倒しがちになることである。山スキーの縦走では、 雪上でザックもろとも転倒した回数が、その日の体力消耗率とほぼ正比例することになる。

  さて、一年生の春スキー合宿では岩手県の岩木山から八幡平までの縦走に出かけた。ゲレンデスキーとはまるで異なる白銀の別世界 を目の当たりにした。山スキーによる連山縦走は野性味に溢れ、その醍醐味たるやゲレンデの世界とは比較のしようもなかった。 また、山スキーでの全く非日常的な体験を通して、教室での授業では会得できないことを学ぶことができるという素晴らしさがあった。 大阪から列車を乗り継ぎ盛岡へ、さらにローカル線で雫石へ。そこから路線バスで岩木山の麓に辿りついた。翌日岩木山を遠巻きに して登攀し、八幡平に通じる尾根へと取り着いた。

  天候はだんだんと悪化し、遂に低気圧の通過のため最悪の気象状況へと変貌した。 避難小屋の近くの雪深い樹林地帯でテントを張り、一夜をやり過ごそうとした。たが、翌朝目覚めるとテント内の様子が何かおかしい ことに気付いた。昨日雪を踏み固め周りの雪面よりも低位置にテントを張っていたために、昨晩の大雨がテント内へ浸入していた。 まるでプールのようであった。寝袋の下に敷くエアマットが水に浮くくらいに浸水していたのには驚きであった。 その日は移動を諦め、無人の避難小屋に緊急避難した。ダルマ型ストーブに薪をくべて暖を取り、濡れた衣類などを乾燥させることが でき、全員気力を回復させることができた。

  翌朝天候は台風一過のように回復し、青空の下に見渡す限りの美しい白銀の世界が眼前に広がっていた。避難小屋に感謝をして、すぐに「進軍」を再開した。 どの樹木も分厚い雪にくるまれていた。巨大な雪男が仁王立ちしているようであった。 人生で初めて、巨大な樹氷で埋め尽くされた白銀の世界を目にすることができた。自然界の造形美に圧倒されるばかりであった。

  樹氷の周りには樹木の熱で深さ2メートルほどもある大きな空洞が口を開けている。そこに滑り落ちないように しながら、樹林を縫うようにして慎重に進む。途中、深い雪にすっかり閉ざされ、人間社会から完全孤立したような古びた湯治場を通過 した。有名な酸ヶ湯温泉である。そして、その後数日の縦走をやり終え、八幡平の少し手前にある目的地のスキー場に辿り着いた。 春季の山スキーの醍醐味を自身の五感を通して体験した。

  大阪への帰途、同輩と二人で盛岡からさほど遠くない渋民村に立ち寄った。石川啄木がかつて代用教員を勤めたことのある渋民尋常高等小学校旧舎などを訪ねた。 文学に全くといっていいほど関心がなかったが、文学好きの同輩に誘われ、生まれて初めて文学的香りがする史跡に足を踏み入れた。

  さて、印象深い春季山スキー合宿をもう一つ経験した。三年生末期の3月中頃、群馬県の戸倉から尾瀬ケ原へ入るゲートウェイ の一つである「鳩待峠」へ向かった。尾瀬は冬から春季にかけ雪に完全に閉ざされ、全く人を寄せつけなかった。特にその年の冬季は 異常なほど豪雪となった。我々は春スキー合宿に先だつ前年の晩秋に、鳩待峠にある山小屋の軒下に食糧を運び上げ 保存させてもらっていた。

  豪雪のために尾瀬ヶ原までのアプローチは長くしんどいものであった。尾瀬ヶ原の西端にあって、至仏山への 登山口に当たる地点まで、ドカ雪が降り深雪に覆われた雪原を丸2日かけてたどり着いた。そして、鳩待峠の山小屋の軒下に置いてい た10缶ほどの食糧缶を掘り起した。積雪は何とその山小屋の三階の窓まで達していた。記憶を思い起こしながら、三階から軒下まで5、 6メートルほどの雪を掘り起こした。何とか缶に辿り着き「宝探し」に成功してほっとした。

  その後、鳩待峠から深雪をスキー板で踏みしめながら尾瀬ヶ原へ向かい、至仏山への登山口でテントを張った。昨夜のうちに雪が しんしんと降り積もった。新雪に足を踏み入れれば膝まで雪に埋もれるほどであった。午前中は、ゲレンデとは趣が全く異なり、全く 人工的な物が見当たらない世界で山スキーを楽しんだ。至仏山の麓の斜面にて自然を独占するかのようにして戯れた。滑って びっくり仰天した。雪がふわふわと軽く、まるで重さが感じられなかった。斜面を滑り下りると膝あたりから雪煙が猛然と吹き上げられた。 雪煙で前方が見えないほどであった。最高のパウダースノーでの滑降に有頂天になった。雪を掴んでも指の間から飛び出した。手のひら に載せて軽くフッーと吹くと空中に舞い上がって行った。生涯で後にも先にも、パウダースノーをしっかりと体験しえたのは この一度だけであった。

  休題閑話。三年生後期にもなれば、ほぼ「部活卒業」となるのも時間の問題であった。高校時代のトラウマ払拭の見通しが見えて いた一方で、肝心の「大学卒業」後における道筋はたたず、将来の職業選択についての難題に向き合うことになる事態も目前に 迫っていた。思い起こせば、船乗りを諦めて以来、すっかり海や船のことから遠ざかり、自身の関心は山の世界へと180度方向転換していた。余りの大転換に 自分でも信じられないほどであった。恐らくは挫折の反動が大きかったのであろう。部活や「山の世界」に没入したのは、無意識のうちに、 船乗りへの見果てぬ夢のことや、海や船のことを忘れたかったのかもしれない。

  特に、三年生から四年生に進級するわずか数ヶ月前における鉢伏山での冬季合宿の頃から、卒後の進路や就職について深く思い 悩んでいた。間もなく訪れる春季山スキー合宿(岩木山・八幡平方面)を終えれば、将来の職業選択や就職先のことを真剣に 考えねばならないと、かなり焦っていた。部活と大学の卒後において、何の職業に就くのか、どんな会社に行きたいのか、 さっぱり方向は定まっていなかったからである。

   既に少し触れたように、1970年(昭和45年)の三年生末期の冬季合宿において、鉢伏山から続く尾根筋で雪上訓練をしていた。スキー板にシールを 張り付け、シール歩行訓練などを繰り返していた。その日の訓練を終えて風の強い稜線上の鞍部で雪上テントを張った。 夕食後全員でミーティングを済ませ、10時頃には消灯し全員寝袋に潜り込んだ。だがまた、卒後の進路や就活のことが気になり始めた。

  冬季とそれに続く春季合宿を終えれば、泣いても笑っても四年生となり、部活を事実上卒業し就活モードへと突入する。学友らは 一歩も二歩も先んじて、就活に本腰を入れていた。自身の就職をどうするのか、その思いに取り付かれ、頭が冴えてきて一向に寝つけなかった。 過去の自分のことをあれこれと振り返ることにもなってしまった。船乗りの夢はとうの昔に露と消えていた。船乗りへの夢に代わるような、 「これがめざすべき人生の新しい目標」だというものにも出会えていなかった。それが、悶々とした悩みの正体であった。 海との接点をもてる海洋調査研究、水産・漁業、海運などの研究機関や民間会社への就職については、不思議と脳裏に去来することは なかった。もっとも、意識的に無理やり海から遠ざかろうとしていた訳ではなかった。 唯一心の奥に秘め続けていたのは、海外への雄飛の可能性の模索、世界の異文化との触れ合いへの関心であり、それらはいつも頭の 片隅にあった。商社や航空会社への就職もその一つの選択肢ではあった。

  寝袋の中で何をどう思い巡らし、辿り着いたのかをよく覚えていないが、数ヶ月前に読んだ一冊の本のことが脳裏に去来した。 国連事務次長・明石康氏著の「国際連合」という岩波新書のことがふと頭をかすめた。国連の歴史・組織・機能、事務総長の役目と激務、 国際紛争での国連の解決の努力とその限界、国連平和維持軍の活動などについて、走馬灯のように思い出していた。 ウ・タント国連事務総長の思いとして、「どんなに重責が両肩にのしかかろうと、国際社会の平和や発展に貢献できるならば、 その重責から逃避することはないし、それを全うすべく最後まで最善を尽くす」、というような新書中のくだりが何故か思い出された。 深く印象に残った一節であった。それが突然の閃きを引き起こす「発火点」となった。

  次の瞬間、「そうだ、国連に奉職しよう。国際公務員への道をめざそう。法律を学んできたから、貢献できるとすれば法務官がベストだ!」 と電光石火のごとく閃めいた。かくして、大袈裟だが、「神からの啓示」を得た如く、国際公務員こそ自身の目指すべき道だと考えた。 私的には、それは人生で最も価値ある閃きと思えた。今でもその思いは変わらない。

  人生航路の羅針盤上の新しい目的地および針路を国連への奉職に定めた。向かうべき針路はニューヨーク。マッチ箱を縦にしたような 国連本部ビルに定めた。船乗りをかつて目指すべき目標にしていたが、それに代わる新たな人生目標を得ることになった。 人生の目標と針路に関して、後にも先にもこれ以上の素晴らしい閃きを得た事はなかった。

  かくして、閃きが脳天に突き刺さったのは、何と部活での、 それも雪上テントの寝袋の中でのことであった。人生における最高の閃きであったと思った。部活生活は学業や就職と縁遠い ものであったかもしれないが、決して無意味な過程ではなかった。部活への真剣な向き合いは、第一に高校部活での トラウマからの解放にもつながりつつあったし、その上にこんな最高の閃きに出会うことができた。部活や山の世界への没入を経て 一つの閃きに辿り着けただけでも、人生にとって意味あることであったと確信できた。

  3年次の春合宿を終えた後、主将の責務を一年後輩の「薩摩男児」に引き継ぎ、部活から事実上の卒業を果たした。4年生からは いわば「隠居状態」となった。そして、「国連法務官」への奉職に一歩でも近づくために、 卒業の暁には大学院への推薦入学が叶えられるように、4年次における単位取得、それも オール「優」の好成績を目指しての奮闘が始まった。何としてでも大学4年間における全履修科目平均点に関する合格基準の達成 を成し遂げる必要があった。



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    第3節 雪上テントの中で人生最高の閃き、国連法務官をめざす



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