前節においてエジプト・ナイル川での船遊びやスエズ運河の探訪、モロッコ・ジブラルタル海峡横断などのエピソードを綴った。
だが、実は時系列的にみれば、時計回りのエジプト・モロッコへの旅よりも、北欧への旅の方が先であった。ジプチ、エリトリア、スーダン
などへの渡航を諦めて、遥か遠くにある国々へ大回りすることにした。即ち、2005年9月に、バイキングの故郷・北欧諸国へと旅した。
それにはシンプルな理由があった。
健康管理を主目的にした長期休暇を取得できる機会が巡って来たからである。一か月近く休暇一時帰国
できる権利とほぼイコールであった。そんな権利をアラビア半島近辺で過ごしたくはなかった。やはり、イスラムやアラブ世界から
遠く離れたところで、頭から足先まで一旦フルにリフレッシュしたいというのが本音であった。かくして、その権利を行使して、
帰国と引き換えてどこか旅に出るとすれば何処か。時計回りの旅先として北欧諸国に針路を定めることを思い付いた。
日本への休暇一時帰国を選択せず、代わりに日本に残留する家族と北欧のどこかで合流し、未だ見たことのないスカンジナビア
諸国を旅することにした。日本残留の家族は当初は、北欧での物価が高く旅行費がかさむと、経済的観点から二の足を踏んでいた。
最後のダメ押しのメールを送ったら、遅ればせながら「北欧で落ち合うことにする」という返事が戻って来て、大いに喜んだ。
家族の都合や遣り繰りがいろいろあってのことであった。
確かに出費を考えれば痛かったが、何十年も前から一度は、森と湖、フィヨルドの海や氷河
などの豊かな自然や、またバイキング船を観ることができるスカンジナビア諸国をじっくり旅したかった。また、バイキングの
子孫たちが、高額な税負担の見返りとはいえ、ハイレベルの福祉を享受し裕福に暮らしている世界とはどんな現況にあるのか、
この目で垣間見たいと思っていた。1974~75年の米国留学時のこと、ホストファミリーをデンマーク人の兄貴分とシェアしていたし、
またノルウェー人家族らとスキーツアーに参加したりで、バイキングの子孫に親しみを抱いていたことも少しは影響したのであろう。
日本にいる家族3人とはスェーデンのストックホルムで落ち合うことになった。最初に足を踏み入れたスウェーデンは勿論のこと、ノルウェー
もデンマークも海と湖と森に囲まれた、羨ましいほどに自然豊かな国であった。どの都市の街並みも洗練され、また地方の田園は
牧歌的で落ち着きがあった。周遊したスカンジナビアの地で見たいずれの風景も、絵葉書にしたいような美しさに満ち溢れていた。
心が洗われるようであった。
ところで、私的な旅ではいつもそうだが、出来る限り自分たち自身の足で歩き回るのを信条としていた。町を歩き回れば、その分
街中の風景や人々の日常的生活事情を観察する機会も増え、また眼底の網膜に深く焼き付けることができる。
今回は久々に家族4人揃っての私的な海外旅行であり、多くの体験を共有できることになった。サウジアラビアを2005年9月10日に出発し、
ストックホルムのユースホステルと思しき簡易宿泊所で落ち合った。その後、同月28日まで2週間ほど旅して回った。
投宿先は相部屋で、2段式の蚕棚敷きベッドが幾つか並んでいた。もちろん共同のトイレ・シャワーのユースホステルそのものであった。
我われにはそれで十分であった。それに9月半ば近くだったこともあり、どこであっても観光客で込み合うということがなく、
至ってゆったり目であった。この時期を選んだのが正解であった。海外からのサマーバケーション客で溢れ返り、ストレスを感じながら旅する
ことはほとんどなかった。どこを散策してもゆったりとできたことが最高に良かった。
朝から晩まで外をほっつき歩き、夜は投宿先で寝るだけのような日がほとんどであった。雨をしのげる屋根と身体を休めるベッド
さえあれば、何の不自由もなかった。我々のいつもの旅のスタイルというか、流儀であった。要するに節約精神が旺盛というか、
「倹約症候群」を友にするという旅癖が家族全員に染み着いていた。4人全員が贅沢せず貪欲に外国の世界を観て回ることに最高の幸せを感じていた。だが、時には思い切って美味しい料理を食し、
贅沢な瞬間を過ごすこともあった。画家兼イラストレーターであった長女が26歳、次女が大学生の21歳で、私は帰国すれば役職定年が
待ち受けていた57歳の時であった。
さて、ストックホルムの街を歩き回った。現在も使われている王宮がそびえ立つ「リッダーホルメン島」には、中世の街並みが色濃く
残る「ガムラ・スタン(Gamla Stan)」と呼ばれる旧市街地区があって、そこを縦横にそぞろ歩いた。ファッション、宝飾品、お土産・
民芸品などのショップが軒を連ねる、ガムラ・スタンへ通じる賑やかな狭い通りをウインドーショッピングしながら辿った。
世界で最も狭い通りとされる。そこを辿り行くと「鉄の広場」に出た。その広場に面して「ノーベル博物館」が建っていた。
また、王宮のすぐ近くには、長さにして1キロメートルほど続くウォーターフロントがあり、その岸壁沿いにたむろした。
対岸には都会のオアシスと称される有名な「ユールゴーデン島(Djurga0rden)」が浮かび、両島との間をフェリーが行き来する。
ウォーターフロントの岸壁には船名「ナジャデン号」という3本マストの小型クルージング帆船などが停泊していた。岸壁
散歩で最も感動したのは、完全に復元されて停泊するバイキング船であった。想像上の動物であろうが、
龍のような頭をもつ動物の船首飾りで装飾されている。また、船側外板は鎧張り式で重ね合わされていて、その美しさに魅了された。
このような復元船にお目にかかったのは二度目であった。
初めてのそれは、JR青森駅からさほど遠くないところの青森湾岸沿いにある「みちのく北方漁船
博物館」であった。陸揚げされて屋外展示されるバイキング船の鎧張りを見上げながら、その美しさに感嘆したことを今でも思い出す。
さてその後、ノーベル賞受賞者のための晩さん会が開かれるという「ストックホルム市庁舎」を訪ねた。そして、お上りさんになって、
庁舎の釣り鐘塔の頂上まで登り切り、ストックホルムの美しい入り江、緑豊かな森、街並みなどを周囲360度鳥瞰し、思い出づくりに励んだ。
「リッダーホルメン島」のすぐの眼前に浮かぶ「シェップスホルメン島(Skeppsbrokajen)」を散策した。狭小の古い鉄橋一本で本土側と
繋がり、あたかも陸続きであると見間違ったほどである。五つ星ランクの荘厳な「グランド・ホテル」前に、インナーハーバー遊覧観光船の発着場がある。
9月中旬の今でこそ観光客は少なかったが、盛夏には大勢の人々でごった返していたはずである。
その船着き場を横目に、王冠が欄干に飾り付けられている古橋を渡って、「シェップスホルメン島」へ足を踏み入れた。同島の岸壁には、
3本マストのシップ型大型帆船が投錨し横付けとなっていて、それを間近に観るためであった。帆船は「アフ・チャップマン号(Af Chapman)」といい、1887年に
建造された海軍練習帆船であった。遠洋航海訓練などに使われていたが、現在は退役しユースホステルとして活用されているという。
「リッダーホルメン島」からフェリーで「スカンセン」という広大な面積を誇る緑豊かな自然公園のある「ユールゴーデン島」へ家族4人
で出かけた。「チボリ遊園地」のゲートに近い桟橋で下船し、その足で「ヴァーサ号博物館(Wasavarvet)」を目指した。
「ヴァーサ号」は現存する世界最古の木造戦艦であり、それも完全な船型を留める軍艦である。
1625年に「グスタフ2世アドルフ国王」がオランダ人の造船技師「ヘンリック・ハイベルトソン」に設計を依頼し建造を始め、
1628年に竣工をみた戦列艦であった。当時のヨーロッパは「30年戦争」の渦中にあり、国王は海軍力の増強のため、多数の一級戦列艦
を建造させていた。「ヴァーサ号」はこの中の最右翼的な戦列艦で、全長70メートル、高さ50メートル、最大幅9.7メートルの
堂々たる木造戦艦であった。145人の乗組員と大型大砲64門を搭載した、当時としては最強の軍艦といえるものであった。
同艦は1628年年8月10日に、王宮近くの埠頭からスウェーデン海軍の誇りと名誉を担って処女航海に出た。だが、まだストックホルム港内
に留まっている間のこと、突風に煽られて沈没してしまった。そこは水深32メートルの海であったという。設計上のミスがあったのか、
バラストの積載量が不足していたのか、あるいは艤装上の理由として大砲の積み過ぎも沈没の一つの要因であったのか。
建造途上において国王が艤装や装備などに無理な追加注文を出したため、船のバランスが崩れ不安定になっていたとも評されてきた。
いずれにもせよ、正確な原因はずっと長く不明なままに、同艦は海底に眠り続けてきた。
1956年になって「ヴァーサ号」はストックホルム湾で発見され、1961年4月に、333年間も海底にあった船体がついに水面上へ
引き揚げられた。海底での保存状態は比較的に良かったとされる。海底に埋没していたところからの発掘であるが故に、急激な
乾燥化や腐蝕を防止するために化学的な処理がなされた。また、無数に組み合わされた木片や飾り釘の取り換えなど、
多くの復元作業が行われた。沈埋環境を急激に変えることなく、また海中・海底の状態に少しでも近づけて保全するために、博物館内は
薄暗く、かつ日本の梅雨の頃の湿度である70%以上に非常に高く保たれている。そのため館内はじめじめとした状態である。あたかも
熱帯高温多湿ジャングルにいきなり閉じ込められたようで、不快さを感じるのは避けられない。現在では、海底の眠りから蘇って
400年近い時が流れており、その歴史的人工遺物の荘厳さをひしひしと感じさせる。完全な姿に修復されて現代に蘇った同艦は、海に
浮かぶ巨大な「古城」のような圧巻の存在である。そして、今や人類の偉大な共同遺産である。
「ヴァーサ号」の主要目に触れると、全長は62メートル、最大幅員は約12メートル、マスト最上部までの高さは50メートル、
排水量は1,300トン、帆面積は1,200平方メートル、乗組員は437名とされる。船全体に180もの彫刻が施されていた。特に船尾回廊の周縁部
においては、壮麗な木彫がすべて金色に塗られ、その荘厳さに目を奪われる。館内には10分の1の縮尺の同艦の精巧な大型模型の他、
同艦の装備、器具、船員服などが展示される。引き揚げ状況を示すジオラマ風の模型、艦内から発掘された遺品なども陳列される。
余談だが、同博物館のすぐ近くに「水族館 (Aquaria)」も所在するが、閉館の時間が迫り入館することができなかった。
さて、「ヴァーサ博物館」傍の桟橋から遊覧船に再乗船して、湾内遊覧を続けた。巡遊船は、欄干に王冠が付けられた例の古鉄橋の下をくぐり、
「ストラバゲン(Strandvagen)通り」沿いに進航した。そして、やがて「国立海洋博物館」を左舷に見ながら「ユールゴーデン島」を
大きく周回し、さらに「ガムラ・スタン」のウォーターフロントを左手に見て、元の遊覧観光船発着場へと戻った。
「海洋博物館」については、船上から同館を拝んだだけで結局訪問の機会を逃してしまった。折角その存在を知ったのであるからして、
何とか工面をつけて訪問すべきであった。だが、どういう訳か下船後にそのことをすっかり忘れてしまい訪問の機会を逸してしまった。
私的には珍しく、機会あるごとにそのことを思い出しては悔やむほどである。見逃した理由は未だ判然としない。翌日がノルウェーへの
移動日であったため、時間的にも気持ちの上でも余裕をなくし、そのまま忘れてしまったに違いなかった。残念至極であった。
余談だが、クルーズの帰途、「ユールゴーデン島」の岸沿いに係留される、船体が赤一色に塗られた灯台船を視認した。
生まれて初めて実物の灯台船なるものを目に焼き付けた。数十年前のある週刊誌のグラビアページで紹介されていたことを記憶するが、
まさにその灯台船に違いなかった。同船がストックホルムの湾内に未だ係留されていることを知るにつけ、嬉しい限りであった。
さて、長距離国際路線バスでノルウェーの首都オスロを目指した。距離にして500kmほどで、ドライブは快適そのもののであった。
森と湖、牧草地や畑の丘陵地が織りなす自然豊かな田園風景が延々と続いた。牧草地には刈り取って輪状にした巨大な牧草ロールが
たくさん転がっていた。車窓を流れる街道筋の田園風景は何処を切り撮っても絵になりそうな美しさであった。道中、それを飽きる
ことなくずっと眺め続けていた。
そんな道中において、ふとあることを思い出してしまった。街道筋で眺め続けた緑豊かなスウェーデンの田園風景と、サウジアラビア
での距離500kmほどの砂漠横断鉄道の車窓から眺め続けた、あの荒涼とした緑のない土砂漠風景との間にある、自然環境上の余りの落差
であった。今更ながらのことであったが、改めて思い出させられた。
国家や民族集団がそれぞれに生存基盤とする領土、自然環境の違いの一端をまざまざと見せつけられた。国家や民族はそんな
違いに慣れることしかないということであろう。
自然の恵みの違いを何と考えればいいのだろうか。ほとんどの大地が砂漠に覆われ、水資源を化石水の汲み上げや海水淡水化に
依存するサウジアラビア、片や緑豊かで広大な森や丘陵地帯、その間に点在する湖を擁し、水資源も豊富であるスウェーデン。
どちらが住みやすく、国民は幸福を感じるであろうか。単純で個人的な主観による比較に過ぎないが、私的には四季折々があり
多様な自然に恵まれた日本に生まれたことに圧倒的な幸福を感じる。
とはいえ、明治以来、日本の陸地領土内だけでなく周辺の大陸棚海域内のいずれを掘削しても、まともな
石油・天然ガス資源にも、またその他の鉱物資源にも恵まれない資源小国の日本である。いずれの諸国もそれぞれのもつ優位性を生かし、
資源や自然環境などのハンディキャップを乗り越え豊かになろうと努力してきた。その結果としての、今の世界がある。選べるなら
サウジアラビア、スウェーデン、それとも日本か。そんな他愛もないことを想い描き、車窓を流れる風景を見つめながら、
ノルウェーの首都オスロを目指した。
ストックホルムでも同じであったが、オスロでも市街中心部やウォーターフロントなどを先ずは歩いて散策することで、
土地勘を養うことにした。王宮公園を通って王宮へ、国立美術館や国会議事堂の傍を通って、最も賑やかな目抜き通りである
「カール・ヨハン通り」へ、何となくその道なりに沿いつつ成り行きまかせでそぞろ歩いた。さらに海港を目指して歩いた。行き着いた
先に市庁舎前広場や埠頭・桟橋があった。ウォーターフロントにはストックホルムとはまた違った趣きの海港風景があった。早速被写体を
求めて埠頭や桟橋をたむろし、海と船風景を切り撮るモードへとスウィッチを入れ替えた。桟橋や埠頭岸壁には、沿岸警備艇、観光遊覧
用大型帆船や湾内周遊船、漁船などいろいろな艦船が舷を寄せ合って停泊していた。「一枚の特選フォト・海&船」を切り撮りたいと、
何のはばかりもなく桟橋から桟橋へとホッピングして回った。
翌日改めてウォーターフロントに舞い戻り、市庁舎前のフェリー発着場から、眼前に見える小半島にある「ビグドイ地区(Bygdøy)」
へと渡った。同地区にはいろいろな海洋歴史文化施設が集まりコンプレックス(複合体)を形成している。訪問したい海洋博物館
などの施設が幾つもあって、結局2度通うことになった。
同地区の桟橋で下船し2kmほど歩くと、早速「バイキング船博物館(Vikingskipshuset)」
に辿り着いた。海岸沿いにもう少し歩くと、ノルウェーの有名な学者トール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)の南太平洋横断
実験船である、バルサ材で造られた「コンチキ号(Kon-Tiki)」を展示する博物館がある。同じ館内には、パピルスの船「ラーII世号
(Ra II)」も展示されている。また、「ノルウェー海洋博物館(Norsk Sjofartsmuseum)」や、陸揚げされて屋外展示される
北極・南極探検船「フラム号」の博物館など、この地区には海洋文化遺産が一堂に集積されている。私的には、夢のような
「海と船の大テーマパーク」がそこにあった。長い間探訪したいと想い描いてきた海洋歴史文化コンプレックスであった。
パーク敷地から突き出たフェリー発着用板張り桟橋の係柱には、何隻かの小型帆船などが展示用として繋がれている。
話しは少し戻るが、フェリーから下船後のこと、真っ先に「バイキング船博物館」にワクワクしながら足を踏み入れた。
オスロ・フィヨルドで発見され、海底から引き揚げられた3隻のバイキング船が展示される。発掘された外板を頑丈な船形鉄枠に
丁寧に張りつけて復元されている。ほぼ原形を留めるものもあるが、ほとんど留めていないものもある。
1904年に発掘された「オーセバルグ号(Oseberg)」、AD9世紀に建造された「ゴークスタック号(Gikstad)」、さらに
「トゥーネ号」が展示される。船名はいずれも発掘場所に由来している。
「オーセバルグ号」は、AD9世紀初期に建造されたもので、35人の漕手と帆によって進航した。AD800年代に50年間ほど使用
された女王の船とされるが、彼女の死後に墓として遺体と共に埋葬のため使用された。「ゴークスタック号」の吃水線は極端に低く、
漕手32人で漕ぎ進む快速船であり、これも埋葬用に使用された。
「トゥーネ号」は9世紀に建造されたもので、その底部のみがかろうじて残存していたところを1867年に発掘された。
デンマークのロスキレ(コペンハーゲン近郊)にある「バイキング博物館」でもほぼ同じようなスタイルでバイキング船が
展示されていることを思い出した。
「コンチキ号博物館(Kon-Tiki Museet)」について少し触れておきたい。トール・ヘイエルダールは、人類の文化
移動に関しいろいろな仮説を打ち立て、その実証のために壮大な航海実験を行なったことで知られてきた。有史以前に中南米の
インディオが筏を組んで太平洋上のポリネシアへ渡海し、その後に他の島嶼へと文化が移動・拡大して行ったという仮説を実証するため、
彼と5人の仲間が乗員となって、1947年にペルーからポリネシアまで約8,000kmを101日間かけて漂流した。
同博物館では、その実験航海に使用された、バルサ材の原木で作られた筏船の「コンチキ号」が公開展示されている。
また、古代エジプトから南米大陸への文化移動の仮説を実証するため、1969年「ラー I 世号」(「ラー」とは太陽のこと意味する)でもってモロッコから南米へと漂流した。
5,000km漂流した後に、ハリケーンに襲われ沈没するに至った。しかし、翌年の1970年に再度漂流実験に兆戦した。8国から8人が57日間、
6,100kmを漂流した。乗員として日本人カメラマンの大原氏が参加した。
前章で既に触れたが、2007年4月にモロッコの大西洋岸の漁港町エッサワラを旅した時のこと、漁港埠頭沿いに建つレストランに
に立ち寄った折、その室内壁面に船乗りのような男たちが写る一枚の古い記念写真が飾られていた。説明書きはなかったが、
恐らく「ラー号」がこの港に立ち寄り、記念に集合写真が撮影されたものと推察した。そして、その中に一人の日本人らしき男性が
写っていることに気付いた。後に大西洋を横断したパピルス船「ラー号」(I世号かII世号であったかは不詳)に乗り組んでいた彼こそが
大原氏であることを知った。
「フラム号博物館(Framhuset)」について少し触れたい。極地探検家ナンセン(Nansen)が、1893年から北極海流の研究のため、
3年にわたって北極を探検した。その時に使用した「フラム号」の実物が屋外展示されている。ナンセン指揮下で大西洋の北極圏域を
北上し続けた結果、最後は北極の氷原に2年間も閉じ込められた。しかし、設計された通り、船は氷に押しつぶされることなく
氷の上に浮き上がって漂流し、無事オスロに帰還することができた。「フラム号」は全長39メートル、満載積載重量が800トンのずんぐりむっくりの
壺形の船である。
「フラム号」は後にノルウェーの探検家ロアール・アムンゼン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen; 1872年~1928年)に譲渡され、
1912年に彼が世界で初めて南極点に到達した際に使用された。アムンゼンは1910年8月に出港し、英国スコット隊と死闘の末に、
1911年12月14日に南極点到達への一番乗りを果たした(日本では「ロアルト・アムンセン」、「ロアルド・アムンゼン」とも表記される)。
アムンゼンは当時、英国海軍大佐ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott; 1868年~1912年3月29日)の探検隊と
人類初の南極点到達を競い合っていた。スコット隊は翌年の1912年1月18日に南極点に到達したが、帰路に遭難し全員が死亡するという痛ましい
大惨事に見舞われてしまった。
さて、ナンセン指揮下の「フラム号」は、当時の海氷事情などに鑑みて、南極点に到達後南極の「クジラ湾」を1912年1月31日に
慌ただしく出港した。その時「フラム号」の隣には、何と、白瀬矗(なお)中尉が率いる日本の探検船「開南丸」(204トン)が停泊していた。
人類最初の南極点到達を目指した白瀬隊は、その到達を途中断念し引き返していた。
さて、「フラム号」の出港に触発され、「開南丸」も翌日にはソリを曳く犬を収容する余裕もなく同地を離れた。20分遅ければ船
は氷に押しつぶされていたと言われるほど、ことは切羽詰まっていたという。このように、白瀬らは、「ロス棚氷」(クジラ湾)にて、
人類初の南極点への到達から帰還してきたアムンゼン探検隊を収容するために「クジラ湾」に来航していた「フラム号」と遭遇していた。
なお、白瀬隊は1912年 (明治45年)、南極大陸の南緯80度5分・西経165度37分の地点まで到達し、その一帯を「大和雪原(やまとゆきはら)」と名付けた。
さて最後に、「ノルウェー海洋博物館(Norsk Sjofartsmuseum)」と「沿岸博物館(Coastal Museum)」を見学した。前者は立派な
近代的総合海洋博物館である。客船「Adventure of the Seas」などの数多くの船模型をはじめ、船首像、航海用具、海と船の
絵画、実物の小型木造ボートなどが展示される。「沿岸博物館」では、ノルウェーの沿岸漁業の歴史・文化の紹介をはじめ、実物の
小型漁船や漁労用ボート、漁具などが陳列される。かくして、初日の見学では展示品の写真やその説明書きを十分に切り撮れず、
翌日も喜々として出かけた次第である。
かくして、翌日オスロから列車でベルゲンへと向かった。ベルゲンは政治都市オスロよりはるかに海洋開発や漁業に関わり合いのある
商工業都市であり、またその昔ハンザ同盟の主要拠点として繁栄を謳歌した歴史ある港町でもあった。ハンザ同盟都市は13~14世紀に
北海やバルト海を中心とする貿易を独占し繁栄を極めた。最盛期には200以上の都市が加盟していた。国王さえも凌ぐ強大な勢力を誇っていたが、
近代国家の形成につれて衰え始め、ついに17世紀には終焉を迎えたという。そんな同盟都市の一雄であったベルゲンに生涯のうち一度は探訪
してみたいとの想いを抱いていた。遠足を翌日に控えた子どものようにワクワクしながら「ベルゲンへの旅」を枕にしながら眠りに就いた。
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