2003年晩夏のある日のこと、出勤してすぐにパソコンを立ち上げメールをチェック、そして唖然とした。「在外オリ
エンテーションは何日頃から始めますか?」と言うようなタイトルのメールが目に留まった。「総務部・在外事務所課」からの一通の社内
連絡メールであった。職員が在外事務所に赴任する場合、同課は、対象職員向けに最も適切な赴任前研修
用プログラムのアレンジや諸手続きをこなすほか、在外事務所のマネッジメントを支援するためのいろいろな実務を担っていた。
さて、全く予期しなかったタイトルのメールを即座に開いて通読した。「貴殿のサウジアラビア事務所への赴任に当たり、派遣前
研修を実施します。そのための日程などについて打ち合わせをしたいと思います」との趣旨が記されていた。直属の上司から
何の非公式の内々示も、また正式の内示すらも受けておらず、寝耳に水であった。赴任先がサウジであったことから、メールに
どっきりであった。初めは悪いジョークなのかとマジで思った。兎に角、何がどうなっているのか確かめるためすぐに返信メールを
書き送ると同時に、直に電話を入れた。同事務所課は、内示がなされていないうちに在外赴任前研修に関する連絡メールが発信がなされてしまっていること、また
人事部からの人事異動に関する伝達上のパイプがどこかで詰まっていることを察知して、「分かりました、人事部にすぐ確認を取ります」
ということになった。パイプがいずこで目詰まりしていたかは定かでないが、翌日人事部長が調整に乗り出し、
伝達の仕切り直しがなされた後、正式の内示を受けた。もちろん、内示そのものが撤回された訳ではなかった。
最初にメールを読んだ時は、「何故私がサウジアラビアへ赴任か」との思いが一瞬脳裏をよぎった。それにパラグアイでの在外勤務
から2003年春に帰国して以来1年も経っていなかった。JICA職員でも、サウジと聞けば大抵の職員は後ずさりするくらいであった。いわば泣く子も黙る
「サウジ」である。尻込みして、赴任の内示をパスできないものかと考える職員も過去には多かったに違いない。職員の間では、業務・生活環境がイスラム諸国の中でもアフガニスタンに次いで厳しい
ことがよく認識されていた。とにかく、想像をはるかに超える最も異形な社会文化・宗教的慣習や掟などを擁する国というイメージであった。
酒は一切ご法度、世俗的な娯楽はほぼゼロというイメージが強かった。58歳の役職定年が数年後に迫るこの時期になってサウジアラビア赴任とは、
その日は仕事に手が付かなかった。
ところで、よくよく自身の業務履歴を振り返れば、確かに中近東地域やイスラム文化圏諸国との接点が多かったのは事実であった。
そんな業務経験が人事上の決定に影響をもたらしたのではないかと想像もした。個人的事情としては、人知れずイスラム世界の異文化に多少の興味を
もっていたことは確かであった。例えば、1980年代初期からの水産室勤務時代には、チュニジアへ何度も業務出張し、イスラム文化に興味を覚えた。
また、アラブ首長国連邦(UAE)の「ウム・アル・クエイン水産増養殖センター」の建設のための施工監理に3年間も従事するなど、
JICAでも極めて特異な経験が人事記録にテークノートされていたのかもしれない。アラブ語には全く無知であったが、通常JICAでは
中近東地域やイスラム圏は英語圏に分類されるが、そこでの経験を有する職員というレッテルが知らぬ間に貼られていたのであろう。
それ以外にもイスラム諸国への出張やプロジェクト担当の経験もそこそこあった。トルコへの調査2回、
ヨルダン1回、エジプト1回、インドネシア数回、パキスタン1回などであった。
アラブ・イスラムの世界に生理的違和感がある訳でもなく、むしろその異文化に魅せられていた方である。何故ならば、水産室勤務時代に
スペイン語を学び、その後アルゼンチンの「国立漁業学校プロジェクト」に赴任し、更にその語学能力を磨いた。そのスペイン語と
イスパニア文化は、イベリア半島でアラブ語やイスラム文化と深く交わっていた。また、その繋がりの延長線上で、スペイン文化と
交わり、時に融合してきたイスラム文化に何となく魅せられて来たのかもしれない。とはいえ、人事部からすれば、アルゼンチン
への出張や赴任を含めて私のかつての南米地域との繋がりと経験については、むしろ例外的なキャリアに過ぎないとみなされていた
のかも知れない。逆に言えば、中近東アラブ地域での業務を多くこなし、同地域を専門領域とする人材であるとのレッテルを
貼っていたのかも知れない。
JICSへの3年間の出向をもって人事上の「借り」を返したと思っていたが、それは甘かった。若い時に上司を通じて人事部にアルゼン
チンへの赴任を強く願い出て、その無理を聞き入れてもらったことから、人事部に大きな「借り」を作ってしまった。
少なくともそう思い込んだ。希望通りアルゼンチンに赴任させてもらった一方、そこで偶然にも海の語彙集づくりに取り組むこと
にも繋がり大いに感謝していた。それ故にずっと負い目と恩義を感じていたところであった。
他方では、それらのいわば「借り」や恩義をJICSへの出向(1994~1997年)人事をもって完全に精算できたものと、
自身の勝手な解釈をしていた。出向人事はいわばその「借り」を返す絶好の機会を作ってもらったものと言えなくもなかった。
JICSへの出向を受け入れたことで、100%とまではいかないが、当時にあってはほとんどの「借り」を返し終えたものたと考えていた。
だがしかし、ずっと後になって、それだけでは「借り」を十分に返せていなかったことを思い知ることになった。
実は2度目の海外赴任についても、中南米での勤務を願い出て考慮してもらった。人事部にはそのこともテークノートされている
はずであると考えていた。2000年からのパラグアイへの赴任時に、もう一つの「借り」を作ることになり、再び大きな「恩義」を
感じるようになった。「アルゼンチン漁業学校プロジェクト」への赴任3年、パラグアイに3年赴任させてもらった「恩義」に報いて、
今回のサウジ赴任の内示をほぼ即座に受け入れた。人事部もよく考えたものである。役職定年が数年後に近づいていたなかで、「借り」を
返さずしてお役御免にはしてくれなかった。今回のサウジ赴任をもって晴れて「借り」を「完済」し、ゼロ精算する目処がようやく
立ったという訳である。だが、考え過ぎかもしれないが、「完済」を通り越して、返済のし過ぎとなったのではないかと、これまた
勝手な解釈をしていた。
さて、サウジ赴任について頭を切り替えて前向きに捉えようと務めた。近隣のアラブ諸国への旅も楽しもうと考えた。
何よりもヨーロッパに近いし、未だ見ぬ北欧3ヶ国や南欧の地中海地方へも旅する機会もあろうと、楽しみの材料を思い浮かべ
ながら前向きに捉え直した。最初は確かに「何故私がサウジに赴任なのか?」とのネガティブな反応が真っ先に脳天を突き、頭の
中は真っ白になってしまった。だが、メール受信の翌日には赴任をポジティブに受認していた。中南米文化圏からイスラム文化圏へ
と異文化世界と向き合いどっぷりと浸り、イスラム世界を深掘りするのも悪くないと割り切った。とはいえ、30年近いJICA
経験をもってしても、サウジアラビアの余りにも異なる生活環境、政治社会文化的価値観の違いに相当の近寄りがたさを感じていた。
そして事実、着任後想像以上に衝撃的な「異国文化の洗礼」を受けることになった。
家族を帯同するか思い巡らせたが、すぐに単身赴任を覚悟した。サウジアラビアでは女性が一人自由に動き回れる機会は極めて限られ、
南米とはまるで勝手が異なり、私生活を楽しめないであろうと考えた。そんな先入観もあって、初めから家族に同行を勧めること
はしなかった。家族もサウジでの生活に関心を殆ど示さなかった。家族はどうせ尻込みして同行するはずもないと、頭から
思い込んでいた。妻に赴任のことをもちかけても「一人で行ってらっしゃい。ご苦労様」という、乗り気のない感触であった。
サウジへの赴任は、2003年春にパラグアイから本帰国して以来わずか1年ほど後の2004年(平成16年)2月であった。当時の
こととして、先ず長女は、パラグアイでの2年間の「遊学」から帰国して、2年遅れで東京外国語大学スペイン語学科を卒業する
直前にあった(2001年3月に東京外大3年次を修了した21歳時の同年4月にパラグアイへ、その後2003年4月に23歳にして4年次へ
復学し、翌年3月に卒業した)。他方、次女は、2000年7月に
16歳の高校一年生時にパラグアイへ渡航し、第二アメリカン・スクールへ入学した。その後現地高校生活を1年間経験した後、
2001年8月に帰国し、元の高校へ遅れを取ることなく2年生として復学できた。そして、2003年春には無事卒業した。
2003年当時、このように二人とも将来の進路をあれこれ模索する時期で、生活は落ち着かない状態で
あった。サウジに同行して将来展望が開けるというような境遇ではなかった。だから家族随伴を期待してはいなかったし、彼女らもサウジで
生活するつもりなど眼中に殆どなかった。かくして、単身赴任にて何とか自活しながら「生活力」をアップさせ、異文化での面白
体験を楽しもうとポジティブに捉えるようにした。サウジへの赴任は2004年11月、本帰国は後任者の着任が遅れたために2年7か月後の2007年
(平成19年)6月27日となった。
サウジアラビアから赴任を終えて帰国する頃にはポストオフと同時に早期退職が待ち構えていた。アルゼンチンとパラグアイ
赴任にまつわる人事部からの二度にわたる「借り」は大きいものであった。いつかは「利息」を付けて返す羽目になるのではと
気には掛けていたものの、JICSへの出向とサウジ赴任によってむしろ「借り」を返し過ぎたくらいかもしれなかった。
サウジから帰国後の再雇用において、英語圏への赴任の打診を受けた。少しだけ難色を示したところ、スペイン語圏へのそれ、即ち
ニカラグアへの赴任が打診され、満足の行く再雇用が実現することになった。
そのことでついに人事上の辻褄合わせ、即ち「完全精算」あるいは「プラス・マイナスゼロ精算」が相成ったものと、勝手な自己納得
に落ち着いた。
ところで、サウジアラビアでは、JICAは「政府開発援助(ODA)」の実施機関としての独立したステータスを擁しなかった。
日本大使館経済部の一部として存在していた。だが、公用車も私用車も在外公館勤務の外交官ナンバープレートではなく、国際機関に
付与される別プレートを取り付けていた。日本の援助機関であるJICAが独立・自律・自立して技術協力事業を行なうことは
認められていなかった。JICA職員は大使館経済部所属の「経済アタッシェ」ということになっていた。だが、そのようなステータス
のことは極少数の政府関係者だけが認識していただけで、日本側では「JICAサウジアラビア事務所」と位置づけられていたし、
またサウジ側からもJICAという援助機関の存在が広く知られていた。
効率的に治安維持を図るという観点からであろうが、全ての外国公館は「外交特別地区」として設定された広大なエリアに押し込められていた。
リヤドの市街地は「リングロード」と呼ばれる環状道路によって大きく取り囲まれていたが、同特別区はそのロードの外側に隣接して設けられ、
その周りは荒涼とした砂漠であった。リングロードから特区へのアクセスロードには、武装兵士と装甲車を配備し、またコンクリート製の
ブロックを路上に並べながら厳重な検問に当たっていた。特に米国大使館の周囲はさらにプラスして厳重な検問と警備の体制下にあった。
かつては、JICAは日本大使館内に執務室をもち経済班として技術協力事業に従事していた。しかし、私が赴任した2004年当時には、
同特別区とリヤド市街地との中間辺りに位置する一般居住区に事務所を構え、大使館とは物理的に距離を置いていた。
事務所は一般住宅の借り上げであり、かつては「日本大使館経済部分館」という表札も掲げていた。だが、私が着任する1年ほど前に前所長が暮らして
いたコンパウンド内の住宅のすぐ傍で大規模な自爆テロ事件が発生し、前所長が瀕死の重傷を負った。そのことから、事務所では
同表札を取り外しテロの標的にならないようにしていた。
さて、サウジアラビアの建国の黎明期におけるエピソードと、現代に続く同国の根源的な悩みについて、少し触れておきたい。
サウジアラビアはアラビア半島の多くを占有するが、その国土のほとんどが不毛の地か、西部地方の紅海沿いに見られるような数千メートル
級の山岳地帯である。その不毛の土砂漠のど真ん中に首都リヤドがある。東西南北500~1000km辿っても土砂漠である。
その昔、アラビア半島では、遊牧民ベドウィンがラクダでのキャラバン隊を仕立てて点在するオアシスからオアシスへと往来
していた。他方、幾つもの部族が群雄割拠していた。時に武力をもっての激しい勢力争いを繰り広げていた。アラビア半島中央の
「ナジュド地方」では、「オールド・ディーリャ(Old Diriyah)」という、200年前のかつてのリヤドの町跡を観ることができる。
サウド家はかつてこの小さなオアシスであったディーリャを拠点にして支配勢力を保っていたが、ワッハーブ・ラシード家との
部族間の抗争の末リヤドから湾岸地域へと追われていた。
そんな中、1902年に、当時20歳代半ばの「アブドゥル・アズィーズ・イブン・サウド(Emir Abdul Aziz bin Abdul Rahman Al-Saud)」
(1876-1953年)という青年が、サウド家のリヤド復興を果たした。40人ほどのわずかな手勢を引き連れ、アラビア半島東部ペルシャ湾岸から「ネジド砂漠」を
横断し、リヤドへと攻め至り、リヤドを取り囲む都市城壁の内に広がる旧市街地に鎮座する「マスマク城」を急襲し、
攻め落とし占領することに成功した。かくして、サウド家先祖伝来の本拠地リヤドをラシード家から奪回し、「マクマク城」を攻め落とし奪還し、かくして
サウド家の本拠地であったナジュドにサウジアラビアを建国したのである。サウジアラビアとは「サウド家のアラビア」を意味する。
なお、「マスマク城」は1893年にリヤドのラシッド家を守るための本拠地として建設されていたものである。
アブドゥル・アズィーズが、1902年1月15日に「マクマク城」を攻め入り奪還してからは、周辺諸族との間で部族闘争および
政略的婚姻などを繰り返し、次々と他部族を支配下に置き束ねながら勢力を半島全域に広げて行った。そして、1924年メッカを奪還
し、1926年までにはついに
西部の「ヒジャーズ王国」を制圧した。1932年には、さらに周辺諸族を統一して現在のサウジアラビア王国の建国を宣言し創国した。
かくして、イスラム教の聖地メッカとメディナを擁する2大聖地の守護者ともなった。つまり、「マスマク城」を襲撃し陥落させて
以来30年、1902年~1926年の四半世紀にアラビア半島の諸部族・諸王侯(Najd, Hasa, Hejaz, Asir地方の部族)を統一し、
二大聖地の守護者となった。建国宣言後、彼はサウジアラビアの初代国王となり、「建国の父」といわれることになる。
ところで、イスラム教の大派閥スンニ派とシーア派がある中で、サウジアラビアはスンニ派に属するが、その中でも厳しい戒律
に従うワッハーブ派の宗教閥に属する。ワッハーブ派とは、コーランと「スンナ」への復帰を唱える。アラビア半島で18世紀に
興った初期イスラム運動を主導するもので、コーランとスンナへの復古主義の傾向をもつ。そして、ワッハーブ派はイスラム教の中
でも厳しい戒律を維持することで知られる。重要なことは、サウード家が権力を掌握する過程でイスラム・ワッハーブ派の宗教運動と結びついた。そして政治・軍事権力を掌握
するサウド家はワッハーブ派を庇護し、ワハーブ派はサウド家の権力掌握に正当性を与え、相互にもたれ合う関係を今まで維持してきた。
サウード家が勢力を拡張するにつれ、ワッハーブイズムが半島全域に広がることにつながった。そして、相互に支え合いながら互いの
支持基盤が形成されて行った。かくして、権力と宗教の強靭な結びつきが保持される国家となった。
メッカ巡礼者からの収入やナツメグ生産くらいからの収入しかなかったが、建国の6年後の1938年に最初の油田が発見され、
その生産量と共に確認埋蔵量は増大し、権力の経済的基盤が固められて行った。1949年には産油操業が軌道に乗って経済繁栄への
道筋が開かれて行った。1953年になってアブドゥル・アズィーズ初代国王はこの世を去った。その後、紆余曲折を経ながら、彼の
ロイヤル・ファミリー、特に「スデイリ・セブン」と称されるスデイリ家出身のハッサ妃の息子たちである7兄弟らが
次々と王権を継承した。同初代国王には36人の息子がいたという。
1990年イラクがクウェートに侵攻し、湾岸危機が勃発した。「スデイリ家ファハド第5代国王」は、米軍の
サウジ駐留を認めた。過激派は、聖地メッカを擁するサウジアラビアに異教徒の軍隊を駐留させたことに反発した。
そのことが後に、「ウサーマ・ビン・ラーディン」が反米テロを組織する原因になった。
ファハド第5代国王は、私がJICAリヤド事務所に勤務中であった2005年にこの世を去った。その後を継いで第6代国王に即位したのは、第5代国王の異母弟である、
出自傍流の「ラシード家アブドラー(アブドゥッラー)・ビン・アブドゥルアジーズ」(母親は王家と敵対したシャルマン族ラシード
家出身である)が即位した(だが、第6代国王は2015年に死去、その後は異母弟のサルマン第7代国王が即位した)。
休題閑話。サウジアラビアは、1932年の創国以来、アブドゥル・アジーズ初代国王をはじめサウド家のロイヤル・ファミリーの直系男子
が代々王権を世襲し、絶対的専制政治を行なってきた。国王を頂点に、ロイヤル・ファミリーの出身者が、内政、外交、軍事、治安・
警察を司る主要閣僚を務め、またリヤドやメッカなどの最重要州の知事を独占する。サウジアラビアのガバナンスの本質、あるいは究極
的命題は、サウド家ファミリーの団結の下、その絶対的王制の永続的な維持を図ることである。その頼みの綱としてきたのは、
原油・石油化学工業関連製品の輸出収入である。その国家財政の基盤は極めてモノカルチャー的であり、それがもつ脆弱性については誰もが
理解するところである。
絶対王権による国家支配の正当性は、産油収入でもって自国民に対する医療や教育などの無償提供をはじめ、電気、水、通信、
ガソリンなどに対する国庫からの手厚い助成による高レベルの社会福祉制度が維持されてきたところに求められる。そして、
国民へ多大な経済社会的恩恵を付与する代わりに、政治的権利や言論・表現・思想の自由などは大幅に制限されてきた。国王は立法権をもつ「閣僚評議会」メンバーを任免する。
立法権をもつ「国民議会」は存在せず、あるのは国政への助言機関である「諮問評議会」であるが、立法権はない。一般国民による政治
への異論異議は受け入れられず、国政への参加はなきに等しい。
サウジ家による絶対王制の維持を盤石なものにするために、将来的には石油資源とその関連石化産業への過度な依存からの脱却を
図る必要がある。即ち、国家や国民生活を支える産業の振興を図ること、その多角化を図り経済基盤を重層化すること
に他ならない。地球温暖化の危機が叫ばれる中、石油資源はいずれ他の代替エネルギー、特に再生可能自然
エネルギーや原子力などにシフトしていくことが予見されている。石油資源への需要が地球的規模で減退し、国家経済基盤が
弱体化する以前に、産業的多角化・重層化と経済基盤の盤石化を確立する必要に迫られている。
自国民、特に若者に雇用機会を確保できず、一般国民の経済生活が不安定になれば、サウド家による絶対王制の正当性への信頼を
失わせ、その政経基盤を大きく揺るがしかねない。サウジは人口の7割が30歳未満の若い国である(2004~7年当時)。
それらの若い世代に労働・職業倫理を根付かせ、安定雇用を確保し続ける必要がある。膨張する若年人口を吸収できる産業を振興し、
雇用を安定させ続けることが、サウジ政府が追求する国家経済社会政策と戦略の基本の一つである。サウジはそのモノカルチャーからの大転換が
手遅れにならぬよう真剣に模索しているところに違いない。石油とその石化産業を基盤にした国家近代化の黎明期以来の変わらぬ基本構造からの真の
脱却を急いでいるといえる。
さて、サウジ政府の当面の最重要政策は、外国企業による資本投下、新規の生産工場などの誘致増進によって、若者らを吸収し、彼らに安定
した雇用の場を確保し続けることである。外資による非石油産業の誘致と振興、その重層化を図りつつ、経済基盤を強固
にすることである。それによって絶対王制の安定維持につながることになる。そして、もう一つの基本政策は、
「サウダイゼーション」(サウジ化)であった。当時、6~700万人以上の外国人技術者・労働者を受け入れ、彼らの
技術力や労働力に依存してきた。外資系であれ
民族系であれ、既存企業に対して毎年5%ずつ外国人技術者・労働者をサウジ人に置き換え雇用するよう法制を整え、
産業界に圧力をかけ続けていた。
サウジ政府は、外国人技術者・労働者のビザの延長にあたり、その外国人比率を毎年低減させサウジ人の雇用率アップを達成
しない場合、ビザ延長を認めないなどの締め付けを強化するという行政的圧力をかけ、サウダイゼーション化を促進しよう
としてきた。また、企業にはサウダイゼーション化の法定率を毎年アップするということでもあった。
即効的に新たな雇用機会を生み出すための手立ての一つではあった。だが、抜け道があってそう簡単には「魔法の小槌」
にはなりようがないと言えよう。また、民間企業にとっては、髙い労働意欲や職業倫理感、さらに技術的能力をもつ外国人技能者
・労働者を可能な限り低賃金で雇い入れることの方が経済合理性の観点から理に適っている。政策を型どおり強引に進めると、
国内産業の国際競争力が失われかねないジレンマがある。
とは言え、外国人技能者などに取って代わりうる、技術力があり勤労意欲が旺盛にして厳しい労働環境でも高い職業倫理感をもって労働
するサウジ人がどれほどいるか、またそんな人材をどう育成できるかが大きな課題である。労働意欲・職業倫理観の乏しいサウジ青年を
一人前の勤労者に鍛錬し育成することのコストと時間などを考えれば、自ずと企業家が指向する方向性は理解されよう。
サウジ青年は一般的に公務員志望が多く、空調が行き届いた快適な室内での管理的職務を好む傾向が強い。工場内でもクーラーの
効いた管理部門において、肉体的労働者や製造工程を管理する仕事を圧倒的に好むところである。工場で油まみれとなり、
汗水たらして働く肉体的労働を敬遠するのは誰もが知り理解できるところである。「給与を払うが出社はしなくてもよい」というのが
企業経営者の本音であるかもしれない。かくして、表向きにあってはサウジ人雇用率
をアップさせるために、実際には勤務実態のないサウジ人を「幽霊社員」として雇用するという労働慣行があちこちで横行する
ことになると囁かれていた。サウダイゼーション政策は政府が計画するようには進捗しないという実態も見え隠れするという。
サウダイゼーション化という基本政策にはサウジ王権のジレンマや苦悩が凝縮されていた。ビジネス事業での利潤と経済合理性を追求
する民間企業にとっては、サウダイ化は何かと負担が大きく、総論賛成である一方、各論は正面切って反対する訳にはいかないという、
ジレンマを抱える政策であった。若者らにいかに多くの安定した雇用機会を生み出せるかが政府の喫緊の課題であるが、他方で技能や専門的
知識を有する技術人材をはじめ、高い労働・職業倫理をもつサウジ人材を育成することが、企業経営者の思いに応える上で急務であると
言える。いずれにせよ、国家の将来は若い人材を吸収できる産業の新たな振興と、職業的技能や専門的ノウハウをもつ若者人材の育成
にかかっている。サウジのアキレス腱であるこれら2つの要件が満たされないと、経済社会発展は見通せなくなる。かくして、
サウジにとっては産業基盤の多角化・重層化や近代化を押し進める一方、高い技能や職業倫理をもつ人材の育成を図るためにも、
日本や欧米先進諸国からのさまざまな投資や技術協力を渇望するという国情にある。
2004年当時にあっては、サウジは未だODAの対象国であった。一人当たりGDPのレベルからすればODAの非対象国になるのも時間
の問題であった。そのような状況下、経済対価を支払ってでも人材育成を促進するため日本をはじめ先進諸国からの技術協力を
求めるという強い姿勢が見て取れた。
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