サウジアラビアでは、金曜日・土曜日が休日であり、日本で言えば週末の土日に当たる。その週末における外出先の一つと
言えば砂漠である。砂漠へピクニックに出掛け「砂」と戯れるのである。「砂」からなる砂漠もあるが、荒涼とした土漠も多い。
年配者の中には、かつて若い時にベドウィン(遊牧民)として砂漠で暮らし、その生活に慣れ親しんできた人も多い。若者はそんな
ベドウィンの血筋を引いているとみえて、弁当を持って気軽にオフロードの砂漠の世界へと、ランドクルーザーやサンドバギー
カーでドライブに出掛ける。これこそがサウジ風ピクニックである。見渡す限り土と砂しかない土砂漠でランクルやバギーを疾駆させる。
起伏もかなり多い。砂漠の中に続く幾つもの砂のピークをめがけて駆け上がっては、また駆け下る。これ以上のオフロードの
世界はなかろう。若者が好む他愛もない気晴らしの一つである。日本では、砂塵を撒きあげてアップダウンのオフロードを爆走をしたくても、
それを体験できるような場所はほとんどない。
ある日誘われて、砂漠に「ダイヤモンド探し」に出掛けることになった。砂漠ではなく、いわゆる土漠であった。「子ども
ハンター」たちは本物のダイヤモンドを見つけられるものと期待していた。太陽が水平線近くに傾くのを暫く待ち続けた。小礫の
多い土漠の中でダイヤモンドをどのように探し出すのか、最初は見当もつかなかった。そのうち、大人も子供も、日没に差し掛かった
頃、太陽を背にしゃがみ込み地面を覗き込む。それだけである。ダイヤモンドならぬ
水晶の欠片が陽光に反射するのを捉えようと目を凝らす。その輝きの正確な位置を特定するために少しずつ近づき、またしゃがみ込んで
目を凝らす。ついに欠片に辿り着き拾い上げる。子供たちはダイヤモンドハンティングに夢中となり、砂漠ピクニックの楽しい思い出
づくりをする。他愛もない宝探しと言えば
身も蓋もない。日本では体験できない、見渡す限りの土砂漠の世界での週末の一大レクリエーションであった。
春のある日、アイリスなどの可憐な草花が咲くお花畑が砂漠に出現するというので、それを愛でるためにピクニックに出掛けること
になった。規模は小さいものの砂漠で「花の絨毯」を鑑賞できるとあって、喜び勇んで参加した。案内役の友人の記憶を頼りに、
車を連ねてお花畑を目指した。少し迷いながらも何とか無事に辿り着けた。全く乾燥する土漠世界にも少し湿り気のある
低地があり、季節になるとそこに草花が地面を這うようにして、けな気にも花を咲かせる。まるで小さな「魔法の花絨毯」のように感じ
られる。花はフルスケールで咲き誇ってはいなかったが、それでも砂漠でお花畑を観れば暫し癒された。最初にこんな花絨毯の
在り処を発見したのは偶然だったのか、それとも関係者の間で歴代受け継がれてきたのか、聞きそびれてしまった。想像するに、その花絨毯に
再び辿り着くのは意外と難儀なはずであったに違いない。どちらを向いても同じような土砂漠の景色に取り囲まれているからである。
帰路迷うことなく幹線道路に出られるかどうかは、ガイド役の友人だけが頼りであった。彼女の体内コンパスが狂い、方向やルートを見失なうとなると、
とんでもない悲劇になりかねない。ドライバーの私と言えば、物標のない中で景色や太陽の方角を頼りにする訳にはいかず、
目の前に現われるわずかな轍やタイヤの踏み跡と友人の指示を頼りとするだけであった。「航跡」が記録されるGPS装置が車に搭載されて
いるならばかなり安全安心であるが、当時は高額なものであり、我がランクルにはそんな「近代的精密兵器」は搭載されていなかった。
とにかく、方向やルートに無警戒・無頓着のまま、砂漠を広範囲にわたって無鉄砲にドライブしまくるのは大変リスキーであると肝に命じていた。
かつてヨルダンに出張し、砂漠での井戸掘削による小麦栽培の実現可能性調査に出向いたことがある。念には念を入れて、砂漠での道案内に
長けた地元出身のドライバーを雇った。砂漠を走ること一時間ほど経った頃、調査団長がいみじくも「半時間ほど前に通ったのと同じ
道を辿っているのではないか」と疑問を呈した。ドライバーが道に迷ったようで、彼はまだそのことに気付いていない様子であった。
地平線の果てまで土砂漠が続く、目標物を設定しがたい荒涼とした大地での走行を軽くみては命取りになりかねない。
さて、砂漠でダイヤモンドを拾い集めたり、花絨毯を愛でることで、サウジ生活に束の間の憩いや潤いをもたらしてくれた。
些細な楽しみではあったが、参加者のテンションは上がり、単調な日常生活にアクセントを付けることができた。
日本では体験しようにも滅多にできない「事消費」であり、サウジ生活における思い出の一コマとなった。
実は、砂漠の中に「キャメルロード」という踏み跡があるという。その昔ラクダで砂漠を往来していたキャラバン隊が長年使用
していた道の跡が珍しく今でも遺されているという。リヤドから東方のペルシャ湾岸へ通じる幹線道路を小一時間ほど走ると、突如として土漠の
高原台地から大渓谷の底部に向かって一直線に下り行く切通しが現われる。「ネジド砂漠」を横断する高さ数百メートルの大断層を
V字形に切り裂いて造られた切通しである。その切通しの絶壁風景は、だだっ広く平板的である砂漠にあっては圧巻である。
また、その断崖上から見下ろす大断層の風景は実に壮観である。断崖下の遠方では「ネジド砂漠」が延々と広がり地平線の彼方へ
消えて行く。砂漠はペルシャ湾岸まで500km以上は続く。自動車も車道もなかったその昔、その断崖に刻まれた九十九折りの道を
登り切らなければ、オアシスの集落リヤドには辿り着けなかったに違いない。ラクダのキャラバン隊一行が断崖を上り下りする
ために、石を積み上げて造られたそんな「キャメルロード」の跡が今も遺され、ロマンスを感じさせてくれる。
断崖の上端にて雄大な景色を眺めながら弁当を広げるのも週末のピクニックの一つであった。ギラギラと
眩しく輝いて地平線へと傾く太陽は土漠の全てのものを黄金色に染める。そして太陽は巨大な火の玉となって遥か彼方の
地平線に没して行く。赴任して1年を過ぎた頃には少しは余裕が生まれ、そんな夕日の美しさを少しは愛でることができるようになった。
だから、太陽が地平線に傾く頃を狙って、時に一人でピクニックに出掛けた。
ある日、本格的な砂漠ツアーを体験することができた。サウジ観光庁長官(サウド家直系の王子の一人という)から砂漠の真っ只中にある
同氏所有の「遊牧地兼自然保護区」での夕食会に日本大使が招かれた。大使館関係者に混じってJICA所員も参加することになった。
長官は産業振興と雇用増進策の一環として、是非とも観光業を盛んにしたいという。日本人はサウジ観光ツアーに強い関心を有して
いるとの認識の下、在サウジ日本政府関係者から観光業の振興を図るうえで参考となる意見を聴取したいということである。
リヤドから車で1時間ほどの距離で、「ネジド砂漠」のど真ん中にあった。
サウジでは砂漠を有刺鉄線で囲い込み占有することができるという。しかし、有効利用することが大前提と
なっており、実利用を伴わない単なる囲い込みは許されない。王子は地平線の果てまで砂漠を囲い込んでいた。農業に利用している風ではなかったが、
アラビアン・オリックスを放し飼いにして保護していた。また、ラクダを部下に飼育させていた。長官所有の砂漠の全周には、肉眼ではとても
見えないほど遠くまで柵が張り巡らされていた。
観光庁長官が数頭のラクダを披露しながら我々に問いかけた。ある一頭のラクダについて如何ほどに値踏みするかという質問であった。検討もつかなかったが、
皆が予想した値段よりはるかに高額な値段であったことに驚かされた。数千万円もするという。血統書付きであった。
そんなひとこぶラクダを何頭か飼育していた。血統書付きラクダと、普通のラクダとをどのように区別できるのか
分からなかった。長官の説明によれば、血統書付きのそのラクダは実に端正かつ「ハンサムな」顔立ちをしているという。
その値段に相応しく、凛として上品に育て上げられてきた結果でもある。血統書付きラクダの値段を聞かされてしまえば、確かにそのように見えてくるから
不思議である。余談であるが、昔ラクダコンテストで優勝したラクダが後になって整形をしていたことが判明し、
失格にされたという記事を新聞で読んだことがある。ラクダを「最愛の友」とするアラブ世界でのこと、日本人にはどう理解して
よいのか戸惑ってしまう。さて最後に、日本人招待客には普通のひとこぶラクダが用意されていた。そして、大使・参事官をはじめ館員は
ラクダに「試乗」し、周辺を歩き回り、キャラバン隊列行進を暫し楽しんだ。私も「試乗」してみたかったが、記念写真撮影
係のお役目に徹した。
その後、見渡す限り砂漠しかない、そのど真ん中に設営された大型テントに移動し、長官や大使をはじめ日本人出席者や大勢のサウジ
人随行員が絨毯の上に車座になった。そして本題のサウジ観光振興についてのいろいろな意見が形式ばらず自由闊達に交わされた。
その後ディナーの時刻となり、両国の参加者全員が3,4グループに分かれ、直径1メートルはある
大きな平鍋に盛られた、スペイン料理のパエーリャのような伝統的なアラブ料理カブサ(スパイスで煮込んだ鶏肉などの炊き込みご飯)
の周りに日本人・サウジ人が交互に座って御馳走に舌鼓を打った。アルコールは勿論一切ない。サウジ人が手際よく羊肉・鶏肉の大きな塊りを切り分けてくれた。我々日本人は左手を使うことなく
右手だけで上品に食するよう務めた。
食後は屋外に出て満天の星が煌めく夜空を仰いだ。そして、観光庁の職員と思われる大勢の若者たちがサウジのベドウィン風伝統的
民族衣装を身にまとい、短剣を腰ひもに差して、太鼓・タンバリン・カスタネットなどの楽器演奏に合わせ、彼らが言う「サウジ・
ダンス」を披露してくれた。砂漠の民としての誇り、風習やしきたり、伝統を受け継いで行くのも観光庁の使命であるとの
心意気を垣間見ることができた。ダンスはクライマックスの域に達し、ついに我々日本人全員が円形のダンスの輪の中に引きずり込まれ、
肩を組みながら、時に満天の星空を見上げつつ全員で飛び跳ね回った。さらに戦いの勝利を喜び合うかのような雄たけびを上げた後、
ようやく中締めとなった。サウジ側の温かいもてなしに感謝であった。何もない砂漠にも、我々異邦人が体験したこともない幾つ
もの楽しみがあることが知った。
日本人は旅行好きな民族で、世界の至るところを訪れては異文化を楽しんできたといえよう。だが、サウジを旅した日本人は
極めて少なく、「旅の最後のフロンティア」と思う人は多かろう。砂漠の民ベドウィンの子孫である現代のサウジ人が伝統的
民族衣装をまとってサウジ・ダンスを満天の星空の下で披露してくれるとなれば、来訪する日本人観光客も大いに感動するに違いないと確信した。
かつて、ジャンボジェット機のチャーター便にて日本人旅行者の一団がサウジのあちこちを周遊した時もあった。その参加者の
一人が記した旅行譚を興味深く読んだことがあった。社会的慣習などについて事前に研修を受けた後、現地ではサウジ人ガイドの案内の下、
また日本人添乗員も付き添って、「禁断の木の実」を味わうかのように異次元の国を周遊したという。だが、何の理由があってか
定かでないが、そんな特別ツアーもその後続かなかったようである。観光庁は、世界から観光客を受け入れ、観光分野での産業振興や雇用
機会の増進に繫げたいと本気の様であった。
私的には、観光客にとって写真撮影が普通にできないことが気になっていた。観光客にとっては、特にサウジ人女性が写り込む写真
撮影については禁止されるのは止むを得ないとしても、普通の街角風景や人が遠目に写る被写体すらも禁止されるというのは厳しい。
もちろん、警察署、軍、治安部隊、石油コンビナート、モスクなどの施設の撮影禁止措置は十分理解できるが、市街地の全ての公共の
場での撮影禁止は余りにも厳し過ぎよう。サウジでは基本的に自宅以外の場での撮影は事実上ご法度となっている。市内に出て
街風景を撮影することもできない。観光振興と写真撮影の関係について、トラブルを避けつつ折り合いをつけるためには、サウジ人ガイドが
その場その場で適切に助言・指導する他ないであろう。
そもそもカメラをぶら下げて市内を歩くことさえ、トラブルの種となりかねないお国柄である。赴任中何度か写真撮影絡みのトラブルに遭遇した。
そこには、ア首連、オマーン、エジプト、トルコ、モロッコ、チュニジアなどの観光立国のイスラム諸国とは全く異なる厳しい仕来たり
がサウジには厳然とある。サウジの社会文化的かつ宗教的な異次元の世界に一度は足を踏み入れたいという人は世界には
大勢いることであろうが、余りにも極端過ぎる異次元の世界では観光業は抑制されかねない。
さて、サウジ赴任中、国内の旅もいろいろと楽しむことができた。出張やプライベートの旅の頻度はそれほど多くはなかった。だが、
数少ない国内の旅の中から幾つかのエピソードに触れたい。公私とも頻繁に出かけることになったのは西部方面の「アシール地方」に所在する、紅海に面した
港町ジェッダであった。アシール地方には、ヨルダン国境近くのサウジ北西部からイエメン国境近くの南西部にかけて千数百kmにもなる、
海抜1~2千メートル級の大山脈が紅海沿いに連なる。その中で最大の商業都市はジェッダであり、近くには二大聖地のメッカと
メディナがある。ジェッダは古来より東洋と西洋を結ぶ「海のシルクロード」のルート上に位置する重要な交易中継拠点の一つ
として栄えてきた。現在でもスエズ運河経由の欧亜航路上にあるサウジ最大の国際港湾都市である。
ハッジの時期ともなれば、百万人以上ものイスラム教徒巡礼者が世界中からジェッダ国際空港に降り立つことになる。
旧市街地にはアラブ風の古い街並みが遺されている。そこに入り込むと、預言者モハメッドがメッカやメディナで暮し、アッラー
の神からの啓示を説いていた時代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。ジェッダにはJICAの「日本サウジ自動車整備研修所(SJAHI)プロジェクト」があり、
その関係で何度も業務出張したが、他方でじっくりと潮の香りに浸りたいと二度ほどジェッダへの私的な旅を敢行した。ジェッダには
紅海の美しい海岸線が続き、そのすぐ地先には紺碧の海が広がっている。海岸に立ってみればすぐ分かることだが、その海の色から
して水際のすぐ先から急激に深くなっていることが見て取れる。
コバルトブルーの深みのある海に吸い込まれそうである。紅海沿いの水際に建てられたモスクはまるで海上に浮かぶ宮殿
のように見え、その華麗な姿が讃えられている。
ジェッダで一度だけ海水浴を楽しんだことがある。驚いたのはその海水の余りの冷たさであった。江ノ島・湘南の海水浴場のように
一般市民が何キロも続く砂浜で甲羅干しをしたり、色とりどりのビーチパラソルの下で楽しく談笑したりする風景にはお目にかかれ
ない。海水浴を楽しむには、ジェッダ郊外にある紅海沿いのプライベートビーチに出向かざるをえないのである。そのビーチの
地理的範囲は幅100メートルほどの砂浜と、その地先の海から成っている。そのエリア内だけが
異邦人が思い思いに楽しむことのできる世界である。サウジ人はめったに見かけない。外国人はその特別に取り囲まれた海浜で甲羅干しや
水浴をする。
* ジェッダは聖地メッカに近い。聖地メディナはメッカから何10kmか離れる。いずれもイスラム教徒以外は足を踏み入れることは
できない。
余談だが、紅海といえば、ある海洋鉱物資源で有名である。紅海は、アフリカ大陸東部を南北に縦断する大断層の延長線上にあり、
水深は3000メートル級である。地殻プレートがアフリカ大陸とアラビア半島との間を今でも引き裂いている。即ち、紅海はプレート
の境界線上にあって、その拡大は現在進行形である。紅海の中心線に沿った深海底には「泥」が眠っている。金銀、銅、ニッケル、
亜鉛などの有用鉱物を豊富に含有する重金属泥が沈積しているのである。マンガン団塊やコバルトリッチクラストと並ぶ有用鉱物資源として脚光を浴びてきた。
1970年代頃からサウジをはじめ隣国のエジプト、スーダン、エチオピアも関心をもち、その探査開発に特別の注目が集まった時期
があった。一時期、商業的採鉱に期待が膨らんだこともあった。だが、それには莫大な資本投下が必要とされ、結局のところ、
商業的採算性の問題が重しとなって今もって実現を見ていない。とはいえ、重金属泥に関心をもってきた私にとっては、それと所縁
のある紅海の岸辺に佇めば、いつもそのことが思い出された。
プライベートな国内旅行のうち最も印象深かったのはサウジ北西部にある古代遺跡であった。ヨルダンとの国境に近い
マダイン・サーレというところにある「ナバテアン古代王国」の遺跡のことである。空路でメディナを経由し、同国北西部にある
アル・ウェッジという紅海沿いの漁業の町へ。アル・ウェッジの空港でヨルダン人のガイドと落合い、そこから車で数時間かけて内陸部
の町マダイン・サーレへと向かった。古代遺跡はその近郊にある。
実は、「ナバテアン古代王国」の北の首都は、紅海の北端にあるアカバ湾の最奥部にある港湾都市アカバから少し内陸部に入ったところの「ペトラ」
であるという。そして、マダイン・サーレは南の首都とされる。マダイン・サーレには巨大な岩山が砂漠内に四方八方に点在し、
その岩山のそこかしこの側壁には洞窟のような大小の墳墓が数多く刳り抜かれている。そして、墳墓内部の側壁には幾つもの
遺体安置スペースが刳り抜かれている。ペトラとサーレの遺跡には共通点が見られるが、ペトラ遺跡では広大で深い渓谷内に墳墓などが
施されており、マダイン・サーレ遺跡では広大な砂漠の真っ只中に散在する幾つもの岩山に施されているという違いはある。
マダイン・サーレには「ヒジャーズ鉄道」が敷かれ、駅舎も幾つか存在していた。かつてオスマントルコ時代にシリアのダマスカスから
アラビア半島西部を経て聖地メッカ方面に向けて鉄路が伸びていた。英国軍人の「アラビアのローレンス」が活躍した時代には
鉄路が既に敷かれていた。同映画の中ではその鉄道襲撃や爆破シーンが出てくる。現在でも当時の蒸気機関車が地元の博物館に保存されている。
町近郊の砂漠には鉄路が敷かれていたことを示す盛り土跡が残される。また、貨車がひっくり返ったまま放置されている。レールや
枕木は、住民らが住居を造作したりするために引っ剥がして持ち去られたと言われる。降雨の極度に少ない乾燥地であるがゆえに、
長年放置されてきた貨車などの木枠も鉄部も朽ち果てることなく、原形をとどめて遺されている。さながら
「アラビアのローレンス」の映画ロケ地のようである。
町の郊外に日干し煉瓦を積み上げて作った住居跡があった。ごく小さな要塞のようにも見て取れた。中庭には井戸があった。
昔ラクダを引き連れてベドウィンのキャラバン隊が行き交い、休息や投宿のためにも利用されたという。まさにこのオアシスは
交易の十字路を形成していた訳である。そんな史跡に立ち入ると、ベドウィンらの交易活動が盛んに繰り広げられていた時代にタイム
スリップしたかのようである。
さて、アラビア半島西部の紅海沿いに連なる「アシール山脈」東側の麓近くに所在するオアシス都市とその周辺に広がる農業地帯を
視察する機会があった。当地では飲料水も農業農水も化石水に依存していた。天水で補充されることはないので、いずれは枯渇する
ことが懸念されていた。「涸れ沢(ワジという)」に地下ダムを建設し水資源を確保できるか否かの可能性調査がかつてJICAに要請されて
いた。だがその当時、サウジ国内ではテロが頻発し、安全上の懸念から調査は頓挫していた。調査の実施に着手しても安全上支障は
ないか判断するため、JICA東京本部から安全確認調査団が派遣されてきた。今回その調査団に同行し、調査対象地域の「アシール山脈」
南部域を訪れたものである。
同農業地帯は「アシール山脈」東側の麓近くにあり、またイエメンとの国境近くでもあった。その国境近くの山中にダムが建設
されていた。ダム周囲では貯水をほとんど見かけなかった。恐らくは伏流水や天水を地下に溜め置くダムと推察された。ダムの堰堤は
地上に一部分露出しているが、その地下にも深く埋設されているのであろう。わずかに降る雨が「涸れ沢」の地下に浸み込む。
その浸み込んだ天水を地下ダムで堰き止める。そして、地中に溜まった水をポンプで汲み上げるというものである。
ところで、ガイド役のダム責任者に「イエメンとの国境はどの辺りか」と尋ねると、
彼の周りにいた側近も、また彼自身も一瞬ニヤリと苦笑して口をもごもごさせた。側近曰く、「ダムの建設後に念のため測量し直したら、どうもイエメンとの
国境線を越えてイエメン領土内にダムを造ってしまったらしい」という。だから国境はダム本体辺りだという。
[参考] 地下ダムについて。殆ど雨が降らない同地方では、河川には表層水がなく涸れた沢のようになっている。だが、地下には
伏流水がじわじわと流れている可能性がある。その可能性のある涸れ沢に地下ダム(地下の堰堤)を建設し、伏流水を堰き止めておく。
そして、井戸を掘削し、ポンプで汲み上げて多目的に利用するというものである。
さて、我々は調査団に同行してオアシス周辺に広がる農業地帯から「アシール山脈」の尾根筋に取り付き、その頂部に上り詰めた。そこには人口数万人ほどの
空中都市があった。山脈の尾根筋を縦貫する幹線道路を南へ小一時間ほど走行すればイエメンとの国境に至る。
首都サナアまであと数百㎞の距離であった。空中都市から一気に高度1000mほど下ると、ジザンという都市に至る。ジザンは紅海に
面する漁業の盛んな町であるという。アシール地方では、基本的には紅海の海水を淡水化した上で、その水を1000mほどポンプアップ
している。また、渇水時に備えて幾つもの人工池に貯水している。空中都市の上水道施設を視察したが、安全保障上の理由で写真撮影は
もちろん禁止であった。石油が豊富であるサウジであっても、水資源の確保や制御が国の命運を左右する重大事と認識されている。その後
山脈の尾根筋に沿って500kmほど北へ縦走したが、途中の大小の空中都市は、砂漠のオアシスに築かれたベドウィンの町とは
微妙に異なる伝統民族の社会・文化を築き上げてきたように見える。
機会はごく少なかったが、広大な「ネジド砂漠」を東方のペルシャ湾岸へ車や鉄路で横断する旅も敢行した。
石油・ガス資源のほとんどはペルシャ湾岸周辺域で産出される。また、石油化学コンビナートもダンマンなど、ペルシャ湾岸に集中している。
週末に同僚家族らと、リヤドからディーゼル機関車に引かれた列車に揺られて湾岸地方へ旅したことがあった。灌漑水路が引かれ見渡す
限りのパームツリーやナツメヤシなどが砂漠地に植林され、「グリーンの絨毯」が地平線の果てまで広がる。油脂やデーツを採るのであろう。
広大な砂漠の中にあって点でしかないオアシスと森の世界、砂漠の中を遥か彼方の地平線に向けて一直線に伸びる鉄路とそこをひた走る列車、
砂漠にあっても「緑の絨毯」の如くどこまでも広がるパームやデーツ採取用椰子畑。それらのコントラストを見るにつけ、何とも
異次元的な自然風景に溜め息をつき感嘆するばかりであった。
ペルシャ 湾岸の石油の町ダンマンに出向いた時のこと、そこで初めて観光船が運航されているところを目撃した。他国では普通の
風景に違いないが、サウジでは全く普通の景色ではない。むしろ稀なものである。不特定多数の男女混合の観光客を相手に、
特定の狭い空間しかないという遊覧船でもって船遊びをするレジャー産業が営まれているとは予想だにせず、全くの驚きであった。さらに、
湾岸沿いにドライブを続けたところ、ダウ船による漁撈風景にも出会った。
サウジ周辺諸国では観光遊覧船はもちろんのこと、漁労に供されるダウ船もよく見かけた普通の風景であった。だが、サウジ
ではそんな漁労用ダウ船の存在を予期していなかったところ、それを目にして感激したことを記憶する。いずれにせよ、それらの風景
写真を切り撮るのに細心の注意を払うことになった。
リヤドの砂漠を離れ、ペルシャ湾岸や紅海にまで足を伸ばして海の香りに触れ開放感に浸ることができた。アルコールはなく
とも、それなりにリフレッシュしてストレスを発散することができた。マダイン・サーレに向かう途上のアル・
ウェッジの漁村でもそうであったが、海岸沿いの漁村風景を切り撮るにも、神経を張り詰めねばならないのがサウジであった。
ガイドに海辺に立ってもらい、彼を切り撮る振りをして角度を少しずらして「海とモスクと漁撈船」の風景を
切り撮った。それでも、撮影を遠目で見ていた地元の老人が近づいてきて、ガイドとなにやら口論めいていた。ガイドに尋ねると
「君たちは何者か? 何故写真を撮っているのか? 何を撮ったのかという」と攻め寄ってきたという。これがサウジである。
時にリヤド近傍の砂漠だけでなく、リヤド市街地やリングロード周辺を暇にまかせて週末ぶらぶらと散策することもあった。
リヤド市内には「国立博物館」がある。またイスラム・スタイルの墓地(墓場)がある。住宅ビルによって四方囲まれた平坦な地に、なにやら
石ころがたくさん転がっていることに気付いた。最初はそれが何なのか理解しなかった。後日仲間に尋ねると、それがイスラム教徒
の墓地だという。国王でさえも同じように石ころ一つ置かれて土中に葬られるという。市内に公開処刑場もある。時にそこで斬首の
死刑執行が大勢の市民の眼前で行われる。
大理石タイルが敷き詰められた広いプラザの数か所に、そのタイル床が少し窪んでいるところがある。斬首後の血を洗い流すために
そうなっているという。近々公開処刑が執行されるという噂を耳にしたこともあったが、現場に駆け付け見物したことは一度もない。
ところで、リヤド赴任中にあっては「海洋辞典」づくりをどうやりくりしたのであろうか。パラグアイ赴任時にはデスクトップ
パソコンをアナカン荷物として大そうに持参した。だが、サウジ赴任時にはノートパソコンの性能が格段に向上していたので、手荷物として
外付けハードディスク(MO方式)とともに機内に持ち込んだ。日常的にはインターネット接続やネットサーフィンをほぼ順調にやりこなす
ことができた。時に、コンパウンド側の不手際で技術的トラブルに巻き込まれた。しかし、トラブルに我慢に我慢をし続け、
ファイルのアップロードや辞典コンテンツのアップデートをやり続けることができた。総括的にみれば、辞典づくりにほとんど
ストレスを感じることはなく順調に推移したといえる。
毎日帰宅後仕事モードの頭を切り換えて、平均して2~30分ほどでも海語の語彙拾いやパソコン入力に向き合った。
そのルーティンこそが、気分転換を図る秘策であった。一服の精神安定剤の働きをするかのようにストレスを緩和させてくれた。
帰宅後のこの規則的ルーティンワークによって、仕事のことや
その他の雑念を頭の片隅にしまい込み、脳内をリセットすることができた。毎日短時間でも「新鮮なエア」を脳内に
注入するようなものであった。自身の集中力をどの程度保持できるのかを知るバロメーターでもあった。
30分でも向き合い、集中し、全てを忘れて没頭すれば、気が紛れた。辞典づくりは「昨日よりも今日、今日よりも明日」と半歩でも
前進できれば、心も満足し、熟睡効果をもたらしてくれた。
ところで、辞典づくりは夕食後の取り組みであり、帰宅後真っ先に行なうルーティンがあった。運動不足解消のため、初期の頃は帰宅後
直ぐにコンパウンド内の道路を少し早足でウォーキングすることを始めた。だが、長くは続かなかった。
陽が落ちているとはいえ、熱風が襲いかかり、時に砂塵が空一面を覆い尽くし空気を重苦しくさせた。快適な
ウォーキングを楽しむどころではないことが多かった。いつしか、エアーコンディションの効いた、コンパウンド内の室内ジムで
トレッドミル(ウオーキングマシーン)の上を歩くようになっていた。「ベルトコンベアー」の角度やスピードを変えて負荷を自由に調節できるので、
その流れに抗して汗を流すことにはまってしまった。それに、海外衛星放送のBBCやCNNなどのニュース番組を見ながらの運動であったので、
気軽に続けられた。また英語のリスニングにも役立った(曜日・時間帯によってはNHK海外衛星放送を見ることができた)。
その後、夕食を作り衛星放送番組を観ながら食事を楽しんだ。そして、一服の清涼飲料かデザートを飲食するがごとく、辞典づくりに
半時間ほど集中した。もちろん、サウジ側関係者や日本人仲間との食事会や公式パーティーなど、夜会には多くのバリエーションがあった
ところがである、それでも、何カ月か経ると日頃のストレスが徐々に溜まりに溜まって行くのを感じた。
ビールやワインを飲みながらの談笑はなく、また最新の映画やコンサートなどの娯楽もなかった(大使館主催の新年会などでは格別に
特殊飲料にあり付き、「燃料切れ」を補給することもあった)。とはいえ、砂漠でのいろいろなピクニックの類い(花摘み、ダイヤ
モンド拾いなど)、砂漠でのオフロードドライブなど、楽しむことはいろいろあった。だが、それだけでは何となく物足りず、
潤いは得られなかった。砂漠の中に設営されたゴルフ場もあった。またコンパウンドによってはハーフのゴルフ場も設けられていた。
ゴルフの多少のたしなみはあったが、不快な熱波・熱風に身をさらしながら砂漠ゴルフに出掛けるほど好きではなかった。
だから、2,3日の国内の旅に出たりもした。紺碧の海に臨むジェッダは素晴らしかった。
JICAマンも尻込みしそうなサウジでの生活環境にあり、またODA対象国からの卒業も間近な「金持ち国サウジ」に東京本部から技術協力プロジェクト
の新たな発掘や形成のための調査団が来訪することも余り期待できそうもなかった。
なんだかんだで、異次元文化、異空間、異形環境でストレスが徐々に溜り、「酸欠状態」からの精神的解放や酸素補給が必要であった。
かくして、私にとっては、特に映画鑑賞などの娯楽的「飢餓状態」あるいは「娯楽難民化」するだけでなく、「アルコールの燃料
切れ」もまた時間を追うごとに体内蓄積しつつあった。対処療法的には、飛行機で2時間ほどの距離にある隣国ア首連のドバイに行く
こともした。コスモポリタンシティ・ドバイで最新作の映画を楽しみ、酸素不足を補い、アルコール燃料を補充した。
ところがである、ある時に思いがけないグッド・アイデアの閃きを得た。
肉体的・精神的な酸欠や燃料切れを解消すると言う、いわば受動的・消極的なドバイへの脱出よりも、能動的・積極的に他の湾岸
周辺諸国へ出掛けようと思いついた。同じ国外への旅であっても、楽しさを倍化できるやり方であった。
未だ見ぬ周辺諸国を訪ねるまたとないチャンスでもあった。そこで、リヤドを中心に「サウジ半島を時計回り」に訪ね、いろいろな海や港と船風景などに接し、これまでとは別の視点をもって美しい
被写体を探し求めよう考えた。特に周辺諸国でのダウ船のある風景やその造船所、その他国立博物館やローカルな郷土史料館など
を訪ね歩き、海や船関連の展示物があれば切り撮ろうと思いついた。パラグアイ赴任中(2000~2003年)にはそうしたはずなのに、その楽しみ方を
異空間のサウジではすっかり忘れるところであった。調べて見れば、ア首連のシャルジャー首長国には何と「海洋博物館」があること
が分かった。オマーンにも「自然史博物館」や海軍関連の博物館もありそうであった。
かくして、サウジ生活にあってもまるで「自由の翼」を得たように心が軽くなるのを感じた。「千夜一夜物語」を紡ぐかのように、
周辺諸国への時計回りの旅のプラン作りを夜な夜な楽しんだ。
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