何がしかのサークルに属していなかったとすれば、果たしてどんなキャンパスライフを過ごしていたことであろうか。その日の授業を終えれば
真っ直ぐ家路につき、少しの時間でも田んぼの仕事を手伝っていたことであろう。さて、現実のキャンパスライフといえば徐々に部活を中心
に回り出した。
ワンゲル部はキャンパスの北端にヒュッテ風のミニサイズの部室をもっていた。午後4時頃トレーニングの時間になると、1年生から3年生
まで部員全員が部室に集まり、トレーニングのスタンバイをした。毎日点呼こそ行われなかったが、2級生は新入部員の無断欠席をそれとなく
気にかけていたはずである。部室の周囲には、その頃になると目に見えない緊張感が漂っていた。心身を鍛えるトレ-ニングは、
平日の月曜日から金曜日までの毎日のことで、授業のない放課後に2時間ほど全員で汗を流した。
日頃のトレ-ニングはきつく、いつも5kmほどのランニングが含まれていた。特に体力気力の劣る1年生は途中バテないように気合を
入れて臨んでいた。
部内での上下関係は歴然としていて、下級生には上級生に対する強い畏怖の念と服従の精神が支配していた。組織立てとしては3年生の主将
を頂点にしたピラミッド構造になっていて、ガチガチの不可侵的な年級序列制が歴然と敷かれていた。上級生による指示はいわば絶対的なもので、
部室内には張りつめた空気感が常時漂っていた。一年生は自虐的に「奴隷」と認識し、4年生は雲の上どころか「神」のような存在であった。
4年生は卒業単位の最後の取得に向けた追い込みと、企業回りなどの就職活動などに忙しく、日頃はほとんど姿を見せることはなかった。
当時ワンゲル部といえば、下級生への「しごき」がひどいと言うイメージが強く何かと世間の注目を浴びていた。実際時にはしごき事件
のために警察沙汰となり新聞紙面を賑わせることもしばしばであった。社会では「しごき」はあたかもワンゲル部の代名詞であるかの
ように捉えられ、その風圧も肌で感じ取っていた。もちろん、「しごき」はワンゲル部だけに被せられたものではなく、体育会系の部活
では大なり小なりはびこっていたように思える。
ピラミッド構造の底辺にいて「しごかれる」立場にある一年生部員としては、日々の厳しい鍛錬に歯を食いしばりながら、
何が何でも「奴隷」的環境にある一年間を耐え抜こうと必死であった。高校生時代の二回のトラウマを一生背負って生きたくはなかった。
4年間部活をやり抜くことで過去のトラウマ体験の完全払拭をなし遂げリベンジを果たしたいという思いに駆り立てられていた。
自身が立てたそんな秘かな誓いを一種のパワーの源にしていた。フレッシュマン時代の一年間は最も長く感じられたが、部活からの
「完全な卒業」までの道のりは遥かに遠いものであった。
通常の学業期間中にあっては、授業への出席が最優先であると謳い文句としワンゲル部としてはそれを推奨していた。フレッシュマンにとっては
そんな空気感には救われた。専門ゼミの授業は少人数であったが、それと同じく英語とフランス語の語学授業も少人数制でマンモスクラスではなかった。毎回の授業で出欠の点呼が確実に行なわれた。出席率は確実に成績に反映され、出席を怠れば下位の成績に甘んじることになった。
最悪の場合「不可」を食らうことになり、出席率を疎かにはできなかった。
必須科目の英語に加え、第二語学としてはフランス語を選択した。元来語学ものが好きであったこともあり、英語・仏語共にも2年間
にわたりほぼ皆勤した。しかも、英語も仏語も二年間ほぼオール「優」の成績をマークすることができ、少しは誇りにできた。
いずれにせよ、語学だけでなくどんな科目であっても授業に出席することによって、部室からの物理的距離だけでなく、クラブ活動からの
距離を置くことにつながった。それに、授業時間中は一時的にせよ部活絡みの緊張感から解放されるという副次的効用が得られた。
端的に言えば、緊張感が和らぎ気を休めることができた。だから逆に、どの授業についてもずる休みしたくなるような誘惑に悩まされること
は殆どなかった。それは、部活の一つの重要な効用といえた。
余談であるが、単元のうち「体育」については2年間全ての座学・実技を欠席した。「脱部」することなく体育会系のワンゲル部に在籍
を続けていたので、その限りにおいて常に出席扱いとされ、かつ成績として「優」の判定をもらった。平日毎日2時間のトレーニングと
年間100日ほどの山行からすれば、「体育」授業はほとんど緊張感をもつことのない「同好会的サークル活動」に似たもののように思えていた。
さて、部活としての山行は合宿形式にて夏・秋・冬・春期の四季ごとになされた。その四季の間を縫って、土日の週末か、それをはさんだ
連休を利用して、キャンパスを離れて畿内の山々へ、実践的なボッカ訓練などのために出掛けた。
例えば、六甲山や宝塚周辺の山々、琵琶湖西岸の比良山系、滋賀・三重県境の鈴鹿山系、奈良県の大峰山や大台ケ原、和歌山の高野山・葛城山
系などであった。
一年間のうちの最大の山行行事は、2週間ほどの夏期合宿であった。北海道、東北、信州方面などへ遠出した。次いで10日間ほどの
春期の山行合宿であった。アザラシの皮を模したシールと呼ばれる人工皮革をスキー板の裏面にセットして、雪深い信州や東北の連山を
縦走するという山スキーツアーであった。秋期にはもう少し短めに山中にこもった。
年末年始の冬期には、ワッカを履いて深雪の中でラッセル訓練をしたり、シールを付けて斜面直登や滑降訓練をした。また、雪上
でのテントの速攻的設営や撤収の訓練などを繰り返した。スキー板には「カンダハ」と呼ぶ特殊な金具が取り付けられていて、
登山靴をその金具に上からかませて自在に履くことができた。脱ぐ時にはストックの先を靴の後方にある穴に差し込みプッシュすれば即座に
よかった。冬期でのそんな合宿は、兵庫・鳥取県境近くの鉢伏山スキー場周辺の深雪地帯で行なうのは殆どであった。
というのは、同地にワンゲル部の先輩諸氏が私財を持ちよりボランティアで建設した自前の小さな山小屋があったからである。
数えてみれば、年間およそ100日近くも「カニ族」の出で立ちで里山歩きと山スキーなどで家を留守にしていた。
さて、日頃の厳しい鍛錬をもって山行の安全に備えることの重要性を思い知らされる出来事に出くわした。
その体験譚を少し綴りたい。二年生の秋合宿で南アルプスへ出掛けた。南アルプスには富士山に次ぐ高峰である北岳がそびえる。
そのピークをめがけて一気に1,000メートル近く攻め上がった。その後、3,000メートル級の山々が連なる尾根筋をたどり、間ノ岳や塩見岳方面へと縦走した。その時のこと、低気圧が日本列島を横切り初冠雪を南アルプスにもたらした。
気温は一気に下がり、みぞれ混じりの空模様となった。私は、短波ラジオ放送の午後の気象通報を聴き、白地の気象図に天気・風向・
風力・気圧などのデータを一通りプロッティングし、等圧線を引き、気象概略図を書き上げねばならなかった。二年生の気象係としての
役目であった。グループから一人離れて、みぞれが降る中、樹木や熊笹の繁みに身を寄せ、ザックに腰を下ろし、傘を低く差しながら
気象データを次々と書き込んだ。その後気象図の作成を粗方終えて先を急いだ。意外にも半時間ほどで先行するパーティーに追いついた。
余りに早く追いついたので何かいつもと違う雰囲気を感じた。
部員の様子がどうもおかしかった。大樹が林立し熊笹が濃く生い茂る雑木林然としたところで、皆して手分けして何やら作業をして
いる様子であった。すぐに状況が飲み込めた。一年生部員が高度差1,000メートル以上の登攀による疲労と急激な寒さのために意識が
もうろうとしており、低体温症に襲われているようであった。
「身体をマッサージしろ」、「すぐテントを立てろ」、「コンロで火を起こせ」と、矢継ぎ早に三年生のリーダーから指示が飛ぶ。
手分けして緊急にテントを10分ほどで設営した。他の部員はガスコンロに火を付けテント内を暖め、必死で彼の身体にマッサージを施した。
その結果、幸いにも手遅れにならず、徐々に回復してきた。低体温症が深刻になれば致命的な事故につながりかねなかった。
マッサージと暖気の確保が回復を呼び込んだようだ。事態発生から30分ほどして意識もはっきり戻り、事なきを得ることができた。
速攻的テント設営の日頃からの訓練はもちろんのこと、その他のあらゆる鍛錬と備えがいかに重要であるかを思い知らされた。
下界における日頃のきつい鍛錬などは嫌なものである。特に下級生にとっては、トレなどやりたくないのが本音であろう。また、
日頃の鍛錬の重要性を十分認識せず、時にその意義や価値を故意に過小評価しがちである。だが、現実の山行において何が
起こるか分からない。厳しい自然の中で襲ってくる突然の試練を乗り越え安全を確保するには、日頃から鍛錬に真摯に向き合い、
有事への備えを怠らないことが何よりも肝要である。山中での緊急事態発生時における迅速な対処能力は、そんな日頃の鍛錬から
生まれてくるものと確信した。
先輩部員が鍛錬の重要性と必要性を日頃何度語ろうが、なかなかすんなり受け入れられないことは否定できない。だが、山中で一度でも
緊急事態を体験すれば、そのことを素直に悟らせてくれる。そして、自然の中に身を置けば、その素晴らしさだけでなく、その
厳しさをも同時に教えてくれる。下界では常日頃先輩に「しごかれる」訳だが、山に入れば自然によってより厳しく「しごかれる」
ことになる。そして、自然からしごかれ過ぎて命を落とすこともありうる。
山行体験を綴れば切りがないが、もう一つの事例を綴りたい。鍛錬と直接的な関係はないが、山中で自ら低体温症を体験し命拾いした
ことがある。一年生の秋合宿ことであった。山行経験は浅くまだまだ対処能力が未熟であった。全く予測もしなかったことが身に降りかかった。
その体験を思い出すたびに、その出来事にぞっとする。人はこんなにも簡単に死の淵に立たされるものかと驚くばかりであった。時に今でも
そのことが悪夢となって蘇ることがある。
紀伊半島の背骨にあたるのが紀伊山地であるが、奈良・三重県境辺りにある大台ケ原山はその一角にある。大台ケ原の北方に
高見山・三峰山がある。大台ケ原と高見山の2字をとって台高山脈と呼んでいた。この近辺は日本有数の降雨地帯である。さて10月の
秋合宿のためにその地域に分け入った。その日は朝からずっと大雨にたたられていた。
いつものように、寝袋や着替え用衣類などはビニール袋に入れてザックに押し込んでいた。
だが、ひどく水が浸み込み(袋のどこか穴が開いていたようだった)、特に寝袋は水分をたっぷりと含みぼとぼとの状態であった。
一日中ひどい大雨に祟られたが、ここまで水が浸み込んでいたとは想定外であった。多雨の時期と場所を考えて、ビニール包装を
三重くらいにして厳重にパッキングしておくべきであった。ビニール包装が不十分であったことは、結果を見れば明らかであった。
それに、丸一日合羽を着ていたので、肌着やコールテンのユニフォーム、ズボンさえも、発汗のために内側からもびしょに濡れていた。
合羽を脱ぐと体温で湯気がもうもうと立ち上るほどであった。
大雨の中、沢沿いに下ってやっとの思いで山間の小さな集落に辿り着いた。沢は濁流となっていた。まるで滝のごとく急流となり龍の如く
暴れ回っていた。見るのも怖ろしいほどの激しい濁流であった。さて、その日のテント設営をどうするかであったが、余りのひどい豪雨のため、
さすがにリーダーさえも屋外での設営を諦めるほどであった。当時廃校となっていた小学校を一晩使わせてもらうことになった。
それも運動場ではなく教室そのものを借りれることになった。
教室で一夜をやり過ごせることになったのは、大きな救いであり内心すごく喜んだ。ところが、寝袋を取り出してショックを受けた。
寝袋は水をたっぷり吸い込んでいてそれ以上吸い込めないほどに飽和状態であった。床に寝袋を広げようとしたら、含んだ水の重みで
寝袋を床に落としてしまい、「どさっと」いうひどい音がした。教室には秋の冷気が漂っていた。
冷たい寝袋にずぶ濡れの身体を潜り込ませることに暫くためらっていた。だが、皆は既に寝袋に潜り込んでいた。かくして、必死の思いで
意を決して「えいやっ!」と気合を入れて潜り込んだ。
悪い予感が的中した。潜り込んで暫くすると悪寒が突然襲ってきた。その後猛烈な震えが襲い掛かかってきた。両顎の歯が勝手
にガチガチと噛み合い、自身に聞こえる音は半端でなかった。何よりも、その激しい震えで身体が飛び跳ねているように感じた。
ガチガチと鳴る顎の震えを意識して無理やり止めようとしたが、全く制止できないでいた。
寝袋と着ている全ての衣類がダブルでびしょ濡れで、体温がひどく奪われたのだ。教室も冷気に包まれていたこともあり、ひどい
低体温症に陥ったのであろう。このまま震えが治まらず、低体温症で死ぬのではないかという恐怖に襲われた。その恐怖も半端でなかった。
今にも発狂して寝袋から飛び出して跳ね回りたいという衝動を必死に抑え堪えた。
低体温症に無警戒であったことをひどく悔やんだ。予備の衣類も全部びしょ濡れであり、着替えても意味がなかった。ではどうするのか、
一つだけ方法があった。何重にもビニール袋に入れていた新聞紙は無傷であった。新聞紙を上半身にじかに差し込み、少しでも保温
すべきであった。だが、新聞紙は、小枝や焚き木に火をつけ食事を作るための火起こし用に必要であった。それはチーム共用材であった。
雨天の日にはなおさら必要不可欠であった。明日には必要になるかもしれなかった。その新聞紙を一年生の独断で勝手に使用する
訳にはいかない。チーム共用材を濡らしてしまい、火起こしの用を足せなくしてしまう訳にはいかなかった。身の危険の回避か、共用材の保持か、
悩んだ末後者を選択した。
幸いなことに、恐怖に怯えながら半時間ほど必死に堪えた後、その猛烈な震えは治まってくれた。これで低体温症のピークを越えられた。
大袈裟かもしれないが九死に一生を得たと天に感謝した。びしょ濡れによる低体温症だけで死の淵に立たされるというリスクと恐怖を
を体験した。衝撃的な体験の結果一生涯の「心の傷」となってしまった。今でも時折その時の発狂しそうなパニック状態のことを思い出す。
そのたびに、新聞紙の部分的使用につき申し出るべきであったと、自責の念に駆られてしまう。
部活にまつわるエピソードはまだいろいろあるが、それらは割愛したい。視点を変えて部活の意義などについて少し振り返えってみたい。
部活を通じて何を学び得ることができたであろうか。多くの先輩や同輩・後輩と山行を共にした。正に同じ「釜の飯」を食べた大くの仲間がいた。
そして、ワンダーフォーゲルという山里を歩き自然と親しむ純然たるスポーツ活動を通じて育まれた繋がりと絆は、人生を豊かにしてくれる
に違いなかった。意義を一言で言えばそういうことであろう。
部活を通じて、リーダーシップ、協調性やチームワーク、計画性、自立・自律性、利他性や自己犠牲の心、仲間を思いやる心や友情など
を考えさせられた。それらを少しは学び育むことができたと、希望的推測をもって振り返る。具体的には何のことかと問われれば、
答えに窮してしまうが、、、。4年間で300日以上の山行を通じていろいろなことを経験した。結果、個人の経験値が向上したとは言いうる。
全ての事柄や経験に無駄というものがなく有意義であった。そう思えればそれで十分であると思える。大上段に人間形成に役立つとか、
人間力や人間性を高められるとか、おこがましくてとても語れないし、またそのつもりはない。
そもそも、その目的にして部活に身を投じ始めた訳ではなかった。唯一確信をもって言いうることがあるとすれば、部活での経験を
通じて、「教科書には載っていないことをいろいろ身をもって体験し会得することがあった」ということである。
私的にはそれで十分な4年間であった。学問の府と称される大学や学部卒業と同じくらい部活からの卒業は有意義なことであった。
4年間の部活で得た一大成果は何か。他人からすれば信じられないかもしれないが、それは過去のトラ
ウマからの完全解放であった。とにかく、4年間やり通した。日頃のトレーニングや山行などで肉体・精神的にどんなにバテても、
また苦痛であっても、一度も退部しようと考えたことはなかった。部活を始めてからの究極的な到達目標は「ワンゲル部を卒業する
こと」であった。大学からの卒業も嬉しいことであったが、それと同じくらい部活からの卒業も真に嬉しく晴れ晴れとしたことであった。
かくして、社会人となってもそれを糧にして乗り切って行けそうだという、確信に近い秘かな思いが生まれていた。
さて、自然の中で仲間とワンデリング・山里歩きをすることの何が面白く、また楽しかったのか。果たして本当に楽しかったのか、楽しいと思えたことは何なのか、自問自答してみた。確かに、下界ではめったに目にすることのない素晴らしい自然風景との感動的出会いなど、
山ほどあった。いろいろな楽しい想い出とともに、それらの風景を目に焼き付けて持ち帰った。それらすべてがかけがえのない宝物となっている。
ザックを担いで歩いた長い時間の道のりからすれば、一瞬の絶景かもしれないが、嶮しい山道を登り詰めピークや尾根に立つことができた者
でしか味わえない感動が沢山あった。
確かに自然風景を眺め随分と感動したはずなのに、感動の記憶が脳裏に焼き付けられているのは意外と少ない。何故だろうか。
山行の道のりは長く、楽しむ余裕が少なかったからかも知れない。山に入ればいつもどこか緊張し、何かに耐え続けていたことの方が
圧倒的に多かったせいせあろうか。用具一式や食糧などを目一杯詰め込んだ重いザックを背負い、長い道のりをたいていは下を向いて、
歯を食いしばりながら歩いていたことが多かったからだと、正直そうと思う。現実には辛くしんどかった行程が沢山あった。だが、
有り難いことに、今となってはそんなしんどく辛かったことは、楽しかったことや感動したこと以上に忘れてしまっている。
最後に、部活において得たものがもう一つあった。実は山の世界に没入して以来、海から遠ざかるばかりで、海への回帰の欠片すら
見えなかった。人生の目標を再定義できず、少なくとも3年ほどいわば大海に漂流していた。3年生の末頃のこと、将来の就職や進路の
ことで悩みを抱えたまま、冬期合宿に出掛けた。その冬山の雪上テントの中で、人生の目指すべき「方位」についての閃きがあった。
部活途上で得た特筆すべき最大の私的な閃きとは。その後の人生をどう方向づけることになったのか、次節で綴りたい。
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