Page Top


    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第1節 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する


    Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


     第12章・目次
      第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
      第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
      第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
      第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
      第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
      第7節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
      第8節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第9節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう


全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル (要約・基礎編)」→ [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


  2000年元旦は個人的にも意義深いものであった。「いよいよ21世紀への扉が開かれた」という感動を覚えた。そして、21世紀に突入した 2000年春先に、13年ぶりにようやく2回目の海外赴任に向けての号砲が鳴り響いた。1987年(昭和62年)3月に最初の赴任国のアルゼンチンからに帰国して 以来、新宿勤務に塩漬けとなり、川口と新宿の間を13年間も通い詰めていた。余りにも長いことから、人事に全く口うるさくなかった 私でさえ、さすがにしびれをきらしていた。そんな折、たまたま人事課長とトイレで立ち話をする機会があった。「あれからもう13年。そろそろ在外の 最前線に行きたい」と、本音と冗談混じりに「独り言」をついに漏らしてしまった。ほとんど確信犯的な「独り言」であった。

  その後数ヶ月経ったある日、人事課長と改めて人事のことで面談する機会があった。在外勤務のことであった。自分勝手な推測であるが、 例の「独り言」の成果であったと思われる。あの時漏らしていなければ、赴任はさらに何年も遠のいていたかもしれない。 人事課長の最初の一言は「英語圏であればいつでも赴任は可能である」かのような口ぶりであった。だが、丁重に、そして婉曲的に遠慮を 申し上げ、中南米への勤務を希望している旨申し出た。時が暫く経ったところで得た結果は、南米スペイン語圏の国パラグアイへの赴任ということであった。 希望が聞き届けられ大いに喜んだ。

  パラグアイはボリビアと同じで今では海に面しない内陸国である。「海なし国」であった。週末家族とビーチに出掛け、水浴びをしたり 潮風に当たってリフレッシュするというプレミアムな時間を過ごすことはできないのが残念であった。パラグアイは南米の「へそ」と呼ばれ、 南米大陸の真ん中にあった(位置的には大陸のずっと南寄り)、海辺でたまにリフレッシュするには、 東西南北どちらの方角に向かっても1000kmほどは離れていた。飛行機で旅してもビーチに辿り着くのに4、5時間は掛かった。

  だが、発想の転換をした。「暫らくぶりに海を見たい」というありふれた口実ではあるが、週末や有給休暇などをフルに活用して隣国へ 出掛ければよいではないかと思い直した。チリやウルグアイなど未だ訪れたことのない「海あり」近隣諸国を訪ねることができる。 ブラジルのサントスやリオ・デ・ジャネイロなどの、青少年の頃に憧れた港町をじっくり散策し、海洋博物館や海にまつわるいろいろな 歴史文化施設を見て回れると内心大いに喜んだ。 それに日本へ一時帰国する権利を振り替えて、メキシコやカナダ・米国などへの長期健康管理旅行もできると、パラグアイへの赴任を 大いに喜んだ。

  喜んだのはそんな理由だけからではなかった。スペイン語での職務となるので、昔アルゼンチンで苦労して 培った語学力を再び生かすことができる。もちろん、13年も経てていたので、語学力は相当に錆びついていたから、鍛え直しが不可欠であった。前向きに 捉えて、赴任の機会を最大限に生かし、初心に立ち戻りスペイン語を鍛え直そうと固く決意した。スペイン語検定一級に 合格できるくらいの実力を養いたいものだと心が燃えた。

  それに、語学と言えば海洋辞典づくりをさらに一歩前に進める絶好の機会でもあった。日常的に周りに転がるスペイン語の海にまつわる 語彙を時に拾い上げつつ、西和・和西辞典を進化させることができるものと喜んだ。何と言っても日常的にスペイン語と関われることが 辞典づくりにはベストな環境であった。スペイン語環境に深く身を置き、絶えず刺激を受けられることは有り難かった。

  パラグアイの土を踏むのは初めてということではなかった。多少の土地勘があった。職員課時代、アルゼンチンとパラグアイの職員生活 環境を調査するために一週間ずつ滞留したことがあった。まさか、そのパラグアイに赴任できるとはラッキーであった。パラグアイは アルゼンチンに比すれば、社会生活上の環境やレベルにかなりの落差があることは感じていた。だが、 パラグアイの人々の純朴さ、牧歌的田園風景や田舎臭さも大好きであった。生活の諸相をかなり想像できた。首都アスンシオンや地方都市な どの現況を思い起こせば、赴任に当たっての不安のほとんどをかき消すことができた。仕事も生活を大いに楽しもうというわくわく 感が込み上げ期待が膨らんだ。

  休題閑話。2000年(平成12年)3月に、いよいよ国際協力の最前線に赴任し、大統領府の企画技術庁(Secretaría Técnica de Planificación; 略称STP)に着任した。所属は「国際協力局」であった。カウンターパートは局長の博士号をもつマリオ・ ルイス・ディアスであった。大変温厚かつ人望も極めて厚かった。彼の執務室のすぐ近くに小さな個室をもらった。私の肩書はJICA派遣の 「開発計画」専門家であった。3年後の2003年3月に離任するまで勤務した。

  企画庁は「アイフラ」という、アスンシオンではかなり近代的なビルに陣取り、その階上にはJICAパラグアイ事務所が同居していた。 アスンシオンはパラグアイ川沿いに創建された町である。歴史的にはブエノス・アイレスよりも古く創建され、その発展の途についた。 大統領官邸はそのパラグアイ川の畔に建ち、またアイフラビルからは至近距離にあった。STPやJICA事務所からは、左右対称の宮殿のような 美しい白亜の官邸を見下ろすことができた。アルゼンチン以来の在外勤務であり、それも同じ南米スペイン語圏でのそれであったので、 仕事面でもプライベートライフにおいても心が弾み期待は大きかった。だが、他方で、「開発計画」専門家という大それた肩書に恥じない 仕事をなしうるのか、正直のところ一抹の不安を抱えながらの船出であった。

  企画庁 のミッションをざっくりといえば、大統領官邸の指示の下に、経済社会発展のための国家戦略や中長期基本計画を策定し、 その実行の旗振り役・司令塔の役目を果たすことである。また、国家財政が脆弱なパラグアイ政府にとって、いずれの国家計画 を執行するにも、国際機関や欧米諸国・日本からの経済・技術的支援が欠かせなかった。STPはそれらの機関や諸国からの援助受け入れ窓口 となり、案件採択につきさまざまな対外的調整を行なう。また、外国援助を希求する国内の各関係省庁との連絡・調整の機能を果たす。また要請案件の 優先順位の調整に携わる。国際協力局がそれらの任務を負い、局長がその責任者であった。

  日本政府・JICAとの関係をざっくりと記したい。日本は、技術協力、無償資金協力、有償資金協力の3つの協力を提供してきた。国際 協力局は、各省庁・地方自治体・公立大学その他政府系機関が日本に援助を要請したいプロジェクト案件を受理する。 日本政府やJICAの援助基本方針や重点分野などを鑑みながら、またパラグアイ国自身の開発政策を踏まえながら、それらの案件についてJICA への援助要請上の優先順位を調整し、また関係省庁・機関との調整を図る。また、それらのプロジェクトの実施上の諸条件の確認・調整を行なう。 日本側の援助重点援助を踏まえつつ、候補案件の優先順位づけと調整などにイニシャチブを発揮することが期待される。

  パラグアイでは数多くのプロジェクト方式技術協力(専門家派遣、研修員受け入れ、機材供与の三位一体)、協力隊員のボランティア 活動、無償資金協力などが実施されているが、STPは他省庁・機関と連繋して総合的なモニタリング、評価、プロジェクト運営上の共通 課題への対処、将来のプロジェクトへのフィードバックに取り組む。また、過去のプロジェクトの成果の普及や、その発現の面的拡大にも関心を 払い向き合う。

  南米の「最貧国」と称されるパラグアイに対して、日本は他の援助諸国の中でも最大規模の支援を長年行なってきた。 1991年に日本のバブル経済がはじけたとはいえ、1997年頃までは米国を追い越して世界の政府開発援助(ODA)トップドナーの位置にあった。 2000年にはODAは下降線を辿り始める状況にあったが、当時JICAはまだ数多くのビッグ・プロジェクトを進めていた。 JICAはパラグアイに対し長年援助してきた関係上、また時に最大の援助国の位置を占めていたこともあり、パラグアイ援助受け入れ窓口機関の STP内にいわば「ジャパン・デスク」をもっていた。即ち、JICAは技術協力専門家として歴代その職員を同ディスクに派遣し、STPとJICAを繫ぎ 合わせる任に当たって来た。

 さて、13年振りに赴任するのは嬉しかったが、「開発計画」という肩書の専門家として、大統領府企画庁に配属されることには 多少の違和感もあった。何故ならば、JICAでの業務経験が長く、海外での技術協力の執行にノウハウを蓄積してきたが、国家の経済社会 開発に特化した職務を担った経験がなかった。国際技術協力全般の実務やプロジェクト運営管理に経験があるでけであった。 パラグアイ政府の国家政策遂行の一翼を担う担当部局に位置しながらも、大上段に構えて開発計画をぶち上げることはできそうもなかった。 またそうするための経験も能力も、また権限もなかった。むしろ、JICAによる技術協力を少しでも充実させ、パラグアイの経済社会 の発展につながるプロジェクトを発掘し、将来に橋渡しをすることが大事だという思いであった。

  そこで、私なりに専門家としてのミッション、役割、立ち位置、期待されるところは何なのかを模索し、再認識しておこう と取り組んだ。先ず過去に実施された技術協力や無償資金協力の足跡をモニタリングしながら、その成果や課題を知ることが大事であった。 また、現在進行中のいろいろなプロジェクトの進捗を理解することにも取り組んだ。日本の対パラグアイ援助重点政策や分野を理解しつつ、 また現在のパラグアイ政府の経済社会発展計画の取り組みや重点課題を理解の上、プロジェクト・ニーズを模索しその発掘・ 形成と向き合うことにした。それによって国づくり人づくりにつながるプロジェクトが将来「発芽」することを期待した。 国際協力局と協力しながら、パラグアイ側の経費負担能力・実施能力を見極め、実施条件や環境を整えること、また日本側の実施能力・体制 などを見極めながら、STPとJICA事務所間の橋渡しを行い、国づくり人づくりのための種を播き続けることを第一とした。 それが、専門家の理想的職務と理解した。

  職務を頭で納得できても、具体的に何にどう取り組めばよいのか、当初はその悩みは深かった。国際協力局長や同局内の日本担当者らと、 さらに経済局など他局の職員らとのコミュニケーションの中から、JICAとして寄与できることはないかと暗中模索が続いた。国づくり人づくりに 意義あるプロジェクトに何でも取り組もうと試み続けた。 時系列的ではないが、たとえば、局長や日本担当課長やJICA事務所に次のような提言をなすべく取り組んだ。

  アスンシオンの南東100kmほどにラ・コルメナという日本人移住地がある。日本人として初めての集団入植地で、当初移住者は亜熱帯 ジャングルを切り開き、辛苦の末農業を始めた。彼らはいろいろな野菜などを育て市場を徐々に切り開いた。さらにその南東の地にある 移住地カーサパでは果樹栽培を始めつつ、生活基盤を築いて行った。何度かその移住地を訪問するうちに、一つの村おこし的策を思いつき、 その後計画案を練り上げた。果樹を主体とする世界一のガーデン造園案である。 日本人が入植し「果樹栽培の里」として発展してきたカーサパ移住地に、温帯・亜熱帯性果樹園を10年計画で創成する というものである。亜熱帯と言う地理・気候条件を生かした、中南米でも一目置かれる果樹園建設・運営と自然環境保護機関の設置など を提案した。

  果樹公園では日本の桜を丘陵地帯にある大きな池の周囲に植樹し、毎年満開の桜を鑑賞しながらバーベキュー祭りをも開催する。10年かけて賛同・協力者 を増やし、毎年の桜祭りを盛り上げ、季節になれば行楽客に訪れれてもらう。日系果樹栽培農家をはじめ、日本大使や専門家、政府関係者、 農協などの有力関係者に桜の樹1本100ドルで記念植樹をお願いし、桜樹に寄進者名を付し、公益団体が公園を世話するという構想である。 政治・経済界などの著名訪問者 による記念植樹の拡大を描いた。多種多様な果樹の植樹栽培を継続し、世界でも希少価値のある何百種という亜熱帯果樹園をめざす。 アスンシオンの植物園との連携も視野に入れる。亜熱帯果樹の研究機関をも同公園内に維持できれば申し分はない。JICAの果樹専門家やシニアや 青年ボランティアによる協力も期待される。一例であるが、社会経済発展の種を播こうと取り組んだ。だが、移住地に根を下ろさない私には 思うようには運動の「波」を起こすことはできなかった。

    パラグアイ国土の中央部をパラグアイ川が流れ、国土を二分する。二分された北西側の国土はチャコ地方と言われる。同河川はさらにチャコの東縁を北上し、かつ ブラジルとの国境をなしている。チャコ東方のブラジル側には世界的に有名な「パンタナル」という大湿地帯が広がる。パラグアイ 側もその一翼を担う。そのこともあって、 チャコのパラグアイ川沿い一帯は野生動物の楽園であった。特に野鳥の宝庫であった。

  チャコの恵まれた自然環境を知り、世界にネットで広報し、エコツーリズムのモデル案を模索するため、オフロードの原野の道なき道を 実際に踏査し、自然原野や野鳥・ワニなどの写真を多く撮影した。 その踏査体験と写真・資料をもって、チャコでのバードウオッチングをはじめ、エコツーリズムに国内外の関心者を誘うためのホームページ 作りをした。エコツーリズムに関心をもつ企業、観光庁、投資促進公社などが連携しながら、モデルコースを開発し、ネットでも広報するよう、提言案をまとめ国際協力 局長などに提出した。 自然環境の保全を図りつつ、パラグアイの野鳥などの野生動物資源を生かして、自然観察やサファリ―ツーリズムの促進の可能性を追求する ことの重要性をもって訴えた。

  赴任当時何人かの他分野の長期専門家が活躍していた。例えば、農業協同組合の組織化・運営などを指導する専門家、農牧省にて農政の助言をする 専門家、また商工省に配属され貿易保険をはじめ貿易促進を図る専門家なども勤務していた。中にはJICA専門家業務が初めてで、 業務の進め方につき時に相談を受けることもあった。例えば、商工省配属の専門家から、「一村一品運動」を推進したいが、何か良い策はないかということであった。 同専門家は同運動の先駆けとなった大分県と太いパイプがあるとのことなので、県担当者を短期専門家として招き、「一村一品振興 セミナー」を商工省と協同して開催することを提案した。短期専門家の派遣を実現するための公式書類や活動計画書の作成などについて いろいろ助言をする機会をもった。翌年になって、同運動のプロフェッショナルによるセミナーが豊富なアナログ・デジタル資料を もっては実施された。一村一品の理論や多くの実践事例が紹介され、有意義な橋渡しとなった。

  ある時は、STPや他の省庁の関係者とフィールドにでかけ、将来の協力の可能性を模索した。パラグアイはお湯や冷水を注いで、 ボンビージャという金属製ストローのような用具でマテ茶を吸飲する習慣がある。マテ茶を大々的に栽培する農場関係者からその輸出の可能性について相談を受け、 農場や製造工場を視察する機会をえた。残留農薬問題、植物検疫のクリアー、有機栽培のコスト問題やその長期取り組み必などについて 意見交換した。世界や日本市場への販路開拓にはいろいろなハードルあるところ、可能な限りの助言をした。 マテ茶の新規市場開拓の窓口として日本のジェトロやパラグアイ側の輸出促進公社などのへのアプローチをも促した。

  また、有望な森林資源を活用して、特にパルプ原料をえるために成長の速い樹木のユーカリの植林に取り組む植林事業体とその現場を 訪問した。ユーカリを単品種だけの植林ではなく、 他の亜熱帯樹種とのさまざまな混栽植林をもって成長度合いや有効性を観察していた。植林の成長率や採算性の観点からだけでなく、 真のジャングルを再生させる上でどれほど有効なものかという視点からの植林法の実験に取り組んでいた。単種植栽、多種植栽の実験を行い、 大方のデータは得つつあるという。JICAは造林普及にも協力しており、有益な事例を学ぶ機会となった。

  また、国立大学などの要請に応じて、ディアス局長とともにアスンシオン大学獣医学部水産学科の研究施設などを訪問し、その研究現況などを知り、JICA協力の可能性などを 摸索した。養魚場が整備される途上にあり、スルビーなどの淡水魚の養殖に関心があった。まずは短期あるいは長期養殖専門家を通じての助言 が適切と推察された。JICAに何ができるかをいろいろと助言した。その他、大学や団体から要請があれば、局長らと現場へ出掛け、意見 交換を行い、JICAの重点援助施策やSTPの経済社会開発の観点から、プロジェクト発掘のためのベクトルを摸索したり、いろいろな提言を 推し進めた。

  STPディアス局長や日本担当課長らと、現在進行形の技術協力プロジェクトの現場を訪問し、現況を自身の目で知り理解するよう モニタリングに務めた。例えば、南部地域の看護・助産教育強化プロジェクトをはじめ、中小企業活性化のための指導者育成、酪農を通じた中小規模農家経営指導、 質量分野の検定検査技術の向上、電気機械などの職業技術促進センターや大豆生産技術研究センターにおける指導、小農家による野菜生産技術 の改善、東部地域の造林普及指導プロジェクトなど、当時多くの大型プロジェクトが実施されていたところ、現場訪問を積み重ねた。

  だが、半日程度の通り一遍の視察や意見交換では、プロジェクトのハード面での現況を大まかに理解できるが、ソフト面、即ちプロジェクトが活動上 いかなる課題に向き合い、その進捗状況を真に理解することはなかなか難しい。成果や目標達成の現況やその長短期の課題に ついて適格な情報を得るのは容易ではない。プロジェクトで共通する課題は、カウンターパート配置の充足率や定着率、パラグアイ側が負担すべき カウンターパートの活動費、特に出張経費の支出、超過勤務の場合の手当てなどである。プロジェクトにとって、ステークホルダーであるとはいえ、 いわば部外者的存在であるSTP関係者に余り深掘りされたくない悩みを打ち明け、その解決を求めることは極めて少ない。余程信頼関係がない と課題を知ることは難しい。モニタリングも評価も皮相的なものとなり、それなりの限界があることは否めない。また、 難題を打ち明けられてもSTPが解決できる余地は極めて少ないことも事実である。

  さて、在任中私にとっても重要な業務となってしまったのが無償資金協力の現況・モニタリングであった。大使館と密にタイアップして、過去10年以内の プロジェクトをピックアップし、現地踏査をした。先ず無償資金協力の過去のプロジェクトの利活用状況についての事前文献調査も積極的に 実施した。STPとしても関係省庁と共に把握する必要があった。決して後ろ向きの業務ではなく、将来へのフィードバックを見据えた 大変重要な任務であった。

  JICAは進行中の無償資金協力プロジェクトについては「実施促進」という立場にある。引き渡されて1年後に瑕疵検査 がなされ、合格すればJICAの職務上の役目は原則として終了する。無償資金協力の場合、日本政府・大使館がプロジェクト発掘形成から実施、 その後の評価・フォローまで一貫して常にその第一義的責任を負うことになる。被援助国はそれを有効に活用し所定の目的を達成する責務がある。、 援助の調整窓口機関であるSTPも、関係省庁と協力して常日頃、プロジェクトの利活用状況をモニタリングし、それが不十分であれば 自国財産として適正に利活用され、初期の目標が達成されるように必要適正な措置を執る責務を負う。

  さて、4,5年の間隔で日本の会計検査院による無償資金協力プロジェクトのその後の利活用状況を視察する調査団が 派遣されてくる。赴任中その調査団を迎えることになった。たまたま、私は無償資金協力業務経験が長いこともあって大使館から も助力を期待された。10年以内のプロジェクトについてその基本計画と実績についてフォローした。 パラグアイでは、毎年2~3件の無償資金協力プロジェクトが実施されていたので、過去10年も遡ると検査対象プロジェクト は数十案件に上る。その分野は教育、医療・保健、農業、民生向上、水供給、道路建設その他の社会インフラなど多岐にわたる。STPと大使館とが パラグアイ関係省庁やプロジェクト実施関係者と協働で、それらの利活用につき現場踏査をも行い、課題があれば協議し対処を要請する。 時に、重要な課題には、企画庁大臣名や国際協力局長名をもって関係省庁やプロジェクト側に公式文書で善後策を申し入れたりもした。

  アスンシオン市内に建設されたパラグアイ日本社会文化センターでは様々な社会文化活動が一般市民や日系人らによって実施されていたが、 その利活用の頻度や施設のメンテナンスが十分なされているか。綿花を紡ぐための織機を装備したモデル製糸実験・教育的工場が建設された が、その現況や実績はいかがか。施設や機材によっては、いろいろな社会事情の推移のため、当初の計画通りに利活用されていない場合があり、 いかに改善するか、その策が模索される。飲料水の確保に苦しむ地方住民に対し飲料水を安定的に供給するために、井戸掘削と給水塔の建設、 一定の範囲までの導水幹線路の敷設、各戸経費負担による各家庭までの支線路配管などを行なう地方給水施設建設プロジェクトも踏査した。 給水や施設施設メンテナンス現況や水道料金の徴収状況などを、現地で聴き取りを行い、課題への対応を模索した。

  農業分野では、例えば地方農村部での野菜や果樹などの共同集荷場施設の建設と選別機の設置などのプロジェクトもあった。施設・機材の 利活用・メンテナンス現況、加入組合員による経費分担状況などを把握し、その利活用を見届けた。日本人がかつて入植し農業を営む 集落が国内に点在する。農業資機材・生産物の搬出入の利便性や生活向上のため、集落に通じる支線道を建設したり、舗装するための 砕石機、アスファルト敷設機やアスファルト資材などが供与された。計画された道路舗装や橋建設の現況や、資機材の維持管理状況などを 見届けた。特に資機材がその後どう有効に利活用されているかに関心が集まり、その有効利用を見届け、また必要な改善が明らかにされた。

  ところで、「開発計画」専門家として関与し取り組んだ個々の業務の全てをここに書くことはできない。3年間にJICA・STPに提出 した公式邦文・スペイン語報告書の総計は4~500ページは下らない。多くの職務に手を染め、可視化できる何がしかの成果を得ようと 努力を重ねたものの、さて「具体的成果は何か」と問われれば、忸怩たる思いに駆られる。勤務中それを薄々悟っていたことから、 途中から方向転換を模索し、業務の「選択と集中」を図ることにした。

このページのトップに戻る /Back to the Pagetop.


全章の目次

    第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
    第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
    第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
    第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰
    第5章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
    第6章 JICAへの奉職とODAの世界へ
    第7章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力
    第8章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く
    第9章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第10章 国際協力システム(JICS)とインターネット
    第11章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第13-1章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
    第13-2章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
    第14章 中米の国ニカラグアへ赴任する
    第15章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還
    第16章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第17章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第18章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル (要約・基礎編)」→ [関連資料]「実務マニュアル(詳細編)」(作成中)
    第20章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第21章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第22章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第23章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年
    最終章 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き
    * 関連資料: 第19章 辞典づくりの未来を託すための準備を整える「実務マニュアル・詳細編」)


    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ
    第1節 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する


    Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


     第12章・目次
      第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
      第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
      第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
      第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
      第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
      第8節: 国連海洋法務官への奉職を志し、情熱を燃やし続けて
      第9節: 国連への情熱は燃え尽きるも、新たな大目標に立ち向かう