翌日、列車でモナコを発ち中世海洋都市国家であったジェノバへと向かった。列車はフランスのコートダジュールからいつの
間にか国境を越え、イタリアのリビエラ海岸を快走していた。列車から眺めるリビエラの海岸もまた、コートダジュールに劣らず、
絵葉書になるような海景の連続であった。初めて見る私にとっては、道中魅了され続け、飽きる寸暇もない列車の旅となった。
ジェノバに到着後予約しておいたプチ・ホテルを探し出し、首尾よくチェックインできた。そして、夕暮れまではまだ少し時間があったので、
すぐに散策の身支度を整え街へ飛び出した。地図を頼りに旧市街方面へと向かった。そして、旧市街へのゲートウェイの一つである
「ソプラーナ門(Porta Soprana)」に何とか辿り着いた。「バルバロッサ皇帝フリードリヒ I 世 (神聖ローマ皇帝)」からジェノバ
を防御するために、1155年にジェノバを取り囲む城壁が建設された。それ以降同門は西側から城壁内へ通じるゲートとなっていたという。
「ソプラーノ門」のすぐ手前に「クリストファー・コロンブスが生まれ育った家である」と英語で記される、目当ての家を
ようやく見つけた。一度は訪ねて見たかった史跡である。レンガ造りのマッチ箱型のような小さな家(復元)であった。
彼がジェノバに住んでいたのは確かであるが、それが彼の住んでいた実際の家であるかは不明だと言う。その後、彼の家の
すぐ先にあって高くそびえ立つ「ソプラーナ門」をくぐり抜け、歴史の重厚さを感じながらおもむろに旧市街へと足を踏み入れた。
幅4~5メートルあるかないかの狭い石畳の路地を進んだ。中世の街の情趣がたっぷりと遺されていた。
むしろ中世の街風情そのものと言い得た。あちこちで枝分かれして迷路のように入り組む狭い路地を手探りで辿った。途中古い教会や
小さな広場が現われた。港を目指す以外には何の確かな目的もなかったので、酷い迷路に深入りしても困り果てるようなこともなかった。
路地の両側には4~5階建てのレンガ造りの家々の垂直壁が連なり、昼間でも太陽光が遮られ薄暗い。まさに中世のジェノバの旧市街
へタイムスリップした感覚を楽しみながら、黒光りする石畳の道を辿り進んだ。枝分かれした路地の角から突然コロンブスが現われて
すれ違ったとしても何の不思議もないほどであった。
旧市街を2、30分で通り抜けると、そこは「ベッキオ港」のウォーターフロントであった。
岸壁にはガレオン船のような、いかにも年代ものの木造帆船(復元)が係留され、そのすぐ近傍のウォーターフロントには
「ガラタ海洋博物館(Galata Museo del Mare)」や水族館の近代的構造物が建ち並んでいた。岸壁沿いを行ったり来たりしながら周辺を
散策した。夜の帳がすっかり降りてきたので、宿泊先に戻って明日の本格的な博物館巡覧やウォーターフロント探索に備えることにした。
さて、旧市街の迷路に再び足を踏み入れ、「ソプラーナ門」に辿り着けるか挑戦することにした。教会や広場に出ると路地は四方
八方に分岐しており、辿るべき道の選択に迷った。あちこちの角で曲がり損ねを繰り返しながら、何とか例の西の門まで戻ることができた。
さて、同門をくぐり抜ける直前に、城壁に沿って脇道が通じていることに気付き、その先にある坂道のほんの少し上方に「赤提灯」
を見た。いわばイタリア風居酒屋であった。そこで、一人乾杯の盃を上げながら年越しをすることにした。その日は大みそかであった。
1時間半ほどすれば2007年の新春を迎える。居酒屋から路地へテラス風に少しはみ出して置かれたテーブルに腰を落ち着けた。今年は
そこで年を越すことにした。リヤドでノンアルコール缶ビールで一人新年を迎えるよりは余程ましであった。
来年はどんな年になるのか。58歳の役職定年後のことや、日本にいる家族のこと、「オンライン海洋辞典」づくりのことなど、ワイン
グラスを傾けながら想い巡らせた。その時点では、早期退職後の予定として中米のニカラグアへの赴任が内々にほぼ決まりかけていた。
翌日早朝、ほぼ同じルートを辿りベッキオ港のウォーターフロントへ向かった。目指すは「ジェノバ水族館」の少し先に停泊展示されていた例の3層
甲板戦列艦のガレオン「ネプテューン号」(復元船)であった。船尾楼には巨大な回廊をもち、その最上部には3つの船尾角灯を備え、船首楼の先端には巨大なバウスプリット(斜檣)
をもつ。いかにも堅牢かつ屈強そうな戦艦という様相であった。その巨艦内部をくまなく巡覧した。
「ネプテューン号」は今まで書物でしか見たことのなかった、いわばジェノバ海洋都市国家時代を代表する戦列艦のようで、
その艦姿は迫力満点であった。同艦近傍のウォーターフロントに建つ「水族館」には、数多くの魚類生物の水槽や貝類標本の他、
マゼラン、コロンブス、リンネ、クックらの航海探検に関するパネル展示がなされ、じっくり見学した。波止場のその先にある
「ダルセナ(Darsena)」には、ジェノバ訪問の目途の一つにしていた「海洋博物館」がある。
さて、「海洋博物館」を巡覧するうちに興奮が最高潮に達した。展示品一つ一つと真剣に向き合い、時に画像として切り撮った。
最も釘付けになった展示品の一つは、ガレー船の漕手らが船上で漕ぐために腰掛けるベンチであった。どんな大きさや太さのオールを
漕いでいたのか、どんな漕ぎ座に着座していたのかを体験できる実物大のセットである。
木造船のキールおよび肋骨を組み立てる造船所の大型ジオラマもなかなか迫力があった。その船舶設計や部材・金具の製作
作業場などのジオラマも興味深かった。
同博物館では、中世および大航海時代から近代に至るまでの、英国・オランダ・フランス・イタリアを中心とする数多くの船舶模型、
船体構造模型、古帆船の船首像、帆船や海戦などの絵画、大航海時代から近代までのいろいろな航海用具(天体高度観測器、四分儀、六分儀、
クロス・スタッフ、アストロラーベ、天文儀、古式コンパス、クロノメーター、砂時計、パテントログなど)、1500年代の地中海周縁
の古海図、全装2~3層甲板で40~50門の大砲を装備する帆船軍艦のフル模型やハーフモデル、アンフォラ積載商船のジオラマや
その海底考古学的遺物、ジェノバ・ガレー船の模型や各種装備および漕手らの船上生活などに関する資料、大砲などの兵器類、19~20
世紀のイタリア客船などの模型などがぎっしりと陳列されていた。中でも最も魅了されたのは、ガレオン船を建造する造船所の巨大ジオラマと実物大のガレー船の展示であった。
さて、ジェノバから最後の目的地であるベネチア(ベニス)へ向かった。かつてマルコ・ポーロが中国(元朝の時代)へ出立した
時の起点となった海洋都市である。ミラノで乗り換えたのはよいが、何故かベローナ経由ベネチア行き特急列車は観光客などの乗客
ですし詰め状態であった。そんな中、日本と違って低位置にあるプラットフォームから大きいスーツケースを抱えたままデッキに上がる
のは容易ではなかった。デッキの乗客が手を差し伸べてくれたので、なんとかデッキに上り込むことができた。
だが、車内は東京でのラッシュアワー並みのひどい混雑ぶりであった。指定席券を所持していたが、重いスーツケースを抱えた
ままではデッキから車内奥へとても割り込めなかった。それに、乗り込んだ客車が果たして指定席券通りだったのか、それも自信が
もてなかった。今頃は指定座席は誰かに占拠されているに違いと、車内へ突進する気力はとっくに失せてしまっていた。乗り込めただけでもラッキーといえた。
ほとんど身動きできないまま、ベネチアまで数時間我慢する他なかった。
列車はちょうど中間地点にあるベローナという大きな
都市に到着し、かなりの乗客が降りた。ほんの少しだけ居場所に余裕ができ、直立姿勢を崩すことができ救われた。この有様だと
終着点のベネチアで下車しても宿を見つけるのは難しいと思い、ベネチアの一駅手前の駅で下車し、ホテルを飛び込みで当たってみる
ことにした。駅から15分ほど目抜き通り沿いに歩いたところで運よく2~3つ星レベルのホテルを見つけ、これ幸いと2泊投宿することが
できた。
翌日、電車にてイタリア本土とベネチアとの間の海を埋め立てて造作されたコーズウェイを快走した。
コーズウェイ両岸にはアドリア海最奥部の海が広がり、潮の香りとオゾンに満ち溢れていた。そして、造船所
や大型客船などが発着する港などを通り過ぎて、ベネチアの終着点「サンタルチア駅」へと滑り込んだ。
駅前の広場から人流に身を任せて進み行くと、水上バスの大きな発着場に行き着いた。そこで「サンマルコ広場」や「サンピエトロ寺院」
方面に向かう水上バスに乗船した。かくして、初めてベネチアの運河を辿り、水上からベネチアの街風景を眺めることになった。
そして、アーチ型で石造りの例の「リアルト橋」が視界に入った時には、「ついに水の都ベニスに至れり!」と感涙であった。
ベニスで一度は体験したかったことは、ベニスのランドマークの一つであるであるこの「リアルト橋」をゴンドラでくぐったり、
また橋上から水上バスやゴンドラが大運河を行き交う水辺風景をじっくり見下ろし、活写することであった。さて、水上バスは、
大運河から外海へ出たところにある「サンマルコ広場」や「サンピエトロ寺院」の前に立地する水上バス発着場に横付けになった。
その発着場の斜め対面に立つ別の大聖堂がひと際目立ってそびえていた。
さて、そこで水上バスを乗り換え、もう少し先にある水上バス停「アルセナル」で下船した。そして、海沿いに何百メートル
か歩いて「海事博物館」へと辿り着いた。イタリアでの本格的な海洋博物館としてはジェノバに次ぐものであり、その見学に高揚しワクワクしな
がら館内へと足を踏み入れた。ベネチアは、その昔ジェノバとライバル同士であり、ジェノバと同様の海洋都市
国家としての永い歴史を歩んできた。故に、ベネチアの海洋博物館はジェノバのそれに優るとも劣らぬものと期待した。
正式には「海洋歴史博物館(Museo Storico Navale)」という名称であった。さて、今日の入館は私が朝一番乗りのようであった。
午前中の早い時間帯に辿り着いて正解であった。というのも、その日の開館時間は午後1時までの半日のみであり、その後は閉館と
なっていたからである。古代ローマ時代のさまざまなタイプのガレー船の模型が展示されていた。模型の数の多さやその精密さと言い、さすがに
見応えのあるものばかりで感涙させられた。館内の展示を詳細に語るのはとても荷が重いので、主な展示品を集約的に列挙することに
しておきたい。
大航海時代の16世紀から18世紀頃にかけてのいろいろな船舶模型(ガレー、ガレオン、ベネチア軍船、ガレアス、ブリガンチン、
ジーベック、フリゲート、戦列艦など)の他、18世紀のベネチア1~3級軍艦の船体構造模型、
ガレー船などの多数の船首像や船体フレーム模型、各種ポルトラーノ海図、17世紀以降の各種航海用具(砂時計、日時計、太陽髙度計、
船内時計、クロノメーター、グラフォメーター、天球儀、海洋観測器具、八分儀、各種大砲類)、海軍将官らの制服、多数の現近代の
軍艦船模型、フェニキア・エジプトの船模型、ネミ湖で発掘された古代ローマ船模型、ベネチア造船所鳥瞰図や模型など、所狭しと
展示され、それらの画像を諸々切り撮ることができた。圧巻は大型ガレー船 (三段櫂漕船) の部分的かつ実物大の構造模型
であり、3人の漕手が3段になって3本の櫂を同時に揃えて漕ぐものであった。
さて、午後1時の閉館時間きっかりに館から追い出され、その後は近傍にある昔の造船所跡 (現在は海軍施設となっている)
界隈を散策した。翌日の日曜日は休館日となっていた。そんな博物館を午前中の半日だけでも巡覧できたことは大変運が良かった。
かくして、心に喜びを噛みしめ足取りも軽やかにベネチアの散策を続け、先ずは「サンマルコ広場」へと向かった。
その道中で、はっと心に刺さる感動的な光景を見た。歩いていた路地は、ゴンドラも通らないような細い水路と平行していた。
その運河の水は清いとは言えなかった。だが、何の揺らぎもない鏡のような水面であった。そこに周囲の中世風建物がブルー
スカイをバックに映し込まれていた。まるで水面をブルーのキャンバスに見立てて水彩の風景画を描いたようであった。暫く、
その感動的アート作品に見惚れていた。そして、それを切り撮り「運河に映るベニスの街角風景」として持ち帰ることにした。
折角の旅なのでお上りさんになって、「サンペトロ寺院」の中に足を踏み入れ、心を浄めることにした。そして、「サンマルコ広場」
の周りの回廊をウインドーショッピングしながら、ぶらぶらとそぞろ歩きをしだ。その後、一度はゴンドラに揺られて運河巡りをする
ことにした。ゴンドラを自分一人独占しながら船遊びをするのは、貧乏性である私には似合わないので、水上バスのような
乗り合い式のゴンドラに揺られることにした。
ゴンドラは迷路のように複雑に入り組んだ水路をゆっくりと漕ぎ進んだ。運河に面した住宅には大抵の場合、その玄関扉の前に
数段の上り階段が施され、乗降のためのちょっとした船寄せ場がある。
時にゴンドラは、他のゴンドラと行き交うこともままならないほどの狭水路を巧に操られながら優雅に進み行く。
水面から見上げる街風景は、陸上をはう路地から見る街風景とは趣きが全く異なり、船上で束の間のゆったりとした
贅沢な時間を過ごすことができ、ベネチアを何倍も楽しめた。下船後もう一度「サンマルコ広場」辺りをたむろした。マルコ・ポーロ
もたむろしたはずのベネチアを代表する寺院や広場界隈を去り難かったからである。マルコ・ポーロはいつもどの辺りをたむろして
いたのだろうかと想像しながら、広場を去るタイミングを探している自分がいた。
さて、話しは少し横道にそれるが、マルコ・ポーロらの東方世界への大冒険旅行について触れたい。
マルコ・ポーロは、1271年、父や叔父と共に3人で、ベネチアを出港し、地中海を航海し、現在のイスラエル北部のアッコ
(現シリアのアレッポに近い港)で上陸し、東方に向けて陸路を辿り始めた。マルコら一行は、先ず
小アジアのアナトリア高原を横切り、当時はイル・ハン国 (1258~1353年) の治世下にあったダブリーズやイラン高原の
シーラーズ、さらに今のイランとの国境に近いアフガニスタンの都市ヘラート (これらのいずれの都市もイル・ハン国の
治世下にあった)に足を踏み入れた。
その後、パミール高原を越え、タクマラカン砂漠西方の都市カシュガルへ辿り着いた 。カシュガルは当時チャガタイ
・ハン国 (1307年~16世紀) の治世下で、現在の中国新疆ウイグル自治区に所在する。その後、同砂漠の南側に伸びる「西域南道」を通り、
3年半の旅の末、ついにフビライが君臨する元の中心都市・大都(現在の北京)に辿り着いた(マルコらが到着した正確な日付は不明である)。
マルコはフビライに気に入られ、17年間特使として仕えた。
[参考] 元のフビライは日本に朝貢(ちょうこう)と服属を要求したが、鎌倉幕府がこれを拒否したため、1274年と1281年の2回にわたり、
元軍が九州北部に来襲した(いわゆる「元寇」である)。
1290年代初期のこと、折りしも「イル・ハン国」の使節団が、同国のアルグン・ハンの妃に内定していたコカチン姫を大都に迎えに
来ていた。しかし、使節団は「ハイドゥの乱」のために陸路を取ることができず、南海航路にて妃を帯同することになった。
その時同航路に詳しいマルコらが同行することになった。さて、
17年間中国に滞在したマルコらは1292年に帰国の途に着き、泉州からは14隻のジャンク船団を組んで「イル・ハン国」を目指し
出港した。
現在のベトナムの「チャンパー (占城・せんじょう) 国」を経て、スマトラ島では5ヶ月間の風待ちをした後、セイロン島、
インド西岸マラバール地方を経由しインド洋を横切り、アラビア海を経て、1293年2月頃に「オルムス(Ormus,、ホルムズともいう)」
に上陸した。航海は2年間にわたった。決して平穏なものではなかったが、コカチン妃やマルコら3人は無事ホルムスに辿り着いた。オルムス到着後
執り行われた結婚祝賀会を終えると、マルコら一行は陸路でイラン高原のシーラーズ、ダブリーズへと歩を進め、黒海の南東沿岸にある
今のトラブゾンの港へと向かった。そこからコンスタンティノーブルへ、更にエーゲ海・アドリア海を経て、1295年にベネチアに
戻った。通算24年間に及ぶ大冒険の旅をここに終えた。
帰国後、マルコはジェノバとの戦争に志願し参加したが、捕虜となって投獄されるに至った。投獄期間中に囚人仲間に旅の道中
や中国滞在中に体験・見聞した話を聞かせたが、これが後に「世界の記述」、即ち「東方見聞録」として残された。
マルコ・ポーロの話を口述筆記した原本は早くから失われたという。多数の写本が過去に残されてきたが、それら写本の間においても
有意な差が見られるという。ジパング(日本)、カタイ(中国)を目指したコロンブスは、1492年「新世界」に辿り着いたが、
コロンブスはその西廻り大航海を着想する当たり同見聞録を読んでいたに違いないと言われる。
さて、「マルコ広場」を後にして、ベネチアの終着駅「サンタルチア駅」へと足を向けた。どこを見ても中世にタイムスリップした
かような狭い路地をあちらこちらでつっかえ岐路選択に迷いながら歩を進めた。そして、暫くしてたまたまパスタ・レストランの傍を
通りかかった。早目の夕食としてスパゲッティを食することにした。旅の最後の「一人晩餐会」なので、ビーノ・ブランコ・デ・
ラ・カサ(レストラン専用に醸造されるハウスワインの白)を注文した。
やがて、新鮮なサラダ(トマトも最高の味であった)とシーフード風ペペロンチーノがテーブルに運び込
まれてきた。そしてスパゲッティを食してびっくりした。パスタの湯で加減、味と言い、人生で最も美味しいスパゲティを味わった。
私的には人生最高のパスタに思えた。ハウスワインも上々であった。今回の旅道中で、時間を気にすることなくワインをたっぷりと味わい
ながらプチ贅沢をしたのは、これが最初で最後であった。レストランの名前まで記録しておいた。「ダ・ロベルト(Da Roberto)」
というレストラン兼ピザ屋(trattoria、pizzeria)で、住所は「Campo S. Provolo通り4707番」であった。
その後、重い腰を上げてまた路地を歩き出したが、予定を変えて「リアルト橋」までは水上バスで行くことにした。
「リアルト橋」の上から大運河を行き交う水上バスやゴンドラなどの大運河風景を暫く楽しんだ。夕暮れ時で、運河の水面が
茜色に染まる中、沢山のゴンドラが優雅に往来する。時に、日用雑貨や食料品を山積みにした物売りボートが橋下を通過して行く。
まさに「動く食料品店」であった。ルートが決められた定期運航水上バス、小型運搬船などがひっきりなしに通り過ぎる。
運河沿いの住宅の玄関前の上り階段前には木杭が2本ずつ打ち込まれ、ゴンドラがその間に係留されている。そんな数多の
ゴンドラが運河沿いに横列に舷を寄せ合いながら繋がれている。やがて日がすっかり落ちた頃、「リアルト橋」から去り難く名残惜しいが、
覚悟を決めて家路に就いた。そこを離れることはほぼベニスに別れを告げることを意味していた。
「リアルト橋」から遠ざかれば「サンタルチア駅」まで寂しい路地道となるものと思いきや、全くそうではなかった。
狭い通りではあったが、両側にはベネチアン・ガラス細工や宝飾品ショップ、大仮装舞踏会などに用いられる彩り豊かな
マスクを並べるショップなど、見る人を飽きさせない色々なショップが軒を連ねていて、観光客らでごった返していた。
特に気に入ったのは、ベネチアン・ガラスで創作された彩り豊かなトロピカル・フィッシュをモチーフにした造形アートの置き物であった。
工房兼ショップに立ち寄りその創作工程をじっくり覗き込み、目の保養と肥やしにさせてもらった。その美術工芸品のデザイン
やオリジナリティは自身の感性にぴったりするところがあった。
その後、再び路地を右に左にと寄せながら、トロピカル・フィッシュなどの写真映えする被写体を探し求めながらショーウインドウを
渡り歩いた。足が棒になる頃、ようやく「サンタルチア駅」に帰着し、鉄道駅前のバスターミナルから路線バスに乗車、ベネチアに
最後の別れを告げ本土へと向かった。
翌日、ベニスからスイスのチューリッヒ経由で「アラブの世界」へと舞い戻った。かくして、2007年の元旦をはさんで8日間ほど
の南欧の地中海沿岸諸都市のウォーターフロントや海洋博物館などを巡る旅を終えた。思っていた以上に満足感で満たされた
旅であった。「モナコ海洋博物館」を含む幾つかの総合的海洋博物館の巡覧、コートダジュールとリビエラの海風景、
中世にタイムスリップしてコロンブスやマルコ・ポーロに出会えそうな錯覚に陥るジェノバやベネチアの中世海洋都市国家の旧市街の
街角風景など、眼奥のスクリーンにしっかりと焼き付けることができた。今後は古代ローマと古代中国との間に横たわる「海の
シルクロード」の重要支脈の一をなす「地中海ルート」の海の歴史・文化をさらに学び続けるためのきっかけと励みに繋げていきたい。
さて、リヤド空港に着陸する頃には否応なく現実世界に引き戻された。リヤドの空域も陸域も全て、砂嵐で巻きあげられた細かい
砂塵にる煙幕でどんよりと霞んでいた。丸で中国大陸から酷い黄砂が飛来してきたかのような光景がであった。地中海リビエラ海岸
の海の世界とリヤドの砂漠の世界との落差は余りにも大きいものがあるなかで、二つの異空間での生活や束の間の旅を体験すれば、
個人の経験値をより高める機会となり、また異文化への理解も少しでも深めることに繋がるものと、自己流の勝手な解釈に埋没した。
発想を切り換えるためのスウィッチ装置をより鋭敏にするための自己鍛錬にもなると理解した。
リヤド市街を外周する「リング・ロード」を明日から再び疾走し、職場へ通うことになる。明日からサウジでのいつもの日常業務と生活
に復帰し、サウジ社会を正視することで異文化体験をさらに深化させて行こうと、先ずは前向きに捉えた。サウジがODA卒業国になる日も
近かったが、その前にやるべきことは多かった。
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