ノルウェーの首都オスロを後にして同国有数の港町ベルゲンを目指した。「フィヨルドと氷河」の自然風景が待ちどおしかった。
オスロから山岳列車に乗る前日から興奮状態で、昨夜は眠れないほどであった。
世界で最も美しい自然風景を車窓から眺めながら鉄路の旅ができると聞かされていた。オスロでは夏のバケーション客が減って
混雑も和らいでいると感じていたが、山岳列車はさすがに大勢の観光客で満席状態であった。ベルゲンはかつて「ハンザ同盟」の
重要な一翼を占めていた都市であり、そこに自身の二足で立つことができるとあって、身体中からその喜びをあらわにしながら、早朝オスロ
のホステルから鉄道駅舎へと向かった。
列車は初めの数時間は田園や森林地帯を走り抜けていたが、標高が少しずつ髙くなり始め次第にごつごつとした岩山風景へと変わって行き、
いつの間にか万年雪を抱く山岳風景に取り囲まれてしまった。やがて標高1222mにあるノルウェーで最も標高の高い鉄路地点にあるという
「フィンセ(Finse)駅」に到着した。列車は山岳鉄路をさらに進み「ミュルダール(Mydal)駅」へと滑り込んだ。そこでベルゲンへと
続く本線からは外れ、支線の「フロム(Flaøm)線」の列車へと乗り換えた。
鉄路は渓谷沿いに急坂を下り行きフィヨルド最奥の港町であるフロムへと向かった。途中、観光客へのサービスとして、落差90メートル
ほどある「ヒョース滝」の真下で一時停車した。乗客は一旦ホームに降り立ち、清々しい外気を浴びて気分転換をはかったり、
また滝を見上げては気分爽快感を味わい鋭気を養った。
その後、世界最長の「ソグネ・フィヨルド(Sognefjord)」の中の支脈である「アウラン・フィヨルド(Aurlanfjord)」
の最奥に位置するフロムに到着した。フロム駅の立ち位置はフィヨルドの海水面とほぼ同じくらいの標高であった。フェリー発着場
の眼前にはフィヨルドの穏やかな水面が細長く伸び、その両側にはV字形の大渓谷が高くそそり立つ。そのフォトジェニックで雄大にして
圧巻の自然景観を見上げ、息をするのも忘れるほどに感激と感涙であった。
乗客らは我先にとフェリーの最上甲板へ駆け上がり陣取った。垂直に高くそそり立つフィヨルドのV字型峡谷の峰々の急峻な側壁を船上
から見上げ、その絶景に声も出ないほどに感嘆するばかりであった。フェリーはゆっくりと桟橋を離れ、鏡のような穏やかな水面を滑り行く。
ブルースカイを見上げてみれば、大峡谷の両岸から覆いかぶさるように峰々が迫まり来る。両岸にそそりたつ側壁に挟まれた大空も
狭く細く伸び行く。最上甲板に陣取る旅人の誰もがそんなフィヨルドの雄大さに心酔し切っているようであった。
フィヨルドの絶景が延々と続く静寂な峡湾でのクルージングを精一杯楽しみ至福の時間を過ごした。両岸の峰々と海水面との高度差は
1000メートルはあろうか。船が向かう目的地は、「ソグネ・フィヨルド」から枝分かれしたもう一つの別の支脈であるフィヨルドの
最奥にある港町「グドヴァンゲン(Gudvangen)」である。途中「アウラン(Aurkland)」という小さなフィヨルド沿いの町を通過した
とおぼろげに記憶する。
フェリーはその船首を、落差5~600メートルはありそうな、細長く水の糸を引く瀑布に向かってホバリングしてくれた。
甲板上で蜂のように群がる大勢の乗客らは、滝の真正面直下から突き抜けるようなブルースカイに向けて、口をあんぐり開けて感嘆の
溜め息をついたり、瀑布のしぶきを口中に飲み込むような様子であった。糸引きの滝はフィヨルド遊覧の思い出に付け加えられた
一つのアクセントであった。
「グドヴァンゲン」で下車した我われ乗客は早速バスに乗り込み、海抜0メートルから標高370メートルへ九十九折の急峻な
山道を一気に上り詰め、「スタルハイム・ホテル(Stalheim Hotel)」に近接する展望台で一息ついた。そこから見下ろすフィヨルドは
、筆舌しがたい絶景であった。フィヨルドの海は遠方になり過ぎて眺望できなかったが、遥か彼方へまで伸び行くV字形大峡谷の壮大な
絵姿を忘れることはない。
さて、ミュルダール~ベルゲン間の鉄道本線上にある「ヴォス(Voss)駅」までバスで辿った後、再び列車でベルゲン
へと向かった。かくして、オスロからベルゲンまでの12時間ほどの鉄道>船>バス>鉄道の旅を堪能した。人生の後先において、
これほどまでに感動の連続であった鉄道の一日の旅路はなかった。幸い最高の晴天日に恵まれ、フィヨルドの旅のどこを切り撮っても、
カレンダー用グラビア写真になりそうな絶景ばかりであった。
ベルゲンでも健脚を生かしてかなり歩き回った。観光客の誰もが散策することになるのは市街地中心部にある歩行者天国の「トルグ・
アルメニング通り(Torgallmenningen)」であろう。その東端には記念碑の銅像が建つ。バイキングや捕鯨船員、先の大戦の司令官などの
海の男達をモチーフにした銅像のようである。この群像記念碑が街の中心部に位置するものと見て取った。その通りの先にはベルゲン港の
インナーハーバー最奥部に位置する波止場がある。
さて、そのインナーハーバーの波止場にはちょっとした開放的な広場があって、そこで魚介類の青空朝市が開かれていた。新鮮な
魚介類が屋台に並べられた朝市は、ベルゲンの風物詩そのものに違いなかった。直ぐ傍の波止場界隈には港内周遊
観光船の発着所があったり、またシーフードレストランやバーなどが軒を連ねていて、最高の華やかさを醸し出していた。
朝市の屋台では、威勢よく掛け声を張り上げる店員らによって、温燻や冷燻製のスモーク・サーモン、干し鱈、キャビアの缶詰
をはじめ、生のエビ・ロブスター・カニ・カキ・アンコウなどの新鮮な魚介類が売られている。新鮮な生サーモン・スライスに、
新鮮なレタスやトマトをたっぷりと挟んだサンドイッチを買い求め、先ずは家族4人で朝の腹ごしらえをした。
朝市広場の少し先の波止場沿いに「ブリッゲン地区(Bryggen)」がある。そこにハンザ同盟時代の面影をたっぷりと濃く遺す、三角
屋根の古めかしい木造倉庫群が建ち並ぶ。その歴史的建築物の間にある狭い路地に入って行くと静寂が支配している。建物群
内の奥まった路地に佇めばまさに中世の世界にタイムスリップしたかのようであった。古倉庫群はユネスコの世界文化遺産に登録されている。
深々とした樹林に覆われた緑豊かな山々が朝市広場の背後に迫る。山の斜面を少し登って行くとケーブルカーの乗り場がある。
そこで家族の思い出作りも兼ねてケーブルカーで標高320メートルの「フロイエン」に登ってみた。そこから鳥瞰する風景はまさに絶景であった。
眼下にはブルーの美しい海の中に、ヒトデの腕のような形の緑豊かな数多の島嶼が浮かぶ。海岸線が複雑に入り組む。
その多島海の筆舌し難い絶景を生涯忘れることはない。ベルゲン港のインナーハーバーを取り囲むように広がる街並みは、
四方のエメラルド・グリーンの海とディープ・グリーンの山々とに融け込み、自然と人工とが調和していて、その鳥瞰風景に魅了され暫く
釘付けとなった。正しく、世界三大美港と称されるリオ・デ・ジャネイロの「クリストの丘」から眺望する鳥瞰的風景にすぐるとも
劣らない絶景に魅入るばかりであった。
さて、家族と分かれて「ベルゲン海洋博物館」へと単独直行した。首都オスロでの海洋博物館とは異なる趣きがあった。二階建ての4
棟の館がほぼ正方形に並び建つ。真ん中には芝生に覆われたパティオ(中庭)が配されている。じっくり館内を見学した。
縮尺6分の1のバイキング船模型、バイキング船の立体断面構造模型、アストロラーベやクロス・スタッフなどの古式の航海計器、
船首像、帆船舵輪、船員のチェスト箱、海洋や帆船の絵画、帆船リギングの詳細名称図などを展示する。
オスロの海洋博物館での展示も見応えあるものであったが、ベルゲンのそれも独創的で充実した展示内容であった。午前11時から2時間半も
真剣に隅々まで巡覧することができた。
地図を見ると同博物館の近傍に「ベルゲン博物館」や「自然史博物館」が表記されていることを知り、そのうちの後者を訪ねた。その後、
インナーハーバーの岸壁伝いに散策しながら、大型客船などが接岸するベルゲン港国際ターミナル方面へと足を進めた。
そして、その近傍に所在する「ノルウェー海洋・漁業博物館(Norgesfiskerimuseum)」を訪ねた。そこで主にノルウェーの漁業の歴史や
技術に関する展示を閉館時間ぎりぎりまで巡覧して回った。
その後寸暇を惜しんで、インナーハーバーを挟んで、その対岸に所在する「ベルゲン水族館(Bergen Akvariet)」へと駆け込んだ。夕刻が
近づいていて小一時間もないほどの慌ただしい巡覧であった。だが、たとえそうであっても自身の足を踏み入れ、何か特徴的で傑出した
展示品の一つでも目に焼き付けることができるかもと期待してのことであった。これまでも、それをモットーに歩き回るのを常としてきた。
館内に足を踏み入れることで諸々の陳列品や飼育展示される生き物にじっくり目を凝らす機会をもつのと、逃すのとでは
脳内細胞の活性化や目の保養性のアップの観点から何かしら違いが生じるような気がする。ベルゲンに身を置きながら、500円の入場料を
出し惜しんでみすみすその機会を逃すのは余りにももったいないことである。
その後時間切れとなり帰途に就いた。そして、途中インナーハーバー岸壁沿いに係留されていた3本マストのシップ型大型帆船(船名不詳)
に立ち寄った。じっくり見学したかったが、すっかり日没となってしまい数枚の画像を切り撮るのが精一杯であった。
同帆船博物館はノルウェーの切手図案にもなっているという。
さて、ベルゲンから首都オスロに戻り翌日には列車で南行した。スウェーデンの「ヨーテボリ」(またはイエーテボリ)という、
北海とバルト海とを結ぶ「カテガット海峡(Kattegat)」に面する港町へと向かった。目指すはヨーテボリにある「海洋センター」
とその付属の「船舶博物館」であった。センターの建物は意外にも小規模であったので少々肩を落とした。木造の小型帆船やボート
などの建造・修理工房であるかのような様相であった。
だがしかし、直ぐ傍の岸壁に出でてびっくり仰天した。15隻ほどの退役艦船が舷を寄せ合ってぎゅうぎゅう詰めに係留され、一般
公開されていたからである。例えば、Uボート潜水艦(U-boat Submarine)、フリゲートのような軍艦、マッシュルーム型の錨を船首に
擁する灯台船「Fladen」、貨物船「M/S Stormprincess」、「ESAB IV」、沿岸警備艇、消防船、海洋調査船、その他「Gunhild」、
「Flodsprutan」、「Sölve」、「Fryken」、「Jagare Destroyer」などの実物艦船である。
少し離れた岸壁は、4本マストのシップ型帆船「バイキング号」が係留されていた。現在は退役しホテル兼レストランとして、そ
の任に就いていた。また、巨大なドラゴンの頭部を模した船首像と、船尾にはその尾っぽを模した船尾巨像をもつ大型の屋形船が中華レストラン
として係留されていた。
さてその後、ヨーテボリ駅から運河沿いに歩いて「ヨーテボリ海洋博物館(Sjöfartsmuseet)」を目指した。
途中、バルト海で客船を運航する「シーウェイズ(Seaways)」社の大型客船「Princess of Scandinavia」が運河を悠然と通航する
様に遭遇した。
同博物館入り口上部には船首飾りであったのかどうか不詳だが、女性像の類いの造形物が据え付けられている。館内を、午前10時30分
から15時30分まで、全く飲食を放り投げて、空腹と闘いながら巡覧し、数多くの展示品とその説明書きを丁寧に切り撮った。
妻・長女と私の3人はその夕刻ヨーテボリで次女に別れを告げた。次女は列車でオスロへと一人引き返した上で旅を続けるというが、
我々3人は別列車でルンド(Lund)、マルメ(Malmö)を経て、「カテガット海峡」の狭水道に架かる鉄橋とトンネルを通過して、
夜10時頃にデンマークの首都コペンハーゲン駅へと滑り込んだ。
翌日私一人がコペンハーゲンから列車で再びスウェーデンのマルメへと向かった。途中にある空港駅を再び通過し、カテガット
海峡に架かる長大橋を渡った。同じEU圏内なのでパスポートコントロールもなく、気軽に行き来できるのは本当にありがたかった。
その利便性にはすこぶる助けられる。さて、「マルメ博物館」の傍を通り、真っ直ぐ「技術・海洋博物館」を目指した。
「海洋博物館(Sjofartsmuseet)」での主な展示品は、船舶関係では実物の「潜水艦U3」であった。博物館のすぐ脇では趣きの
あるミニ魚市場が賑わっていた。数多くの小さなテント小屋風のパビリオンが並び、大勢の買い物客が陳列台に並べられた魚貝類の
品定めに余念がなかった。これがスウェーデン風鮮魚売りの原風景なのであろうかと魅入った。上野のアメ横商店街をぎゅっと小ぶりにしたような感じである。
博物館の向かいには「世界海洋大学(World Maritime University)」という国連の一機関があった。キャンパスに少しでも足を踏
み入れるつもりであったが、そうしなかった。足を一歩でも踏み入れておくべきであったと、後で後悔したが遅かった。
素通りして次の目的地へと急いだ。
さて、「マルメ城」内にある「マルメ博物館」の附属水族館(Akvariet)へ足を向けた。マルメ駅方面へと水路沿いをぶらぶらと
歩いていると、港湾エリアと思しき所を通りかかった。本格的な灯台や「コグ(Kogg)博物館」などのすぐ近くを通りかかった。同博物館
が中世ハンザ同盟時代によく用いられた船種である、例の「コグ船」(英語: cog)にまつわる施設であるとは、全く気が付かず
見過ごしてしまった。当時見学できる時間はどれほど残されていたのか定かでないが、コグ船のことや北欧諸国・北ドイツ・ベルギー
などにおけるハンザ同盟の形成・発展史を学ぶことができたかもしれず残念であった。
その後、逆ルートの鉄路でコペンハーゲンへ戻り、その足で中世の港町にタイムスリップできる、例の世界的に名高い観光地区である
「ニューハウフン」の船着き場へ出向いた。そして、取って置きの「海と船のある風景」を求めてウォーターフロント界隈を散策した。今回
初めて当該船着き場界隈をじっくり散策する時間がとれた。時間を気にせず、中世的な波止場風景や木造帆船などの被写体を探し求め
つつ散策した。
係留船はさほど多くはないが、波止場の両側には中世の佇まいを彷彿とさせてくれる、趣きのある歴史的な建物がぎっしり
と並び建ち、どこを眺めても絵葉書になる風景であった。波止場からはコペンハーゲン港や運河を遊覧するクルーズ船が発着していた。
勿論これ幸いと乗船体験を楽しむことにした。
遊覧船は古いレンガ造りの倉庫群が建ち並ぶ狭い運河や旧商港地区へと船脚を進めた。古きよき時代
の原風景が遺っているものと、想像力を逞しくしながら水上から運河両岸を見上げた。別の狭い水路では、一人乗りなどのカヌーの
ローイングを楽しむ市民の実に優雅な姿にハッと目を奪われた。何故かその姿がやけに印象深く瞼に焼き付けられることになった。
その後、船は運河からコペンハーゲン港エリアに出でて、造船所などの主要な港湾施設を巡遊した。そして、遊覧船はアンデルセン童話ゆかり
の「人魚姫像」が小さな岩の上に据え付けられた岸辺へと最接近してくれた。
下船後再びお上りさんになって、陸側からマーメード像をカメラで切り撮るべく足を向けた。観光客の中には我先に記念撮影しようと、
像に抱きつけるほどに接近しハイテンションでツーショットを撮っていた。私はさらに海沿いに散策を続け、ヨットのマストが林立
するマリーナを目指して歩を進めた。
さて、マリーナに辿り着いたところで日没を迎えた。ヨット群の数多のマストが
黄昏行く茜空に天高く突き刺す風景は美しかった。そんな優美なマリーナのど真ん中で暫しのんびりと一人贅沢な時間を過ごした。そして、
完全に陽が没したところで、最寄り駅から電車に飛び乗り、家族の待つホステルの最寄駅であった「中央駅」へと戻った。
翌日、家族3人でコペンハーゲンから海沿いに電車で北上し、港町ヘルシングエーアへ出掛けた。コペンの北約44㎞にある港町である。そこで
訪ねた「クロンボ―城(Kronborg)」はシェークスピアのロミオとジュリエットの「ハムレット」の舞台として有名であるという。
「カテガット海峡」最狭部の「エアスン海峡」をはさんで、ヘルシングエーアの対岸にある町はスウェーデンのヘルシンボリ
(Helsingborg)で、距離にして5kmほどである。北海とバルト海とを結ぶ国際海峡が横たわっていて大変重要な「水の回廊(チョークポイント)」
となっている。
ところで、偶然にも何とクロンボー城内には「航海・海洋博物館(Maritime Museum of Kronborg)」があること
を現地で知った。家族と別行動を取り、何を置いても先ずは博物館に駆けつけ、数多くの船舶模型が展示される館内をじっくりと見学した。
翌日には、コペンハーゲンの西方数十㎞の郊外にあるロスキレに所在する「バイキング博物館(VikingeskibsMuseet)」 へ一人電車に飛び
乗り同館を目指した。コペンハーゲンは今回が2度目であった。初回はJICA水産室勤務時代の1982年11月であった。
チュニジアの「マディア漁業訓練センター」プロジェクト(1980~1982年頃に担当した)の現地調査からの帰途、コペンで
トランジットのため一泊した。その時わざわざ時間を工面して団員3人で同館を訪れた。その時から数えればもうかれこれ20数年の時が流れていた。
当時コペンハーゲン市内の散策は殆どせず、ロスキレへの弾丸ツアーへ他の団員二人に無理やり付き合ってもらうことになった。
それもタクシー代など一人100ドルほどの個人負担をお願いしてのことであった。
だが、後で訊ねて見ると「博物館は非常に良かった」と言ってもらい、ほっと胸を撫で下ろしたことを憶えている。
ところで、同博物館に展示される古代バイキング船のことであるが、西暦1000年頃からロスキレ・フィヨルドの入り口(フィヨルドの
最奥の町であるロスキレから20㎞ほど北にある)に5隻のバイキング船が沈められていた。バイキングがフィヨルドへの外的侵入を
防御するために、船を沈めたものである。いわば水中防護壁が造られていた。
1962年に「デンマーク国立博物館」が発掘・復元して展示したのがそれらの船である。今回再訪してみて、館内展示のバイキング船の
様相は殆ど変わっていないと見て取ったが、初回時に比べて、特に館の外回りは格段に整備され充実したものになっているという
強い印象をもった。
最初の訪問時においては、同館敷地内にバイキング船の展示館だけがぽつんとあるとの印象であった。だが、今回では、その
敷地内に、木材を加工してバイキング船のキール・肋材・外板・梁などの部材を製作し、組み立ての実演を行なうなど、多くの展示室
兼工房(パビリオン)が設置されていることに新鮮さを感じ、また大きな感銘を受けた。
実際に船大工が製作する工程をつぶさに見学できるようになっていて、老若男女を問わず、バイキング船への知的好奇心を促すため高め
数多くの工夫が随所に見られた。最初の訪問時には時間的余裕が乏しくて急ぎ足の見学であったためそれらの工房が目に入らなかった
だけなのか、それともその後になって新たに整備されたものなのかは定かではない。
格段に整備されたとの印象を抱いたのはそれらの工房だけではなかった。興味津々のもう一つの新鮮な風景があった。敷地内のウォーターフロン
トには板張り式の長い桟橋が設けられ、実物大のバイキング船などが繋がれていた。そして、桟橋では数十名の観光客が指導員の指揮の下
復元されたバイキング船に乗り込み、オールを漕いで沖に出ようとしていた。陸上で漕ぎ方を教わり操練した後、海上での漕練を実際に
体験ができるようになっていた。
かくして、北欧3ヶ国の旅を通して、古代バイキング船のことを学び多くの写真を切り撮ることもできた。明日はいよ
いよ家族と別れて、ドイツのハンブルグ、さらにオランダのアムステルダムへ単独向かうことになる。ロスキレからの帰途の列車の
中で、明日から一人旅となることを思い起こし、寂しさを埋める心の準備を始めた。
翌日、コペンハーゲン駅から家族に見送られて国際特急列車に乗り込み、ハンブルグを目指した。列車はデンマーク領の幾つかの島嶼
に広がる美しい田園地帯を快走し続けた。夜半になって、列車ごと大型フェリーに載せられた。甲板に出て潮風に当たっているうちに、
対岸のドイツ領の港町の灯りが見えてきた。夜のうちの渡海であったため何の海景色も見えず、海岸沿いの明かりの連なりを眺める程度であった。
ユトランド半島の付け根辺りを、「ノルト・オストゼー運河」、即ち一般的に「キール運河」と称される水路が東西方向に伸び港市
キールへと繋がっている。実はデンマークには多くの海洋・漁業の歴史文化施設があるが、今回の旅中それらを訪ねることはできなかった。また、
北ドイツの「キール運河」とキールへの探訪についてもまたの機会にせざるをえなかった。
さて、列車は夜遅くハンブルグ駅へと滑り込んだ。予約しておいた駅近くのホステルへは殆ど迷わず時間的ロスなくチェックインできた。
翌日ハンブルグの港町をじっくり散策しようと早朝に地下鉄で港へと向かった。エルベ川沿いに発達したハンブルグには両岸に広がる大規模な
河川港がある。目当てのエルベ川沿いの「船舶博物館」は分かりやすかった。目的地の駅で下車してみると、眼下の川沿いに幾隻もの
それらしき展示船舶が係留されていた。実は港でのそれらの船舶風景なるものは到着後半時間ほど経ってから目にすることになった。
というのは、駅に降り立った早朝時は、エルベ川やその川岸一体はかなり濃い霧にすっぽりと包まれていたからである。
思いもよらぬ濃霧でどの辺りがハンブルグ港なのかさっぱり見当もつかない状況に戸惑っていた。腹をくくって我慢の子になって時間
待ちをしていると、太陽が昇り始め次第に霧が薄くなり始めた。そして、博物館となっている4本マストの大型帆船「リッカーメール号(Museumsschiff Rickmer Rickermers)」が霧の中から徐々にベールが取り除かれ、その薄っすらとしたエレガントな姿を現し始めた。
帆船全体がぼーっと霧に包まれるという、余りにも幻想的風景に遭遇した。霧が晴れ行きて超優美な全装帆船の姿を現すまでじっと
見詰め続けていた。
エルベ川の岸沿いにはその他、戦時標準船のような古い貨物船「キャプテン・サンディエゴ号(Cap San Diego)」の他、
灯台船「Das Feuerschiff LV13号」など、数多くの船舶が係留・公開されていた。水上飛行機も岸辺の水上ポートに駐機していた。生まれて
初めて水上飛行機の機影を間近に見ることができた。それまでは映画の中でしか見たことがなかった。
さて、折角訪れたハンブルグ港なので、眼内のスクリーンに深く焼き付けようと遊覧船に乗り込み、古い倉庫群・浮きドック・石油精製施設・
水閘門など、エルベ川両岸に広がるハンブルグ港の雑多なリバーサイド風景を楽しんだ。旅程にもっと余裕があれば、エルベ川の岸伝いに
下り行き海事や船舶に因んだ歴史文化施設をもっと見学できたであろうが、いつか別の機会とする他なかった。
翌日ハンブルグ駅で飛び乗った列車はブレーメンを経由しながら田園の中を快適にひた走り、ついに最終目的地であるオランダ・アムステルダム
の「中央駅」へと滑り込んだ。
かくして、20数年ぶりにアムステルダムの土を踏みしめた。今回はひとえに「アムステルダム海洋博物館(Nederlands Scheepvaart
Museum)」を訪ねるためであった。昔アムステルダムに足を踏み入れながら同館を訪問できなかったが、今回リカバリーを果たすことができた。
さて、「中央駅」に近い「Piet Heinkade通り」を歩き出してまもなく、遠くの桟橋に横付けになっているシップ型大型帆船に気付いた。
格好の被写体を切り撮れるチャンスを逃すまいと帆船を目指した。「Stad Amsterdam」という船名であった。
オランダの航海訓練船らしかった。
初めてアムステルダムを訪れたのは1980年代初め頃の、JICA水産室勤務時代にチュニジアへ出張した時のことであった。
他団員と行動を共にしていたこともあり、「海洋博物館」への個人的訪問を優先させて単独行動をとる訳にも行かなかった。団員全員で
楽しんだのは、市街地の中でも「中央駅」周辺におけるそぞろ歩きと運河遊覧くらいなものであった。海洋博物館探訪のアイデアは
東京を離れる段階から頭からすっぽりと抜け落ちていた。要するに、最初から同博物館を訪ねることを諦めていた。
だが、二回目の今回は全く違った。今回は同館だけを目指してアムステルダムに立ち寄るという力の入れ様であった。
30歳代前半の若かりし1980年代にあっては、「飾り窓の女」の館が居並ぶ通りをたむろ
することに余程気を取られていたのかも知れない。同館への訪問については初めから散策プランに組み入れるアイデアなど持ち合わせて
いなかったのであろう。
世界海洋の覇権争いの先陣を切っていたのは、ポルトガルやスペイン、さらに英国でありオランダであった。オランダは海洋列強諸国
の後陣を配しながらも、世界の海を縦横に行き交い、1600年代初めに設立の「オランダ東インド会社」をもって、インドネシア、マレーシア・マラッカ、マカオ、日本などに交易・植民の拠点を築き、権益を拡大すると共に熾烈な覇権争いを繰り広げ、ついには「海洋王国」として
の地位を強固にしつつあった。
同博物館では、16~18世紀の頃の覇権争いを勝ち抜き世界海洋に君臨したという経済的繁栄と栄華の歴史を示す数多くの歴史的
人工遺物を見ることができる。博物館では実物の全装帆船「アムステルダム号」という戦列艦が係船展示され、その偉容を誇っている。
同艦を含め、歴史文化的価値の髙い陳列品が数え切れないほど配されている。一章一節をもって語ることは到底できるものではない。
一日中館内を巡りに巡った結果、疲れ果ててしまった。全てを巡覧して回ることを放棄することにした。そして、疲れを癒すため、その後
放射線状かつ同心円状に広がる運河網のほんの一部を遊覧船でクルーズすることにした。かつてチュニジア出張途上トランジットした
折に、他団員2名とクルーズする機会を得た。だが、当時の記憶は殆ど薄れていたので、今回もう一度遊覧体験を楽しむことにした。
そして、船上から運河沿いに建ち並ぶレンガ造りの洒落た佇まい風景を見上げながら、アムステルダムのかつての繁栄の面影を追い続けた。
パリのバトー・ムーシュのような遊覧船で運河を縦横に巡るとともに、「中央駅」を起点にして自分の足で街の中心部を心行くまで
そぞろ歩きすることにした。「聖ニコラス教会」を眺めつつ、「ダムラック通り(Damrak)」を歩き、「新しい市場広場(Nieuwmarkt)」
前に辿り着いた。そして、「モンテルバーンの塔」などの歴史的建造物を眺めながら、オープンテラスでビールを傾けて暫し一息入れた。
一人物思いにふけりながら暫し至福の時間を過ごした。ほろ酔い加減となり、昔オランダが、北海でのニシン漁で国家経済の基盤
を築いたこと、オランダと英国とがマレーシアのマラッカや、インドネシアのスパイス・アイランド(香料諸島)の「テルナテ島」など
の支配を巡って覇権争いを繰り広げたこと、オランダ船による平戸への来航や長崎・出島での交易のことなど、歴史の断片を思い起こ
しながら、かつてオランダが栄華を極めていた頃の時空にタイムスリップし空想に耽った。ふと我に返り気が付けば日が暮れていた。
思い起こせば、1980年代初めのJICA水産室勤務時代のこと、チュニジアへの出張途上においてアムステルダムに立ち寄ったが、パリの街
とは趣きの異なるものを感じながら、森敬四郎調査団長や水産庁・小圷覚団員らと運河沿いにそぞろ歩いた。運河沿いに
立ち並ぶ、彼の有名な「飾り窓の女」の館の寝室に、ガラス窓越しにちらちらと視線を注ぎ込みながら歩いたりもした。
館内のベッドにねそべったり、椅子に腰掛ける女性は何の恥じらいもなく、むしろこちらが目をそらせたくなるほど大胆な視線を浴びせて
来る。時には玄関ドアの前で曲線美を見せつけながら、女性はさらに大胆に誘惑の声と視線を投げ掛けて来る。こちらがどぎまぎするほどである。
そんな散策時のこと、ハッと驚くことに出会った。先生が引率していたかどうかは気付かなかったが、オランダ人らしき女子高生の
一団が、気恥ずかしさの欠片も見せることなくわいわいと騒ぎながら、平然と、そして時に飾り窓の中を覗き込みこみながら通り
過ぎて行った。修学旅行か社会見学なのか何用なのか不詳であるが、あっけらかんとしていた。
さて、当時我々団員三人は歩き疲れたところで、運河に架かる小橋を渡ってすぐの狭い路地に面し、薄暗い明かりを灯した
パブで一休みしてビールで喉を潤すことにした。そのパブの所在はどの辺りであったのか殆ど記憶していなかった。ただ一点だけ記憶に
残っていたのは、そのパブは、その小橋を渡るとすぐに「飾り窓の女」の館が建ち並ぶ運河沿いの通りと交差していたことである。そして、
そのすぐ先の路地に面していたことである。
アムステルダムは運河の街であり、運河に面したり交差する通りは無数に存在していた。そこでアムステルダム「中央駅」からそう遠く
ないところで、しかも「飾り窓の女」の通り周辺をあちこち行き来しながら、かすかな記憶を頼りに、今回そのパブを探してみようと
うろつき回った。日がとっくに暮れていたので、スナック程度の夕食を腹に入れて体力と気力を蘇らせた後、再び気合を入れて歩き回った。
だが、酷く曖昧な記憶をもっていくら探索しても見つけられず、ついに疲れ果ててしまい探すことを諦めた。そして、「中央駅」が
所在すると思しき方角に足を向け、人の流れに身を任せながらとぼとぼと歩んだ。
諦めた後における偶然の出会いとは実に不思議なものである。「飾り窓の女」の通りを横目に見ながら運河に架かる一本の小橋を渡り、
そのまま直進して狭い路地を通り抜けようとした時のことである。「何となく見たことがある」というインスピレーションが一瞬
脳裏をかすめた。そして、その狭い路地を通り過ぎた辺りで、念のためと言うか何気なくと言うか、後ろを振り返った。何と、脳内の
回路が急に刺激を受けたようで、そのパブの現風景と、脳裏に記憶されてきた数十年前のパブの残像とが照合された。そして、じわっと重なり合い
ロックオンされた。
今度はしっかりと後ろ向きになって立ち止まり、まじまじとそのパブを見詰め直した。さらに近づいて窓越しに中を覗き込んだ。
「三人でジョッキーを傾けたのはまさにこのパブで、あのテーブルだ!」と合点した。現在と過去の画像がほぼ完全にシンクロナイズされた。
偶然なるかな、かすかな記憶を基についに辿り着いた。過去に戻れないことは分かってはいるが、若き日の記憶の一コマが当時の現場で蘇り
ただただ心底懐かしかった。
思いがけずパブに辿り着けた。だが、よく観ると椅子は片隅に寄せられどうも開店休業しているようであった。
パブは少し廃れた感があったが、あのテーブルで三人が腰掛けジョッキ片手に、「明日はいよいよチュニジア入りだ!」と意気揚々と
談笑していたことを昨日の出来事のように思い出した。当時の夜の街の賑わいと、息を弾ませながら三人で交わした会話が
今にも蘇ってきそうであった。
足を棒にして探し回しても辿り着けなかったそのパブではあったが、偶然にもその狭い路地を抜けようとしたがゆえに、
かつてのパブにタイムスリップすることができた。その偶然のいたずらに我ながらびっくり仰天、誰に感謝すべきか分からないが
一人感激の涙であった。
さて、現実の時空に舞い戻った。明日はアムステルダムからサウジアラビアに帰る日である。家族と巡る楽しい北欧の旅であった。
森や湖・フィヨルドの大自然に触れて、酸素をたっぷり補給できた旅であった。さて、翌日スキポール空港から
チューリッヒ経由でリヤドに向けて機上の人となった。そして、胸には何ともいえない重苦しい圧迫感が襲ってきた。
コンパウンドのゲートを出て、荒涼とした砂漠風景を目にしながら、リング・ロードを疾走しJICA事務所へ向かうという、いつもの朝の
日常が戻ってきた。砂漠風景に溶け込みながら車を走らせるうちに、じわじわといつもの緊張感が高まって来た。主観的な感覚だが、
国外へ旅するとサウジが想像以上に異文化・異環境のイスラム教国であることが否応なしに意識させられる。再びサウジの現実世界
に身を置けば、何をどうしょうとも現実の異次元の世界がつねにつきまとう。100%それを是認しつつも、その異次元的世界を楽しむ
ことこそが、サウジでの究極的身の処し方である。
さて、リヤド赴任が2年も過ぎれば、58歳の役職定年が目の前に迫りつつあった。帰国後すぐに退職手続きとなる。
退職後は国内ではなく、再び国外で国際協力の最前線に立つことを希望していた。遠い先の将来については全く未定ではあったが、
完全に離職した暁には「海洋辞典づくり」に専念したいと漠然と考えていた。少なくとも、離職後には「選択と集中」という薙刀を
振るって、辞典のトータル・リニューアルに取り組みたいと思っていた。
辞典のコンテンツについて言えば、これまでは拡大一辺倒のやり方で進めてきた。コンテンツの拡大に余りにも前のめりになり過ぎ、
「目下、作成中」のとの文言を付したページが多くアップロードされていた。「半端なページが多々散見され、
見苦しい状況にある」と日頃から自省の日々であった。辞典への訪問者からすれば、「これ何!」とがっかりすることも多かった
はずである。早く何とか刷新したいと、幾分どころか相当の焦りを感じていた。
ところで、サウジアラビア事務所長の後任者がすぐに決まるとは考えにくかった。結局3年目の2007年の初め頃、後任人事の内示が
本部から漏れ伝わって来た。そして、業務の積み残しの見直しだけでなく、サウジのJICA技術協力からの
「卒業」とそのソフトランディングの方向性・方法論、JICA有償技術協力の可能性などについての諸課題を今一度本腰を入れて
見直すべく集中的に取り組んだ。
他方で、これまでのアラビア半島時計回りの最後の旅についてのプランをあれこれ思い巡らせることにした。年末年始の旅プランとして、
これまで北欧まで伸ばしていた「旅程線」を次はかなり短くし、フランスのマルセイユからイタリアのベニスまでの地中海沿岸を巡る旅を模索
してみることにした。特に「モナコ海洋博物館」については、サウジ在任中での絶好の機会として訪ねたいという強い願望をなおも胸中に
しまい込んでいた。
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