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    第19章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジ アラビアへの赴任(その3)
    第2節 バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(その2)/ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、アムステルダム


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       第19章・目次
      第1節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(その1)/ストックホルム、オスロ
      第2節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(その2)/ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、アムステルダム
      第3節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する(その1)
      第4節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する(その2)



  オスロを後にしてノルウェー有数の港町ベルゲンを目指した。「フィヨルドと氷河風景 」が待ちどおしかった。オスロから山岳 列車に乗る前から興奮状態となり、搭乗前夜は眠れないほどであった。 世界で最も美しい自然風景を車窓から眺めながら鉄路の旅ができると聞かされていた。オスロでも夏のバケーション客が少なくなっていて 混雑も和らいでいると思っていたが、山岳列車はさすがに大勢の観光客で満席状態にあり驚かされた。ベルゲンはかつてハンザ同盟の 重要な一角を占めていたところであり、その情景の中に身を置けるとあって、身体中からその喜びを醸し出しながら、早朝オスロ の安宿から鉄道駅舎へと向かった。

  列車は最初の数時間は森林地帯を走り抜けていたが、標高が少しずつ上り始め次第にごつごつとした岩山風景へと変わって行き、 ついには万年雪を抱く山岳風景が現われた。やがて、標高1222mにあるノルウェーで最も標高の高い鉄路地点である「フィンセ(Finse)駅」 に到着した。列車は山岳路をさらに進み、「ミュルダール(Mydal)駅」にて、ベルゲンへと通じる本線から外れることになった。 そこで、支線の「フロム(Flaøm)線」の列車へと乗り換えた。

  鉄路は渓谷沿いに急坂を下ってフィヨルドの最奥の港町フロムへと辿った。途中、観光客へのサービスとして、落差90メートル ほどある「ヒョース滝」の真下で一時停車した。観光客は一旦ホームに降り立ち、清々しい外気に浴び気分転換をはかり、また滝を見上げて は英気を補給した。その後、世界最長の「ソグネ・フィヨルド(Sognefjord)」の中の支脈である「アウラン・フィヨルド(Aurlanfjord)」 の最奥にあるフロムという町に到着した。フロム駅の立ち位置はフィヨルドの海水面とほぼ同じくらいの標高であった。フェリー発着場 の両側に髙くそそり立つV字型の大渓谷を見上げて、そのフォトジェニックな雄大な自然景観に感激し感涙した。

  乗客らはフェリーの最上甲板へと陣取った。垂直に高くそそり立つフィヨルドのV字型峡谷の峰々を船上から見上げ、 その絶景に声も出ないほどの感激振りであった。フェリーはゆっくりと桟橋を離れ、鏡のような穏やかな水面を滑りゆく。ブルースカイを 見上げてみれば、峡谷の両岸から覆いかぶさり峰々が迫まり来る。両岸にそそりたつ峰々に挟まれた大空でさえも、狭く細く伸び行く ようであった。船上の誰もがそんなフィヨルドの雄大さに心酔しているようであった。

  快晴の青天下、フィヨルドの絶景が続く静寂な峡湾でのクルージ ングを精一杯楽しんだ。峰々と海水面との高度差は1000メートルはあろうか。船が向かう目的地は、「ソグネ・フィヨルド」から 枝分かれしたもう一つの支脈のフィヨルドの最奥にある港町「グドヴァンゲン(Gudvangen)」である。途中「アウラン(Aurkland)」 という小さなフィヨルド沿いの町を通過したとおぼろげに記憶する。さらに、フェリーはその船首を、落差5~600メートルはありそうな 、長く水の糸を引く瀑布に向けてホバリングした。船上の大勢の乗客らは、滝の真正面直下から口をあんぐり開けて見上げ、感嘆の 溜め息をつく様相であった。糸引きの滝はフィヨルド遊覧に付け加えられた刺激的なアクセントであった。

  「グドヴァンゲン」で下車した我われ乗客は早速バスに乗り込み、海抜0メートルから標高370メートルへ九十九折の急峻な 山道を一気に上り詰め、「スタルハイム・ホテル(Stalheim Hotel)」に近接する展望台で一息ついた。そこから見下ろすフィヨルドは 筆舌しがたい絶景であった。彼方に見るその峡湾の絵姿を忘れることはない。さて、バスで「ヴォス(Voss)駅」まで辿り、 再び鉄路でベルゲンへ向かった。かくして、オスロからベルゲンまでの12時間ほどの鉄道、船、バスの旅を堪能した。人生の後先において、 これほどまでに感動の連続であった一日の旅路はなかった。幸い晴天に恵まれ、 フィヨルドの旅のどこを切り撮っても、カレンダー用グラビア写真になりそうな絶景風景ばかりであった。

  ベルゲンでも健脚をもってかなり歩き回った。観光客の誰もが市街で散策することになるのは、歩行者天国の「トルグ・アルメニング通り (Torgallmenningen)」であろう。その東端には記念碑の銅像が建つ。バイキングや捕鯨船員、先の大戦の司令官などの海の男らを モチーフにした銅像のようである。この群像記念碑が市街中心部であると見て取った。その通りの先には、ベルゲン港のインナーハーバーの 最奥部に位置する波止場へと通じている。

  さて、そのインナーハーバーの波止場にはちょっとした開放的な広場があって、そこで魚介類の青空朝市が開かれていた。新鮮な 魚介類が屋台に並べられた朝市は、ベルゲンの風物詩そのものに違いなかった。直ぐ傍の波止場には港内周遊 観光船の発着所があり、またシーフードレストランやバーなどが軒を連ねる。朝市の屋台では、温燻や冷燻製のスモークサーモン、 干し鱈、生のエビ・ロブスター・カニ・カキ・アンコウなどの新鮮な魚介類をはじめ、キャビアの缶詰などが、威勢のよい掛け声を発する店員 らによって売られている。新鮮な生サーモン・スライスに、採れたてのレタスやトマトをたっぷりと挟んだサンドイッチを 買い求め、家族4人で朝の腹ごしらえをした。

  朝市広場の少し先の波止場沿いに「ブリッゲン地区(Bryggen)」がある。そこにハンザ同盟時代の面影をたっぷり遺す三角 屋根の古めかしい木造倉庫群が建ち並ぶ。その歴史的建築物の間にある狭い路地を入って行くと、静寂が支配する。まさに中世の 世界にタイムスリップしたかのようであった。ユネスコの世界文化遺産に登録されている。

  深々とした樹林に覆われた緑豊かな山が朝市広場の背後に迫る。その斜面を少し登って行くとケーブルカーの乗り場がある。 山頂から標高320メートルの「フロイエン」に登ってみた。そこから鳥瞰する風景はまさに絶景であった。眼下にはブルーの美しい 海の中に、ヒトデの腕のような形の無数の緑豊かな島嶼が浮かぶ。海岸線が複雑に入り組む。その多島海の筆舌し難い絶景を生涯忘れることは ない。ベルゲン港のインナーハーバーを取り囲むように広がる中世的な街並みは、周囲の美しい山と海とに融け込み、自然と人工とが 調和した風景に魅了されるばかりである。正しく、世界三大美港と称されるリオ・デ・ジャネイロの「クリストの丘」から眺望する 鳥瞰的風景にすぐる優れるとも劣らない絶景であった。

  さて、家族と離れて「ベルゲン海洋博物館」へと直行した。首都オスロでの海洋博物館とはまた異なる趣きであった。二階建ての4つの 棟がほぼ正方形に並び、真ん中には芝生に覆われたパティオ(中庭)が配されていた。じっくり館内を見学した。 縮尺6分の1のバイキング船模型、バイキング船の立体断面構造模型、アストロラーベやクロス・スタッフなどの各種航海計器、 船首像、帆船舵輪、船員のチェスト箱、海洋や帆船の絵画、帆船リギングの詳細名称図などを展示する。 オスロの海洋博物館での展示も見応えあるものであったが、ベルゲンのそれも展示内容が独創的で、午前11時から2時間半も 真剣に隅々まで巡覧することができた。

  地図上では同博物館に近接して「ベルゲン博物館」や「自然史博物館」が表記されているが、そのうちの後者を訪ねた。その後、 インナーハーバーの先端近くに位置するベルゲン港の波止場方向へと足を進めたところ、大型客船などが接岸するターミナルに辿り着いた。そして、その近傍に建つ 「ノルウェー海洋・漁業博物館(Norgesfiskerimuseum)」を訪ねた。そこで主にノルウェーの漁業の歴史や技術に関する展示を、閉館時間 ぎりぎりまで巡覧して回った。

  その後寸暇を惜しんで、インナーハーバーをはさんで、その対岸にある「ベルゲン水族館(Bergen Akvariet)」へと駆け込んだ。夕刻が 近づきいずれも小一時間もないほどの駆け込み巡覧であった。だが、たとえ短時間でも足を踏み入れ、傑出した特徴ある展示品を一つだけでも目に 焼き付けようと期待してのことであった。これまでも、それをモットーにして歩き回ってきた。館内に足を踏み入れじっくり目を凝らすのと、 全く何も見ないのとでは、脳内細胞の活性化、目の保養や教養力アップの観点から雲泥の差がある。500円の入場代を 惜しんで、その機会を逃すのは余りにももったいない話しである。その他、3本マストのシップ型大型帆船(船名不詳)がインナー ハーバー岸壁に係留されていた。それも見学したかったが、すっかり日没となってしまった。数枚の画像を切り撮るのが精一杯であった。 同帆船博物館はノルウェーの切手図案にもなっているという。

  さて、ベルゲンから首都オスロに戻り、翌日列車で南下した。スウェーデンの「ヨーテボリ」(またはイエーテボリ)という、 バルト海と北海を結ぶ「カテガット海峡(Kattegat)」に面する港町へと向かった。目指すは、「海洋センター」と「船舶博物館」 であった。センターの建物は意外にも小規模であり、木造の小型帆船やボートなどの建造・修理工房であるかのような様相であった。

  だがしかし、直ぐ傍の岸壁には、Uボート潜水艦(U-boat Submarine)、フリゲートのような軍艦、マッシュルーム型錨を船首に擁する灯台船「Fladen」、 貨物船「M/S Stormprincess」、「ESAB IV」、沿岸警備艇、消防船、海洋調査船、その他「Gunhild」、「Flodsprutan」、「Sölve」、 「Fryken」、「Jagare Destroyer」などという、15隻ほどの退役艦船が舷を寄せ合ってぎゅうぎゅう詰めに係留公開されていた。 その他、少し離れた岸壁には、4本マストのシップ型帆船「バイキング号」が係留されていた。現在は退役しホテル兼レストランとして の任に就く。また、巨大なドラゴンの頭を模した船首像と、船尾には尾っぽを模した船尾像をもつ大型屋形船が中華レストラン として係留されていた。

  その後、家族と別れ一人ヨーテボリの駅から運河沿いに歩いて「ヨーテボリ海洋博物館(Sjöfartsmuseet)」を目指した。 途中、バルト海で客船を運航する「シーウェイズ(Seaways)」の大型客船「Princess of Scandinavia」が運河を悠然と通航する 光景に遭遇した。博物館入り口上部には女性船首像の類いが据え付けられている。館内を、午前10時30分から15時30分まで、全く飲食を 放り投げて、空腹と闘いながら巡覧し、数多くの展示品とその説明書きを丁寧に切り撮った。 さて、私・妻・長女3人はその夕刻ヨーテボリで次女と別れた。次女は列車でオスロへと一人戻りそのまま旅を続行、我々3人は別列車でルンド (Lund)、マルメ(Malmö)を経て、「カテガット海峡」の狭水道に架かる鉄橋とトンネルを通過して、夜10時頃にコペンハー ゲン駅へと滑り込んだ。

  翌日、私一人がコペンハーゲンから列車で再びスウェーデンのマルメへ向かった。再び空港駅を通過し海峡に架かる長大橋を渡った。 同じEU圏内なのでパスポートコントロールもなく、気軽に行き来できるのは本当にありがたかった。その利便性にはすこぶる助けられる。 「マルメ博物館」の傍を通り、真っ直ぐ「技術・海洋博物館」を目指した。

  「海洋博物館(Sjofartsmuseet)」での主な展示品は、船舶関係では実物の「潜水艦U3」であった。博物館のすぐ脇には趣きのあるミニ魚市場 で賑わっていた。数多くの小さなテント小屋風のパビリオンが並び、大勢の買い物客が陳列台に並べられた魚貝の品定めに余念がなかった。 上野のアメ横商店街をぎゅっと小ぶりにしたような感じである。博物館の向かいには「世界海洋大学(World Maritime University)」 という国連の一機関があった。キャンパスに少しでも足を踏み入れておくべきであったと、後で後悔したが遅かった。

  さて、マルメ城内にある「マルメ博物館」の附属水族館(Akvariet)へ足を向けた。マルメ駅へ戻る帰途、水路沿いをぶらぶらと歩いていると 港の傍を通りかかった。灯台や「コグ(Kogg)博物館」などのすぐ近くを通ったものの、その博物館が中世ハンザ同盟時代によく用いられた 船種である、例の「コグ船」(英語: cog)にまつわる博物館であるとは、うかつにも気が付かず見過ごしてしまった。当時見学できる時間は どれほど残されていたかは定かでないが、コグ船のことや北欧諸国・北ドイツ・ベルギーなどでのハンザ同盟の形成・発展の歴史を学ぶことが できたはずである。

  その後、コペンハーゲンへ戻り、その足で中世の港町の面影を色濃く残す「ニューハウフン」の船着き場へ出掛けた。そして、「海と船の ある風景」を求めて、そのウォーターフロント界隈を散策した。今回初めてその船着き場をじっくり散策する時間がとれた。時間を気にせず、 被写体をあちこち探し求めながらそぞろ歩きをした。係留船はさほど多くはないが、波止場の両側には中世の佇まいを彷彿とさせるような 趣きのある歴史的な建物がぎっしりと並び、どこを眺めても絵になった。波止場からはコペンハーゲン港や運河を遊覧するクルージング船が 発着していた。もちろん乗船体験を楽しんだ。

  遊覧船は古いレンガ造りの倉庫群が建ち並ぶ狭い運河や旧商港地区にも入り込んだ。古きよき時代 の原風景が遺っているものと想像を逞しくしながら水上から見上げた。別の狭い水路では、カヌーのローイングを楽しむ優雅な市民の姿を 目にしたのが印象に残った。その後、船は運河からコペンハーゲン港水域に出て造船所などの主要な施設をクルージングした。そして、 アンデルセン童話所縁の「マーメード(人魚姫)像」が小さな岩の上に据えられた岸辺に最接近してくれた。

  下船後、陸側から人魚像をカメラで切り撮るため足を向けた。観光客の中には我先にと、像に抱きつくように接近して記念撮影しようと ハイテンションであった。さらに海沿いに散歩し、優美なマリーナに辿り着いたところで日没を迎えた。ヨット群の林立するマストが 黄昏行く茜空に天高く突き刺す。そんなマリーナを眺めながら、のんびりと贅沢な時間を過ごした。そして、完全に陽が没したところで、電車に飛び乗り宿のある「中央駅」へと戻った。 

  翌日、家族3人でコペンハーゲンから海沿いに電車で北上し、港町ヘルシングエーアへ出掛けた。コペンから北約44㎞にある港町である。そこで 訪ねた「クロンボ―城(Kronborg)」はシェークスピア作のロミオとジュリエットの「ハムレット」の舞台として有名であるという。 「カテガット海峡」最狭部の「エアスン海峡」をはさんで、ヘルシングエーアの対岸にあるのは、スウェーデンのヘルシンボリ (Helsingborg)であり、距離にして5kmほどである。バルト海と北海とを結ぶ狭い回廊(チョークポイント) となっている重要な海峡である。さて、偶然にも何とクロンボー城内には「航海・海洋博物館(Maritime Museum of Kronborg)」があること を現地で知った。家族と別行動を取り、何を置いても先ずは博物館に駆けつけ、数多くの船舶模型が展示される館内をじっくりと見学した。

  コペンハーゲン西方のロスキレにある「バイキング博物館(VikingeskibsMuseet)」 へも一人電車で足を伸ばした。 コペンハーゲンは今回が2度目であった。初回はJICA水産室勤務時代の1982年11月であった。チュニジアの「マディア漁業訓練センタープロジェクト」(1980~1982年頃に担当) の現地調査からの帰途のこと、1982年11月にコペンでトランジットのため一泊した。その時団員3人でロスキレにある同博物館を訪れた。 その時以来で、2022年から数えればもうかれこれ30年になる。当時コペンハーゲン市内の散策はほどんどせず、ロスキレへの弾丸 ツアーへ他団員二人に無理やり付き合ってもらう格好となった。それもタクシー代など一人100ドルほどの負担をお願いしてのことであった。 だが、後で訊ねて見ると「博物館は非常に良かった」と言ってもらい、ほっとしたことを憶えている。

  ところで、同博物館に展示される古代バイキング船のことであるが、西暦1000年頃からロスキレ・フィヨルドの入り口(フィヨルドの 最奥の町であるロスキレから20㎞ほど北にある)に5隻のバイキング船が沈められていた。バイキングがフィヨルドへの外的侵入を 防御するために、船を沈めたものである。いわば水中防護壁が造られていた。1962年に「デンマーク国立博物館」が発掘・復元して展示 したのがそれらの船である。今回訪問してみて、バイキング船の館内展示の様相は ほとんど変わりないと見て取ったが、当初に比べて館内外は格段に整備され充実したものになっているとの印象をもった。

  最初の訪問時の印象として、同博物館敷地内にはバイキング船の展示館だけがぽつんとあるとの印象であったが、今回ではその 敷地内に木材を加工し、バイキング船のキール・肋材・外板・梁などの部材を製作し、バイキング船の組み立て実演などを 行なう多くのパビリオン(展示室兼工房)が設置されていた。実際に船大工が製作する工程をつぶさに見学できるように なっていて、大人も子供たちにも、バイキング船への知的好奇心を高めてもらえるよう多くの工夫が随所に見られた。 最初の訪問時には時間的余裕が乏しく、急ぎ足の見学であったために目に入らなかっただけなのか、それともその後に 新たに整備されたのかは定かではない。

  格段に整備されたとの印象を抱いたのはそれらの工房だけではなかった。興味津々のもう一つの風景があった。敷地内のウォーターフロン トには板張りの長い桟橋が設けられ、バイキング船などが繋がれていた。そして、桟橋では数十名の観光客が、指導員の指揮の下、 復元された現代のバイキング船に乗り込み、オールを漕いで沖に出ようとしていた。陸上で漕ぎ方を教わった後に、海上操練の実体験が できるようになっていた。

  かくして、北欧3ヶ国の旅を通して、古代バイキング船のことを学び多くの写真を切り撮ることができた。明日はいよ いよ、家族と別れて、ドイツのハンブルグ、さらにオランダのアムステルダムへ一人向かうことになる。ロスキレからの帰途の列車の 中で、明日から一人旅となることを思い起こし、寂しさを埋める心の準備を始めた。

  翌日、コペンハーゲン駅から家族に見送られて国際特急列車に乗り込み、ハンブルグを目指した。列車はデンマーク領の幾つかの島嶼の 田園地帯を快走し続けた。夜半になって、列車ごと大型フェリーに載せられた。甲板に出て潮風に当たっているうちに、対岸のドイツ領の港町 の灯りが見えてきた。夜のうちの渡海であったため、景色は何も見えず、海岸沿いの明かりの連なりが見えた程度であった。

  ユトランド半島の付け根辺りを、「ノルト・オストゼー運河」、即ち一般的に「キール運河」と称される水路が東西方向にキールへと 伸び横切っている。片やデンマークには多くの海洋・漁業の歴史文化施設があるが、それらを訪ねることはできなかった。また、 北ドイツの「キール運河」と港市キールへの探訪についてもまたの機会にせざるをえなかった。 さて、列車は深夜近くにハンブルグ駅へと滑り込んだ。駅近くに予約しておいたホステルへはほとんど迷わず時間的ロスもなくチェックインできた。

  翌日港町ハンブルグをじっくり散策しようと早朝に地下鉄で港へと向かった。エルベ川沿いに発達したハンブルグには大きな 河川港がある。目当てのエルベ川沿いの「船舶博物館」は分かりやすかった。目的地の駅で下車してみると、眼下の川沿いに幾艘もの 船舶が係船されていた。実はその港風景は暫く後で目にすることになった。というのは、駅に降り立った時は、エルベ川やその川岸 一体はかなり濃い霧に包まれていた。思いもよらぬハンブルグ港の霧景に遭遇した。我慢して時間待ちをしていると次第に霧が薄くなり始めた。そして、 博物館となっている4本マストの大型帆船「リッカーメール号(Museumsschiff Rickmer Rickermers)」が霧の中に姿を現し始めた。 帆船全体がぼーっと霧に包まれるという、その時遭遇した幻想的な風景に感銘を受けた。

  川岸沿いにはその他、戦時標準船のような古い貨物船「キャプテン・サンディエゴ号(Cap San Diego)」、灯台船「Das Feuerschiff LV13号」など数多くの船舶が係留・展示されていた。水上飛行機もこの岸辺の水上ポートに駐機していた。生まれて 初めてその機影を間近に見ることができた。それまでは映画の中だけでしか見たことがなかった。

  さて、折角訪れたハンブルグ港なので、もっと目の網膜に焼き付けようと遊覧船に乗り込み、倉庫群・浮きドック・石油精製施設・ 水閘門など、エルベ川両岸に広がるハンブルグ港の港と船風景を楽しんだ。旅程にもっと余裕があれば、エルベ川沿いに水上路を辿って、 下流の港町にもありそうな海洋博物館などをもっと探訪できたはずであるが、先を急がざるをえず諦めるほかなかった。翌日ハンブルグ駅 で飛び乗った列車は、ブレーメンを経由して田園の中を快適にひた走り、ついに最終目的地のオランダ・アムステルダムの「中央駅」へと滑り込んだ。

  こうして、二度目のアムステルダムの土を踏んだ。一にニにも「アムステルダム海洋博物館(Nederlands Scheepvaart Museum)」を 訪ねるためであった。かつて訪問できなかったことへのリベンジ的チャレンジであった。「中央駅」に近い「Piet Heinkade通り」を 歩き出してまもなく、遠くの桟橋に横付けになっているシップ型大型帆船に気付いた。格好の被写体を切り撮れるチャンスを 逃すまいと思い、帆船を目指して近づいてみた。「Stad Amsterdam」という船名であった。オランダの航海訓練船らしかった。

  初めてアムステルダムを訪れたのも、実は1980年代初期のJICA水産室勤務時代にチュニジアへ公務出張した時のことであった。 他の団員と行動を共にしていたこともあり、「海洋博物館」への個人的訪問の希望を最優先にして単独行動をとる訳にも行かず、足を向けた のは市街地のそぞろ歩きと運河遊覧くらいであった。博物館探訪のアイデアは、その出張に出る前には頭からすっぽりと抜け落ちていた。 要するに、当初から「海洋博物館」を訪ねることを諦め、何の執着心もなかった。だが、二回目の今回は丸で違った。この博物館だけ を目指してアムステルダムに立ち寄るという力の入れ様であった。30歳代前半の若かった1980年代にあっては、「飾り窓の女」の通りをたむろ することに余程気を取られ、「海洋博物館」への訪問を最初から予定に組み込む余裕を持ち合わせていなかったのかも知れない。

  世界海洋覇権争いの先陣を切っていたのは、ポルトガルやスペイン、さらに英国であり、オランダは彼らの後陣を配しながらもその 争いに自らを巻き込んで覇権争い繰り広げていた。博物館内には、オランダが世界の海を縦横に行き交い、インドネシア、マレーシア・マラッカなどの 植民地や交易拠点を築き、英国などと競い合った。1600年代初めに設立された「オランダ東インド会社」をもって海外に権益を拡大し、 「海洋王国」を謳歌していた。

  博物館では16、17世紀の頃の繁栄の歴史を示す数多くの歴史的遺物を見ることができる。一時期世界海洋に君臨した という栄華の歴史を如何なく示している。威容を誇る帆船「アムステルダム号」という戦列艦の係留・展示を含め、館内には歴史・ 文化的価値の髙い陳列品が数え切れないほどあるので、ワン・パラグラフで語ることは到底不可能である。

  丸一日館内を巡り巡った結果、疲れ果ててしまった。全てを巡覧することを放棄することにした。そして、疲れを癒すため、その後 放射線状かつ同心円状に広がる運河網を遊覧船でクルーズすることにした。チュニジア出張途上にあったアムステルダムでトランジット した折に団員とクルーズする機会をもった。だが、当時の記憶は殆ど薄れていたので、今回改めてクルーズ船で遊覧することにした。 そして、船上から運河沿いのレンガ造りの街並み見上げながら、アムステルダムのかつての繁栄の面影を追い続けた。

  船で運河を縦横に巡るとともに、自分の足で中心街を心行くまでそぞろ歩きをすることにした。「聖ニコラス教会」を眺めつつ、 「ダムラック通り(Damrak)」を歩き、「新しい市場広場(Nieuwmarkt)」前に辿り着いた。そして、「モンテルバーンの塔」などの歴史的 建造物を眺めながら、オープンテラスでビールを傾け一息入れた。一人物思いにふけりながら、暫し至福の時間を 過ごした。ほろ酔い加減となり、昔オランダが北海でのニシン漁で国家経済の基盤を築いたこと、オランダと英国とがマレーシアの マラッカや、インドネシアのスパイス・アイランド(香料諸島)の「テルナテ島」などの支配を巡って覇権争いを繰り広げたこと、 オランダ船による日本・平戸への来航や出島での交易など、歴史の断片を思い起こしながら、かつて栄華を極めた黄金時代のオランダにタイムスリップし空想に耽った。 気が付けば日が暮れていた。

  思い起こせば、1980年代初期のJICA水産室勤務時代のこと、チュニジアへの出張途上においてこの地に立ち寄った折、パリとは 全く異なる街の美しさと歴史の重厚さを感じながら、森敬四郎調査団長や水産庁・小圷覚団員らと運河沿いにそぞろ歩いた。運河沿いに 立ち並ぶ、彼の有名な「飾り窓の女」の部屋をガラス窓越しにちらちらと視線を注ぎ込みながら歩いたりもした。女性は何の恥じらいもなく、 むしろこちらが恥ずかしくなるほど大胆な視線を浴びせていた。こちらがどぎまぎした。 それを知っているかのように、女性はさらに大胆にして誘惑の視線を投げかけて来た。そこをオランダの大勢の女子高生のグループが、気恥ずかしさ の欠片も見せることなく、平然と飾り窓を覗きこみながら通り過ぎて行った。修学旅行か社会見学の一団のようであった。

  さて、当時団員三人は歩き疲れたところで、運河に架かるある橋のたもとのパブで一休みし、ビールで喉を潤した。そのパブは、どの辺だった のかほとんど覚えていなかった。記憶にあるのは、そのパブは「飾り窓の女」の館 が連なる運河沿いの通りから、ほんの少しだけ外れたところにあると言うことだけであった。アムステルダム「中央駅」からそう遠くない ところの運河沿いの通りをあちこち行き来しながら探し回った。とうに日が暮れていたので、スナック程度の夕食を取って体力と鋭気を 蘇らせた後、再び気合を入れて歩き回った。だが、記憶を頼りに必死に探索しても一向に見つけられず、ついに疲れ果ててしまい、 そのパブを探し出すことを諦めた。そして、「中央駅」の方角に足を向け、人の流れに身を任せながらとぼとぼと歩いた。

  出会いとは不思議なものである。運河に架かる一本の橋を渡り、狭い路地を通り抜けようとした時のことである。「何となく 見たことがある」というインスピレーションが一瞬脳裏をかすめた。そして、その路地を通り過ぎてから、何気なく後ろを 振り返った。何と、そのパブの現風景と、脳裏に記録されてきた数十年前の画像とが照合された。そして、じわっと重なり合い、 ロックオンされた。 今度はしっかりと後ろ向きに立ち止まり、まじまじとそのパブを見詰め直した。さらに近づいて窓越しに中を覗き込んだ。「三人でジョッキーを 傾けたのはあのテーブルだ!」と合点した。画像がほぼ完全にシンクロナイズされた。かすかな記憶を頼りに、ついに偶然にしろ 探し求めていたものを探し当てた。過去に戻れないことは分かってはいる。若き日の記憶の一コマが蘇り、ただただ心底懐かしかった。

  偶然にもその懐かしいパブに巡り合えた。とはいえ、椅子は片隅に寄せられ、どうも閉店休業のようであった。 パブは少し廃れた感があったが、あのテーブルに三人で座ってジョッキ片手に、「明日はいよいよチュニジア入り」だと意気揚々と 談笑していたことを、ついこの間の出来事のように思い出した。あの頃の夜の街の賑わいと、生き生きとした三人の会話が昨日のことの ように蘇ってきた。足を棒にして探し回しても辿り着けなかったそのパブ。何と偶然にもその狭い路地を通りかかったがゆえに、 昔にタイムスリップすることができた。その偶然のいたずらにびっくり仰天。神に感謝し、感激の涙であった。

  明日はサウジに帰ることになる。楽しい家族との旅であった。大自然や海と船をたくさん眺め、鋭気を取り戻し、酸素をたっぷり 補給できた旅であった。リヤドに向けて帰路につく頃は何ともいえない重圧感、抑圧感、圧迫感が襲ってきた。 翌日スキポール空港からチューリッヒ経由でリヤドへ戻った。

  再びコンパウンドのゲートを出でて荒涼とした砂漠風景を見ながら、リング・ロードを疾走して事務所へ通うという、いつもの日常 に戻った。再び砂漠風景に溶け込みながらも、じわじわといつもの緊張感が高まって来た。もちろん主観的な感覚だが、旅するとサウジ アラビアが想像以上に異形異質のイスラム教国であることを否応なしに意識させられる。再び異次元の世界に身を置き、何をどうしょうとそれが現実の世界に違いない。それを諦観しつつも、 そんな異次元世界を楽しむことが、現実にサウジで生活する身の処し方である。

  さて、リヤド赴任が2年も過ぎれば、役職定年の58歳が目の前に迫りつつあった。帰国後すぐに退職手続きとなる。 退職後は国内ではなく、再び国際協力の海外での最前線に立つことを希望していた。もっと遠い先のことは全く未定ではあったが、 完全に離職した暁には「海洋辞典づくり」に専念したいと漠然と考えていた。少なくとも、離職後には「選択と集中」をもって、 辞典のトータル・リニューアルに取り組みたいと思っていた。これまでは辞典のコンテンツについては拡大一辺倒を歩んできた。 余りにコンテンツを拡大し過ぎ、「目下、作成中」のページが多くアップされてきた。半端なページが多々散見され、見苦しい 状況にあると日頃から反省の日々であった。辞典への訪問者からすれば「これ何!」とがっかりすることも多かったはずである。早く何とか 刷新したいと、幾分かどころか相当の焦りを感じていた。

  ところで、サウジアラビア事務所長の後任者がすぐに決まるとは考えにくかった。結局3年目の2007年の初め頃、内々の後任人事の話が本部から漏れ 伝わって来た。そして、さらに本腰を入れて、業務の積み残し、今後における課題や展望を今一度見直し、サウジのJICA技術協力からの 「卒業」後におけるサウジへの技術移転に関するソフトランディングの方向性や方法論、JICA有償技術協力の可能性と課題などを模索した。

  他方で、これまでの半島時計回りの最後の旅についてのプランをあれこれ練ることにした。北欧まで伸ばしていた「旅程線」をかなり 短縮化し、フランスのマルセイユからイタリアのベニスまでの地中海沿岸を巡る旅を視野に入れることにした。特に、世界的に有名な 「モナコ海洋博物館」にはサウジ赴任の機会を利用して是非とも探訪したいという強い願望をなおも胸にしまい込んでいた。


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    第19章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジ アラビアへの赴任(その3)
    第2節 バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(その2)/ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、アムステルダム


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       第19章・目次
      第1節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(その1)/ストックホルム、オスロ
      第2節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(その2)/ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、アムステルダム
      第3節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する(その1)
      第4節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する(その2)