ワシントン大学は、法律や医学の専門学校であるロースクールやメディカルスクールの他、海洋学部、水産学部、地理学部、理学部、
工学部、経済学部、建築学部、音楽学部など、ありとあらゆる学部学科がそろう総合大学である。米国北西部にある大学としては、最も広い
シングル・キャンパスをもっていた。それ故なのであろうが、キャンパスの中を路線バスが走り抜け、バス停も何か所かあった。
そして、キャンパスは風光明媚なワシントン湖の畔にあって、運河を通じて隣のエリー湖へ、さらに閘門を経てピュージェット・サウンド
と呼ばれる入り江の海へと繋がっていた。寮のマーサー・ホールはその運河沿いにあって、そこを優雅に行き交うヨットを眺めながら
癒されるもした。
キャンパスは樹林に取り囲まれ何か落ち着いた空気を漂わせていた。あたかも広大な植物園の中に学舎が建ち並んでいるかのようであった。
エゾリスのような愛くるしいリスが樹木から樹木へと飛び跳ね回り、リスの楽園の様でもあった。
春ともなれば、キャンパス中央部に位置する広々としたパティオに植栽された、樹齢30年以上の大樹の桜が咲き乱れる。学生らはその桜並木を
眺めながら縦横に行き交い、授業へと急ぐ。履修する教科によっては学舎は時に遠く離れているので、学生の中には授業間の移動手段として
多段式ギアをもつサイクリング用自転車を重宝していた。
キャンパスライフをおくればおくるほど、その素晴らしい環境に親しみ、環境に溶け込んで行った。そして、いつしかその居心地良さがしっかりと
身に沁みて、大学とそこでのキャンパスライフに惚れ込むばかりであった。
休題閑話。さて、語学学校の親しい学友らといつしか再会できることを願って、いよいよロースクールのある大学へと向かった。
直訳すれば「海洋法&海事プログラム(Law and Marine Affairs)」という、私にとっては最高のプログラムで学ぶことができる日がようやく
やってきた。とはいえ、私にはそのプログラムが何たるものか、未だ理解できてはいなかった。端的に言えば、「海洋総合プログラム」
とざっくりと理解していた。ロースクールを卒業すれば、その先には国連海洋法務官への道が開けていると、足取り軽くキャンパスへと急いだ。
そして、語学学校からステージがまるで変わるということで、心地よい緊張感を身にまとっていた。
1974年10月初め、住まいを例のアパートから「マーサー・ホール」という大学のドミトリーに引っ越した。こげ茶色のオールレンガ造りであり、
シックで落ち着きのある趣きの建物であった。ロースクール大学院を修了するまでそこが生活の拠点となった。「コンドン・ホール」と名付けられた
ロースクールの建物は、確か5階建てのスマートな白亜のビルで、マーサー・ホールへは歩いて2,3分の距離にあった。
学生寮の住人のほとんどは地方出身のアメリカ人であったが、留学生もそこそこ入寮していた。
事前のルームメート情報に接してお互いに選び合った訳ではないが、私のメートはコルマンという苗字の白人のアメリカ人青年であった。
同じワシントン州の中北部にあるスポケーンという地方都市の出身であった。中肉中背で鼻筋が高く目の周りはしっかりと窪み、見るからに
知的で聡明な風貌であった。彼は私のことを本心ではどう思っていたか分からないが、寮の部屋で初顔合わせをした時から大いに好感をもつ
ことができた。彼は日本人や東洋人へ些かの偏見的言動をも見せることなく、また私と仲たがいもせず一年近く過ごすことができた。
狭さに慣れている日本人でさえ驚くような狭い部屋での共同生活が始まっで数か月経った頃、前後の文脈は思い出せないが、ある雑談のなかで
彼は自信に満ちた顔で驚くような話を話した。それはまじめな話であった。彼曰く、「分厚い専門図書をほんの2、30分で読むことができる」と豪語した。
初対面で、何の十分な脈絡もなくいきなりこんな豪語をされたとすれば、ひどい自慢話としてほとんど無視して、真剣に耳を傾けなかったかもしれない。
だがしかし、気心が知れていた頃のことであったので、大いに興味をそそられた。お互いベッドに座り、向かい合っていた。
私は二人の膝が触れるほどに思わず身を乗り出し、彼の話に最後まで耳を傾けた。彼のいう「リーディングの秘策」については後に譲るとして、
その後3学期間その相棒とルームシェアをした。
マーサー・ホールとコンドン・ホールの二つの館の間にもう一つのドミトリーがあった。そこに寮生のための「カフェテリア」と呼ばれる
大食堂があって、そこで朝晩食事を取った。クリスマスや夏期休暇、年末年始などでは、カフェテリアは閉鎖された。そんな時は、
ドミトリーに据付られたちょっとしたキッチンで、カレーライスや玉子丼などの簡単な料理を作り、暫くしのぐこともあった。他方、キャンパス
周辺にあったいくつかのお気に入りの日本食レストランやその他で外食することもあった。特に気に入って「マイ・キッチン」にしていた質素な
食堂は、「ユニバーシティ・ウェイ」というキャンパス沿いの大通りに面していた。10人ほどの席しかない小さな店であった。ジャガイモの
みじん切りを鉄板上で炒めた「ハーシュ・ブラウン」と呼ばれる食べ物が芳ばしく大好きであった。朝食にはそれにトーストと目玉焼きが付いてきた。
さて、私にはコンドン・ホールは居心地も良く最高の学究拠点であった。1階に一般講義室やムート・コートという模擬裁判用の特別教室があった。
そして、2階から3階まで吹き抜けになっている、広々とした図書室が併設されていた。図書室は2階と3階のほぼワンフロアを占めていた。
2階には、長さ10メートルほどの木製の長机が向かい合って10列ほど並べられていた。そして、その長机は水平でなく、着座手前側が低くなるよう
傾斜が付けられていた。
分厚く重い判例集や専門図書を長時間読んだりする場合にも、上半身や目にストレスがからないよう
にするための配慮である。そんな傾斜付の長机が向き合い、中央部で凸形にせり上がっていた。鉛筆やペンが手前に滑り落ちるのは止むをえなかった。
その中央部の上部には蛍光ランプが取り付けられ、手元を適度に照らしてくれた。
床には靴音が響かないように、ブルー系のカーペットが敷かれていた。図書室の周囲の壁際には、沢山の書架が壁に垂直になる形で据え付けられ、
専門書で埋め尽くされていた。もちろん全て開架式であった。図書室はまるで紳士淑女のためのサロンのような落ち着きのある雰囲気が漂っていた。
しかも、図書室は3階まで吹き抜けになっていて、圧迫感などはなくゆったりとしていた。吹き抜け状の3階の周縁は渡り廊下のようになっていて、
その壁面に沿って書架がぎっしりと並んでいた。そして、その3階には、図書司書らの事務室が
配され、図書に関してさまざまな相談やサポートに応じてくれた。図書室は「法」の知の殿堂であり、ロースクールの知的シンボルであるばかりか、
心臓部ともいえた。私にとってはまさに理想郷的存在であった。
4階以上のフロアには、教授陣の研究室の他に、大学院生のための研究室も配されていた。「アジア法プログラム」を専攻する
日本人や韓国人らの留学生6~7名がそこに陣取っていた。バーク教授の下で「海洋総合プログラム」に在籍する留学生は私一人であった。
最初の日本人留学生だと後で聞かされた。同じ海洋プログラムに籍を置くクラスメートは私の他に4名いた。全員がアメリカ人であった。
彼らは未だどことなく若さが残る青年学生というよりも、どう見ても社会経験豊富な立派な大人であった。石油掘削会社に勤務していた者、海軍の元潜水艦乗組員、
弁護士として働いていた者など、その職歴は異なるも4,5年の実社会経験を経て学問の世界に戻って来た人たちであった。
勿論、目途は大学院で「LL.M.」と称される法学修士号の学位取得であった。独身は私ともう一人のアメリカ人のみで、他の3人は妻帯者であった。
我々5名は専用の大き目の研究室一部屋をプログラムが修了するまでずっとシェアした。
クラスメートの面々は、第一学期には、授業開始前などに頻繁に研究室に顔を出し、皆で談笑しながら情報交換したり、時に机に向かって
勉学することが多かった。だが、時が経るにつれ、来室回数はめっきり減って行った。期末の試験当日などにやってくるなど、必要最小限の
利用となり、その後いつの間にか私一人が研究室を独占的に占有する状態となっていた。
最も驚いたのが図書室での図書の貸出・返却システムであった。それは研究室を当てがわれた院生にとっての最大の特点となった。
ロースクールの図書室から研究室に持ち帰った図書をさっさと司書が書架に戻してくれた。それだけではさほどの驚きはない。
キャンパス内に2つある総合図書館やその他に学部ごとにある専門図書館をあちこち歩き回って、図書を借り受け研究室に持ち帰った。
10冊ほどひとまとめにして重い図書を研究室まで持ち帰るのは致し方ないことであった。
だがしかし、それらを元の図書館にいちいち返却するために出向くのは、面倒くさいし、学究に時間をより割きたい学生には時間の
浪費そのものであった。ところが、返却したければ、自身の研究室を出た廊下のドア脇に積んで置いておくだけで
事が足りた。ロースクール専属の司書が定期的に集めに回り、該当する図書館へ送り返す手配をしてくれた。実に合理的なこの返却システム
をフルに活用できたことは有り難かった。このシステムを生かして後に「大論文」を書き上げることができた。司書にも大いに感謝である。
いずれの図書館にあっても共通なことがあった。ロースクールの図書室で何冊もの図書を書架から持ち出して、その長机で読んだりした後、
どう書架に戻すか。である自分で戻す必要はなかった。それこそが初めての経験でもあった。基本は、机上にそのままにして退室することになっていた。
司書がすべて後で書架に戻しておいてくれた。
図書が、その背表紙に貼り付けられた図書索引コードラベル通りにきちんとあるべき書架に戻されないと、その図書は迷子になる。
そうなるとかなり長期にわたり行方不明になり、後日読みたいという学生らに多大な不便を強いることになりかねない。
さらに、ページを開いたままにしておいた図書は、まだ読書継続中と見なされて、翌日まで机上にそのままにしておいてくれた。翌日、
開いたページからすぐに読むことができる訳である。寸暇を惜しんで勉学に意欲を燃やす学生らにとっては、感謝の気持ちとともに、
勉学への大いなる励ましとなろう。
さて、入学手続きと履修教科の登録などをアドミッション・オフィスで済ませ、入学金も納めた後、留学生を歓迎するための野外キャンプ
に臨んだ。深い森の中に幾つかの大きな蒲鉾型の兵舎のような宿泊施設が配されたキャンプ場に、世界から大勢の留学生がエントリーしていた。
ボランティアのアメリカ人学生をリーダーにして、7~8人ごとにグループ化された。ゲーム大会や演劇会、キャンプ・ファイア、スポーツ大会
、バーベキューなどの食事会などを楽しみ、お互いの距離を縮めて行った。私のグループでは、ノルウェー人、アフガン人、コスタリカ人、
ベトナム人など国籍はまちまちであった。3日間のキャンプは、いよいよこれから留学生活が始まるという実感と気構えを否応なく掻き立ててくれた。
かくして、学究や生活などの環境は申し分なく、第1学期が順調に滑り出した。だがしかし、時が経るにつれて、授業について
行くことの困難さに悩まされた。語学能力についての懸念は現実のものとなって行った。大学の環境は申し分ないものであったが、
それに十分応えられない自分が情けなく、ストレスと苛立ちを感じ始めていた。出口の見えない長いトンネルに入り込んだようで、
抜け出すのに半年近くもがくことになった。トンネルをようやく抜け出たと自信をもって言えるのは翌年の1975年の春頃であった。
入学から半年ほど経っていた。
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