サウジアラビアに赴任し半年ほど経た頃、次第にストレスが蓄積され「心と体が酸欠状態」になって行った。ビールでも
一杯飲んで気晴らしでもしたい心境に捕らわれた。だが、サウジには手軽に一杯飲めそうなバーやパブも居酒屋もない。コンサートや
ダンスホール、カラオケ、キャバレーなども、映画館もない。日本や欧米諸国では普通に見かける娯楽がなく、息抜きしようにも
身近なところにその場がない。無性に、心の酸欠と体のアルコール切れを何とかしたいと、酸素とアルコールの補充を求めて、
数ヶ月に一度くらいは、サウジの週末である金・土曜日に隣国ア首連のドバイ辺りに飛行機で逃避行をしてみたくなる。
そんな心境になっても誰も責めることことなどできない。かくして、飛行機で2時間ほどの至近距離にあるドバイにスピリッチュアル
かつフィジカルな「充電」を求めて駆け込んだことも何度かあった。
だが、ある時にふと一つのアイデアを閃いた。手っ取り早く行けるドバイへばかりリフレッシュに出向くのは芸がなく面白みに欠ける
と気付き始めた。そして、同時に一つのアイデアを天から授かった。確かにドバイで気ままにビールを飲めるのは嬉しかった。
羽目を外して浴びるほどアルコールに浸る訳ではなかったが、ビール一瓶か二瓶で心を軽く癒し、映画を日に1、2本でも鑑賞するために、
ドバイばかりを「気晴らしの射程圏内に」入れて出掛けるのは、それはそれでよかった。だが、同じア首連ばかりでは余りにも
つまらないし、サウジに赴任している価値が損なわれるように思えた。そこで、アラビア半島周辺のアラブ諸国を時計回りに訪ね、
異文化体験を積極的に重ねようと決意した。未だ訪ねたことのない中東諸国などの海辺の自然風景の中に身を置き、
辺境地の海に浮かぶダウ船をはじめ伝統的沿岸漁船の船溜まりや造船所などを訪ねたりするまたとないチャンスである。
また、ローカルなフィッシュ・マーケットに立ち寄ったり、アラブ風フォート(要塞)の史跡や伝統的漁業などの歴史・文化施設など
を訪ね歩いたりするまたとないチャンスでないか、と思い直した。更には、酸欠で窒息しそうな生活環境から一時的にもせよ
脱出できることにもなる。旅の道中で今まで見たこともない異次元的海岸風景や建造中のダウ船を活写できるかもしれないという
期待も心底のどこかにあった。
実は、事務所の同僚が家族でオマーンのマスカットに出かけ、素晴らしい風景に感動し、楽しい思い出を作ったという。その
話に刺激されたこともあり、「冒険青年シンドバッド」になったつもりでアラビア半島周辺諸国へ「冒険の旅」に出掛けるきっかけ
に繋がった。かくして、半島周辺諸国を時計廻りで順繰りに、まだ見たことのない被写体を追い求めることにした。
私としてはこの漫遊の旅のアイデアを大いに気に入り、早速機会を見て実行に移した。ドバイへの逃避行的な
旅は当分取り止め、先ずはバーレーンを皮切りに積極的・能動的な「酸素補給」と「歴史文化の散策」に出立することにした。
その後は、東隣のカタール、さらに半島の南東に位置するオマーンや南のイエメン、そして時にア首連にも出戻ることにした。
その後は再び半島を大回りして、紅海をはさんだアフリカのジプチ、エリトリア、スーダンなど訪ね、異国文化を垣間見ながら
さらに学び続けることにした。
半島周辺諸国はリヤドからわずか2~4時間のフライトで行き着ける国ばかりである。金・土曜日(サウジでの休日。日本での土日の週末に当たる)の1泊2日の弾丸トラベル
を試みるのもよいが、有給休暇1~2日をプラスできれば理想的であるといえた。中東諸国の見聞を実地に広められると、旅計画
を立てる段階からわくわくした。鼻先にそんな楽しい旅プランがぶらさがっていると、仕事にもプラスの心理的影響をもたらす
らしい。アドレナリンが増幅され仕事が大いにはかどることにもなった。
ざっくりと歴史をたどれば、アラビア半島諸国周辺のアラブ人は、かつてインドや東南アジアなどで産する胡椒、グローブ、丁子、
シナモンなどの香辛料の中継貿易を行い、経済的に大いに潤っていた。中世の時代、ジェノバやベネチアなどの商人は
それらの交易を独占的に支配し繁栄を極めていた。だが、オスマン帝国が台頭し、彼らの独占的交易の権益が脅かされるように
なった(1453年にはオスマン帝国はコンスタンチノープルを占領し、ビザンツ帝国は滅亡に至る)。
そんな情勢下において、15世紀初めのことのこと、アジアの香辛料の産出地域との直接的な海上交易ルートを開拓するための先陣を切ったのがポルトガルであった。
その後スペインが、さらに英国、オランダが続いた。「地理的発見の時代(日本では大航海時代と称されることが多い)」という
海洋進出が始まった。
古来よりペルシャ湾岸地域や紅海、アラビア海においては、東西世界のはざまで中継貿易に勤しむアラブ人らが活躍していた。他方、
ポルトガル人航海家らは、15世紀初めから半世紀以上にわたり、何とかしてアフリカ大陸を迂回しアジア東方・インド方面
への航路を切り拓くべく、その探検に命を賭けてアフリカ大陸西岸を南下し続けた。バスコ・ダ・ガマが西欧人として初めてインド西岸の
ゴアに到達し、その後ポルトガルは支配拠点と権益を順次東方へと拡大して行った。その後、英国、オランダなどが進出した。
彼らの権益闘争の跡がアラビア半島周辺の海沿いに城壁や要塞として遺されている。それらの歴史文化の足跡を見て回る
のも楽しいものである。アラブ人の交易や漁撈(天然真珠の採取を含む)などの重要な手段が「ダウ船」である。
「海のラクダ」と称されるいろいろなダウ船を諸国港々で眺めたいと考えた。半島周辺に張り巡らされた昔の沿岸航海ルート、
並びにそれと東南アジアを結ぶ海上交易ルートは、今では「海のシルクロード」と称されるものの一部である。サウジ赴任を
またとない機会としてその「海の街道」の一部でも垣間見ることを楽しみにした。
さて、時計回りの旅で最初に目指したのはバーレーンであった。同じアラブ国であっても、見たことのないどんな風景が待ち受けているの
か楽しみであった。初めて訪れる国の海や街角風景はいつも新鮮でわくわくさせてくれる。バーレーンは、地図で見ると、「ペルシャ湾に親指を
立てたように突き出た小さな半島国カタール」の西方沖に浮かぶ米粒のような小さな島国である。石油・天然ガス資源が
開発されるまでは、カタールやア首連と同様に、天然真珠採取を含む漁労と、メソポタミアとインダス地域間の中継貿易などで
古くから成り立っていた。バーレーンは1932年にアラブで初めて石油採掘に成功した(因みにサウジアラビアで石油が初めて採掘
されたのは1938年の事であった)。後に天然ガス資源を多量に産出することになった。
サウジアラビアとは「キング・ファハド・コーズウェイ」という海上埋立道路一本でつながる。ほぼ中間に小さな人工島があり、
島中央に引かれた国境線によってコーズウェイが二分される。国境線をはさんで両サイドに展望塔が立ち、ペルシャ湾の紺碧の海
を360度眺望できる。同タワー直下には実物のダウ船が陸揚げされ、モニュメントとして鎮座している。
首都マナマのランドマークである「バブ・アル・バーレーン」(バーレーン門)の前に広がるマナマ漁港には数多くのダウ漁船が
係留されている。気温は30度を遥かに超え湿度も高い炎天下を朝から数時間、その船溜まりを夢中になってほっつき歩き回った。そして、ダウ船
を被写体にして撮りまくった。ところが、正午頃になって急に気分が悪くなり、息苦しくなった。これは危険な兆候だと悟った。ペットボトルももたず午前中
一滴も水分補給することなく歩き回り、熱中症に全く無警戒であったことに気付いた。
ダウ係留埠頭から急いでクーラーの効いた近くの近代的ビルに退避しようにも、広大な港湾地区ゆえにビルは遥かに遠くであった。
そこで、最寄りの大通りに出てタクシーを捕まえようとした。そして、そう遠くないところにある「バーレーン国立博物館」へ
逃げ込むことにした。先ずは冷房ががんがんに効いているはずのタクシー内で体を冷やそうとした。
湾岸道路に出たものの、なかなかタクシーが掴まらず、今にも道路脇に倒れ込みそうになった。正に熱中症に冒され、病院へ駆け込みたい
寸前にあった。20分ほどしてようやく通りかかったタクシーを捕まえ、その前部座席に身を投げ入れた。顔面に冷風を押し当てすぐに
「急速冷凍」を施して体調を回復させようとした。冷気に助けられ、徐々に体調が好転していくことが自分でも感じ取れた。
これで「助かった」とマジに安堵した。もう少しで臨界点を超すところであった。危機一髪で難を逃れ、そして深く自省した。
その後、博物館を訪れる前に、その近くで見つけたファーストフード店で腹ごしらえをしようと店内に入った。若い男女
が向き合って談笑しながらバーガーにかぶりついていた。その男女の姿を見て、ホット安堵するというよりも、逆に一瞬のことだが
「違和感」を抱いてしまった。男女が席を同じくして談笑しているではないか。だが待てよ、ここはバーレーンであり、サウジ
ではないことを思い出し、一瞬違和感を惹起した自分自身に違和感を覚えてしまった。サウジで余りに長期に生活し、その環境
や慣習にすっかり馴致しているが故に感じてしまった違和感に違いないと、喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのかを考えながら、
ダブルバーガーにありついた。サウジではめったに見ることのない街角風景に心がどぎまぎと乱れてしまった自身にショックを
受ける始末であった。同じイスラム国でもこんなにも宗教的許容度に違いがあることに改めて認識させられた。2005年4月の
カタール訪問時のことである。
さて、ランチを済ませた後バーレーンの歴史・文化・社会・産業などを学べる「国立博物館」を訪れた。博物館脇の人工池の真ん中や、
その池に隣接する「ヘリテージ・ビレッジ」という広場には、大小幾つかのダウ船がアート・モニュメント風に鎮座し、歓迎してくれていた。館内には、伝統的なアラブ
民族衣装に身を包み、装飾品の他に野菜・果物・家具・薬剤・香辛料・アラブ風パン・雑貨などを売る露天商の実物大ジオラマが
ずらりと陳列され、ひと昔前の社会・文化・風俗などを学べた。8世紀頃にイスラム教が伝播してくるまでの3世紀以上もの間バーレーン
を支配した「ディムルン文明」が紹介され、また大型の古代墳墓の再現もあった。同文明が興り、メソポタミアとインダスを繫ぐ
中継貿易拠点として栄えていたという。古くから開発され使われていたアラブの伝統的な地下灌漑システムである「カナート」
の大型模型も興味深く見入った。
私的に最も感銘を受けた展示は、天然真珠の採取場面を再現した、木造漁船と潜水夫らが繰り広げる実物大のジオラマである。
また、その昔天然真珠の取り引きに使われた道具類、例えば一定の大きさの真珠をふるい落として選別するための金属製容器、潜水用具(マスク、重りなど)、真珠貝の
殻剥き具、真珠を値踏みするための特殊な絵図を描いた小冊子、カキ採取用の革製の指先保護具、真珠の重量を量る天秤や分銅
の役目を果たす石の重り、真珠をすくい取る用具
(スクーパー)なども展示される。その昔何百年にもわたり天然真珠の採取が盛んであったことを示している。その他、漁具づくりに励む
漁師の住まいのジオラマなどもあった。マナマは海外などとの中継貿易の町である他、天然真珠の採取や取引の拠点として発展して
いたことが理解できる。よく語られることだが、日本の御木本幸吉が真珠の人工養殖に成功してからは、その採取業はどんどん衰退
の一途をたどった。博物館の展示はそんな真珠採取・加工産業のかつての栄枯盛衰の歴史を語りかけている。
印象深かったのは造船所への探訪であった。マナマ中心部から旧市街地の「ムハラク地区」に向けて海岸線沿いに伸びる「シェイク・
ハマド・コーズウェイ」を歩き続けた。数多くのダウ漁船がイワシの串刺しのように横列に係留された風景がそこにあった。また、
干潮時であったためか、干潟が海岸際からはるか遠くにまで伸びていた。そこで、幾つかの珍しい風景にお目にかかった。自営漁民
なのか出稼ぎの外国人漁民なのか分からないが、炎天下をものともせず、魚や甲殻類の捕獲用金網製トラップ(籠状の仕掛け)の
製作に勤しんでいた。
少し先に進むと、ダウ船の造船所の前を通りかかった。炎天下ゆえなのか、船大工や作業員が誰一人いないので声の掛けよう
もなかった。厳重に入り口を閉め切っている風でもなく、ほぼ開けっ放しの状態であった。それをいいことにして、敷地内に足
を踏み入れぶらぶらと歩き回ってしまった。海岸沿いの広い敷地内には誰もいなかった。
建造や修理中のダウ船などをいろいろなアングルから撮りまくった。数え切れないほどの木造ダウ船がそこにあったが、中には
FRP製の船殻をもつダウ船が多かったのは意外で少し驚かされた。FRP船を造るための実物大の型枠を組み立て、プラスティック樹脂液を流し込んで船殻を塑造する
過程にある船にもお目にかかった。この探訪の前にも後にも、これほど長時間じっくりと本格的なダウ造船所内を見学できたことはなかった。
造船所前の海岸通りに沿ってもう少し進むと、入り江をはさんだ対岸に「プラッド・フォート」という要塞が遠望できた。その昔、
「ムハラク地区」への船の出入りを監視する目的で、16世紀に建てられた砦といわれる。ペルシャ湾岸の昔の原風景を眺めるかのようであった。
同要塞を見学した後、「ムハラク地区」の旧市街をぶらついた。日干し煉瓦でしっかりと建築された元首長や真珠貿易商
(ベイト・シャディ)の幾つかのアラブ風住居が遺されていて、バーレーンの歴史と文化を今に伝えている。夜になってのことであろうが、
自然の風を屋内に取り込むウインドタワーを擁する住居でもあった。昔のアラブ人たちの生活環境と知恵をじっくりと学ぶことができた。
その他、マナマ近郊の「カラート・アル・バーレーン遺跡」、通称「バーレーン・フォート」あるいは「ポルトガル・フォート」と呼ばれる要塞を
探訪した。ユネスコ世界文化遺産である。現在遺される遺構は、1512-1622年にバーレーンを支配していたポルトガルが築造し遺して
いった城塞の跡である。大航海時代にポルトガルの偉大な航海探検家バスコ・ダ・ガマが喜望峰を回航し、インドへの航海ルートの開拓に成功した後、
ポルトガルは次々とその勢力を東方域へと拡大して行った。これらの要塞を散策すると、ポルトガルがアラブ世界を舞台にせめぎ
合いを繰り広げた時代にタイムスリップしたかのようである。
その他には、「アル・ジャスラ・ハンディフラフト・センター」を探訪した。ダウ船模型の製作
工房の他、バーレーンの伝統的民芸品などを製作・販売する工房もある。ダウ船もFRP製が多くなり、伝統的な木造ダウを建造する
技能を引き継ぐ若者が少なくなっていると推察されるが、果たして実際はどうなのであろうか。ついぞ訊きそびれてしまった。
次いで半島時計回りの旅として、バーレーンのすぐ東側にあってアラビア半島からペルシャ湾に向けて
親指を立てたように突き出した小さな半島国家カタールに狙いを定めた。首都ドーハへの旅は初めてであった。ドーハ市街地
中心部といえば、「アル・ワキーフ・スーク」辺りである。その界隈から「アル・コルニーシュ・ストリート」と呼ばれる
緩やかな弓なり状になった海岸沿いの大通りが続く。そのウォーターフロントのすぐ沖には「パールアイランド」という小島が浮かぶ。
その大通りに沿って、公官庁、ビジネス、ホテルなどに供される高層ビルが立ち並び、いかにも近代的都市を象徴するかのような
摩天楼が連なり、アラブ的原風景などは先ずもって見られない。だが、そのアル・ワキーフ・スーク地区界隈のごたごたした迷路に
入り込むと、スパイス、民族衣装、貴金属、雑貨などを扱う店が軒を連ねる。そして、民俗衣装に身を包んだ大勢の市民に
紛れ込むと、アラブの古典的世界にどっぷりと浸ることができよう。
スーク界隈をそぞろ歩きした後、そのすぐ先にある「ダウ船ハーバー」と呼ばれるウォーターフロントに足を伸ばした。その入り口
付近には真珠貝をモチーフにした巨大なモニュメントが建ち、訪問者を歓迎してくれる。
ハーバー内には数多のダウ漁船が溢れこぼれんばかりに詰め込まれていた。その後ハーバーから1kmほど先
にある「カタール国立博物館」を訪ねたが、運悪く改修中のために見学することはできなかった。ガイドブックによれば、
カタールの歴史・社会・文化・自然などを幅広く紹介する。館内には水族館を兼ねる「海洋館」もあるという。ペルシャ湾の海の
生き物たちの展示の他、昔の天然真珠の採取など、海での伝統的営みに関わる何らかの展示も期待できそうであったが、見学は叶わなかった。
余談ながら、10数年後の2017年12月にヨーロッパから帰国途上にあった折のこと、カタール航空機の遅延のため成田行き接続便
にうまく搭乗できなくなった。カタール航空は気前よく家族3人分のドーハでの宿泊費を全額負担してくれた。これ幸いと、「カタール
国立博物館」をまっしぐらに再訪した。だが、その時は建て替え中のために、又もや見学不可となってしまった。代わりに
「イスラム芸術博物館」に立ち寄った。そこでアラブ諸国でその昔使われた数十のアストロラーベが一堂に集められ展示されていた。
アラブ世界における航海の歴史の重みと深さを感じさせてくれた。
ドーハではワキーフ・スーク地区の他、「ヘリテージ・ビレッジ」を訪ねた。そこにはダウ船のかなり大型の模型を製作
する工房があり、製作中の模型船を見学できた。また、ミニュチュアのダウ船を製作するブース、漁網・重り・フロートや
アシ舟・定置網の模型・ダウ船のハーフモデルを納めた額などの展示ブース、魚類捕獲用の各種トラップや魚籠(びく)などのブース、
各種のロープ・縄類を売るブース、天然真珠採り用のたも網や潜水重りのほか、真珠サイズ選別用の金属製容器・天秤・分銅・
カキ殻剥き具・挟具・ピンセットなどを保管する用具箱などを展示するブースなど、海での伝統的営みに関係する用具を製作・
販売したり展示する様々な工房のコンプレックスをじっくり巡覧して回った。
さて丸一日は、レンタカーを借りて半島を北に向け4、50kmほど縦断し、半島先端にある小さな漁村アル・ルウェイスを目指して、
土漠を数時間ドライブした。その小さな漁村の港にも数多くのダウ漁船が係留されていた。午後の炎天下に訪れたためか、漁港では
何の人の動きもなかった。魚市場や荷捌き施設も、また漁業のことを一般訪問者らに紹介する観光・文化施設も全くなく、
早々に次の町を目指した。アル・ルウェイスから半島の西海岸沿いに10kmほど南下するとアル・ズバラという小さな町があり、
そこに「ズバラ要塞」があった。ペルシャ湾の海を背景に土漠の中にぽつんと建つ。これぞカタールの原風景と感じ入り写真に切り撮った。
ペルシャ湾岸地域は元々遠い過去から天然真珠の採取が盛んであった。そしてズバラの街はその交易拠点として18世紀に建設されたという。
周囲を城壁と幾つもの砦が取り囲んでいたが、現存するその城塞は1基のみである(1938年に沿岸警備のため建設されたものという)。
そのズバラはかつて真珠の交易港市として栄えていたが、19世紀初め頃に紛争のために
破壊されてしまった。20世紀には放棄される状態であったが、近年一部発掘され、城壁に囲まれていた市街が史跡として復活するに至った。
そして、アル・ズバラ考古遺跡群が2013年6月にカタールで初めてとなるユネスコ世界文化遺産として登録された。ベドウィンの敷物、
アラブ衣装、伝統的家具類、漁に使われた鉄製の籠などが展示される。
その昔、バーレーンと同じくカタールも、かつてインドや東南アジアなどの胡椒、グローブ、丁子、シナモンなどの香辛料の
中継貿易によって繁栄し潤った。ペルシャ湾岸とインドを結ぶ貿易航路をめぐるポルトガルと英国との争いで、カタールは重要な
地政学的位置を占めていた。また、石油・天然ガス資源で栄える以前は、漁業や天然真珠採取、さらにデーツ生産などの
第一次産業によって経済が支えられていた。だが、既述の通り日本の養殖真珠が世界的に普及すると、ペルシャ湾岸での天然
真珠採取業も徐々に深刻な打撃を被り衰退の道を辿ることになった。なお、カタールの天然ガス埋蔵量は膨大で世界30%とも言われる。
さて次に、今一度新たな視点をもってア首連ドバイにもう一度旅することにした。ビールと映画だけに浸るための旅とせず、ドバイ市内の
歴史・文化施設(例えば、旧市街地の博物館や歴史史跡など)や数多のダウ船が停泊するクリーク沿いの波止場、クリーク内を
行き来する「アブラ」という水上バスでの水上散策、改築された魚市場への訪問(漁業展示室が併設されるという)などをじっくりと
探訪することにした。これまでとは異なる視点でドバイを眺めれば、何か新しい発見に出会えかつての訪問時よりも何倍も楽しめそうであった。
それに、ドバイから少し足を延ばしてシャルジャーという別の首長国のダウ造船所や「海洋博物館」などを探訪する計画を立てた。
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