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    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第2節: 先輩にはキャンパスで、自然には山で厳しくしごかれる


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     第2章・目次
      第1節: 北海道の日高山脈を縦走し感涙する
      第2節: 先輩にはキャンパスで、自然には山で厳しくしごかれる
      第3節: 雪上テントの中で人生最高の閃き、国連法務官をめざす




  何がしかのサークルに属していなければ、果たしてどんなキャンパスライフを送っていたことであろうか。その日の授業を終えれば、 真っ直ぐ家路に就き、わずかでも畑仕事の手伝いをしていたことであろう。かくして、現実のキャンパスライフは徐々に部活を中心 に回り出した。

  ワンゲル部はキャンパスの北端に小さなヒュッテ風の部室をもっていた。午後4時頃トレーニングの時間になると、1年生から3年生まで部員全員が部室に集まり、 トレーニングのスタンバイをした。部室周辺には、その頃になると目に見えない緊張感が漂っていた。心身を鍛えるトレ-ニングは、 平日の月曜日から金曜日までの毎日で、授業のない放課後に2時間ほど全員で汗を流した。 毎日のトレ-ニングはきつく、いつも5kmほどのランニングが含まれていた。特に体力気力の劣る1年生は途中バテないように気合を 入れて臨む毎日であった。

  部内での上下関係は歴然としていて、上級性に対する強い畏怖の念と服従精神が支配していた。内部の組織立てとしては、3年生の主将 を頂点にしたピラミッド構造になっていて、ガチガチの不可侵的序列制が敷かれていた。上級生による指示はいわば絶対的なもので、 部室内には何となく張りつめた空気感がいつも漂っていた。一年生は自虐的に「奴隷」と認識し、 4年生は雲の上どころか、「神」のような存在であった。4年生は卒業単位の最後の修得と就活などに忙しく、日常ほとんど 姿を見かけることはなかった。

  当時ワンゲル部といえば下級生への「しごき」で世間の注目を浴びていて、時にはしごき事件で取沙汰され新聞紙面を賑わせること もあった。世間では「しごき」はあたかもワンゲル部の代名詞のように捉えられる風潮があった。もちろん、「しごき」はワンゲル部 だけに被せられた代名詞ではなかった。私はそのピラミッドの底辺にいて「しごかれる」立場にある部員として歯を食いしばり、 何が何でも「奴隷」的な一年次を耐え抜こうと必死であった。過去の二回のトラウマを一生背負って生きたくはなかった。 4年間部活をやり抜いてトラウマからの完全払拭をなし遂げ、高校時代の苦渋の体験へのリベンジを果たしたいという思いに駆り立てられて いた。自身のみが知るそんな秘かな誓いを一種のパワーの源にしていた。一年次の一年間は最も長く感じられたが、部活からの「完全卒業」 までは流石に遥かに遠い道のりであった。

  通常の学期中にあっては、授業への出席が最優先であり、部はそれを推奨していた。そんな空気感には救われた。ゼミの授業は少人数であった が、それと同じく英語とフランス語の語学単元はマンモスクラスでの授業ではなかった。毎回の授業で出欠点呼が行なわれた。出席率 確保は確実に成績に反映され、出席をさぼればひどい成績に甘んじることになった。最悪の場合「不可」を食らうことになり、出席は おろそかにできなかった。

  とはいえ、元来語学が大好きであったので、欠席した記憶がほとんどない。第二語学としてはフランス語を選択した。週2回の仏語授業への出席を 欠かすことなく、成績はほぼオール「優」をえた。いずれにせよ、どんな授業の場合でもとにかく出席することで、部室と部活からの 物理的距離を置くことにつながった。そして、部活への緊張感が一時的にせよ和らぐことになり気を休めることができた。だから、 有り難いことに、授業をずる休みするような気が一向に湧いてこなかった。

  余談であるが、単元のうち「体育」については2年間全ての座学・実技を欠席した。「脱部」することなく体育会系部活を続けていたので、その限りに おいて出席扱いされ、かつ成績「優」の判定をもらった。平日毎日2時間のトレーニングと年間100日ほどの部活からすれば、「体育」授業 はほとんど緊張感を生まない「遊戯」のように思えていた。

  さて、部活としての山行は合宿形式にて夏・秋・冬・春期の四季ごとになされた。その四季の間を縫って、土日の週末か、それをはさんだ 連休を利用して、キャンパスを離れて大阪近傍の山々へ、実践的なボッカ訓練のために出掛けた。 例えば、六甲山や宝塚の裏山、琵琶湖西側の比良山、滋賀・三重県境の鈴鹿山地、奈良県の大峰山や大台ケ原、和歌山の高野山方面 などであった。

  一年間のうちの最大の山行行事は、2週間ほどの夏期合宿であった。北海道、東北、信州などへ遠出した。次いで10日間ほどの 春期の山行合宿であった。スキー板にアザラシの皮を模した人工皮革「シール」を履いて、雪深い信州、東北の連山を縦走するという 山スキーツアーであった。秋期には少し短めに山中にこもった。年末年始の冬期には、ワッカを履いて深雪の中でラッセルの訓練をしたり、シールでもって 斜面直登や滑降する訓練をした。また、雪上でのテントの速攻的設営や撤収の訓練などを繰り返した。スキー板には「カンダハ」という 特殊な金具が取り付けられていて、登山靴を履いたまま着脱ができた。冬期でのそんな合宿は、主に兵庫・鳥取県境近くの鉢伏山スキー場周辺の 深雪地帯で行った。というのは、そこに部の先輩たちが自前で建設した小さな山小屋があったからである。 数えてみれば、年間およそ100日近くも「カニ族」の出で立ちで、里山歩きと山スキーなどで家を留守にしていた。

  さて、日頃の厳しい鍛錬をもって安全の山行に備えることの重要性を思い知らされることに出くわしたことがあった。 その体験譚を少し綴りたい。二年生の秋合宿で南アルプスへ出掛けた。日本では富士山に次ぐ高峰は北岳である。そのピークをめがけて 一気に1000メートル近く攻め上がった。その後、3000メートル級の山々が連なる尾根筋をたどり、間ノ岳や塩見岳方面へと縦走した。 その頃に、低気圧が日本列島を横切り初冠雪を南アルプスへもたらした。

  気温は一気に下がり、みぞれ混じりの空模様となった。 私は、NHKラジオ放送の午後の気象通報を聴き、白地の気象図に、天気・風向・風力・気圧などのデータを一通りプロッティングし、 等圧線を引き、天気図を書き上げねばならなかった。二年生の気象係としての役目であった。グループから一人離れて、みぞれが降る中、 樹木や熊笹の繁みに身を寄せ、ザックに腰を下ろし傘の下で気象データを書き込んだ。その後あら方気象図の作成を終えて先を急いだ。 意外にも半時間ほどでパーティーに追いついた。余りに早く追いついたので、何かいつもと違う雰囲気を感じた。

  皆の様子がどうもおかしかった。皆して、大樹や熊笹が生い茂る雑木林然としたところで、何やら手分けして作業をしている様子であった。 すぐに状況が飲み込めた。一年生部員が疲労と急激な寒さのために意識がもうろうとしており、低体温症に襲われているようであった。 「身体をマッサージしろ」、「すぐテントを立てろ」、「コンロで火を起こせ」と、矢継ぎ早に三年生のリーダーからの指示が飛ぶ。 手分けして緊急にテントを10分ほどで設営した。他の部員はガスコンロに火を付けテント内を暖め、必死で彼の身体にマッサージを施した。 その結果、幸いにも手遅れにならず、徐々に回復してきた。低体温症が深刻になれば、致命的な事故につながりかねなかった。 マッサージと暖気の確保が回復を呼び込んだようだ。事態発生から30分ほどして意識もはっきり戻り、事なきを得ることができた。

  日頃からの部員の速攻的テント設営の訓練はもちろんのこと、その他のあらゆる鍛錬による備えがいかに重要であるかを思い知らされた。 だいたい日頃の下界でのきつい鍛錬などは嫌なもので、やりたくないのが本音であろう。また、日頃の鍛錬の重要性を十分認識もせず、 時に故意に過小評価しがちである。だが、現実に何が起こるか分からない。実際の厳しい自然の中で襲われるそんな突然の試練を 乗り越えたり、安全を確保したりするには、日頃からの訓練や鍛錬に真剣に向き合い、有事への備えを怠らないことが何よりも肝要である。 山中での緊急発生時における迅速な対処能力は、そんな日頃からの鍛錬からしか生まれえないといえよう。

  先輩部員が鍛錬の重要性と必要性を何度語ろうが、なかなかすんなり受け入れられない面は否定できない。だが、山中で一度でも 緊急事態を体験すれば、そのことを全く素直に悟らせてくれる。そして、自然の中に身を置けば、その素晴らしさだけでなく、その 厳しさをも同時に教えてくれる。下界では常日頃 先輩にしごかれる訳だが、山に入れば自然にもっと厳しく「しごかれる」ことになる。だが、自然界でもっと厳しくしごかれる。そして、 しごかれ過ぎて命を落とすこともありうる。

  山行体験を綴れば切りがないが、もう一つの事例を綴りたい。鍛錬と直接的な関係はないが、山中での低体温症を自ら体験し命拾いしたことがある。 一年生の秋合宿ことであった。山行経験は浅くまだまだ対処能力が未熟であった頃といえた。全く予測もしなかったことが身に降りかかった。 その体験を思い出す度にぞっとするほどである。人はこんなにも簡単に死の淵に立たされるものかと、驚くばかりであった。時に今でも そのことが悪夢として蘇ることがある。

  紀伊半島の背骨にあたるのが紀伊山地であるが、奈良・三重県境辺りにある大台ケ原山はその一角にある。大台ケ原の北方に高見山・三峰山がある。 大台ケ原と高見山の2字をとって台高山脈と呼んでいた。この近辺は日本有数の降雨地帯である。さて10月の秋合宿のためにその地域に分け入った。 その日は朝からずっと大雨にたたられていた。いつものように、寝袋や着替え用衣類などはビニール袋に入れてザックに押し込んでいた。 だが、ひどく水が浸み込み(袋のどこか穴が開いていたようだった)、特に寝袋はぼとぼとの状態であった。一日中ひどい大雨に祟られたが、 ここまで水が浸み込むとは想定外であった。多雨の時期と場所を考えて、ビニール包装を三重くらいにして厳重にパッキングしておく べきであった。ビニール包装が不十分であったことは、結果を見れば明らかであった。それに、丸一日合羽を着ていたので、肌着や コールテンのユニフォーム、ズボンさえも、発汗のために内側からもびしょ濡れであった。合羽を脱ぐと体温で湯気がもうもうと 立ち上るほどであった。

  大雨の中、沢沿いに下ってやっとの思いで山間の小さな集落に辿り着いた。沢は濁流となっていた。まるで滝のごとく急流となり暴れ回って いた。見るのも怖ろしいほどの急濁流であった。さて、その日のテント設営をどうするかであったが、余りのひどい豪雨のため、 さすがにリーダーさえも屋外での設営を諦めるほどであった。当時廃校となっていた小学校を一晩使わせてもらうことになった。 それも運動場ではなく教室そのものを借りれることになった。教室で一夜をやり過ごせることになったのは、大きな救いであり 内心すごく喜んだ。ところが、寝袋を取り出してショックを受けた。寝袋はこれ以上水を吸い込めないほどに、水をたっぷり吸い込ん でいた。床に寝袋を広げようとしたら、含んだ水の重みで寝袋を床に落としてしまい、「どさっと」いうひどい音がした。 教室には秋の冷気が漂っていた。 冷たい寝袋にずぶ濡れの身体を潜り込ませることに暫くためらった。だが、皆は既に寝袋に潜り込んでいた。かくして、決心を固め 「えいやっ」と気合を入れて潜り込んだ。

  悪い予感が的中した。潜り込んで暫くすると悪寒が突然襲ってきた。その後猛烈な震えが襲い掛かかってきた。両顎の歯が勝手 にガチガチと噛み合い、自身に聞こえる音は半端でなかった。何よりも、その激しい震えで身体が飛び跳ねているように感じた。 ガチガチと鳴る顎の震えを意識して無理やり止めようとしたが、全く制止できないでいた。寝袋と着ている全ての 衣類がダブルでびしょ濡れで、体温がひどく奪われたのだ。教室も冷気に包まれていたこともあり、ひどい低体温症に陥ったのであろう。このまま震えが治まらず、 低体温症で死ぬのではないかという恐怖に襲われた。その恐怖も半端でなかった。今にも発狂して寝袋から飛び出して駆けずり回りたくなる のを必死に堪えた。

  低体温症に無警戒であったことをひどく悔やんだ。予備の衣類も全部びしょ濡れであり、着替えても意味がなかった。ではどうするのか、 一つだけ方法があった。何重にもビニール袋に入れていた新聞紙は無傷であった。新聞紙を上半身にじかに差し込み、少しでも保温 すべきであった。だが、新聞紙は、小枝や焚き木に火をつけ食事を作るための火起こし用に必要であった。それはチーム共用材であった。 雨天の日にはなおさら必要不可欠であった。明日には必要になるかもしれなかった。その新聞紙を一年生の独断で勝手に使用する 訳にはいかない。チーム共用材を濡らしてしまい、用を足せなくしてしまう訳にはいかなかった。身の危険の回避か、共用材の保持か、 悩んだ末、後者を選択した。

  幸いなことに、半時間ほど必死に堪えていたところ、その猛烈な震えは治まってくれた。これで低体温症のピークを越えられた、 九死に一生を得たと思った。びしょ濡れによる低体温だけで死の淵に立たされるというリスクと恐ろしさを体験した。真に 衝撃的な体験の結果一生涯の「心の傷」となってしまった。今でも時折その時の発狂しそうなパニック状態のことを思い出すたびに、 新聞紙の部分的使用につき申し出るべきであったと、自責の念に駆られてしまう。

  部活にまつわるエピソードはその他いろいろあるけれども、それらは割愛したい。翻って視点を変えて部活の意義などについて 少し振り返りたい。部活を通じて何を会得できたであろうか。多くの先輩や同輩・後輩と山行を共にした。まさに同じ「釜の飯」を 食べた大勢の仲間がいた。そして、山里を歩き自然と親しむというスポーツ活動を通じて育まれた人間的繋がりと絆は、人生を 豊かにしてくれるに違いなかった。意義を一言で表わすならば、そういうことであろう。

  部活を通じて、リーダーシップ、協調性、チームワーク、計画性や自立・自律性、利他性・自己犠牲・仲間を思いやる心、友情など を考えさせられた。それらを少しは学び育み得たはずだと、希望的推測をもって振り返る。具体的にはそれらは何かと問われれば、 答えに窮してしまうが、、、。4年間で300日以上の山行を通じていろいろなことを経験した。結果、経験値が向上したとは言える。 全ての事柄や経験が無駄でなく、有意義であった。そう思えればそれで十分であると思える。大上段に人間形成に役立つとか、人間力 や人間性を高められるとか、おこがましくて語れないし、そのつもりもない。そもそも、それを目的に部活に取り組み始めた訳では なかった。結論的なものはないが、唯一確信をもって言いうることがあるとすれば、部活での経験を通じて、「教科書にはないことを いろいろ身をもって体験し会得するものがあった」ということである。私的にはそれで十分な4年間であった。 学問の府と称される大学や学部卒業と同じぐらい部活からの卒業は有意義なことであった。

  4年間の部活で得た一大成果は何であったか。他人からすれば信じられないかもしれないが、それは過去のトラウマの完全治癒 であった。4年間とにかくやり通した。トレーニングや山行などで肉体・精神的にどんなにバテても、また苦痛であっても、 一度も退部しようと考えたことはなかった。部活を始めてからの究極的な到達目標地は「ワンゲル部を卒業すること」であった。 大学からの卒業も嬉しいことであったが、それと同じくらい部活卒業も嬉しく晴れ晴れとしたものであった。 かくして、社会人となってもそれを糧にして乗り切って行けそうだという、確信に近い秘かな思いが生まれていた。

  さて、自然の中での仲間とのワンデリング・山里歩きの何が面白く、また楽しかったのか。果たして、本当に楽しかったのか、 楽しいと思えたのは何なのか、自問自答してみたい。確かに体験を通じていろいろな楽しい思い出、素晴らしい自然風景との出会いなど が山ほどあった。自然の中で眺め五感で会得した初めての感動の体験や感動風景を思い出としてもち帰った。かけがえのない宝物となった。 下界ではめったに見ることのない自然風景があって感動した。ザックを担いで歩いた長い時間の道のりからすれば、一瞬の絶景 かも知れないが、嶮しい山道を登りピークや尾根に立つことができた者にしか味わえない感動がそこにあった。

  ところで、自然風景を眺め随分と感動したはずなのに、感動の記憶が脳裏に焼き付けられているのは意外と少ない。何故だろうか。 山行の道のりは長く、楽しむ余裕が少なかったからかもしれない。山に入ればいつもどこか緊張し、何かに堪え続けていたことの 方が圧倒的に多かったせいであろうか。用具一式や食糧などを目一杯詰め込んだ重いザックを背負い、長い道のりをたいていは 下を向いて、歯を食いしばり歩いていたことが多かったからだと、正直そうと思う。現実にはしんどく辛い行程が沢山あった。 だが、有り難いことに、そんなしんどく辛かったことは、楽しかったことや感動したこと以上に今となってはすっかり忘れてしまっている。

  最後に、部活の途上で得たものがもう一つあった。山の世界に没入して以来、海から遠ざかるばかり、海への回帰の欠片すら 見えなかった。人生の目標は立たず、いわば大海にて漂流していた。3年生末期のこと、将来の就職と進路のことで悩みを抱えたまま、 冬期合宿に出掛けた。その冬山のテントの中で、人生の目指すべき「方位」についての閃きがあった。 部活で得た特筆すべき最大の「宝物」はその閃きにあった。何を閃き、その後の人生をどう方向づけることになったのか、次節で綴りたい。



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