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    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに海外の協力最前線に立つ
    第4節 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する


              Top page | 総目次(Contents) | ご覧のページ


    第12章・目次
      第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
      第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
      第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
      第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
      第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
      第7節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
      第8節: 国連法務官への志はいつしか消え、「オンライン海洋辞典」づくりを新機軸とする

      序章~第10章 | 第11章 第13章 | 第14章~最終章


  パラグアイ赴任に当たって唯一残念なことは、パラグアイがボリビア、ブラジル、アルゼンチンに囲まれ、海に面しない内陸国、 「海なし国」であり、海洋博物館などへの見学はもちろんのこと、海や港での散策や戯れ が日常的にできないことであった。海辺が近ければたまに海辺や埠頭を散歩し、ハーバーフロントのカフェでコーヒーやワインを 味わいながらリフレッシュすることも可能である。しかし、南米赴任でありながらそれを期待できない事であった。 故に赴任を一瞬ためらった自分がいたことも事実である。だが、南米での協力最前線への赴任チャンスはそう多くはないと思い直し 、次の瞬間には赴任を喜んだ。とはいえ、最寄のブラジル、アルゼンチンの海岸までは1,000キロメートルほども離れ、飛行機で数時間も 掛ける必要があった。私的には海の傍にいるのか、海なしなのか、その差は大きいものであった。パラグアイは海軍をもつとは聞き及んではいたが、 いずれにせよ、パラグアイでの海や船にまつわる博物館などの海洋歴史文化施設の存在については、全く期待していなかった。

  パラグアイはいつ頃から「海なし国」となったのか、話をそこから始めたい。昔と言ってもいかほどの昔か知らないが、「その昔、 海をもっていた」と言う。 現にパラグアイには陸軍・空軍だけでなく海軍をも保持する。昔のいつ頃まで海をもっていたのか。そういえば2000年から3年も赴任したが、 尋ね損ねてしまったことが悔やまれる。帰国後それに関心をもって探ろうとしたが、明々白々にしてすんなり理解できる答えは得ていない。 だが、大いにヒントを与えてくれた一冊の書物に出会った。それは「パラグアイを知るための55章」と題する書であった。 同書で、スペイン人による「新大陸」のインカ帝国征服以降における南米南部周辺の植民地化の歴史をたどると、どうもこういうことらしい。

  スペイン人が16世紀になって新大陸のアステカ、インカなどの帝国を次々と征服し、植民地化したが、南米では北にペルー副王領が 樹立され、その東南域にリオ・デ・ラ・プラタ副王領があった。後者の副王領の最初の中心地は現在のパラグアイ首都のアスンシオンであった。 さて、いつの時代からパラグアイは海なし国となったのか。

  1516年に、スペイン人探検家ファン・デ・ソリスがラ・プラタ川河口に到着した。また、 スペイン国王から新大陸南部の辺境地征服と植民化事業を任されたペドロ・デ・メンドーサの一行 (総勢1200名余りで、12隻からなる大船団にて スペインを出立した)が、1536年にラ・プラタ川河口に到着した。河口付近に砦を築き、そこをブエノス・アイレスと命名した。

  メンドーサは、1537年にラ・プラタ川やパラナ川を遡航し、さらにパラグアイ川へと遡り、同年に現在のアスンシオンの地に 砦を築いた。砦を中心にして、その後都市へと変貌して行くことになった。ブエノス・アイレスへの最初の頃の入植者らは、1541年には、そこを放棄して 北へと向かいアスンシオンへ転住するにいたった。なお、ブエノス・アイレスが再建されることになるのは、40年ほど後の1580年になって からである。

  アスンシオンは、1617年まではリオ・デ・ラ・プラタ総督領(ラ・プラタ副王領)の中心となった。現在のボリビア、パラグアイ、 ウルグアイ、ブラジルのリオ・グランデ・ド・スール州、サンタ・カタリーナ州、アルゼンチンのパンパやパタゴニアなどが、 その領域的範囲であった。その拠点はブエノス・アイレスから1,000キロメートル以上も内陸部にあるアスンシオンであった。 この頃におけるラ・プラタ副王領の境界線ははっきりしたものでなく (その北東域では、ポルトガル領となっていたブラジルの植民地 と接していた)、南米大陸東部はポルトガルが植民するブラジルの地であった。境界はあいまいのなか、ラ・プラタ副王領の広大な 領域は確かに海に面していた。要するに、スペイン植民地時代には同副王領は長大な海岸線を擁していた。特に大西洋岸において 海に面していた。また、パタゴニア地域の西部域においては、太平洋への出口も擁していた。

  現在のボリビアのアンデス山中にあるポトシで、1540年代中頃から銀山が開発されるにつれて、アスンシオンとブエノス・アイレスの立ち 位置は大きく変わることになった。採掘銀はアンデスを越え、リマから現在のパナマ・シティへ運ばれ、パナマ地峡を陸路横断し、 カリブ海側のポルト・ベーリョの港からキューバのハバナを経て、ガレオン船団 によって本国スペインへと輸送されていた。だが、後にスペイン本国の王権はその輸送ルートの変更を受け入れるおとになった。すなわち、新ルートとして、 ポトシから南下しブエノス・アイレスにて銀の積み出しをすることを容認した。このためポトシから現在のアルゼンチン北域のサルタ、フフイ、 トゥクマン、コルドバという輸送ルートができ上ることになった。その結果、ブエノス・アイレスはアスンシオンから経済的に自立発展することにつながり、 アスンシオンは銀輸送ルートの蚊帳の外に置かれるようになった。

  そして、ついに行政区が2つに分割されるにいたった。即ち、スペイン国王勅令で、1617年に、アスンシオンを中心とする「パラグアイ 総督領」とブエノス・アイレスを中心とする「ブエノス・アイレス総督領」の2つに分割された。この時パラグアイ総督領はかろうじて、 アスンシオン東方の現ブラジル・サンタカタリーナ州方面において、大西洋の海に面する領土を擁していた。 だが、1750年、スペイン・ポルトガル両国が締結した「マドリード条約」によって、現在のリオ・グランデ・ド・スール州やサンタ・カタリナ州辺りの パラグアイ総督の領土がスペインからポルトガルへと割譲されたことから、パラグアイ総督領は完全に海への出口を失うことになった。

  1800年代初頭にパラグアイはいち早く独立を果たしたが、その時には既に海への出口をもたないままに独立を 果たした。パラグアイは早くから独立し、その領土は現在よりもずっと広かったが、既に海をもたない内陸国であった。 独立国家パラグアイは、1864~70年まで、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ3国と「パラグアイ戦争」(パラグアイでは「三国同盟戦争」 といわれる)を戦った。その敗北の結果(当時のロペス大統領はセロ・コラの地で最後まで戦い、そこで落命した)、 ブラジル、アルゼンチンに領土を割譲し、さらに縮小化し、現在に見る「海なしの国土」がほぼ 確定した。とはいえ、その敗戦の結果として海岸線を失ったわけではない。もちろん、内陸国であったが故に、大河川を伝って海へ 出入りするための通航権を近隣沿岸諸国に認めさせることは、戦前からの争いの大きな種であった。いずれにせよ、独立時にも 戦争時にも、パラグアイはすでに海を擁しなかった。

  ところで、パラグアイのチャコ地域の領有・国境線をめぐるパラグアイとボリビアとの緊張関係は、80年間くすぶり続けていた。 外交交渉の努力もなされたが解決されず、ついに1932年戦争(「チャコ戦争」)に至り、1935年パラグアイの勝利で北西部 (いわゆるチャコ 地域) の国境が画定した。「パラグアイを知る55章」をひも解き理解を得たところによれば、このようにパラグアイはスペインから 独立を果たした時点で、すでに「海なし国」であったということになる。

  休題閑話。偶然にもある日、現地の日刊新聞に折り込まれた薄っぺらいタブロイド判グラビア誌を眺めていた折、 ある記事を見つけた。グラビア記事は私を大いにポジティブにしてくれた。何枚ものカラー写真刷りで2つの船舶博物館が大きく 紹介されていた。最初は、パラグアイのそれとは全く気付かず眺めていた。だが、パラグアイに所在する博物館であることを 知ってびっくり仰天した。一瞬頭に血がのぼり、感激で心が高ぶった。「海なし国」で船舶博物館を見学できることは、 率直にいって大変嬉しかった。それだけでも、パラグアイ生活を晴れやかなものにし、いろいろ楽しめそうと喜んだ。

  「海なし国」での船舶博物館の存在は私に大きな勇気と希望をもたらすことになった。その一つは、近隣諸国の海辺や海洋博物館などを 積極的に訪ねてみようという、それまで休眠状態であった情熱を改めて覚醒させ、その行動の一歩を踏み出すよう奮い立たせてくれた。 二つには、それをきっかけに、今まで思い付かなかった海洋辞典づくりに関する新しいアイデアを湧き起こさせてくれた。 振り返って見れば、特に辞典のビジュアル化への取り組みのきっかけや起点となったといえる。

  さて、船舶博物館の一つであるが、パラグアイ海軍の古いフリゲート艦「ウマイタ号」がミュージアムとして公開されていた。それも、何とアスンシオン旧市街地にある 勤務先の大統領府企画庁からすぐのパラグアイ川沿いにあった。もう一つの船舶博物館は、同僚にいろいろ尋ね回すと、首都郊外の 田舎にあるらしかった。何でそんな田舎の原野にあるのか全く解せなかった。早速、前者については週末にでも出掛けてみることにした。

  アスンシオンの旧市街は、パラグアイ川が急カーブするところに自然形成された大きな入り江に面している。その昔、 「アスンシオン湾」と称される奥行きの深い入り江の存在が河川港の建設、さらにはアスンシオンの建設を促したように見える。 更には、入り江近傍には河川氾濫から免れうる丘状の地形が広がっていたからであろう。

  さて、その入り江の入り口付近には大統領官邸、国会議事堂などが建ち並んでいる。その少し下流にはアスンシオン国際貿易港の埠頭や 船荷積み降ろしヤードなどの河川港湾施設の他、国家航行安全庁や税関などの官庁舎などがある。そして、その少し上流には、 パラグアイ川の岸辺から内陸部へスプーンで大きくえぐったような形状のアスンシオン湾がある。その小さな入り江の最奥水域は、ウマイタ号を初め 海軍艦艇の停泊場所となっていたことを後で知った。実は企画庁が入居する「アイフラビル」の執務室から大統領官邸を見下ろせる ことができた。だが、議事堂や入り江内に係留されたウマイタ号も、方角的にはビルから視界に入る位置にはなかった。いずれにせよ、 ウマイタ号が、何とお膝元の旧市街地の一角にあったとは正に灯台下暮らしであった。

  ある週末早速、砲艦「ウマイタ号」を見学に出掛けた。アスンシオン湾の入り江奥に係留されていたウマイタ号は、いかにも 古めかしい年季の入った軍艦であった。岸辺に浮んだ鉄製のポンツーンからタラップを渡って乗船できた。 「ウマイタ号」は、姉妹艦の哨戒艦(河川砲艦)の「パラグアイ号」とともに、1928年に、イタリアのジェノバで建艦され、 1931年5月5日にアスンシオン港に到着し、同年5月13日に海軍へ引き渡されたという。   同2隻は1931年にパラグアイ海軍艦船としてで就役した。砲艦ウマイタ号はその速力を生かして、「パラグアイ号」と共に、ボリビア との「チャコ戦争」に間に合い、野戦軍の兵站上においても重要な役割を果したという。両艦は自力での外洋航行も可能であった。ウマイタ号」は1992年に退役した。その主要目は、全長71m、 船幅10.5m、排水量745トン、最大喫水2.5m、最大速力17ノット、装備は120mm砲2門、76mm砲3門、 40mm対空機関砲2門、20mm対空 機関砲2門である。その後、何度かウマイタ号を訪問したが、2002年5月の訪問時、湾内に海軍の現役小型艦船、少なくとも4隻が 勢ぞろいした、極珍しい情景に遭遇したことがある。

  さて、「バポール・クエ海事博物館」と名付けられる、もう一つの船舶博物館は、アスンシオンから4、50kmの東方の 内陸部田園地方にあった。数ヘクタールの敷地がバポール・クエ国立公園に指定され、博物館はその一角に設置されている。 1860年代のアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイとの「三国同盟戦争」での遺物である艦船が広々とした田園のなかにぽつんと 野外展示されている。パラグアイによる河川通航権や周辺沿岸国での港湾使用、国境線をめぐる利害対立が複雑に絡み合い、 パラグアイはついに1864年に3国と戦争の火ぶたを交えるにいたった。 1870年3月、アスンシオンから敗走したソラノ・ロペス大統領らはついに同国北東部のセロ・コラ(現パラグアイ・ブラジル国境にある 地方都市ペドロ・ファン・カバジェーロに近い)にて戦死し、戦争は終結した。 6年に及ぶ戦争はパラグアイに壊滅的打撃をもたらした。パラグアイの若者の男性人口は激減し、領土も半分近く割譲させられ、 その後の国家発展の深刻な阻害要因としてのしかかった。

  同公園の所在地についての情報を探りながら、訪問の機会をうかがった。ある週末、喜び勇んで四駆を走らせ現地に向かった。 アスンシオンから国道2号線を東へ300kmほどひた走るとブラジルとの国境の町シウダー・デル・エステに至るが、その 途中にある「イパカライ湖」や地方都市「カアクペ」を経て、次の地方都市「エウセビオ・アヤラ」へ辿る。ここまで百数十kmである。 そこから国道をそれて、内陸へと歩を進める。原野の中の道を50kmほど走り、集落「イスラ・プク」やその先にある集落「カラグ アタイ」に向け、道なりに(Ruta Ciudad Eusebio Ayala - Caraguatay)辿った。 「カラグアタイ」から「ンボカヤティ・デル・イアグイ村」へ通じるルート上に(Ruta Caraguatay - Mbocajaty del Yhaguy) そのバポール・クエ国立公園がある。原野の中の「陸の孤島」から突然、入り口に建つ白亜のモニュメントが現れる。 

  国立公園のゲートには、銃剣を構え、国旗の付いたポールを立てかけ、錨を支える兵士たちをモチーフにしたモニュメントが 訪問を歓迎してくれる。見渡す限り周囲にほとんど何もなり原野の真っ只中にほつんと立つモニュメントは、パラグアイが経験して きた歴史的悲哀の深さを感じさせる。展示される艦船は2隻のみである。雨ざらしになっていて、風や雨・雹(ひょう)などによって 年々船殻へのダメージからは免れることはできない。

  2隻の艦船とも、その上部構造は全くない。船体側面に張られた外板によって何とか船の原形を留めており、船であることが 分かる。一隻の舷側には外輪車が遺されており、船らしさを見て取れる。舷側脇に設けられた見学用櫓の階段を伝って 上甲板の高さまで昇って見ると、船殻の中は全くの空洞であり、肋骨構造を曝け出している。まさに船体肋骨と、それに外板が平張り された船殻のみという情景である。それ以外の展示と言えば、推進機関へ蒸気を送り出した5隻の船のボイラーが傍らに並べられ展示される。 それらのボイラーは、1800年代中期の例の「三国同盟戦争」で捕獲されたブラジルの船などから引き揚げられた歴史的遺物であるという。

     さて、骨組だけの2隻の艦船とは、外洋蒸気船「ピラベベ号(Piraveve)」(2本マスト、商船)と、外洋航行できる蒸気推進の 外輪車装備の商船「アナンバイ号(Anhambay)」である。「ピラベベ号」は英国で建造された。元々の船名は「レインジャー号」であった。 総排水トン数120トン、純排水トン数58トン、推進力は60馬力で、当時としては高速船の一つであった。主要目は、全長約32m、全幅約5m、 船底から上甲板までの高さ3m、喫水2mである。1865年4月12日に調達された。 同艦はトリビオ・ペレイラという海軍尉官によって指揮された「リアチュエロの戦い」に参加した。鉄製船殻をもつ 蒸気船とされる。ボイラー(汽缶)から供給される蒸気によって駆動される機関に連結されたスクリューによって推進された。 だが、ボイラー、蒸気機関、推進システムなどは展示されていない。

  もう一隻の艦船は「アナンバイ号」である。両舷側に設置された外輪車を蒸気機関で駆動させる、外洋航行可能な貨物船である。 鉄製の船殻をもつ。当時、三国同盟戦争のために装甲され河川航行していたものである。同艦の主要目は、全長約41m、全幅約8m、船体の高さ約2.4m、喫水1.2m である。同艦は1865年1月に、サン・ロレンソ川(マット・グロッソ)にて、アンドレス・エレーロス艦長指揮の「アンドレス・エレー ロス号」とアルフェレス・エセキエル・ロマン艦長指揮の「リオ・アパ号」に乗艦したパラグアイ軍兵士らによって捕獲された ブラジルの軍艦である。なお、公園内には、三国同盟戦争当時の4隻の船舶のボイラーなどの機関部が展示されている。例えば、 「サルト・デル・グアイラ号」をはじめ、「イポラ号」(商船)、「パラナ号」(貨客船)、「リオ・アパ号」(商船)のボイラーなどの 機関部である。「イポラ号」では外輪車の一部が見て取れる。
[付記] アスンシオンに輸送される途上にあった積み荷の弾薬の爆発のために、エル・ドラードという地で、数十名の海兵隊員・将官 と共に、アンドレス・エレーロス艦長は落命した。

  「バポール・クエ海事博物館」では、骨組と外板だけの船殻2体がいかにも朽ち果てた姿を晒し、一見したところ今にもバラバラ に崩れ落ちそうな情景であった。1800年代中期の三国戦争当時に没収したり、河川に放棄された敵艦船などを引き揚げ、鉄クズ同然の ような姿で陳列されている。それらの展示をみるにつけ、隣国の大国と戦ったという歴史の重みがひしひしと伝わってくるものが あった。パラグアイが国費をもって貴重な歴史的遺産を遺してきたものであり、その見学によってその一端に触れることができた。 かくして、この艦船博物館を海洋辞典を通して世界に発信するのは意義あることではないかと、その紹介のアイデアが湧いてきた。

  見学から帰宅後、写真を整理しながら、さらにいろいろなアイデアが次々と閃くことになった。「海なし国」での珍しい船舶 博物館であり、特に「バポール・クエ海事博物館」は貴重な歴史的遺産の展示に思えたので、ウェブサイトの辞典を通して世界に発信し て紹介しようと、先ず最初に思いついた。そればかりか、今後「海あり」の近隣諸国へ旅する折には、同じような艦船博物館や海洋博物館 などを本格的に訪ね画像を切り撮り、辞典を介して紹介したいという、強い希望と意欲が湧いてきた。「海なし国」に赴任する中で、 そんなアイデアが湧いてきたがまた嬉しかった。週末や有給休暇を利用して、例え2,3日でも、「海あり」近隣諸国のブラジル、 アルゼンチン、ウルグアイ、チリなどに旅するのであれば、海辺やウオーターフロントを散策するだけでなく、海洋歴史文化施設 巡りも本格的かつ積極的にトライしてみようと意を固めた。

  隣国などへの旅の楽しみはますます増幅することになった。そして、更にあるアイデアを思い付いた。写真による辞典の本格的なビジュアル 化である。近隣諸国の海洋博物館などを訪ね、展示画像を含めていろいろ切り撮り、辞典の関連見出し語に貼り付けるのも素晴らしい アイデアと思った。文字ばかりを羅列した海洋辞典づくりだけでなく、海洋博物館などの展示画像を積極的に貼り付け、 ビジュアル化することにチャレンジするというものであった。無味乾燥的な辞典を少しは彩り豊かにでき、辞典検索者への「ビジュアル情報」と 「心の潤い」に寄与できると前向きに捉えた。同じ近隣諸国へ旅するとしても、そのような目的意識をもつことは旅の楽しさを一層増幅 させることにつながる。それに、辞典づくりそのものを楽しいものにさせてくれると喜んだ。

  かくして、海洋辞典をビジュアル化するという発想の下に本腰を入れて近隣諸国へ旅した。昔赴任していたアルゼンチンへ 家族とセンティメンタル・ジャーニーに出掛けても、かつては単に興味本位で通りすがりに立ち寄っていたブエノスアイレス港 のウオータフロント再開発地区やボカ地区の埠頭に横付けされた2隻の船舶博物館に真剣な目的意識を胸に館内を改めて見学した。 また、ラ・プラタ河の水郷の町ティグレには何度も旅していたが見学することは一度もなかった「海事博物館」を初めて訪ねたりもした。 ブラジルへは数度旅した。一回目は、ブラジル南部のリオ・グランデ州の海洋博物館などを訪ね歩いた。二度目はサントスの海洋博物館、 港博物館、漁業博物館の他、ブラジルへの第一回日本人集団移民を乗せた「笠戸丸」が接岸した埠頭なども訪ねたりした。 第三回目には、再びサントスの他、サンタ・カタリーナ州の海洋博物館、リオ・デ・ジャネイロの海洋文化センター(博物館)などを 訪ねた。チリの港町バルパライソの海洋博物館、マゼラン海峡に臨む最南端の港町プンタ・アレーナスに旅し、海峡風景を楽しみ、また海洋 博物館などを訪ねた。パラグアイでの船舶博物館見学を契機に、海洋博物館などへの真剣な訪問に目覚め、海と船の風景を撮りまくり、 辞典のビジュアル化に繫げようとした。

  旅の道中でもう一つのアイデアに遭遇した。海洋博物館などの巡覧だけでなく、本物の海洋生物の宝庫である水族館 をはじめ、魚類・貝類標本の宝庫である自然史博物館、自然科学館なども訪ね、画像を切り撮り、見出し語に貼り付け、辞典の ビジュアル化の向上に役立てることを思い付いた。もちろん、画像の出典をしっかりと明記した。自然史博物館はアルゼンチンの ブエノス・アイレス、ラ・プラタ、マル・デル・プラタなどの主要都市、チリのバルパライソだけではなかった。地方所在の小規模な郷土資料館 にも海洋生物の珍しい魚貝類剥製標本があった。水族館はたいていの主要都市にあり、生きた海洋生物には学名や英語・スペイン語 などのガイド・プレートが添付され、語彙や用語の宝庫であった。マル・デル・プラタには何万点もの貝類標本に特化して展示する 博物館があった。

  海洋博物館・水族館巡りの旅の極めつけは米国東海岸へのそれであった。日本への健康管理旅行(一時休暇帰国)制度を振り替えて、 30日間近く米国東海岸沿いに、ボストン北方のほぼカナダ国境に近いポートランドからフロリダ半島沖のキーウェストまで、 博物館巡りの旅に出掛けた。2002年の夏の頃であった。30以上の海洋博物館や艦船博物館、水族館などを巡り、膨大な数の画像を切り撮った。 画像は辞典をビジュアル化するための素材として累々と積み上がっていたが、辞典のビジュアル化そのものは一挙にはかどった訳でなかった。 ビジュアル化が加速したのは、その後10年ほど経た頃のことで、要はJICA完全離職後のことである。なぜならは、2000年からのパラグアイ 赴任を皮切りに、サウジアラビア、ニカラグアへと通算8年近く海外赴任していたからである。

  大量の画像取得に決定的に役立ったのはデジタル・カメラであった。パラグアイ赴任した2000年の頃には、既にデジタル・カメラの 本格的な普及時代に入っていて、私的にもほぼデジタルカメラ使用にどっぷりと浸っていた。だが、当時の画像記憶媒体の容量は少なく、 またカメラの充電式バッテリーは余り持続性がなく、何十本ものバッテリーを持ち歩く必要があった。米国の旅では、ノートパソコンを持参し、 毎日深夜まで全データをパソコンに取り込み、またバッテリー充電を終えて翌日に備える必要があった。だが、デジタル・カメラでなければ、 画像数万枚を経済的に惜しげもなく切り撮れなかであろう。ビジュアル化は決定的にデジタルカメラに助けられた。 運もタイミングも良く、デジカメの本格的普及の黎明期に遭遇したことも、ビジュアル化のアイデアの具現化推進に大いに役立った。

  ずっと後の事になるが、海洋博物館や水族館などへの訪問は、さらに別のアイデアを生むことになった。世界や日本の海洋博物館 および水族館のデータベースを作るとともに、実際に訪ねたそれらの施設の展示内容などを紹介するサイトを作ることであった。 屋内の展示品だけでなく、たまたま通りすがりの港町などでの美しいウオーターフロント風景などもしっかり切り撮り、 「世界の海と船の写真館」として、エピソードを添えて紹介するコーナーを立ち上げることにつながった。 辞典のビジュアル化だけでなく、辞典訪問者の暫しの「癒し」ともなると期待してのこと。それに加えて、画像は数百文字の文章に匹敵する くらい、あるいはそれ以上のことを見る人に語りかけることもある。「写真館」の最初のベースになったのが、パラグアイでの船舶博物館 に次いで、その近隣諸国と米国東海岸における海洋博物館などの画像であった。

  撮り溜めたままの画像のアップに本格的に専心専念し、それを加速できたのは完全離職後のことであり、画像貼り付けに前のめり となり、それに追われながらも楽しんできた。理想はできる限り多くの見出し語に適切な画像を貼り、辞典を最大限ビジュアル化し、 見ても楽しい辞典にすることである。語彙拾いも、画像貼り付けにも限界が無く、楽しみも無限大である。そもそも一枚の写真は 文字では説明しきれないことを雄弁に物語る優れものと言える。難点が一つあるとすれば、画像の加工処理が追いつかず、 溜まる一方となったことである。

  だがしかし、余談ながら、離職後約11年を経た2022年3月に、新規に購入した中古ノートパソコンと外付けハードディスクドライブの操作中に 大失策をして、何十ギガバイトという画像データを消去してしまった。操作途中で、その錯誤に気が付いたが後の祭りであった。 大粒の涙を流す痛恨の極みであった。それまでは、画像編集と辞典づくりを楽しみつつ希望の毎日であったが、一転して暫く茫然失意 の中に沈み込んだ。

  さて、最後に、パラグアイの商船隊による河川航行や輸送について少し触れておきたい。内陸国のパラグアイにとって安全な河川航行 や安定かつ経済的な河川貨物輸送は最重要課題である。アスンシオンには規模の大きい唯一の内陸河川港がある。 同港などからパラグアイ川やパラナ川を 下り、その最南端の海港ブエノス・アイレス港まで少なくとも千数百kmもの距離がある。パラグアイは農業国であり、最重要輸出産品 は大豆である。特に交通インフラの改善による国際商品・大豆の輸出競争力強化に腐心してきた。 毎年増え続ける大豆(2016/17年度の大豆輸出量は530万トンと見込まれていた)、トウモロコシ、小麦などの 穀物や冷凍牛肉の貿易の発展を促す要として、その商船隊の充実、安全かつ安定した河川航行や更にコスト低減を図りうる河川輸送の 確保、大豆積み出しなどのための港湾施設の整備・近代化などが、国家経済の死活的命題として希求されてきた。

  因みに、国際河川パラグアイ川は南米大陸の中央部を南北に流れる大河であるが、蛇行が激しく、急流箇所もあるといわれる。 特に乾期には浅瀬が出現し、通年航行可能であるとは限らず、河川輸送が制限されることになる。低水位でも航行できる ように、平底のバージのような運搬手段が多用されている。最大の輸出品である大豆などの農牧産品が4,5隻のバージを連結し、 それをプッシャーと呼ばれる押し船で後ろから押しながら輸送する。 因みに、バージやプッシャーのイメージとして、バージは載貨重量トン数1500~3000トン級のバラ積みであり、またプッシャー ボートは推力4000~6000馬力ほどで、河川輸送の需要に対応しようとしてきた。 トラックによるブラジルの大西洋諸港への陸送もありうるが、大量輸送には不向きであり、トン当たりの輸送コストは嵩み、その国際 競争力は船舶輸送に比して可なり低くなる。

  河川輸送において付きまとう最大の難題は、河川航路の維持である。パラグァイ川においては水深や幅員の不足、航路線形 の不良のために航行途上でバージ船隊の解体が必要となり、このために余分な日数が掛かることにつながる。渇水期には積載量の 減量を余儀なくされ、経済的採算性のとれる運航に抑制的な影響がもたらされることにつながる。 また、水深不足に対処するにも、浚渫船の不足を抱えてきた。パラグアイはアルゼンチンから浚渫船を借り上げたりしているが、 対処しきれない状況を抱えてきた。 他方、航路標識の設置は別として、水路の通年航行を可能にするための対策として、 浅瀬の浚渫、航行上の難所となる岩石の爆砕除去、蛇行河岸の浚渫・改善工事などは自ずと自然環境に影響をもたらし、 河川生態系に大きな負のインパクトをもたらしかねないという課題もある。

     同じ内陸国のボリビアや、広大な面積をもつ幾つかの内陸州を擁す隣国ブラジルも、フレートが高くつく陸上輸送の問題を抱える のは、パラグァイと同じである。だから、この問題対処のために、河川輸送関係諸国のアルゼンチン、ボリビア、ブラジル、パラグァイ、 及びウルグァイは、政府間で「水路開発委員会」を構成し、河川流量の増減期に拘わらず、通年におけるパラグアイ川、パラナ川 水路の通航性を維持する目的で、国際水路計画を検討し実現すべく取り組んできた。因みに、 ちなみに北はブラジルのマット・グロッソ州のカセレス港に始まり、南は延々とボリビア、パラグァイ、アルゼンチンを経て、 ウルグァイのヌエバ・パルミラ港に至る総全長3,300kmに及ぶ国際的な長大の河川航路である。
[注]多くの書には3,442kmとあるが、これはブエノス・アイレス港を起点とした距離である。

  ところで、1~2,000トン級の外洋・河川両用の貨物船(タンカー、フェリー、家畜運搬船、タグボートを含む)の建造が 検討されたこともあった。同貨物船と押し船によるバージ輸送との比較検討もされてきた。 河船においては、その喫水線の制約問題よりも、変化の激しい河川水位に左右される。故に、その貨物積載可能量の最大限まで 常に有効に活かせる訳ではない。パラグァイ河の河川輸送では、建造費が遥かに安くて性能の優れた多くの押し船と平底のバージを 建造することが至当であるとも論じられる。パラグァイのような内陸国が、自ずとトン数に限度がある外洋兼用河船を建造し運航するのは 果たして合理的か否か問題視されたりする。

  内陸国パラグアイの発展を想えば、アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイなどの領土と接するパラグアイ川、パラナ川、ラ・プラタ川の 自由航行権、およびブエノス・アイレスとモンテビデオの外港使用権は死活的に重要である。 河川通航や港湾使用権や国境線を巡る利害対立が複雑に絡み合い、かつて1864年にパラグアイは隣国と戦争の火ぶたを切った。 アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイは三国同盟を結び、大戦争となった。1870年3月、アスンシオンから敗走したソラノ・ロペス大統領 らはついにセロ・コラで戦死し、戦争は終結した。戦争はパラグアイに壊滅的打撃、男性人口の激減、半分近くの領土の割譲 などをもたらし、その後の国家発展の機会を深刻に阻害してきた。その経験からも、安全、安定、そして経済合理性に適う 河川輸送は国家経済の核心的要素である。

  休題閑話。特に隣国ブラジル、チリ、ウルグアイ、アルゼンチンなどの海辺散策、海洋博物館や水族館巡りを、週末に2・3日の 有給休暇を組み合わせて、いろいろな散策を楽しんだ。発想の起点はパラグアイの2つの船舶博物館にあった。 全部で数万画像を切り撮ったであろうか。この頃日本でもデジタル・カメラの普及が猛烈に進んでいた。画像の切り撮りが、ずっと後に 「世界と日本での海と船の写真館」につながった。また、パラグアイ滞在中に得た辞典づくりの幾つかの重要なアイデアは、 後になって辞典のビジュアル化など、そのコンテンツの充実に大きな前進をもたらした。 「海なし国」への赴任は決してネガティブなものではなく、未来へ飛躍するためのジャンプ台であった。それが総括である。



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    第12章 パラグアイへの赴任、13年ぶりに海外の協力最前線に立つ
    第4節 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する


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    第12章・目次
      第1節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その1)/業務を総観する
      第2節: 大統領府企画庁での職務、その理想と現実の狭間で(その2)/業務の選択と集中
      第3節: 辞典づくりの環境を整え、プライベート・ライフも楽しむ
      第4節: 「海なし国パラグアイ」に2つの船舶博物館、辞典づくりを鼓舞する
      第5節: 「海あり近隣諸国ブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ」に海を求めて旅をする
      第6節: 米国東海岸沿いに海洋博物館を訪ね歩く
      第7節: 古巣のフォローアップ業務に出戻る
      第8節: 国連法務官への志はいつしか消え、「オンライン海洋辞典」づくりを新機軸とする

      序章~第10章 | 第11章 第13章 | 第14章~最終章