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    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに海外の協力最前線に立つ
    第5節: 「海あり近隣諸国」ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイに海を求めて旅をする


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       第12章・目次
        第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
        第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
        第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
        第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
        第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
        第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
        第7節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
        第8節: 国連法務官への志はいつしか消え、「オンライン海洋辞典」づくりを新機軸とする

        序章~第10章 | 第11章 第13章 | 第14章~最終章


  パラグアイは「海なし国」でありながら、2ヶ所もの「船舶博物館」があることを現地で知った。その存在は知的好奇心を大いに刺激してくれた。 迷うことなく早い機会を捉えてそれらを訪ねることとした。博物館の施設内容としてはごく簡素なものであったが、その見学はあるアイ デアを閃かせてくれた。 パラグアイに赴任した機会を最大限に利用して、周辺の「海あり諸国」に出掛け、港町や海辺を散策するだけでなく、辞典のビジュアル化と いう目的意識をもってその国の海洋博物館や艦船博物館、水族館などを訪ね歩きたいという、強い意欲が湧いてきた。そのことが、ポジティブな心を 湧出させ、また嬉しかった。

  アルゼンチンに1980年代中頃に3年赴任していた頃、ブエノス・アイレスのボカ地区の岸壁やブエノス旧港のウェットドック などに係留・展示される船舶博物館の「ウルグアイ号」や「サルミエント大統領号」などを見学したことがあったものの、それは ほんの通りすがりのたまたまの見学だったりした。アルゼンチンの何処にどのような海洋博物館があるかほとんど気にもかけなかった。 ラ・プラタ川の河口の水郷地帯にあるティグレに船遊びに出掛けた時であっても、海洋博物館の存在を知りながら訪ねもしなかった。 だが、パラグアイ赴任で大きく目覚めた。いずれアルゼンチンを再訪できる機会が巡ってくることを待ち焦がれ、その時にはしっかりと 画像を切り撮る意欲に燃えていた。

  「海なし国パラグアイ」から飛び出して、周辺諸国のまだ見たことのない海辺や博物館などを真剣かつしっかりと訪ねることを 思いついたのは。まさに赴任がきっかけであった。訪ねる楽しみがあるだけでも、パラグアイでの生活がウキウキさせていた。 それに、ウェブサイトの海洋辞典は文字ばかりであったので、海辺や博物館などで画像 をもっと積極的に切り撮って、辞典をビジュアル的に豊かにするのも、それはそれで一つの進化形であると思った。その第一歩として、 周辺諸国にある海洋博物館などを積極的に訪ね、展示品を紹介するのも新しいグッドアイデアと思った。 さすれば、辞典はビジュアル化され、無味乾燥な辞典も画像で彩られ、見る人に取っ付きやすくしたり、またコンテンツそのものを 飛躍的に豊かにできるものと考えた。

  辞典のコンテンツをカラフルかつ豊かにでき、その進化の一助にできる。辞典づくりそのものをより楽しいものにできる。 これこそ2回目の南米赴任のチャンスを活かすことにつながるとの想いであった。かくして、カメラをぶら さげてパラグアイから飛び出して、積極的にいろいろな世界を散策する旅に出ることを視野に入れ出した。旅のプラニングも、また 辞典づくりもますます楽しくなった。週末や有給休暇を利用して近隣諸国に出掛け海辺で潮風に当たる意義も倍加した。海外赴任者に 認められる、日本への一時帰国を含む長期休暇取得の権利を振り替えて、近隣国や北米へのそんな海洋博物館巡りの旅に出ることも考えた。

  港町に足を踏み入れ散策しながらも、海洋博物館の存在をほとんど気にもかけず素通りしてしまっていたことも多い。振り返って見れば、 素通りしてしまったそんな海洋博物館のある港町を再訪して今度はしっかり見学して見たい。通りすがりに既に一度は見学した博物館 であっても、新たな目的意識と視点をもっての二度目の訪問は新たな発見をもたらしてくれるという期待があった。 海洋博物館だけでなく、知的好奇心の幅を広げて、自然史博物館や自然科学館なども訪ねてみたかった。たくさんの魚貝類、海洋哺乳 動物の骨格や剥製標本などが期待できる。ローカルな郷土博物館であっためお、意外にも思いがけない展示品に遭遇するかもしれない。 因みにずっと後に遭遇した驚きの体験がある。アルゼンチン・パタゴニアへの二度目の旅で、サン・フリアンという小さな漁村に立ち寄った。 同漁村はかつてマゼランが世界周航途上において越冬したことで有名だが、そこの全く小さな郷土展示館に立ち寄った。何とマゼラン 艦隊のうちの一隻が沈没したという当時の船の木片が展示されていた。その遺物がマゼラン船隊のうちの一隻のものであるあるという、 科学者の調査分析結果と共に展示されていた。小さな郷土館であっても、こんな歴史的遺物に出会うこともある。

  2000年当時はデジタルカメラの黎明期であったといえる。本格的に一眼レフのデジタル・カメラが世に普及し出した頃であった。 私も買い込んで使える努力をしていた頃であった。画像の画素数はまだ少なかったし、一個の記憶媒体に収蔵できる画像枚数は数百枚 程度であったと記憶する。充電式単三電池4本を使用するカメラであった。だが、バッテリー使用可能時間数や、また記憶容量も現在と 比して圧倒的に少なかった。

  日を追うごとに辞典のビジュアル化への期待値は高まっていった。辞典づくりや私生活の記録をはじめ、仕事のためにも、カメラ をオモチャのようにして画像撮影を楽しんだ。パラグアイの艦船博物館をはじめ、アスンシオン港の風景、パラグアイ川やパラナ川の 河川風景、プッシャーボートとバージのある風景、アルゼンチン・ブラジル・パラグアイ間の河川上に設定さている「目には見えない」 3国国境、巨大なイタイプ・ダムや迫力ある「イグアスの滝」の滝つぼ風景など、海ではないが内陸河川の水辺風景を撮りまくった。 パラグアイ北西部の国土の半分ほどを占めるチャコ地方の、特にパラグアイ川沿いの水辺は鳥の楽園であった。その自然風景などを デジカメに収め、勤務先の企画庁のホームページでその素晴らしい自然の魅力を発信し、エコツーリズムへの誘いを訴えようと 現地踏査したこともあった。

  デジタルカメラはデジタル海洋辞典のビジュアル化を進めるには、画期的でベストな文明の利器であった。従前のアナログカメラ では、髙い経費を掛けて現像するまでその写り具合は全く分からない。それにアナログ写真をデジタル化するには、当時としては高額 のスキャナーが必要であった。また、デジタル化にはそれなりの手間が掛かった。スチール写真を200枚も撮影した場合には6,000円ほど もかかる計算であった。だが、デジカメの場合、画像を何枚撮っても、駄作を消去してベストショットを簡単に選択できた。記憶媒体から パソコンに移管すれば、媒体を何回でも使い回しができた。写真画像の写り具合を確認しながら撮影することもできた。 カメラからパソコンへの取り込み、編集加工などを自由自在かつ手軽にできた。

  ところで、画像が一気に増え、辞典のビジュアル化は大いに進展し、辞典の進化に飛躍的に貢献するはずであった。だが、時が経つに つれて辞典への画像の貼り付けに慎重となった。辞典のフォルダーやファイルの階層構造などがまだ十分固まっていなかったからである。 画像を辞典に貼り付け、リンクすればするほど、その後におけるファイル名の変更、ファイルの収納先の他ホルダーへ移動など、 階層構造を変更する場合、リンクの手直しの作業がどんどん増え続けていった。 デジタル画像をページに貼り付けても、リンクの手直しをすることがほとんどなくなったのは、ずっと後になってのことである。 コンテンツの「選択と集中」を進め、階層構造がほぼ確定することができてからのことであった。因みに、「選択と集中」による確定は、 パラグアイ赴任からほぼ10年後の、JICAから完全離退職した2011年からのことである。

  休題閑話。2002年4月のこと、アスンシオンからチリを目指した。チリで最も訪ねたい場所は、その最南端にあるマゼラン海峡であった。 マゼランによって達成された歴史上の偉業の一つは、大西洋から「南の海」への通過路の発見であった。西欧人で初めてパナマ地峡を横断し 海を視認したスペイン人征服者バルボアは、その海を「南の海」と呼んでいた(パナマ地峡は東西方向に連なっている)。その海峡 を一度はこの目で見たかった。アスンシオンからその海峡まで3,600km以上の旅であり、決して近くはない。だが、日本から訪ねるとすれば、 40時間くらいはゆうに掛かることになろう。

  パナマ運河が開通するまでは、北米東岸のニューヨークなどから西岸のサンフランシスコなどへ行き着くには、 南米最南端のケープ・ホーンなどの回航を余儀なくされた。「咆える南緯60度」のドレーク海峡を避けたい多くの船長はマゼラン海峡を 辿った。故に、、マゼラン海峡に面するプンタ・アレーナスは多くの船舶の通過往来によって補給・港湾都市として発展した。 アルゼンチン赴任時(1984~1987年)、海峡の町(チリ領)へはあと100kmほどの距離にある、アルゼンチン・パタゴニア地域南端のリオ・ ガジェゴスまで旅したが、海峡の岸辺に立つことはできなかった。今回の2回目の南米赴任が絶好のチャンスであった。

  折角の機会であるが故に、チリ最大の港町バルパライソの海辺も散策したかった。それに海洋博物館や自然史博物館なども見学したかった。 先ず、サンチャゴ市内の「オイギンス公園」内にある「市営昆虫・貝殻博物館」に立ち寄った。昆虫類や貝類に特化した自然科学館であった。 翌日、路線バスで、120kmほどの距離にあるバルパライソに向かった。バルパライソの町は海岸沿いに南北に細長く伸びる平地しがみついて いるように見えた。海岸線のすぐそばまで丘陵地が市街地に迫っていた。住宅は平地だけでなく、その背後の丘陵地帯の斜面や、さらに 上方の標高数百メートルはあろうかと思われる山頂にまで広がっていた。

  先ず散策したのは港地区の中心街にある「ソトマヨール広場」や「プラット埠頭」、海軍総司令部、太平洋戦争中の イキケ海戦記念像、さらにチリ海軍の「バルパライソ海洋&海軍博物館」である。 海軍の歴史、近隣諸国との海戦の歴史、南極大陸での観測活動などに関するいろいろな展示物を見学した。また、 「バルパライソ自然史博物館」も立ち寄った。

  「アセンソール」というケーブルカーで丘陵地の急斜面を登った。その丘上からは眼下にバルパライソの街並みや港の全体を180度 鳥瞰できた。その先には太平洋の絶景が広がり見応えがあった。丘上には普通の一軒家を利用した「コクラン卿海洋博物館」があり、 それ故に探訪したものであった。だが、展示品のほとんどは市街地の「海洋&海軍博物館」に移管途上にあるとのことで、見るべきものは そこにはなかった。早速、同司令部近くの高台にある「海洋・海軍博物館」を訪れた。チリで初めて訪れた本格的な海洋博物館であり、 わくわくしながら巡覧した。チリでしか見られない海洋歴史文化遺産の数々を拝見した。 その後バルパライソ郊外の高級海浜リゾート地とされる「ビーニャ・デル・マール」に足を運び、「海洋文化博物館」と称された海岸沿いの 施設を訪ねたが、何と全面改装中であり休館していた。

  その後サンチャゴに戻り、空路にてパタゴニアを南下し、最南端の港町プンタ・アレーナスへ向かった。そこで初めてマゼラン 海峡を拝むことができた。港の埠頭界隈を心行くまでたむろして、マゼランが約1月もかかってようやく通り抜けたという海峡を しみじみと眺め、一人感慨にふけった。 マゼランはその後、何とマリアナ諸島(グアム島)まで太平洋上の島嶼を一度も視認し上陸することなく太平洋を横断した。 偶然にも彼の横断航路は、島嶼に出くわさないルートを辿ることになってしまった訳である。太平洋は広大といえども数え切れない ほどの島嶼が存在しながら、そんな斜航横断ルートを辿ったのは極めて稀なことであった。

  プンタ・アレナスには3,4の博物館がある。小さいが「プンタ・アレーナス海軍・海洋博物館」や、パタゴニアの開拓史や民族 博物誌などを紹介する「サレシアーノ地域博物館」、その他「マゼラン大学自然科学部ラ・パタゴニア 研究所海洋館」などである。 パタゴニアでの開拓の歴史、海峡などの自然地理、極地に関する自然環境、動植物などを紹介する文化施設であり、興味深く多くを 学ぶことができた。

  市街地の一角にある公園広場には、シンボルマークのマゼラン立像が建てられている。立像の足元にはパタゴニア原住民が座るが、 見方によっては西欧人のマゼランがパタゴニアの先住民を足元に置き従えるような印象を抱かせる像である。昨今では 先住民を蔑視するモニュメントとして批判にさらされているという話をどこかで小耳にはさんだ。更に南方のビーグル海峡へと 足を伸ばしたいのはやまやまであったが、それは諦めてマゼランを偲びながら飽きるまで海峡を眺め飽きては街を散策した。

  さて、3年間のパラグアイ赴任中何度かブラジルを訪れることができた。いずれも週末に1~2日の有給休暇をプラスしてのごく短い旅で あった。単独行の場合も、また家族との旅の場合もあった。私的には、旅行期間の長さにこだわるというよりも、むしろ自身の脚で 立ち場所、自身の目で見たいものをしっかり観ることが重要であった。マゼラン海峡に次いで行きたい地はサントスであった。 その最初のブラジルへの旅は1983年のことであった。アルゼンチン国立漁業学校プロジェクトの設立を目指す交渉のため訪「ア」した 折の帰途に、リオ・デ・ジャネイロに立ち寄り、調査団員と市中を散策して以来であった。ブラジルの地を単独または家族と共に足を踏み入れた のは、そのパラグアイ赴任時が初めてであった。

  一度目は一人で下見のつもりで旅した。兎にも角にもブラジルの海岸にて潮風に当たりたかった。本当は空路サンパウロに足を踏み入れ 、その路線バスで外港のサントスに行きたかった。だがしかし、当時JICA規定上、職員がサンパウロへ公務以外の私的な目的で立ち 入ることは禁止されていたことから、サントスへの旅を諦めた。替わって、サンパウロから300kmほど南西にあるサンタ・カタリーナ州都のクリチバという都市を 経由して、ブラジル南部諸州の海辺に出掛けることを思い立った。ポルト・アレグレなどの海景色をまだ見たこともなかったし、 いくつかの海洋博物館もありそうであった。

  クルチバはドイツ系の美しい町で、街並みも整然とし安全で居心地が良かった。そこには JICA技術協力プロジェクトが実施されていて、同期入団の和田氏がリーダーを務めていた(ただし、彼はJICAを早くに退職し別組織に 転職し、そこからの専門家派遣であった)。彼とに再会し、近況を語り合った。彼は帰国が視野に入っていたので、彼に頼み込み、 ポルトガル語の辞書などを譲り受けた。いずれポルトガル語の海洋辞典づくりも視野に入れていたからである。その後、空路で ポルト・アレグレへ飛んだ。さらに路線バスでリオ・グランデ・ド・スルへ南下した。大学の海洋博物館などを訪ねるためであった。

  リオ・グランデ・ド・スルでは予定通り、「リオ・グランデ市立博物館」をはじめ、「リオ・グランデ海洋学博物館」、 更にリオ・グランデ連邦大学財団の「海洋博物館」などをじっくりと見学した。これがブラジルでの初めての本格的な海洋博物館への訪問 であった。新鮮であった。意気揚々と博物館巡りを楽しんだ。ただ、残念ながら、リオ・グランデ州ペロータス (リオ・グランデ市近郊) にあるという「ペロータス海洋博物館」への立ち寄りは叶わなかった。かくして、往路と同じルートを辿り、クリチバまで引き返した。

  クルチバで市中散策するうちに少し欲が出て、路線バスで2時間ほどかけてブラジル高原を大西洋に向けて一気に下り、漁師町の パラナグアへ出向くことにした。クルチバから70kmほどの距離である。歴史民俗郷土史を展示する市中の小さな「パラナ連邦大学・人類学および民族学博物館」に立ち寄り、 伝統的漁具などを見学した。風光明媚な海辺をのんびりと散策して、「海なし国」パラグアイでのストレスを大いに発散し、リフレッシュし、 鋭気を養った。その後、クリチバに戻り空路アスンシオンへ帰着した。さて、今回の旅で少し土地勘を得たことも起因しているが、ふとした ことから、サンパウロを経由せずサントスへ旅する方法を思いついた。ラッキーであった。サントスも青少年の頃から行ってみたいと憧れていた 港町であった。その方法とは全くシンプルであり、「コロンブスの卵」であった。即ち、アスンシオンから空路クリチバへ、そこから 路線バスでサントスへ向かうというものであった。

  かくして、2001年11月のこと、ブラジルへ2度目の旅に出立した。それもまた一人旅となった。家族(妻と娘2人)は サントスを旅する興味はなかったようである。それにサントスの海や港、海洋博物館・水族館などの興味もないものに付きあわせる ことも忍びなかった。初回の「予行演習」通り、空路でクリチバに入り、その後路線バスでサントスへ向かった。 通常ならばサンパウロから路線バスで行くのが最短ルートであった。だが、サンパウロを経由せずしてサントスに 行けないものとばかり、頭からサントスへの旅を諦めていた。当時サンパウロへはJICAの内規上立ち入れなかったからである。 だがしかし、苦肉の策として閃いたのが、大きく迂回してクリチバ経由でサントス入りをめざすルートであった。

  サントスは日本人のブラジル移住の起点となった、記念すべき上陸地であった。1906年(明治39年)に、日本人移民646人がハワイへ 送り届けられた。そして、「皇国殖民会社」(当時の社長は水野龍氏)の依頼を受けて、1908年(明治41年)4月28日、ブラジルへの 初めての日本人集団移住者781人名(そのうち、40%以上の325人が沖縄県人であった)が送り出された。当時移住者が乗り込んだ ブラジル移民船こそが「笠戸丸」であった。「笠戸丸」は神戸を出港し、同年6月18日にサントス港の埠頭に着岸した。 第一次日本人集団移民によるブラジル上陸であった。その「笠戸丸」が着岸した埠頭を見て見たかった。

  「笠戸丸」が着岸した第14番埠頭の位置は、埋め立てなどで少し変わっているようであった。だが、埠頭をあちこち散策した結果、 この辺りに着岸したという、いかにも古い倉庫が岸壁沿いに並ぶ埠頭岸壁を見つけた。笠戸丸が凡そ100年前に第一次日本人移民を 乗せて到着した、その埠頭である。それらしき第14番倉庫そのものはまだ残されていた(ずっと後になって、倉庫内の側壁には ⑭ と 書かれた大きなペンキ文字が残されていることを知った。それが第14番倉庫であることを示す唯一の証しであるという)。岸壁は拡張のため埋め立てられその位置はかなりずれていたが、古い倉庫が残され、何となく 昔の埠頭の趣きが色濃く残されていた。

  かくして、青少年時代からの夢がついに実現した。特に神戸~パナマ運河~ベレン~リオ・デ・ジャネイロ~サントス(サンパウロ)~ ブエノス・アイレスの南米航路の船乗りに憧れていた青少年の頃の夢である。当時からコーヒー積出で有名なサントス港の埠頭に 着岸させ、当時としてはブエノス・アイレスに肩を並べる華やかなりし大都会サンパウロを訪れて見たいと思い描いていた。 サンパウロは当時は東京よりも繁栄した大都会であったといわれる。あれから40年ほどの歳月が流れていた。 青少年時代に描いていたサントス港への接岸の夢、勿論船乗りとしての入港ではないにしても、40年にしてやっと夢が叶いサントス港の 土を踏むことができた。流線形の優美な移民船「ぶらじる丸」や「あるぜんちな丸」も数え切れないほどこの埠頭に接岸し、何万と言う移住者が この埠頭から上陸して行ったに違いない。サントスの埠頭に立ち、潮風に吹かれた時は感極まり涙が出そうであった。 古い倉庫が立ち並び石畳が続く埠頭を暫しぶらつき、何をするでもなく佇み戯れた。港風景をしっかりと噛みしめ目に焼き付けた。

  さて、サントスでは目途にしていた幾つかの博物館を訪ね歩いた。大西洋からサントス港に入港する場合、船はサンビセンテ島を めがけてやってくる。そして、船は急カーブする怖ろしいほどの狭水道へと進んでくる。昔、多くの日本の移民船が通過したはずの サントス港へのそのアクセス水道の入り口に立った時、再び感激で感涙するところであった。それはさておき、その入り口近くの一角 に立地する民間経営の「海洋博物館」があり、そこを何とか探り当てて訪ねた。規模は小さいが、海事に関する展示品が所狭しと 並べられていた。その後、「漁業博物館」を訪ね、ブラジルの漁具漁法や漁業一般事情をいろいろと学んだ。

  さらに「港博物館」にも足を運んだ。親切にも、館長が日本の船の写真もあるよと指し示してくれたのが、1950~60年代に南米移民船 として活躍した大阪商船の「あるぜんちな丸」、「ぶらじる丸」であった。両船の雄姿が、あたかも成人式に臨む乙女の晴れ姿を写した 写真であるかのように、きちんと額に納められていた。青少年の頃に航海士となって日本と南米を行き来したいと憧れた頃の、 あの優美な移民船の雄姿が飾られていたのには感激した。サントスでもいかに当該両船が注目されていたかを思い知らされた。 両移民船を見るたびに航海士を夢見ていた頃のことを思い出す。遠い過去のことになってしまったが、若者の心にしっかり刻まれ 決して忘れることはない。港博物館では、さらに額に収められた「笠戸丸」や第14番埠頭の写真などにも展示されていた。 1908年に日本から初めての集団移民を送り届けた笠戸丸の当時の写真を初めて見たのは同館であった。サントス港発展の歴史的系譜の 一端を知ることができた。

  その後時改めてのこと、サントス市営の水族館の他、サントス市街が立地するサンビセンテ島からフェリーでその狭水道の対岸に渡り、 グアルジャ地区にある「アクアムンド」という近代的な水族館を訪ねた。ブラジルで初めて訪れた本格的な水族館である。 その後、サントスから路線バスでサンパウロ郊外にある「サンパウロ大学海洋博物館」を訪ねた後、空路アスンシオンへ舞い戻った。

  三度目のブラジルへの旅は2002年1月のことであった。今回は家族4人で旅することになった。アスンシオンから空路クリチバへ向かい、 市内の繁華街などをそぞろ歩きした後、路線バスでサンタカ・タリーナ州の海辺の都市サンフランシスコ・ド・スルへ向かった。 目途は「海洋博物館」の訪問であった。大きな倉庫を改装したような博物館に数多くの船模型などが展示されるところが印象深かった。 最大の展示はカヌーや小型沿岸漁船、帆船など数え切れないほどの船舶模型である。特に巨大な帆掛け式アウトリガー・カヌーを含む数多くの実物の カヌーの展示は圧巻であった。さすが国立の海洋博物館だけある。翌日、路線バスで海岸線沿いにサントスへと直行した。

  翌日、家族でホテル近くに広がる白砂の海浜をぶらついたりした後、路線バスでサントスの旧市街地のような地区を一通り 散策した。現在では歴史的名所となっている「コーヒー取引所」も訪れた。大勢の日本人移民がかつてコーヒー・プランテーションにおいて 安い労働力として身を粉にして働いたという苦難の歴史が何となく頭の中をよぎり、感激深く取引所を振り返った。その後、新しい発見を求めて 前回の旅で訪れた市立水族館、漁業博物館などの海洋関連文化施設を再訪した。

  日を改めて、家族と離れ路線バスでウバテュラという海辺の町へ出掛け、そこで館長と少し個人的繋がりのあった「ウバテュラ水族館」 を訪ねた。その後、バスを乗り継ぎリオ・デ・ジャネイロへ向かった。目途は、旧市街のプラサ・キンゼ地区の「11月15日広場」の すぐ近くのウォーターフロントにある「海洋文化センター」という海洋博物館を訪ねることであった。 博物館はグアナバラ湾に面し、その地先にはブラジル海軍基地のある「コブラス島」 が浮ぶ風光明媚なところに立地していた。 「海洋文化センター」は本格的な海洋博物館で、見学するにつれその充実ぶりに鳥肌が立つ思いであった。主要展示テーマとしては、 優雅な船室をもつガレオータ「国王6世号」、航海の歴史、ブラジルにおける海底考古学、アルベス・カマラ・コレクションなどであった。

  館内での主な展示物としては、実物の漕ぎ船 (ガレオータ)「国王6世号」、羅針盤・クロノメーター・ハンドログなどの 航海用具、櫓櫂、古地図・地球儀、ガレー船・バイキング船・カラベラ・ガレオン・クリッパーなどのさまざまな船模型、船首像、 艦砲システム、沈船から発掘された考古学的遺物(財宝、陶磁器、食器類など)、船・カヌー・筏の絵画などである。 展示は室内だけでなく、埠頭には軽装軍艦、潜水艦、タグボートなどの幾つかの艦船が係留され一般公開される。 例えば、軽軍艦「バウル号」、「潜水艦リアチュエロ号」の他、1910年英国で建造された2本の煙突をもつタグボート「ラウリンド・ ピッタ号」などである。同センターでは多くの画像を切り撮った。まさに、ブラジルのポルトガル植民時代からの海と船にまつわる歴史、 文化、技術などを学べる知の宝庫であった。予算であるが、同センター近傍に所在する「海軍博物館」は残念ながら休館であった。 さてその後、バスでサントスへとんぼ返りして家族と合流。翌日サントスからアスンシオンへ帰投した。短い旅であったが、幾つもの 近代的な海洋博物館や水族館などを見学でき、海洋辞典のビジュアル化への大きな一歩となりそうで、その喜びは大きかった。

  ブラジルへの4度目の旅は、ウルグアイ在住の友人の結婚式に出席した折であった。ウルグアイへは初めてであった。出席の機会 を利用して最初にアルゼンチンへと向かった。ブエノス・アイレスを経由したのには、ある理由があった。国際高速フェリーでブエノスから 川幅100kmほどもあるラ・プラタ川河口水域を横断してモンテビデオへ渡海してみたかった。また、17世紀にマゼランが世界一周航海 の途上で来航し名付けたという、ウルグアイの首都・港町モンテビデオの海と港風景に接して見たかった。

  先ずアスンシオンから空路ブエノス・アイレスへ。港近くのレティーロ駅から路線電車でラ・プラタ川河口の大水郷地帯ティグレを 散策した。今回は海事博物館は再訪せず、迷路のような水路を巡る遊覧を楽しみ、その水郷風景を再び焼き付けた。 久々に「ビエッホ・アルマセン」で本場のタンゴ演奏を楽しんだ。私的には、1983年にはじめてブエノスの土を踏んだ時に最も感激した スポットであった。JICA同期の河合君の案内で我われ団員はタンゴショーに酔いしれた。そこではじめて生のタンゴに触れた。 決して忘れることのない感動を体験した。翌日、ブエノス・アイレス港のフェリー乗り場近くの埠頭に停泊する、アルゼンチン海軍の 航海訓練帆船「リベルター号」や、海軍所属の砕氷船にも偶然遭遇し、しっかり切り撮った。その後、高速フェリーに乗り込みモンテビデオへ。 2時間ほど疾走しても、川水のカフェ・ラテ(ミルクコーヒー)カラーに染まっていた。

  マゼランがモンテビデオと名付けた港町をじっくりと海側から眺めることができた。港の背後には、それほど高くはないが、丘陵が 横たわり、市街地が広がっているのを見て取れた。マゼランがその丘陵を見て、「我モンテ(山)を見たり」と叫び、モンテビデオと 名付けたと言い伝えられている。モンテビデオの港内にはウルグアイ海軍の基地があって、何隻もの小型艦船が停泊して いるのが印象的であった。

  当時、マゼランは世界周航の途上でこの地にやってきた。何故か。このラ・プラタ川が大西洋から「南の海」(現在の 太平洋)へ通り抜けることができる海の通路なのか否かを確かめるためである。彼は先遣隊を派遣して、このラ・プラタ川を遡上 することを部下に命じた。大デルタ地帯の中のいずれの川筋を辿ったのか知らないが、先遣隊が遡上を重ねても結局水は淡水のままであり、 川であることを確認した。彼は「南の海」やジパングやカタイ(中国)に通じる海の回廊でも、峡水道でもないと判断した。 マゼランは踏査に見切りをつけて、大陸沿いに更に南下を続けた。そして、パタゴニアのサン・フリアンで越冬し、翌年ついに マゼラン海峡への入り口にある、「百万回マリア様に感謝する岬」を発見し、狭水道へと踏み込んでいった。そして、1か月も要して 複雑に入り込む狭水道を無事通過し、「港の海」と思われる大洋に出ることができた。

  さて、ウルグアイの内陸部にある田舎町へ路線バスで向かい、友人の教会での結婚式に参列した。夜の祝宴はほどほどに切り上げて モンテビデオに戻った。翌日、モンテビデオ市内の「海洋博物館」に出向いたが、生憎の休館日であった。友人の元JICA専門家に小一時間 再会した後、路線バスで百数km東方のプンタ・デル・エステへ先を急いだ。同地は風光明媚な海岸風景を擁し、ウルグアイでも 有数の海洋リゾートであり、ポルトガル植民地時代の要塞なども遺されている。同地訪問の目途は郊外のラ・バーラ・デ・マルドナード にある海洋博物館があった。ウルグアイの海の歴史と文化の他、海洋生物(鯨類・魚類・甲殻類など)の豊富な標本の展示がなされ、 多くの画像を切り撮った。

  翌日、空路でブラジルのサンタ・カタリーナ州サンタ・カタリーナ島にあるフロリアノポリスへ向かった。フロリアノポリスには 美しい海とビーチが広がり、「海なし国」パラグアイの人々には圧倒的な人気を誇っていた。余りの人気なので、国内外の避暑客で 賑わうというそのリゾート地界隈を一度はたむろしてみたかった。同地はまさしくこの世のパラダイス的世界をここで楽しみたいという 避暑客で賑わっていた。ビーチから出立する小型遊覧帆船でクルージングヨット・ツアーに参加した。ヨットは海風を受けて、 同島最北西端の本土寄りに浮かぶ島(Ilha Anhatomirim Grande Floripa)へと快走した。そこにはポルトガル時代に建てられた 大規模な要塞(Fortaleza de Santa Vruz de Anhatomirim)があり、内部に設営された小さな海洋歴史展示室を見学することができた。

  余談だが、4度に渡る旅の他に、何十歩かブラジルに足を踏み入れたことがあった。パラグアイ北東部にペドロ・ファン・カバジェーロ という、ブラジルとの国境の町がある。陸の国境のない日本では到底体験できない面白い町である。チャコ地方を斜めに横切り「ポーソ」という 田舎町へ。今度は東へ横切って、その国境の町へ。途中、1864~70年の三国同盟戦争で時のパラグアイ・ロペス大統領が戦死したという 丘を訪ねた。カバジェーロ市街地に一本の大通りがあり、真ん中に幅数メートルの花壇式の中央分離帯がある。その中央が国境となっている。 両国市民は大通りに沿って立ち並ぶショップを右に左にと横切りながら、買い物をして用を足すのである。 丸で国境がないのと同じである。予備知識がなければ、そこに国境線があるとは知らずに両国を行き来することになる。 それを良いことにして内陸部へ越境すれば、何処かで当該国の官憲の検問に引っ掛かることになる。

  パラグアイ赴任中アルゼンチンへも何度か旅をした。初回は、2000-2001年の年末年始に、家族(妻・次女)で里帰りした。 いわばアルゼンチンへのセンチメンタル・ジャーニーそのものであった。エセイサ国際空港でレンタカーを借りて市内に向かった。 市街地へ通じる懐かしい道、何度行き来したことか。ブエノス・アイレスで最も華やいだ「フロリダ通り」は歩行者天国であり、 お上りさんになってウインドウショッピングをしながらそぞろ歩きをした。タンゴ・ショーなども楽しんだ。私は1993年の「生活環境 調査」以来のブエノス再訪であるが、妻にとっては15年振りで、次女は当時1~3歳児でアルゼンチンでの記憶などはるはずもなかった。

  プエルト・マデーロという、再開発されたブエノス旧港地区のウェットドック界隈を散策したり、そこに係留展示される艦船博物館 「サルミエント大統領号」などを再訪した。さらに、ボカ地区にも足を伸ばし、同じく艦船博物館の「ウルグアイ号」を再訪した。 また、三人でラ・プラタ川河口域にある大水郷地帯の町ティグレにも足を伸ばした。アルゼンチン赴任中(1984~87年)ほとんどその存在 を気にもかけなかったが、2000年のその時に初めてアルゼンチン海軍所管下の「国立海事博物館」を訪ね、数多くの画像を切り撮った。 海洋辞典づくりを始めてから初めてのアルゼンチンにおける本格的な海事博物館の見学となり、また展示物の真剣な撮影となった。 ブエノス郊外のラ・プラタ(ブエノス・アイレス州の州都)には、ラ・プラタ大学付属「自然史博物館」があり、約15年振りに再訪し、 鯨・イルカ類などの数多くの海洋哺乳動物の骨格標本などを切り撮った。

  その後、何度も行き来した大草原「パンパ」の道を辿ってマル・デル・プラタへドライブし、大みそかからそこで暫く過ごした。 家族ぐるみで交流していた近所の友人家族らと再会を果たした。長女(当時5~7歳)とほぼ同年代であった子ども達とも再会した。 もう20歳前後の立派な大人であった。かつて住んでいた住居やその周辺がどうなっているのか、わくわくしながら訪れた。 長女が通ったドイツ系幼稚園・小学校や、かつて勤務していた国立漁業学校を訪れ、何人かの元同僚や旧友と再会した。 漁港をはじめ、その隣接地にあるシーフードレストランや鮮魚店が集まるコンプレックス界隈を散策したりして、まさにセンチメンタル・ ジャーニーであった。港内にはトドの営巣地があり、沿岸漁船の停泊岸壁や時に漁船船上にトドが寝そべるのは変わらぬ風景であった。

  その後、マル・デル・プラタを後にして、パタゴニアを大西洋岸に沿って南下した。途中「トレス・アロージョ」という田舎町で、 次女が3歳になるまで乳母として世話をやいてくれた夫人を、住所を頼りに探し出し、ついに彼女の自宅に辿り着き再会を果たすこと ができた。感激であったが、次女は初めての対面であった。その後、南下を続け、野生動物の宝庫であるバルデス半島へ。また、同半島を 周回して、自然に棲息するオルカ、トドなどに出会う。その後、半島の最寄りの港町プエルト・マドリンにある本格的な「海洋博物館」 を訪ねた。さらに岸沿いに南下し、「プンタ・トンボ」にあるマゼラン・ペンギンの自然営巣地を訪れた。海岸に集まる無数ともいえる ペンギン集団風景は圧巻である。その後は、海から離れ、無味乾燥的な広大なパタゴニア地域(化石化した大木が転がる「月の砂漠」のような 景勝地を訪ねる)を横断し、アンデスの麓にある、南米のスイスと称されるバリローチェを再訪し、数日大自然の中を散策した。 その後、再びパタゴニアを横切り、ネウケン、バイア・ブランカを経てブエノスに戻った。農牧産物の積出港として繁栄するカサブ ランカでは、郷土博的な「港博物館」を訪ね、辞典の材料集めをした。 

  さて、その後2001年6月のこと、単独でマル・デル・プラタに舞い戻った。同地に新しく創設されたという貝類標本を専門に 展示する「貝博物館」の他、近代的な「水族館」の見学をめざした。同博物館はかつては郷土博物館であったようで、アルゼンチン 赴任中は一度も足を運んだことがなかった。だがその後、何万種という貝類標本を展示する専門館として開設されていたことを 知った。当時水族館も存在しなかった。実際に訪問しみて、その貝類標本の多さと、学名を含む学術的分類表示などの充実性に びっくり仰天した。大変立派な貝類コレクションの陳列がそこにあった。数日かけても貝標本の撮影は終えられず、再訪の機会を 見つけることにした。だがしかし、その何年か後に貝類標本のオーナー兼館長は閉館することを決定したらしいことを、ずっと後に 耳にした。恐らくはもともとボランティアワークであったのであろうが、見学者数も伸びず、さすがにその気力を喪失してしまった のかもしれない。撮影に疲れ果てたが、最後に「プンタ・モゴーテ」に新設された近代的水族館を訪ね、アシカショーなどを楽しんだ。

  こうして、3年間のパラグアイ赴任において、週末や有給休暇、専門家の長期休暇制度などをフルに活用し、「海あり」の周辺 諸国の海辺や港界隈をたむろしてリフレッシュを図り、また海洋博物館、自然史博物館、水族館、その他史跡・景勝地などを訪ね歩いた。 博物館はその国の海の歴史、文化、技術、自然などを知ることができる「知の宝庫」である。また、数多くの貴重な画像を収めること ができた。パラグアイ赴任中、「海あり国」への旅を通して何十万枚もの画像を切り撮った。勿論、その極めつけは 米国東海岸に沿っての30日間の旅であった。今もって画像加工をしながらウェブサイトへのアップを続けている。いろいろ旅はできたが、 世界は余りに広く、まだ積み残している大きな旅がある。パタゴニア最南端のフエゴ島南部の狭水道マゼラン海峡やそれに面する ウシュアイア、さらにビーグル海峡への旅である。マゼラン海峡を渡海することもである。



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    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに海外の協力最前線に立つ
    第5節: 「海あり近隣諸国」ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイに海を求めて旅をする


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       第12章・目次
        第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
        第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
        第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
        第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
        第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
        第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
        第7節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
        第8節: 国連法務官への志はいつしか消え、「オンライン海洋辞典」づくりを新機軸とする

        序章~第10章 | 第11章 第13章 | 第14章~最終章