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    第12章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
    第1節 農業投融資と向き合う(その一)/中国での大豆栽培試験


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       第12章・目次
      第1節: 農業投融資と向き合う(その一)/中国での大豆栽培試験
      第2節: 農業投融資と向き合う(その二)/5ヶ国での栽培試験
      第3節: 契約課でパナマ運河代替案調査に関わる
      第4節: 職員課のどの仕事も喜ばれる
      第5節: 英語版「海洋白書/年報」と「海洋語彙集」づくりに前のめる



全章の目次

プロローグ/はじめに
第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰(その1)
第5章 ワシントン大学での勉学と海への回帰(その2)
第6章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
第7章 JICAへの奉職とODAの世界へ
第8章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その1)
第9章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その2)
第10章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その1)
第11章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その2)
第12章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
第13章 国際協力システム(JICS)とインターネット
第14章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
第15章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その1)
第16章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その2)
第17章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
第18章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
第19章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その3)
    第20章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その1)
    第21章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その2)
    第22章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還(その1)
    第23章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還(その2)
    第24章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第25章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第26章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル(要約・基礎編)」
    第27章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第28章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第29章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その3)
    第30章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第31章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年(その1)
    第32章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年(その2)
    第33章(最終) 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き 人工知能AIの先にある辞典づくりを想像する


  1987年3月末にアルゼンチンから帰国、その後は「海への回帰」ならぬ「農業への回帰」であった。帰国後における配属先については、どこの部署 であろうとも全く頓着しなかった。配属されたのは同 年4月のこと、「 農林水産計画調査部」の「農林水産技術調査課(略称・農技課)」という、 長ったらしい名の部署であったが、仕事の内容としては農業投融資関係であった。農業部門への関わりに消極的な訳ではなく、また 違和感を抱いた訳でもない。もともと、大阪・茨木の実家の生業はまさしく農業であり、私自身百姓のせがれであった。父の突然の事故死で、 小学六年生の時から二歳年上の兄とともに、祖父母と母親の農事を助け、生活を少しでも支えるために真剣に農作業を手伝い始めた。 渡米した25歳まで勉学もしたが、土にまみれ土と格闘するという生活を過ごした。

  農家の生計は農業でしか立てられなかった。祖父の兄弟の親戚は農業を営んでいてその助けを借り協働作業をもって毎年の繁忙期を 乗り切っていた。母親に指示されるままであったが、耕耘機で田畑を耕し、米はもちろん、ありとあらゆる野菜を作り、収穫し、市場に卸し、 家計を助けた。およそ12年間兄と田畑を耕した。野菜づくりのために耕耘機で立てた畝の総延長は14㎞を下らなかったであろう。そんな訳で 私は学生ではあったが地元の農業協同組合の一員として加入を認められていた。と言うのも、年間6ヶ月以上農作業に従事している ことが周知されていたので、その加入が認められた由である。 JICAでの農業分野との関わりは異次元の世界に飛び込むような話ではなかった。何の驚きも、違和感も 抵抗感もなく、農業投融資事業に飛び込むことになった。少年の頃から田畑で農作業にいそしんできた私にとっては、いわば農業世界への 「里帰り」か「回帰」のようなものであった。

  休題閑話。JICAの農業投融資事業とは一体いかなるものか。「農業」には経験もあり親しみもあったが、「投融資」という領域について は初体験であった。JICAから政府系の公的な長期低利の融資を受けたいという日本の民間企業からの要望と申請がその事業の起点であった。 例えば、ある企業が発展途上国で現地法人とタイアップして、ある農作物や果樹を試験的に栽培したいという。異国の地における気候や土壌条件など に適合したいくつかの有望品種を試験的に栽培して最適品種を選抜・同定したい、あるいは最適な栽培方法を見極めたいという。 現地での試験栽培を通じて品種や栽培法に関する技術的な知見を確かなものにし、その後本格的な農業・加工ビジネスを展開したい という訳である。 さらに、その試験栽培事業での長期収支バランス、作物の国内外での市場性、栽培地国政府の農業政策や補助金制度などの様々な 優遇措置についても知りたいという。かくして、JICAはその要請に応じて、当該作物・果樹の試験栽培法や事業経営の実現可能性などを探り、 それらの情報を提供することによってその起業化を支援する。そのために、5~6名の専門家を組織し、現地へ調査団を送るというものである。

  最適品種を選抜するために具体的にいかなる有望品種を試験栽培するか。現地で植栽する圃場やその周辺はどのような土壌条件に あるか。また、最適な栽培方法を見極めるために、その播種時期、植栽間隔、施肥方法、灌水の量や方法などについて、いろいろな 諸条件を設定する。そして、それらの条件の差異に応じて栽培上の優位性が十分発現されるよう、科学的な試験栽培計画を立案する。 また、事業に関連する現地の社会経済環境や、当該国の行政機関からの支援策、研究機関からの科学的知見などの情報の提供なども調査する。 帰国後にJICAの手で調査報告書がとりまとめられ一般公開される。要請企業は同報告書を参考にして、今後の具体的栽培試験 計画を立案し、JICAにその試験事業への融資(ローン)を申請することになる。企業は、5年間ほどの試験事業計画 に加え、その後15~20年間の本格的な栽培事業にかかる損益計算書、収支計画、返済計画などを立て、民間銀行からの融資返済保証書を含む 融資申請書一式を作成しJICAへ提出する。

  審査の上、その栽培試験事業への長期低利の公的融資が行われることになる。栽培試験は基本的に5年間が想定される。融資条件については、 貸付総額は1億円ほどで、元本・利子の返済は最初の5年間は据え置きである。その後の返済期間は最長20年間、その返済の年利率は1%であり、そこに 銀行保証の利率が加算される。1987~89年当時はバブルの渦中にあり高利率であったので、JICAの融資条件は当時としてははるかに緩やかであった。 農技課は、現地調査を実施し、その報告書を作成する段階まで担当する。別部の「農業投融資課」が申請を受け付け、審査の上その 貸付を執行し、またその返済手続きをも担当する。

  栽培試験後の本格的なビジネス展開に当たっては、当時の「海外経済協力基金(OECF)」からの公的融資を受ける道が開かれている。大 企業であれば、この程度の低利融資額は物の数には入らないかもしれない。しかしながら、途上国にとっても、また申請する日本企業にとっても、 JICAの融資を通じて日本政府が技術的かつ資金的にバックアップしていることから得られる信用力の方がはるかに重要であることが多い。 JICAでは、この投融資事業は「第3号案件」と称されていた。政府の対外技術協力としてJICAが実施できる援助の範疇については、「国際協力 事業団法」(その協力内容を定める法律)に規定されている。JICAが実施できる協力事業を規定する条文の第3項に認められて いることからそう呼ばれていた。

  最初に担当となった第3号案件は、中国での「搾油用大豆栽培試験事業」であった。中国への出張は初めてであった。1987年当時、中国は なおも近くて遠い国であった。初めての中国関連の案件ではあったことから、調査の実施に当たっては戸惑うことばかりであった。 私は、毛沢東が主導した「文化大革命」の盛時の頃は大学生であったが、「毛沢東語録」を振りかざし知的労働者などを懺悔させ吊るし上げる 少年少女の写真などを見るにつけ、中国で何が起こっているのかほとんど理解できなかった。日本語版「人民日報」を購読し 通読していたが、文化大革命の何たるかが全く見えなかった。その大革命が終焉し政治権力が鄧小平に移った。彼によって1978年12月に主導された 「改革開放」政策なるものが発表され、以後徐々に浸透して行った。初訪問した1987年7月はそれから8年ほど経過した頃で、政策は かなり浸透していた時期ではあった。

  初めての中国への出張は予想通り、何を見るにつけ興奮の連続であった。中国社会の真っ只中に身を置けばどんな社会・自然 風景が見えるのか、大いに関心があるところであった。北京空港発着ターミナルビルの円形サテライト、空港から市内にかけて 植栽されたポプラのような木々の並木道とその背後の田園や住宅風景、その田舎道のような道路も狭い二車線であった。目を皿の ようにして眺めたが、どこを見ても興味深い風景であった。 栽培事業の候補地は、旧満州の大平原にある国営農場であった。教科書で習ったことはあるものの、集団農場ではどんな風景を 観ることができるのか。想像は膨らむばかりであった。

  中国黒竜江省の「哈爾浜(はるぴん)」、「佳木斯(ちゃむす)」など、地図上で旅程を計画しようにも、土地勘はゼロであったし、 漢字すらまともに読めなかった。交通経路、宿泊事情など想像すらできず、何をどう計画してよいのか、一時期、頭が真っ白になるほど戸 惑っていたことを覚えている。手探りで調査工程を模索した。有り難かったのは、粗い旅程にもかかわらず、JICA中国事務所がカウンター パート機関と協力しながら、旅程を組み立て、宿泊施設や交通手段をしっかり手配してくれていた。そして、初めて中国の土を踏む ことの不安よりも期待の方が徐々に高まり興奮が増幅して行った。

  日本の某商社が黒竜江省の国営農場の圃場などで搾油用の大豆を栽培試験したいというものであった。第3号案件は一言で言えば、 海外で農作物を試験栽培し、それが首尾よくいけば本格的に「開発輸入」するものである。同省の大地はもともと大豆の大生産地であったが、 数ある品種の中からたとえ0.5%でも含油量の多い品種を搾油用品種として選抜し、その栽培方法を見極めるというのが目的であった。そこで、 現地における大豆品種、栽培法や流通状況などに関する資料を入手し、また中国政府や同省の関係部局や農業試験場などから農業 政策や研究状況などを聴取するというものであった。そして、栽培試験の対象品種、施肥法、灌水法などについての栽培試験計画を立て、 事業経費の積算に必要なデータを収集し、事業の経営計画や長期収支計画などを策定するものであった。日本政府の公的金融機関でもない JICAがなぜ投融資に関与できるのかと言えば、栽培技術の開発や途上国への技術の移転など、事業の初期段階において技術的要素が 絡むからである。

  事業の舞台は地平線の果てまで見渡す限り緩やかな大地が広がる旧満州であった。7名からなる大所帯の調査団は、北京で日本大使館・対外貿易省 などと協議後、飛行機で「哈爾浜(はるびん)」へ。ハルピンは黒竜江省の省都であり、北京から約1,000km離れていた。 降り立った空港ビルは上野駅舎のような頑丈そうなコンクリート製建物で、大平原の中にぽつんと立っていた。 だが、ハルピンはびっくりするほどの大都会であり、ロシア風の大きな建築物や旧満州国時代と所縁のある建物 などがあちこちに残されていた。また市街地のすぐ近くには大陸の大河「松花江」が流れている。松花江はその下流でアムール川と 合流しオホーツク海へと注ぎ出る。春先にアムール川から吐き出された流氷が北海道東岸に流れ着く。

  黒竜江省農業省や農業試験場などとの協議後、夜行列車で「佳木斯 (ちゃむす)」へと向かった。白煙を巻き上げて深夜のホームに 爆走し入線して来た蒸気機関車は、日本のそれより一回り大きく化け物のような巨体に見えた。満州の大平原を「アジア号」が豪快に突っ 走っていたらしいが、「アジア号」もこんな巨体を呈していたのであろう。ロシアとの国境はジャムスから北東へまだ数百㎞遠方 であった。

  ジャムスから東へ100kmほどに ある「友誼」の国営農場へマイクロバスで目指した。道は雨でひどくぬかるんでいて、轍を辿ると車底がつっかえて動けなくなるほどの悪路との闘いであった。 友誼の近郊の農村内の道もぬかるみ、また側溝は生活排水の垂れ流しのためか、不衛生の様相を呈していた。終戦から10年ほど経た 日本の私自身の故郷の村よりもかなり貧しい印象を受けた。戦前多くの日本人が満蒙開拓団の一員として入植した当時の風景もこうであったのであろうと、いかにも昔の 風景を見たことがあるかのように想像していた。当時でも、地方農村の村民の厳しい生活ぶりが痛いほど感じられた。特に 厳冬期には田畑など全てが凍りつき、想像を絶するような厳しい生活を送ることになるに違いないと想像しながら、農村風景を目に焼き付けた。

  国営農場では大豆圃場が見渡す限りの大平原を覆ってグリーンの絨毯を敷き詰めたようであった。既に畝ごとに品種を示す立札が付され試験栽培がなされていた。 旧満州の大地を埋め尽くす大豆畑、これが旧満州における一つの原風景なのであろうと思えた。その一部に触れることができ感涙であった。 何故なら、父親が若かりし頃旧満州に渡ったことを祖父から聞かされたことがあったからである。旧満州のどこで何をしていたのか、 何年後に帰国したのか詳しく知ることはなかった。

  ところで、1987年当時は改革開放路線への転換から8年ほど経過した時期のこと、現地ではまだまだ人民服を着た人が多かった。 初めての中国であり、時を遡って比較できるものを何ら持ち合わせず、あるがままの町や農村風景を受け入れる他なかった。郷鎮企業 の活動について折につけ聴かされたり、街中で設営されていた物珍しい自由市場や、個人経営が許された美容院などの様子を垣間 見たりはしたが、改革開放路線の成果の発現振りを十分実感できるほどに際立った社会的変化を感じることはなかった。だが、 2000年以降何度か中国を公私にわたり旅したが、その度に目にする経済的発展ぶりは驚異的であった。誰もが予想できなかった急激で 奇跡的発展ぶりを目のあたりにした。日本や韓国がいずれかの近未来ににおいて飲み込まれてしまいそうな脅威さえ感じた。

  さて、調査団長はJICA元移住事業部長の仁科さんであった。中国出張を皮切りにその後何度か栽培試験事業の調査団長を務めてもらった。 「経営計画」団員は当時個人コンサルタントの立場にあった東さんで、お二人とはその後何度か現地調査を共にした。定年退職後暫くして 他界された仁科氏の告別式で東さんと再会した。20数年振りの再会であった。たまたまの復縁は旧交を温めるきっかけとなり、 また人生の友として豊かな人間関係を構築する上での再出発点となり、国内外への数多くの旅を共にしてきた。

  さてその他では、東北農業試験場の主任研究員、長野県在住の中国大豆栽培に詳しい専門家、農水省国際協力課職員、「経済社会環境」を担当する 博士団員が勢揃いした。試験栽培計画や調査・交渉の進め方などについて全団員で毎晩のように招待所 (指定された宿泊地) 内で 団内協議をもった。また、同行してくれた中国側の元副省長や大豆研究者らと連日協議を重ねた。農試からの大豆品種データの聴き取りに 前のめりにもなった。また、サイロ貯蔵施設や大連への穀物輸送の拠点となる鉄道駅のインフラ施設などを視察し情報収集に当たった。ある農試で品種の資料 につき複写を依頼したが、一枚も複写させてくれなかった。情報漏洩に過剰と思えるほどの警戒ぶりであった。ジャムスのある招待所 では団内協議が盗聴されているのではないかと疑いたくなることもあった。また、特に黒竜江省の「友誼」での招待においては、一種のハニー トラップに用心の上にも用心をした。危険を察知して何とかその夜の難を逃れたという経験もした。

  中国側の語学通訳を務めていた黒竜江省外事弁公室の王さんは、その後北海道大学の博士課程に留学した。そして、卒業後は札幌の コンサルタント会社に就職した。以後最近に至るまでずっと札幌を拠点にして働いている。彼はある時期に独立を果たし、中国人農業技能 実習生を北海道や長野県の農協などに派遣し、その監理を補佐する仕事に携わるようになった。これまで5000人以上の技能実習候補生を中国 国内で訓練し日本へ送り出し日中友好の懸け橋となってきた。

  その王さんから現地調査の道すがら、いろいろ中国事情を教わった。王さんに誘われて「佳木斯」の中心街を散策した折、 郵便局に立ち寄った。当時一人っ子政策の真っ最中で、ある農民が郵便局に送金手続きに来ていた。インタービューしても問題ないとのことで、 その農民にいろいろ訊ねる機会を得た。「二人目が生まれてしまい、土地を手放して政府に罰金を払う手続きに来た。 お先真っ暗だ」とこぼしていた。

  また、社会見学のためと称して、半ば強引に映画館に連れられて行かれた。日中戦争を題材にする映画であった。木製の座り心地の良くない 硬座に座ったのはまだ我慢できたが、時間が経つにつれ観客が我も我もとタバコを喫い出し、館内に紫煙が立ち込み始めた。 映像は霞み揺らぎ始め映画鑑賞どころではなくなった。煙で息苦しくなるほどで、酸欠状態の一歩手前であった。ついに我慢できなくなり館外に出た。 当時ヘビー・スモーカーの私でさえも、耐えきれずに逃げ出す始末であった。彼とは来日以後最近まで30年以上の付き合いになるが、 中国政府の批判めいたことは一切口にしたことがない。その用心深さに驚くとともに、特に昨今における中国共産党政権による 国内外の自国民に対する監視と締め付けの凄まじさに驚かされるばかりである。

  休題閑話。現地調査を終え何年経過した時のことであるか定かでないが、JICAから融資を受けた大豆の開発輸入商社は、その融資の4、5年後には搾油用 大豆の本格的委託栽培事業へとステージ・アップし、「海外経済協力基金(OECF)」からの融資を得て、大規模な開発輸入ビジネスを展開した。 中国から搾油用大豆が大量に輸入され始めたことを大々的に報じる新聞記事を後年たまたま目にして、そのことを知った。あの時の現地調査が 本格的開発輸入に繋がったことを知り、胸に熱く込み上げてくるものがあった。当時の現地調査やその後の投融資が 当該商社の開発輸入を後押しすることに繋がったようで誇りに思えた瞬間であった。

  試験事業から本格事業に移行し軌道に乗るとなれば、栽培地の当該国にとってもその経済社会的インパクトは大きいものがある。 日本としては農産品の調達先を多元化でき、栽培地国としては輸出の拡大につながる。発展途上国の経済を活発化させ、 雇用を創出し、ひいては人々の生活向上に一役買うという効果をもたらす。外貨獲得にも繋がる。 そんな経済社会的効果を期待できる事業の最初の起点の一つとなるのが、海外でのこの農業試験栽培事業であり、それへの低利融資である。 平たく言えば、発展途上国の農業振興、雇用創出や外貨獲得に資する。民間企業がリスクを背負いながらも、途上国で農業ビジネス を展開できるよう後押しするという、今まで踏み入れたことのないビジネス世界に足を踏み入れるとともに、ビジネス・マインドを もって取り組む投融資業務の面白さを経験できたことは幸いであった。JICAでのキャリアを一歩広げてくれた。

  通常、JICAの技術協力では、ほとんどの場合プロジェクトの中心に「経済採算性」を据えて執行することはない。しかし、投融資 事業では、技術的開発とその後の栽培事業の採算性を視野に入れながら執行することになる。プロジェクトの成否の判断基準は ひとえに採算性そのものにあるといえる。投融資関連業務を介して新鮮な知見を学び経験値を高めことができた。また、これまでとは 異業種の世界で汗を流す関係者らとの新鮮な出会いがあり、人生を大いに豊かにしてくれた。

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プロローグ/はじめに
第1章 青少年時代、船乗りに憧れるも夢破れる
第2章 大学時代、山や里を歩き回り、人生の新目標を閃く
第3章 国連奉職をめざし大学院で学ぶ
第4章 ワシントン大学での勉学と海への回帰(その1)
第5章 ワシントン大学での勉学と海への回帰(その2)
第6章 個人事務所で海洋法制などの調査研究に従事する
第7章 JICAへの奉職とODAの世界へ
第8章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その1)
第9章 水産プロジェクト運営を通じて国際協力(その2)
第10章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その1)
第11章 マル・デル・プラタで海の語彙拾いを閃く(その2)
第12章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
第13章 国際協力システム(JICS)とインターネット
第14章 改めて知る無償資金協力のダイナミズムと奥深さ
第15章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その1)
第16章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに国際協力最前線に立つ(その2)
第17章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その1)
第18章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その2)
第19章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジアラビアへの赴任(その3)
    第20章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その1)
    第21章 中米の国ニカラグアへ赴任する(その2)
    第22章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還(その1)
    第23章 ニカラグア運河候補ルートの踏査と奇跡の生還(その2)
    第24章 「自由の翼」を得て、海洋辞典の「中締めの〝未完の完〟」をめざす
    第25章 辞典づくりの後継編さん者探しを家族に依願し、未来へ繫ぎたい
    第26章 辞典づくりとその継承のための「実務マニュアル(要約・基礎編)」
    第27章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その1)
    第28章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その2)
    第29章 完全離職後、海外の海洋博物館や海の歴史文化施設などを探訪する(その3)
    第30章 日本国内の海洋博物館や海の歴史文化施設を訪ね歩く
    第31章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年(その1)
    第32章 パンデミックの収束後の海外渡航を夢見る万年青年(その2)
    第33章(最終) 人生は素晴らしい/「すべてに」ありがとう
    後書き 人工知能AIの先にある辞典づくりを想像する


    第12章 三つの部署(農業・契約・職員課)で経験値を高める
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      第1節: 農業投融資と向き合う(その一)/中国での大豆栽培試験
      第2節: 農業投融資と向き合う(その二)/5ヶ国での栽培試験
      第3節: 契約課でパナマ運河代替案調査に関わる
      第4節: 職員課のどの仕事も喜ばれる
      第5節: 英語版「海洋白書/年報」と「海洋語彙集」づくりに前のめる