ワシントン大学は、法律や医学の専門学校であるロー・スクールやメディカル・スクールの他、海洋、水産、地理、
理学、工学、経済、経営、建築、音楽、美術など、数多くの学部・学科がそろう総合大学である。
正式には「University of Washington」(略称UW)といったが、同じ州内の中東部にある都市スポケーンに「Washington State University」
という大学がある。いずれもワシントン州の州立大学であるが、前者はシンプルに「ワシントン大学」と称された。混乱を避けるためか、後者は
「ワシントン州立大学」と称されていた。
UWは米国北西部にある大学としては、最も広いシングル・キャンパスを擁していた。それ故なのであろうが、キャンパスの中を路線
バスが走り抜け、バス停も何か所かにあった。
そして、キャンパスは風光明媚な景勝地としても市民に親しまれているワシントン湖の畔に立地していた。そして、人工運河を通じて
隣のエリー湖へ、さらに閘門(lock)を経て「ピュージェット・サウンド(Puget Sound)」と呼ばれる外海へとつながっていた。
同サウンドはさしずめ瀬戸内海のように多くの島々が散らばる美しい多島の入り江である。「サウンド」とは「小さい湾、入り江」あるいは
「海峡、瀬戸、水道」を意味する英語である。同サウンドはさらに「ファン・デ・フーカ(Juan de Fuca)」という狭い海峡を通り抜けると、
そこはもう太平洋である。大学寮はキャンパス内に幾つもあるが、私が入居した「マーサー・ホール (Mercer Hall)」という学生寮は
その運河沿いにあって、週末ともなれば多くのヨットが優雅に行き交っていた。時にそれを眺めては心を大いに癒していた。
キャンパスは緑豊かな大きな森にすっぽりと覆われ落ち着いた雰囲気を漂わせていた。あたかも広大な植物園の中に無数の学舎
が建ち並んでいるかのようであった。エゾリスのような愛くるしいリスが樹木から樹木へと飛び跳ね回り、リスの楽園そのものであった。
春ともなれば、キャンパス中央部に位置する広々としたパティオ・スタイルの広場では、樹齢30年以上の大樹に育った何本もの
桜の花が咲き乱れる。パティオ全体が芝生で覆われまるで緑の絨毯のようで、桜の下で花見パーティーを開けそうであるが、さすがに
日本式屋外酒宴風景を見たことはなかった。学生らは季節になれば満開の桜を横目で愛でながら縦横に行き交い、次の科目の教室へと
急ぐ。
履修する教科によっては学舎は遠く離れているので、学生の中には教室間の移動手段として多段式ギアをもつサイクリング車を重宝していた。
数多くの大学施設の存在は大量の電力を消費するようで、大学専用の自家発電所も稼動していた。また、アメリカンフットボール専用の
自前の大きなスタジアムもキャンパス内に設けられていた。
そもそもシアトルでは、市民にはUWが散策やピクニックを楽しむ場の一つであり、他方旅行者には観光名所の一つにもなっている。かくして、
キャンパスライフを送れば送るほど、その素晴らしい大学環境に慣れ親しみ、その居心地の良さが身にも心にもすっかり溶け込んで
行くようであった。そして、ついにはUWのキャンパスライフに心酔し惚れ込んでしまった。
休題閑話。さて、語学学校で親しくしていた学友らと別れる時がやってきた。いつしか再会できることを願いつつ、ついにUWのロー・
スクールの学舎「コンドン・ホール」へと向かった。直訳すれば「海洋法&海事プログラム (Law and Marine Affairs)」という、私に
とっては最高のプログラムで学ぶことができる日がようやく巡ってきた。
とはいえ、私にはそのプログラムが何たるものか、未だ十分理解しているとはいえなかった。私的には、「海洋総合プログラム」
と訳してざっくりと理解していた。ロー・スクールを無事修了し学位を取得すれば、その先には国連海洋法務官への道も開かれていると、
足取り軽くキャンパスへと急いだ。そして、語学学校とはまるで異次元の世界に身を置くということもあり、じわじわと迫りくる緊張感
の高ぶりを感じていた。
1974年10月初め26歳になったばかりの私は、全ての私物を詰め込んだローラー付きスーツケースを引きながら、例のアパートから
「マーサー・ホール」という大学のドミトリーへと引っ越した。寮はこげ茶色のオールレンガ造りであり、
シックで落ち着きがあり、何となく趣きを感じることができる好きなタイプの建物であった。ロー・スクール法科大学院を修了する
までそこが生活の拠点となった。
「コンドン・ホール」と名付けられたロー・スクールの建物は、確か5階建ての直方体形の白亜のビルで、マーサー・ホールへは
歩いて2,3分の距離にあった。学生寮の住人のほとんどは地方出身のアメリカ人であったが、そこそこの数の留学生も入寮していた。
大学側から事前にルームメートの情報が事前に提供され、お互いが選び合ったという訳ではなかったが、私のルームメートは
コールマン(Coleman)という苗字の白人のアメリカ人青年であった。
同じワシントン州のスポケーンという地方都市(州都)の出身であった。中肉中背で鼻筋が高く目の周りはしっかりと窪み、見るからに
知的で聡明な風貌をしていた。
彼は私のことを内心どう思ったか分からないが、寮の部屋で初顔合わせをした時から大いに好感をもつ
ことができた。彼は日本人や東洋人への偏見ある言動を一切見せることは全くなかった。気まずい思いをすることも一度もなく、また互いに
仲たがいすることもせず、互いのプライバシーを尊重しながら一年近く仲良くルームを共にした。
居住スペースの狭さに慣れている日本人でさえ驚くような狭い部屋での共同生活が始まった。数か月経った頃、ある雑談のなかで彼は
自信たっぷりの真顔で目からウロコが落ちそうな話しを始めた。その話のきっかけとなったのは何であったのかは思い
出せないが、内容は実にまじめな話であった。
彼曰く、「分厚い専門図書をほんの2、30分で読むことができる」と豪語した。
初対面の人が、何の脈絡もないままいきなりこんな豪語に接した時には、ひどい自慢話をする輩であるとして、真剣に耳を
傾けることはなかったかもしれない。だがしかし、気心が知れていた頃のことであったので、私的日本日本ハウジング大いに興味をそそられた。
室内のベッドにそれぞれが腰を掛け、お互い向き合っていた。私は二人の膝が触れるほどに思わず身を乗り出し、彼の話に最後まで
耳を傾けた。彼のいう「リーディングの秘策」についての話はもう少し後に譲ることとして、彼の言う秘策を理解していなかったとすれば
、私はロー・スクールをドロップアウトして帰国していたかもしれない。後から振り返れば、ルームメートの教えはそのドロップアウト
の危機から私を救ってくれたといえる。その後、ほぼ9か月間にわたり秋・冬・春の3クォーターをその相棒と部屋をシェアした。
マーサー・ホールとコンドン・ホールの二つの館の間にもう一つの大きなドミトリービルが建っていた。そこに寮生のための「カフェテリア」と呼ばれる大食堂があって、そこで朝晩2回の食事を取った。クリスマスや年末年始、夏期休暇などには、カフェテリアは閉鎖された。そんな時は、
ドミトリーに設備されたちょっとしたキッチンで、カレーライスや玉子丼などの簡単な料理を作り、暫くの期間我慢することになった。
他方、キャンパス周辺にあった幾つかのお気に入りの日本食レストランやその他で外食することも多かった。特に気に入って
「マイ・キッチン」として利用していた簡素な食堂は、「ユニバーシティ・ウェイ (University Way)」というキャンパス沿いのバス通り
に面していた。10人ほどの席しかない小さな店で、それも止まり木スタイルであった。ジャガイモのみじん切りを鉄板上で炒めた
「ハーシュ・ブラウン」と呼ばれる香ばしい一皿料理を痛くお気に入りにしていた。週末にはカフェテリアが閉まるので
大抵決まってトースト、目玉焼き、小さな腸詰めソーセージの他にそれを注文して朝食としていた。
さて、学究拠点のコンドン・ホールは居心地も良く、平日にはほぼ毎日のように朝から夜遅くまで通い詰めた。私的には普段における
最高の居場所であった。1階に一般講義室や「ムート・コート」という模擬裁判のための特別教室があった。そして、2階から3階までまでは吹き抜けになっていて、そこに広々とした図書館が設営されていた。
その2階と3階の周縁の回廊部分には、数え切れないほどの書架が配置され、そこがいわば図書館となっていた。全て開架方式で自由に
図書を手に取ることができた。
2階の広々としたパティオのような中央の空間には、長さ10メートルほどの2基の木製の長机が互いに向かい合って、10列ほど配備されていた。
並べられていた。向き合った長机はフラットではなく、着座側が少し低くなるように、逆に中央部が山形に髙くなるように、緩やかな
傾斜が付けられていた。要するに、分厚く重い判例集や専門図書を参照したり長時間読んだりする場合でも、目や上半身にストレスがから
ないように配慮されていた。長机の中央部の少し上方には蛍光ランプが取り付けられ、手元を適度に照らしてくれた。
館内の床には靴音が響かないように、ブルー系のカーペットが敷かれていた。もちろん、飲食物の館内への持ち込みは
禁止されていた。館内は3階まで吹き抜けなので、何時間いても全く圧迫感を感じさせることはなく、ゆったりとした面持で専門書と
向き合ったり、論文の執筆などに専念することができた。3階にはフルタイムの図書司書らの事務室も配され、図書に関してさまざまな
相談やサポートに応じてくれた。
図書館はいわば紳士淑女のためのサロンのような落ち着きのある雰囲気を漂わせていた。そして、コンドン・ホールの図書館はロー・
スクールの中枢的かつ聖域的な存在ともいえた。私にとっては学究に勤しむ上で、そこはまさに理想郷的存在であった。
4階以上のフロアには、教授陣の研究室の他に、大学院生のための研究室も配されていた。「アジア法プログラム」を専攻する
日本人や韓国人らの留学生6~7名がそこに陣取っていた。ウィリアム T. バーク教授の下で「海洋総合プログラム」に在籍する外国人
留学生は私一人であった。最初の日本人留学生だと後で聞かされた。同じプログラムに籍を置くクラスメートは私の他に4名いた。
全員がアメリカ人であった。
彼らは若さが残る青年学生というような風貌ではなかった。どう見ても豊かな社会経験を積んできた立派な中堅幹部の風貌を漂わせて
いた。石油掘削会社に勤務していた者、海軍の元潜水艦乗組員、弁護士として働いていた者などと、彼らの職歴は異なるとしても、
7、8年の実社会経験を経た後再び学び直して海洋法などの専門知識を取得せんと学問的世界に舞い戻って来た人たちであった。
勿論、目途は大学院で「LL.M.」(Legum Magister, Master of Laws)と称される法学修士号の学位取得であった。独身は私ともう一人
のアメリカ人のみで、他の3人は妻帯者であった。我々5名には大き目の共用研究室を一部供され、プログラム修了までずっと
シェアすることになった。
クラスメートの面々は、第一学期にあってはもっぱら授業開始直前に研究室に顔を出し、皆で談笑しながら情報交換したり、時に机に向かって
勉学することもあった。だが、時を経て第2、3学期になると来室回数はめっきり減って行った。各期末の試験当日
などにやってくるくらいで、必要最小限の利用となった。いつの間にか私一人が研究室を独占的に利用かつ占有するかのような状態となっていた。
最も驚いたのが図書館での図書の貸出・返却システムであった。それは研究室を当てがわれた院生にとっての最大の特点であった。
ロー・スクールの図書館から研究室に持ち帰った図書を研究室のドア前の廊下に積んでおくと、専属司書が手際よく書架に戻してくれた。
それだけではさほど驚きはしなかった。キャンパス内に2つある総合図書館やその他学部ごとに設置された専門図書館をあちこち歩き回って、
図書を借り受け研究室に持ち帰った。10冊ほどの図書をひとまとめにしてリュックに詰め込み研究室まで持ち帰ることは致し方ないことであった。
だがしかし、それらを元の図書館にいちいち返却するために再び出向くのは、非常に面倒くさいし、また学究により多くの時間を
割きたい学徒にとっては時間の浪費そのものであった。ところが、返却する場合は同じく、自身の研究室のドア脇の廊下に積んでおくだけで
事が足りた。ロー・スクールの司書が定期的に集めに回り、元の図書館へと送り返してくれた。実に合理的なこの返却システム
をフルに活用できたことは有り難かった。このシステムを生かしてタームペーパーや研究論文をこまめに書き上げることができた。
司書にも大いに感謝であった。
余談であるが、ロー・スクールの図書館で何冊もの図書を書架から持ち出し、館内の長机で読んだ後それらを
どう書架に戻すか。自分で戻す必要はなかった。それこそが初めての驚きの経験であった。基本的には、机上にそのままにして
退館することが決まりになっていた。司書が後で全てを書架に戻しておいてくれた。図書の背表紙に貼り付けられた図書識別コード
に従ってきちんとあるべき書架に戻されないと、当該図書は簡単に迷子になる。そうなるとかなり長期にわたり行方不明になりかねない。
後日読みたい学生らに多大な不便を強いることになりかねない。実に合理的な発想であった。
さらに、いずれの図書館でも、館内の机上にページを開いたままにしておいた図書は、まだ読書継続中と見なされて暫くは片付けられることが
ない。少なくとも翌日中までは机上にそのままにしておいてくれた。翌日再館してすぐに、開いておいたページから読むことができる訳である。
寸暇を惜しんで勉学に意欲を燃やす学徒にとっては、感謝の気持ちとともに勉学へのささやかな励ましとなる。
さて、入学手続きと履修教科の登録などをアドミッション・オフィスで済ませ、入学金に加えて第1クォーターの単位取得予定数に応じた
授業料を納める一方、留学生を歓迎するための大学主催の野外キャンプに臨んだ。深い森の中に幾つかの大きな蒲鉾型の兵舎のような
宿泊施設が配されたキャンプ場に、世界中からやってきた大勢の留学生がエントリーしていた。
ボランティアのアメリカ人学生をリーダーにして、7~8人ごとにグループ化された。ゲーム大会や演劇会、キャンプ・ファイア、
スポーツ大会、バーベキューなどを楽しみ、お互いの距離を縮めて行った。私のグループでは、ノルウェー人、アフガニスタン人、
コスタリカ人、ベトナム人など国籍はまちまちであった。3日間のキャンプは、いよいよこれから留学生活を始めるという実感と気構えを否応なく掻き立ててくれた。
かくして、学究や生活上の何の申し分もない好環境の下で、第1学期が順調に滑り出した。だがしかし、時が経るにつれて授業について
行くことの困難さに悩まされ始めた。語学力についての懸念が現実のものとなって行った。大学の環境は申し分のないものであったが、
それに十分応えられない己の語学力不足が情けなく、ストレスと苛立ちを感じ始めていた。出口の見えない暗いトンネルに入り込んだ
ようだ。そして、結果的には、それから抜け出すのに半年くらいはもがくことになった。トンネルをほぼ抜け出せたと自信をもって意識できるようになったのは、翌年(1975年)の第2クォーターが3月に終了して桜の花が咲く春頃のことであった。
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