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    第19章 超異文化の「砂漠と石油」の王国サウジ アラビアへの赴任(その3)
    第4節 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する(その2)


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       第19章・目次
      第1節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(その1)/ストックホルム、オスロ
      第2節: バイキングの故郷・北欧諸国への探訪(その2)/ベルゲン、コペンハーゲン、ハンブルグ、アムステルダム
      第3節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する(その1)
      第4節: 南欧・地中海沿岸(マルセイユからベニスまで)の海洋博物館を探訪する(その2)



  翌日列車でモナコを発ち中世の海洋都市国家であったジェノバへと向かった。列車はフランスのコートダジュール海岸からいつの 間にか国境を越え、イタリアのリビエラ海岸を快走していた。列車から眺めるリビエラの海岸風景もまたコートダジュールのそれに劣らず 絵葉書になるような海景の連続であった。初めて見る私にとっては、車窓から眺める海景に魅了され続け、見飽きる寸暇もない鉄路の 旅となった。

  ジェノバに到着後予約しておいたプチ・ホテルを探し出せて首尾よくチェックインできた。夕暮れまではまだ大分時間があったので、 急いで散策の身支度を整え街へ飛び出した。地図を頼りに旧市街地区へと向かった。そして、旧市街へのゲートウェイの一つである 「ソプラーナ門(Porta Soprana)」に何とか辿り着いた。「バルバロッサ皇帝フリードリヒ I 世 (神聖ローマ皇帝)」からジェノバ を防御するために、1155年にジェノバを取り囲むべく堅牢な城壁が建設された。それ以降ソプラーノ門は西側から城壁内へ入るための ゲートの一つとなっていたという。

  「ソプラーノ門」のすぐ手前で「クリストファー・コロンブスが生まれ育った家である」と英語で記される、目当ての家を ようやく見つけた。一度は訪ねて見たかった史跡である。レンガ造りのマッチ箱型のような小さな家 (復元) であった。 彼がジェノバに住んでいたのは確かであるが、それが彼の暮らしていた実際の家であるかは不明だとも言われる。その後、彼の家の すぐ先にあって高くそびえ立つ「ソプラーナ門」をくぐり抜け、歴史の重厚さを感じずにはおれない旧市街の路地へとおもむろに 足を踏み入れた。

  幅4~5メートルあるかないかの狭い石畳の路地を進んだ。中世の街の情趣がたっぷりと遺されていて、私的には中世の街中 に舞い込んだように感じた。あちこちで枝分かれして迷路のように入り組む狭い路地を手探りで辿った。途中古めかしい教会や 小さな広場が現われた。港を目指す以外に何の目的もなかったので、迷路に深入りしようとしまいと困り果てることはなかった。 路地の両側にはレンガ造りの4~5階建て住居の垂直側壁が連なり、昼間でも陽光が遮られ薄暗い。まさに中世のジェノバ市街 へタイムスリップしたような感覚を楽しみながら、黒光りする石畳の道を進んだ。枝分かれした路地の角から突然クリストファー・ コロンブスが現われてすれ違ったとしても何の不思議もないほどであった。

  旧市街を2、30分で通り抜けると、そこは「ベッキオ港」のウォーターフロントであった。 岸壁沿いに辿りゆくと、いかにも年代もののガレオン船らしき木造帆船(復元)が係留され、そのすぐ傍のウォーターフロントには、 「ガラタ海洋博物館(Galata Museo del Mare)」や水族館の近代的構造物が建ち並んでいた。岸壁沿いを行きつ戻りつしながら辺りを 散策した。

  夜の帳がすっかり降りてきたので、ホテルに戻って明日からの本格的な博物館巡覧やウォーターフロント探索に備えるべくホテルに 戻ることにした。旧市街の迷路に再び足を踏み入れ、「ソプラーナ門」に辿り着けるか挑戦することにした。往路に通りかかった 教会や広場なのか確たる記憶がないまま、そこでは路地が四方八方に分岐していて、いずれの道を辿るべきか選択に迷った。あちらこちらの 角っこで果たして曲がり損ねたのかそうでなかったのか分からぬままに曲折を繰り返し、結果として何とか例のソプラーナ門まで戻る ことができた。

  さて、同門をくぐり抜ける直前に、城壁内側に沿って細い脇道が通じていることに気付いた。そして、その緩やかな脇道を上り詰め た辺りに裸電球を視認した。いわばイタリア風居酒屋、日本でいう「赤提灯」であった。少し躊躇したが、そこで年越しの乾杯の盃を上げ ることにした。坂道を上り居酒屋の前に立って、今日は大みそかであることをやっと思い出した。1時間半ほどすれば2007年の新春を 迎えるところであった。

  居酒屋から路地へ少しはみ出して置かれたテーブルに腰を落ち着けた。今年はその居酒屋で一人 年を遣り過ごすことにした。リヤドでノンアルコールの缶ビールで一人新年を迎えるよりは最高にハッピーであった。 来年はどんな年になるのか、あるいはしたいのか。58歳の役職定年後のことや、日本にいる家族のこと、「オンライン海洋辞典」 づくりのことなど、ワイングラスを傾けながら、ありとあらゆる事柄に思いを巡らせようとした。当時にあっては、早期退職後の予定 として中米のニカラグアへ赴任することが内々に決まりつつあった。

  翌日早朝、ほぼ同じようなルートを経てベッキオ港のウォーターフロントへと辿った。目指すは「ジェノバ水族館」の少し先に停泊 する例の3層甲板の巨艦・ガレオン船の「ネプテューン号」(復元船)であった。船尾楼には巨大な回廊をもち、その最上部には3つの 船尾角灯を備え、船首楼の先端には巨大なバウスプリット(斜檣)をもつ。いかにも堅牢かつ屈強そうな戦艦という様相であった。 その巨艦内部を上から下まで巡覧した。「ネプテューン号」は今まで書物でしか見たことのなかった、いわばジェノバ海洋都市国家時代 を代表する戦列艦のようでその艦姿は迫力満点であった。

  同艦近傍に建つ「水族館」にも足を運んだ。数多くの魚類生物の水槽や貝類標本の他、 マゼラン、コロンブス、リンネ、クックらの航海探検に関するパネル展示もなされ、彼らの偉大な功績などを学ぶことができた。 波止場のその先にある「ダルセナ(Darsena)」には、ジェノバ訪問の目途の一つにしていた「海洋博物館」が偉容を誇っている。

  さて、「海洋博物館」を巡覧するうちに興奮が最高潮に達した。展示品一つ一つと真剣に向き合い、時に画像として切り撮った。 最も釘付けになった展示品の一つは、ガレー船の漕手らが船上で漕ぐに当たって腰掛けるベンチであった。どんな大きさや太さのオールを 漕いでいたのか、どんな漕ぎ座に着座していたのかを体験できる実物大のセットである。 木造船のキールおよび肋骨を組み立てる造船所を模した大型ジオラマもなかなか迫力があった。ガレー船の船舶設計や部材・金具の製作 作業場などのジオラマも興味深かった。

  同博物館では、中世および大航海時代から近代に至るまでの、英国・オランダ・フランス・イタリアを中心とする数多くの船舶模型、 船体構造模型、古帆船の船首像、帆船や海戦などの絵画、大航海時代から近代までのいろいろな航海用具(天体高度観測器、四分儀、六分儀、 クロス・スタッフ、アストロラーベ、天文儀、古式コンパス、クロノメーター、砂時計、パテントログなど)、1500年代の地中海周縁 の古海図、2~3層甲板式で40~50門の大砲を装備する全装帆船(軍船)のフルサイズ模型やハーフモデル、アンフォラ積載商船のジオラマと その海底考古学的遺物、ジェノバ・ガレー船の模型や各種装備、および漕手らの船上生活などに関する資料、大砲などの兵器類、19~20 世紀のイタリア客船の模型などがぎっしりと陳列されていた。中でも最も魅了されたのは、ガレオン船建造を模する造船所の巨大 ジオラマと実物大のガレー船の陳列であった。

  さて、ジェノバを発って最後の目的地であるベネチア(ベニス)へと向かった。かつてマルコ・ポーロが中国(元朝の時代)へ出立した 時の起点となった海洋都市である。ミラノで乗り換えたのはよいが、ベローナ経由ベネチア行き特急列車は、何故か観光客などの乗客 で鮨詰め状態であった。そんな中、プラットフォームは日本と違って全く低い位置に造作されているので、ホームから大きいスーツケース を抱えながら客車のデッキに上がるのは容易ではなかった。デッキ上の乗客が親切にもスーツケースを引き上げてくれたお陰で、 何とか乗り込むことができた。

  だが、車内は東京でのラッシュアワー並みのひどい混雑ぶりであった。指定席券を所持していたが、重いスーツケースを抱えた ままデッキから車内奥へ割り込む勇気を持ち合わせなかった。それに、思わず乗り込んでしまった客車が果たして指定席券に記された 車両ナンバーだったのかさっぱり自信がもてなかった。今頃は指定座席は誰かに占拠されているに違いと、スーツケースを引っさげて 車内へと突進する気力はとっくに失せてしまっていた。乗り込めただけでもラッキーと観念した。殆ど身動きできないまま、ベネチア まで数時間我慢する他なかった。

  列車はミラノとジェノバのちょうど中間地点にあるベローナという大きな都市に到着し、かなりの乗客が降りた。ほんの少しだけ 居場所に余裕ができ、直立姿勢を崩すことができ救われた。この有様だと 終着点のベネチアで下車しても宿を見つけるのは難しいと思い、ベネチアの一駅手前で下車し、ホテルを飛び込みで探してみる ことにした。駅から15分ほど目抜き通りを歩いた先で運よく3つ星程度と思しきホテルを見つけ、これ幸いと2泊投宿することにした。

  翌日、イタリア本土と水上都市ベネチアとの間の海を埋め立てて造作されたコーズウェイを、電車は快走した。 コーズウェイ両岸にはアドリア海最奥部に位置する広大な湖沼のような海が広がり、潮の香りとオゾンで満ち満ちていた。造船所 や大型客船などが発着する港などをコーズウェイの西岸に見て暫く列車に揺られると、ベネチアの終着点「サンタルチア駅」へと滑り込んだ。

  駅前の広場から人流に身を任せて進み行くと、水上バスの大きな発着場に行き着いた。そこで「サンマルコ広場」や「サンピエトロ寺院」 方面に向かう乗合バスならぬ水上バスに乗船した。かくして、初めてベネチアの運河を辿り、水上からベネチアの街風景を眺めることになった。 そして、アーチ型で石造りの例の有名な「リアルト橋」が視界に入った時には、「ついに水の都ベネチアに至れり!」と一人感涙であった。

  ベネチアで一度は体験したかったことは、ベネチアのランドマークの一つであるであるこの「リアルト橋」をゴンドラでくぐったり、 また橋上から水上バスやゴンドラが大運河を行き交う水辺風景をじっくり見下ろし活写することであった。さて、水上バスは、 大運河を南下して外海へ出たところにある「サンマルコ広場」や「サンピエトロ寺院」の前に立地する水上バス発着場に横付けとなった。 その発着場の斜め対面に立つ別の大聖堂がそびえ立ちひと際目立っていた。

  さて、そこで水上バスを乗り換え、もう少し先にある水上バス停「アルセナル」で下船した。そして、海沿いに何百メートル か歩いて「海事博物館」へと向かった。イタリアでの本格的な海洋博物館としてはジェノバのそれに次ぐものであり、心を弾ませ ワクワクしながら館内へと足を踏み入れた。ベネチアは、その昔ジェノバとライバル同士であり、ジェノバと同様の海洋都市 国家として繁栄の永い歴史を歩んできた。故に、ベネチアの海洋博物館はジェノバのそれに優るとも劣らぬものと期待した。

  正式には「海洋歴史博物館(Museo Storico Navale)」という名称であった。さて、今朝の入館では私が一番乗りのようであった。 午前中の早い時間帯に辿り着いて正解であった。というのも、その日の開館時間は何と午後1時までの半日のみであり、その後は閉館と なることを知ったからである。

  古代ローマ時代の様々なタイプのガレー船の模型が展示されていた。ガレー船などの模型の数の多さやその精緻さと言い、 さすがに見応えのあるものばかりで感激させられた。館内の展示を詳細に語るのはとても荷が重いので、主な展示品の一部を列挙する ことにしたい。

  大航海時代の16世紀から18世紀頃にかけてのいろいろな船舶模型(ガレー、ガレオン、ベネチア軍船、ガレアス、ブリガンチン、 ジーベック、フリゲート、戦列艦など)の他、18世紀のベネチア1~3級軍艦の船体構造模型、 ガレー船などの多数の船首像や船体フレーム模型、各種ポルトラーノ海図、17世紀以降の各種航海用具(砂時計、日時計、 船内時計・クロノメーター、グラフォメーター、天球儀、海洋観測器具、八分儀、太陽髙度計、各種大砲類など)が所狭しと 展示されている。

  その他、海軍将官らの制服、多数の現近代の軍艦艇模型、フェニキアやエジプトの船模型、ネミ湖で発掘された古代ローマ船模型、 ベネチア造船所鳥瞰図や模型などの画像をじっくりと切り撮ることができた。圧巻の展示としては、大型ガレー船 (三段櫂漕船) の、 部分的ではあるが実物大の復元構造であり、3人の漕手が3段式ベンチに座って各々の櫂を歩調を合わせて同時に漕ぐものであった。 さて、午後1時の閉館時間きっかりに追い出され、その後は近傍にある昔の造船所跡と思しき施設 (現在は海軍施設となっている) 周辺を散策した。

  翌日の日曜日は同歴史博物館は定休日となっていた。午前中の半日だけでも同館を巡覧できたことは大変運が良かった。 かくして、喜びを噛みしめ足取りも軽やかにベネチアの散策を続けようと先ずは「サンマルコ広場」へと向かった。

  その道中で、はっと心に刺さる感動的な光景に出会った。歩いていた路地は、ゴンドラも通れないような細い水路と平行していた。 その運河の水は清いとは言えなかった。しかも、何の揺らぎも生じることのない鏡のような水面となっていた。そこに周囲の中世風建物がブルー スカイをバックにして映し込まれていた。まるで水面をブルーのキャンバスに仕立てて風景画を描いたようであった。暫く、 その感動的なアート作品に見惚れていた。そして、水面に映し出されたそんな水彩画をカメラで切り撮り「運河水面に映るベニスの街角 風景画」として持ち帰ることにした。

  折角の旅なのでお上りさんになって「サンペトロ寺院」の中に一度は足を踏み入れ、心を浄め旅路の無事を祈ることにした。そして、 「サンマルコ広場」の周りの回廊をウインドーショッピングしながら、ぶらぶらとそぞろ歩きをした。その後、一度はゴンドラに揺られて 少しは舟遊びの真似事をすることにした。ゴンドラを一人独占して舟遊びするのは貧乏性の私には似合わないので、水上バスのような 乗り合い式のゴンドラに揺られることにした。

  ゴンドラは迷路のように複雑に入り組んだ水路をゆっくりと漕ぎ進んだ。運河に面した住宅では大抵の場合、その玄関扉の前に 数段の階段が施され、乗降のためのちょっとした船寄せ場となっている。 時にゴンドラは、行き交うこともままならないほどの狭水路の中を巧みな櫓櫂さばきをもって悠然と進み行く。 水面から見上げる街風景は路地から左右に見るそれとは趣きが異なる。かくして、ゴンドラに揺れながらほんの束の間だが ゆったりとした贅沢な時を感じつつベネチアでの散策を何倍も楽しめた。

  下船後もう一度「サンマルコ広場」辺りをたむろした。マルコ・ポーロもたむろしたはずの、ベネチアを代表する大寺院や広場界隈を 去り難かったからである。マルコ・ポーロはいつもどの辺りを生活圏にしていたのだろうかと想像しながら、広場を離れて帰途に 就くタイミングを探している自分がいた。要するに、去り難い心を軽くいなしながら決断の時を見計らっていた。

  さてここで、話しは少し横道にそれるが、マルコ・ポーロらの東方世界への大冒険旅行について触れたい。 マルコ・ポーロは、1271年、父や叔父と共に3人で、ベネチアを出港し、地中海を航海し、現在のイスラエル北部のアッコ (現シリアのアレッポに近い港)で上陸し、東方に向けて陸路を辿り始めた。

  マルコら一行は、先ず小アジアのアナトリア高原を横切り、当時はイル・ハン国 (1258~1353年) の治世下にあったダブリーズや イラン高原のシーラーズ、さらに今のイランとの国境に近いアフガニスタンの都市ヘラート (これらのいずれの都市もイル・ハン国の 治世下にあった)に足を踏み入れた。

  その後、パミール高原を越え、タクマラカン砂漠西方の都市カシュガルへ辿り着いた 。カシュガルは当時チャガタイ ・ハン国 (1307年~16世紀) の治世下で、現在の中国新疆ウイグル自治区に所在する。その後、同砂漠の南側に伸びる「西域南道」を通り、 3年半の旅の末ついにフビライが君臨する元の中心都市・大都(現在の北京)に辿り着いた(マルコらが到着した正確な日付は不明である)。 マルコはフビライに気に入られ、17年間特使として仕えた。
[参考] 元のフビライは日本に朝貢(ちょうこう)と服属を要求したが、鎌倉幕府がこれを拒否したため、1274年と1281年の2回にわたり、 元軍が九州北部へ来襲した(いわゆる「元寇」である)。

  1290年代初期のこと、折りしも「イル・ハン国」からの使節団が、同国のアルグン・ハンの妃に内定していたコカチン姫を大都に迎えに 来ていた。しかし、使節団は「ハイドゥの乱」のために陸路を取ることができず、南海航路にて妃を帯同することになった。 その時同航路に詳しいというマルコらが同行することになった。さて、 17年間中国に滞在したマルコらは1292年に帰国の途に着き、泉州からは海路を辿り14隻のジャンク船団を組んで「イル・ハン国」を目指し 出港した。

  現在のベトナムの「チャンパー (占城・せんじょう) 国」を経て、スマトラ島では5ヶ月間の風待ちをした後、セイロン島、 インド西岸マラバール地方を経由しインド洋を横切り、アラビア海を経て1293年2月頃に「オルムス(Ormus)」(ホルムズともいう) に上陸した。航海は2年間にわたった。決して平穏なものではなかったが、コカチン妃やマルコら3人は無事ホルムスに辿り着いた。

  オルムス到着後執り行われた結婚祝賀会を終えると、マルコら一行は陸路でイラン高原のシーラーズ、ダブリーズへと歩を進め、 黒海の南東沿岸にある現在のトラブゾンの港へと向かった。そこからコンスタンティノーブルへ、更にエーゲ海・アドリア海を経て、 1295年にベネチアに無事帰還した。通算24年間に及ぶ大冒険の旅をここに終えた。

  帰国後、マルコはジェノバとの戦争に志願し参加したが、捕虜となって投獄されるに至った。投獄期間中に囚人仲間に旅の道中 や中国滞在中に体験したり見聞した話を聞かせた。これが後に「世界の記述」、即ち「東方見聞録」として後世に残された。 マルコ・ポーロの話を口述筆記した原本そのものは早くから失われたという。多数の写本が過去に残されてきたが、それら写本の間においても 有意な差が見られるという。ジパング(日本)、カタイ(中国)を目指したコロンブスは、1492年「新世界」に辿り着いたが、 コロンブスはその西廻り大航海を着想する当たり同見聞録を読んでいたに違いないと考えられている。

  さて、「マルコ広場」を後にしてベネチアの終着駅「サンタルチア駅」へと足を向けた。どこを見ても中世にタイムスリップした かような狭い路地をあちらこちらでつっかえ、岐路選択に迷いながらも駅方面へと歩を進めた。暫くして路地に面したあるレストランの前を 通りかかった。そこで早目の腹ごしらえとして本場のスパゲッティを食してみることにした。一人旅の最後の「晩餐会」なので、 ビーノ・ブランコ・デ・ラ・カサ(当該レストラン専用に醸造されたハウス・ブランドの白ワイン)を注文した。

  やがて、新鮮なサラダ(トマトも最高の味であった)とシーフード風ペペロンチーノが運ばれてきた。スパゲッティを食して びっくりした。パスタの湯で加減、味と言い、私的には人生で最も美味しい最高のスパゲティに思えた。ハウスワインも上々であった。 今回の旅中で、時間を気にすることなくワインを何杯か味わいながらプチ贅沢をしたのは、これが最初で最後であった。レストランの 名前を記録しておくほどに美味のパスタであった。「ダ・ロベルト(Da Roberto)」というレストラン兼ピザ屋(trattoria、pizzeria)で、住所は 「Campo S. Provolo通り4707番」である。

  その後、重い腰を上げてまた路地を歩き出したが、予定を変えて「リアルト橋」までは水上バスで行くことにした。 「リアルト橋」の上から大運河を行き交う水上バスやゴンドラ風景を暫く楽しんだ。夕暮れ時で、運河の水面が 茜色に染まる中、数多くのゴンドラが観光客を乗せて優雅に往来する風景に暫く魅入っていた。時に、日用雑貨や食料品を山積みに した物売りのボートが橋下を通過して行く。まさに「動く食料品店」であった。ルートが決められた定期運航の乗合水上バス、小型運搬船、 ゴンドラなどがひっきりなしに橋をくぐり抜ける。

  運河沿いに建つ住宅の玄関の階段前には木杭が2本ずつ打ち込まれ、ゴンドラがその間に係留されている。場所によっては数多の ゴンドラが運河沿いに横列に互いの舷を寄せ合いながら繋がれている。やがて日がすっかり落ちた頃、「リアルト橋」から去り難く名残 惜しい気持ちを絶ち切って家路に就く覚悟を決めた。橋を後にするということはほぼベニスに別れを告げることと同義であった。

  「リアルト橋」から遠ざかれば「サンタルチア駅」までは寂しい路地道が続くものと思いきや、だが全くそうではなかった。 狭い通りではあったが、両側にはベネチアン・ガラス細工や宝飾品ショップ、仮装舞踏会に用いられる彩り豊かで派手派手しくもある選り取り見取りのマスクを並べるショップなど、見る人を飽きさせない様々な用品店が軒を連ね、思いのほか観光客らでごった返していた。 特に気に入ったのは、ベネチアン・ガラスで創作された彩り豊かな魚類、それもトロピカル・フィッシュなどをモチーフにした 造形アートの置き物などを創作するガラス工房兼ショップであった。

  迷うことなくそんなガラス工房兼ショップに立ち寄り、その創作工程を覗き込み、じっくりと目の保養と肥やしにさせてもらった。 創作されるどの魚類の美術工芸品のデザインもオリジナリティのあるもので自身の感性にぴったりするところがあった。

  さて、再び路地を右に左にとジグザグしながら、トロピカル・フィッシュなど の写真映えする被写体を探し求めながらショーウインドウを渡り歩き続けた。足が棒になる頃、ようやく「サンタルチア駅」に辿り着いた。 鉄道駅前のバスターミナルから、今度は路線バスに乗車しベネチアに最後の別れを告げ本土へと向かった。 翌日、ベニスからスイスのチューリッヒ経由で「アラブの世界」へと舞い戻った。

  2007年の元旦をはさんでの8日間ほど、南欧の地中海沿岸諸都市のウォーターフロントや海洋歴史文化施設などを巡り終えた。 思った以上に充実感溢れる旅となった。「モナコ海洋博物館」を含む幾つかの本格的で総合的な海洋博物館での展示風景、コート ダジュールとリビエラ海岸沿いの海風景、中世にタイムスリップしてコロンブスやマルコ・ポーロに出会えそうな錯覚に陥るほど であったジェノバやベネチアの中世海洋都市国家の旧市街地での街角風景など、しっかりと眼底のスクリーンに焼き付けることができた。 今後も、古代ローマと古代中国との間に横たわった「海のシルクロード」についての地域別海洋史や文化を学び続けていきたい。 今回の旅はそんな地域別学びへの取り組みの一事例となるものであった。

  さて、リヤド空港に着陸する頃には否応なく現実世界に引き戻された。リヤドの空域の全てが砂嵐で巻き上げられた極微の 砂塵によってスモッグか黄砂のように覆われどんよりと霞んでいた。

  地中海のコートダジュールやリビエラ海岸沿いの世界と、大砂漠に囲まれたリヤドの世界との落差は余りにも大きいものがあるなかで、 二つの異空間での生活や旅行を体験すれば、異文化への理解を少しでも深め、個人の経験値をさらに高めることに繋がるものと、自己流の 勝手な解釈をした。また、発想を切り換えるためのスウィッチ装置の感受性を高める上での自己鍛錬にもなるものと自己解釈する自分がいた。

  明日からリヤド市街地を外周する「リング・ロード」を再び疾走し職場へ通うことになる。サウジでのいつもの日常業務と生活 に復帰し、再びサウジ社会や文化を真正面から向き合い正視することで異文化体験をさらに深化させて行こうと前向きに捉えた。 そして、ODAから卒業も近づきつつある今日、そのソフトランディングに向けたレースを少しでも長く敷設したいと気合を入れ直した。


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