新ターミナルに生まれ変わっていた大阪・伊丹空港から機上の人となり、一路東京・羽田へと向かった。生まれて初めて飛行機なるものに搭乗した。
大学時代のワンゲル部の仲間たちがわざわざ見送ってくれた中での旅立ちであった。限りなく嬉しかった。
搭乗して間もなく、シートベルト着用の機内アナウンスが流れた。その着用に慌てしまい、その締め方にえらく戸惑ってしまった。
思わず隣席に居合わせた乗客に着用の介添えをしてもらう始末であった。
搭乗が生まれて初めてなら、故郷を離れ異郷の地で単身生活するのも初めてであった。生まれてからこの方24歳になるまで、安威という
田舎を離れたことがなかった。それに親元を離れての生活も初めてであった。この旅立ちを起点にして、故郷を二度と
生活拠点にしない人生を歩んで行くことになろうとは、いくら世界へ雄飛したいと思ってはいたが、そこまでの人生を思い描いてはいなかった。
飛行機の車輪が滑走路から離れた瞬間、機体もろとも我が身が宙に浮き上った。何とも言えない不思議な初めての体験であった。
機体は重力に逆らって強引に上昇を続けた。自身の体は、機体上昇の緊張ですごくこわばっていたことを感じていた。自動車のクラッチとブレーキ
を同時に踏みつけるかのように、両足に力を入れて床を踏みつけているかのようであった。
両手のこぶしはぐっと握り締めたままであった。その後機体は水平飛行になったものの、私の心は暫く高ぶったままであった。
羽田空港で再びチェックインして、シアトル直行便のノースウェスト(NW)機に乗り換え、再び雲上人になった。機体が再び地上から離れた瞬間、
今度は「これで日本とも暫くおさらばして、いよいよ太平洋を越えるのだ! 次に降りたてば、そこはもうアメリカだ!」という思いが瞬間的に
込み上げてきた。その時の心の叫びや、まるで子供のような興奮と鼓動の高まりを今でも忘れることができない。
渡米、そして留学に向かってまっしぐらに辿りつつあると思うと、興奮の波が押し寄せていた。機上の人となってからも興奮はずっと続いていた。
雪上テントの寝袋の中で人生の新目標を閃めいて以来、これまでの歩みを走馬灯のように想い出していた。明日からのアメリカ生活のことを想像しては、
一人感情を高ぶらせていた。NW機は午後4時頃に離陸していた。だから、その数時間後くらいには夜の帳が下り、真っ暗闇のなかを疾空していた。
暫くしてテーブルに夕食が配られた。機内で初めていただくしっかりとした食事であった。興奮がずっと続いていたこともあり、田舎を出て以来
溜まっていた疲労には勝てなかった。夕食後しばらくして、うとうとし始めた。だが、神経が高ぶっていたせいで、深い眠りに沈むことは
できなかった。目を閉じて寝入ろうとするが、何度も繰り返し思い出すことは、冬山のテントの中で国連奉職を志し、ようやく今日の渡米が実現
するまでの長い道のりことばかりであった。
太平洋の上空をまっしぐらに飛び続けてもう7,8時間は経っていたであろうか。時間の感覚があるようでまるでなかった。時折ブラインド
をほんの少しそっと上げて、怖いものを垣間見るかのように、外の世界を覗き込んだりした。かつて寝つけ薬にと毎夜聴きながら眠りについていた、
JAL提供のあの深夜ラジオ放送番組「ジェットストリーム」のテーマミュージックと城卓也のナレーションを思い起こさせた。やはり眠れなかった。
目を閉じてはジェットストリームの世界に一人浸っていた。
それから何時間が経ったのか気にも留めないまま、初めて太平洋上で迎える夜明けはまだかと、ブラインドの隙間から眺め待ちわびていた。
その後のこと、夜の帳がようやく上がり始めた。夜空が薄っすらと白け始め、雲海と天空との間に横たわる地平線がかすかに見える様になってきた。
雲海の上には真っ青にして澄み切った天空が広がっているようだった。夜の世界の幕が上がり、だんだんと白み始める雲上での世界は幻想的であった。
そのうちに、ブラインドを半開きにした窓から淡く柔らかい光が舞い込んできた。そして、ついに太陽のはっきりとした光線が窓から漏れ出し、
機内へと広がって行った。
飛行機はシアトル・タコマ国際空港に近づきつつあり、少しずつその高度を下げ始めた。着陸も近いと思われた頃、再びブライドを上げて
眼下を眺めた。はっと息をのむような驚嘆の絶景が眼に飛び込んできた。すぐの眼下には色鮮やかな森や湖沼が広がり、これまで見たことのない
ような美しさがそこにあった。何と美しい自然風景か、絶句した。
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1 米国ワシントン州シアトルのダウンタウンにあるパイク・マーケット。魚貝類・野菜・果物を売る市民の台所である。
2 米国ワシントン州シアトルのダウンタウンにあるパイク・マーケット。魚貝類・野菜・果物を売る市民の台所である。
米国ワシントン州シアトルにあるワシントン大学キャンパス内にあるアメリカンフットボール・スタジアム。背後に見えるのは
ワシントン湖。1974-5年。
米国ワシントン州シアトルのダウンタウン風景。世界博覧会のために建設された「スペースニードル」。背後はワシントン州の
シンボルであるマウント・レーニア。1974-5年。
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大学時代の部活で日本国内のたくさんの美しい自然風景に出会ってきた。だが、それとは別物の美しい森と湖沼の自然風景に圧倒された。
今から振り返ってもこれほど美しい自然風景は、その後にも先にもなかった。空路上の正確な位置は分からないが、恐らくピュージェット・
サウンドの湾奥に広がる森と湖沼、さらに海とが渾然一体をなす風景を見たのであろう。シアトルはそんな湾奥近くに立地する港湾
と商業の都市であった。短い期間かもしれないが、そんな自然美を擁するシアトルに暮らせることに心が躍り、わくわく感に溢れていた。
1974年の6月下旬の週末、シアトル空港に無事着陸し、近代的なターミナルビルのラウンジへと吐き出された。
空港では、シアトル在住のある日系人の方が出迎えてくれた。そして、バーク教授のアドバイスでもあった「English Language School(ELS)」
という語学学校にまっすぐ向かった。学校はダウンタウン近くのジェファーソン通りにあった。
さすがモータリゼーションの発達したアメリカであった。片側5車線以上はあるフリーウェイを快走した。ダウンタウンの高層ビルのスカイ
スクレーパーの中に吸い込まれる直前で、ランプウェイを下りてジェファーソン通りに入り、その坂道を上った。
それを登り切ったところにチャンピオンタワーという白亜の4,5階建てのビルがあった。語学学校はそのビルを校舎兼ドミトリーにしていた。
タワーはシアトル大学のキャンパス内に建てられており、大学施設の一部でもあった。一階の学務室のカウンターで入学とドミトリー入居などの
手続き行なった。語学のクラス分けのための試験のスケジュールやルームキーなどを受け取った。
こうしてアメリカ生活の第一歩が始まった。
全くの余談だが、フリーウェイや摩天楼などの街並みを眺めた時に何故だか脳裏に去来した一つの思いがある。「当時の日本の指導者は、日本より圧倒的に
物量のあったこんな国によくぞ戦いを挑んだものだ。真に知って知らずか、どれほどの勝算をもって挑んだのであろうか。ほどよいところで
引き分けに持ち込むつもりが、できなかったということなのであろうか」。留学中、様々な局面でアメリカの「凄さ」や豊かさ、進歩性も大いにみせられ、
衝撃を受けた。
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