2006年に2年7ヶ月振りにサウジアラビアから帰国した。私を待ち受けていたのは58歳の役職定年のための手続きであった。当時にあっては、管理職
は58歳でポストオフとなった。その後は、JICAとの間で嘱託契約を結び、在外赴任をするか、国内のいずれかの部署に引き取って
もらうか、あるいはJICAからの紹介を受けて全く別の法人で働くか、人生の一つの重い選択が求められた。サウジ赴任中から電子メールで人事部と
連絡を取り合い、退職後どんな職業人生を選択するか、身の振り方についてあれこれ相談をしていた。大きく分ければ、国内に留まりたいか、
海外での仕事に就きたいかということであった。もちろん、後者の海外赴任の道を切望していた。
当初は南太平洋の英語圏に属する島嶼国サモアへの赴任について内々に打診を受けていた。しかし、同じ海外赴任であるならば、
中南米のスペイン語圏の国がベストだと思っていたので、サモアを丁重に辞退した。人事のこととはいえ、「それは勘弁してほしい」と
多少抗ってみた。人事につき婉曲的にせよ、「同意しかねる」との意思表示をしたのは、JICA奉職30数年にして大変稀なことであった。
その後暫くして、ニカラグアへの赴任につき打診を受け、即座に快諾をした。
先ずは、勤務先となる「ニカラグア調整員事務所」を所管する中南米部に籍を置き、そこで早期退職の手続きをしながら、赴任のための
準備をした。そして、今回で4回目となる海外の国際協力最前線へ、2007年(平成19年)9月に喜び勇んで単身赴任の途に就いた。
日本・JICAの国際協力という仕事を通じて、国際援助の最前線において、「国づくり人づくり」に再び何がしかの貢献ができると
思うと、ニカラグアへの赴任の足取りは自然とはずんだ。メキシコからパナマにかけての中米地域、さらにはカリブ海に浮かぶ15か国ほどの島嶼国の社会や文化全般についても
理解を深める絶好の機会でもあった。いずれにせよ、海外赴任は自身の人生を豊かにしてくれる機会だと信じて疑わなかった。
さて、ニカラグアでは、過去15年以上にわたり親米中道右派政権が続いていたが、直近の国政選挙の結果、反米左派のダニエル・
オルテガ大統領が選出されていた。新政権発足後半年ほどしか経っていなかったので、今後どのような政治経済政策が展開され、国はどこへ向かうのか、
その先行きはまだまだ不透明であった。だとしても、かつてのサンディニスタ闘士オルテガを選んだ人々は新政権の誕生によって新しい発展の未来が開けてくるものと強く期待しているようであった。
国全体はいたって貧しいながらも、人々は国の明るい未来を信じ、顔を上げ前を向いて歩もうとしていた。これが、暫らくぶりにニカラグアの土を
踏みしめた時に抱いた思いであった。
ニカラグアへは過去3回足を踏み入れて、地方の辺境地のさらに奥地を含めて現地調査に従事したことがあり、少しは土地感があった。首都マナグアや
地方都市のレオン、グラナダ、フイガルパなどの何処を見ても、近代的な都会風景を目にすることはほとんどなかった。だが、翻って、
調査のために足を踏み入れた山間部奥地の片田舎には、これぞニカラグアの原風景と思しき豊かな自然、そして質素な生活ながらも純朴そうな人々の
姿があった。
幼少の頃、私は、冬の時期にしばしば家族と共に裏山へリヤカーを引いて分け入り、家族総出で松などの枯れ柴を集めた。そして、かまどや
風呂焚きの火つけの足しにした。その明かりで教科書を読むこともあった。そして、中学時代には4㎞離れた中学校に、砂利道や轍に
自転車のハンドルをとられながら通った。ニカラグアの田舎風景が何故に自身のその頃の記憶と重なり合うのか分からない。戦後10~15年経た頃の日本の田舎風景に
ニカラグアのそれがどこか重なり合っていたのであろうか。いずれにせよ、私的にはニカラグアに強い親近感を抱いていた。
純朴な人々は都会ずれすることも、また他者を疎外することもなく、私と言う異邦人を受け入れてくれ、さらに良い思い出が沢山できそうであった。
最初のニカラグアへの出張は、JICSに出向して2年目の1995年9月のことであった。「タスク」という民間コンサルタント会社の
森氏らと現地に赴いた。農業生産基盤改善用の簡易機材調査という名目で地方のかなりの山間奥地まで踏査した。山間部の支線道路の
ほとんどは舗装されていないままであった。加えて、1980年代にサンディニスタ政府軍と反政府側武装組織「コントラ」との間で内戦が5年ほど続いた後にようやく
和平が成立し、武装解除に応じた多くの兵士らが、地方の山間辺境地に入植し、その家族と共に農牧業などに従事していると仄聞してきた。
農牧関連資材の搬入や農牧生産物の市場への搬出あるいは生活物資の輸送のために現在でも、馬の背中に乗せて道なき道を運ぶ
ということも多いという。
実際に山間奥地に分け入った時には、馬にまたがり獣道を行く農牧民の姿をよく見かけた。奥地での民生を向上させるには、そんな
原野の中の獣道を切り開き、少なくとも馬車やトラクターなどが通行できるよう道路整備をする必要があった。また、ニカラグアは雨期と乾期に分かれていて、
10月~翌年3月頃の乾期での干ばつ対策の一つとして、山間地域の放牧地内に飼育牛用の飲料水を確保するために、溜め池を造作して
おくことは死活的に重要であった。かくして、ニカラグアから援助要請されたのは、山道と溜め池を整備するためのブルドーザーや、
それを遠距離輸送するための大型トレーラー、僻地まで修理に駆けつけるための工具搭載車両、作業員運搬トラックなどであった。
首都マナグアの「農村開発公社(POLDES)」総裁から、それら資機材の内容と数量などの妥当性について吟味できるだけの、農業
基盤整備計画に関する詳細データを入手した。山間部の地方都市とその山間奥地の集落を結ぶ既存の山道や、新たに切り拓く予定の山道の総延長距離、
5か年間の道路整備と溜め池造成に関する具体的な計画などを確認した。公社関係者らと、内陸山間部の小さな地方都市、さらに
その山奥の辺境地へと分け入り、山道整備候補ルートや溜め池造成候補地の一部について、実地に確認するために踏査に汗を流した。
そして、その帰途において、ある地方の街道筋で、純朴にして満面の笑顔を浮かべ我われを見詰める子供たちに出会った。その笑顔は実に
印象的であった。田舎でのほんの小さな出来事であったが、何年経てもその笑顔が記憶に蘇ってくるほどである。
牧歌的な田園風景のみならず、スペイン植民地時代の面影を色濃く遺すレオンやグラナダの古い町並みなども印象深かった。
1570年代にオルテリウスが製作した大変有名な世界図の中のニカラグア地峡を見ると、グラナダという地名が唯一記されている。
それだけ、スペインのコンキスタドーレス(征服者)や入植者が押し寄せ、グラナダという町を形成していた訳である。そのことをずっと後で知った。
1972年に首都マナグアを襲った大地震で壊滅状態となった。それまでは髙い近代的ビルも林立し、中米諸国でもかなり
大きな中心街(セントロ)が形成されていた。中央銀行、高級ホテルなど4つの髙い建物だけは倒壊を免れたが、町全体がほぼ廃墟と化したという。
マナグアを初めて訪れる人々は、街の様相にまず驚く。どこの国でも見られるような、高い近代的ビルが立ち並ぶビジネス街(いわゆるダウン
タウンとよばれる中心街)らしきものが見当たらない。一国の首都とは到底思えない風景がまだそこにある。緑豊かな原野に平屋ばかりの
家々が埋もれるように立ち並び、幾つかの高いビルが今でもぽつぽつと散在している。何処が首都の中心部なのか全く分からないのは今もって
驚きである。ニカラグアは、1980年代の内戦やマナグア大地震の深い爪痕からなかなか立ち直れす、今も多くの国民は貧しさを背負い続けている
と思えてならない。
レオンは1500年代前期にコンキスタドーレスが初めて入植し町を築いたが、その後、近傍にそびえるモモトンボ火山の大噴火で町は埋もれて
しまった。彼らは別地に新しく町を再建したが、それが現在のレオンである。地方山間部の辺境地へ踏査に行く途中に立ち寄った。
そこに歴史を感じさせる古い大聖堂があったことをはっきり記憶に留めていた。その大聖堂がユネスコ世界文化遺産に登録されたのは
2000年のことである。
さて、コンサルタントの森氏とは、1996年4月に二回目の現地調査を共にした。週末を迎え、マナグア郊外のホテルのテラスでのんびりと二人でブランチを
楽しんだ。話しのきっかけは思い出せないが、雑談の中でインターネットのことが話題となった。同氏はネット時代の到来と革命的な
通信技術の素晴らしさを口角泡を飛ばしながら熱く語り、その何たるかを切々と聞かせてくれた。
時空は少し先へ飛ぶが、日本に帰国後、ノートパソコンを前にして電話回線をつなぎ、ダイアルアップし、インターネットに接続
のうえ、ネットサーフィンのデモンストレーションとその手ほどきをしてもらった。お陰で、私的にいち早く
ネット世界に足を踏み入れることができた。それは私に衝撃的な驚きをもたらし、運命を変えるほどの出来事となった。アルゼンチンから
1987年に帰国してからも、海洋語彙をしこしことパソコンに入力し蓄積していたが、何とそのデジタルデータを基にホームページを作成し、
世界に情報発信できるのではという閃きと確信をもたらしてくれた。
早速インターネットの世界へ前のめりになった。民間プロバイダーと契約を結び、ネットサーフィンができる環境作りに取り組んだ。さらに、
入門書を買い込み、タグ命令言語方式によるホームページ作成のためのプログラミング法を独学し始めた。その後、ついに「海洋辞典」
と銘打ったホームページをネット上にアップロードするでところまで漕ぎつけた。ウェブ上でそのページを閲覧できた時は、跳び上がって
万歳三唱したいくらいであった。森氏とニカラグアへ調査に出掛けていなければ、
「オンライン海洋辞典」づくりはずっと遅れていたに違いない。ニカラグアは、森氏からインターネットの指南を受け、ウェブ海洋辞典づくりとその
情報発信を始める運命的な起点あるいは原点となった。「インターネットの世界」への扉を開くきっかけに巡り会えた「幸運の国」であった。
だから、今回の赴任も何か運命の糸で結ばれているように思えた。
ニカラグアでの社会生活上の心配の種としては先ず治安のことであったが、次いで電力供給とインターネットの通信事情であった。電力供給
には水力発電もあったが、石油燃焼の火力発電に大きく依存していた。だが、慢性的な外貨不足のため、石油調達にはたえず困難がつきま
とっていた。ダニエル・オルテガ政権は、ベネズエラのチャベス政権と同じ反米左派政権であったので、ベネズエラから何かと石油を融通して
もらって、厳しい電力事情を乗り切ろうとしていた。それでも、首都マナグアの市内のあちらこちらで頻繁に停電が発生していた。そのうちに、
地区や時間帯を指定しながらの計画停電が実施されるようになった。時に蝋燭の下で夕食をやり繰りする日もあった。だが、借り上げ
ていた住宅は、キューバなどの友好国の大使館や重要拠点病院などが所在する地区にあったためか、他地区に比べれば停電の頻度は
圧倒的に少なかったようだ。振り返れば、業務上も生活上も何かと我慢の日々が半年近く続いていたが、電力事情は日を追うごとに
改善され安定するようになった。
他方、電力事情と同様に通信事情も懸念したが、ニカラグアでは丸で固定電話普及時代を素通りしたかのように、携帯電話が一般的に普及していた。
また、私生活においてもインターネットのための高速通信サービスを享受できたことに安堵した。時に回線接続上の個別的な不具合が発生したこともあったが、
総じて安定的なネット環境にあったといえる。通信スピードの面でもストレスに悩まされることもなく、私的には良好なネット環境に感謝の毎日であった。
さて、ニカラグアの過去20年ほどの政治情勢について大まかに遡ってみたい。時は1936年、当時の国家警備隊長であったA・ソモサ・ガルシア将軍が
クーデターを起こし大統領となり、政権を掌握した。その後1979年までの43年間、ソモサ一族による独裁専制的な支配が続くことになる。
だがしかし、左派政党の「サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)」を中心とする武装蜂起によって、1979年7月にソモサ独裁政権が瓦解するに
至った。この軍事的な勝利は、それゆえ「サンディニスタ革命」と呼ばれた。その後、1984年11月の大統領選挙により、FSLNの党首であった
ダニエル・オルテガが大統領に選出され、翌年政権の座に就いた。
だが、FSLNに支えられたオルテガ政権側と、米国に支援された反革命反政権派の「コントラ」と称される反政府軍との間で内戦状態が続く
ことになった。そして、1987年の中米和平条約の合意に沿って、1988年3月政権側と反政府側との間で暫定停戦合意が成立した。同年6月には
コントラの武装解除がなされ、解体完了の宣言が発せられた。オルテガ政権側の国軍は大幅に削減され、内戦は実質的に終結した。
1990年2月国連による国際監視団の下で大統領選挙が実施され、その結果オルテガ率いるFSLNは僅差で敗北するに至った。オルテガがまさかの敗北
で下野し、同年4月にV.チャモロ大統領率いる中道右派の親米政権が誕生した。
チャモロ政権後、元ソモサの部下であった中道右派連合のアレマンが1997年1月に大統領に就任し新政権が発足した。
5年後の2002年1月には、前副大統領職にあったボラーニョスが大統領に就任した。1990年のチャモロ政権発足から2007年までの17年間においては、
FSLNの反米左派政党が下野したまま、中道右派政党の3人の大統領が政権を率いてきた。しかし、2006年11月に実施された国政選挙で、
FSLNのダニエル・オルテガが再び大統領に選出され、翌2007年1月に大統領に就任した。
私が着任する半年ほど前のことであった。赴任直後からこの大きな政治的変革によるうねりの洗礼を受けた。因みに、5年後の2011年11月
にはオルテガ大統領が再選され、その5年後の2016年にも大統領であり続け、さらに現在(2024年)に至っている。
かくして、2007年9月に赴任した当時、政権の座にあったのはオルテガ大統領であった。オルテガは、反米左派政権を率いるベネズエラの
チャベス大統領からいろいろな経済支援をえて、キューバやボリビアと共に、中南米の反米左派勢力の重要な一角を占めていた。
オルテガ政権下になって閣僚らはFSLN派によって独占されたのはもちろんであるが、中央省庁の主要官職は次々とFSLN所属のサンディニスタに
取って替わられて行った。そして、私が赴任して一年くらいの間に、各省庁の一般職員すらも上から下までと思えるほどに入れ替わって行った。
地方選挙で地方自治体首長がFSLN党所属となったところでは、同様に役人は次々とサンディニスタへと入れ替わった。極論すれば、長く冷や飯生活
を余儀なくされていた「浪人官吏」らは、一斉に権力の座に返り咲いた。中南米ではよくある右派・左派政権の交代から生じる役人の総入れ
替え劇であるが、それをまざまざと見せつけられた。二大政党が対峙する中南米諸国にあっては、新政権の政策を遂行するために、また党への支援者を
繫ぎとめるための常套手段とされることである。
日本や欧米諸国による援助に関する実務者協議では、それまでの親米中道右派の官僚に代わって、反米左派の新官僚が相手となった。
私の前任の事務所長は、その中道右派の親米政権官僚らと蜜月の協力関係を長く保持しつつ、数多くの青年海外協力隊員の受け入れ
のみならず、数多くの技術協力プロジェクトを実現させてきた。後刻に理解するところとなったが、協力隊員の派遣を含む技術協力や、無償資金協力の
援助実績の規模は、事実上中南米諸国の中でも1、2位を争うほどのものであった。欧米先進諸国は、オルテガ政権の
政治姿勢を見極めながら、自らの援助を梃にその政策転換を促したいという意図が秘められているように思えた。
ニカラグアは中南米諸国の中でもハイチやボリビアに次ぐ最貧国といわれ、あらゆる分野において国際社会による支援が必要であると見受けられた。
日本の有償資金協力については、ニカラグアの経済財政の伸び悩みが見られ、その返済能力の低下傾向の観点から当時はなおも見合わせとなっていた。
だが、技術協力と無償資金協力は幅広い分野で実施されていた。無償資金協力において最重点分野とされたのは、老朽化した橋梁の建て替えや
新規の橋梁建設であった。日本はこの社会交通インフラ整備分野で支援を積み重ね、円滑で効率的な陸上輸送を確保するうえで顕著な貢献を果たしてきた。
また、米州開発銀行(BID)による道路インフラ整備と可能な限りの連携を図るべく取り組んでいた。
赴任中、この分野において貢献するすることができた。中米地峡をメキシコからパナマまで貫通する「パンアメリカンハイウェイ」は、ニカラグアをも
縦断するが、ニカラグア湖の南側を通るインターステートの幹線道路はそれしかなかった。同湖の北側には未舗装の国道があり、隣国のコスタリカへ
通じるが、サン・ファン川という同湖からカリブ海に流れ出る河川には橋がなかった。ニカラグアの悲願は、そこに「サンタフェ橋」を架け、国道を150km
にわたって舗装し、第二のパンアメリカンハイウェイを完成させ、交通運輸インフラを整備し、同湖北部域の多様な開発を促進することであった。
この架橋計画が無償資金協力プロジェクトとしてついに採択され、基本設計調査が行われることになった。そして、その調査団の総括として
現地参加し、当該調査を統括する任に預かった。その後調査報告書案をニカラグア側に説明する調査団の総括も仰せつかった。長年、JICAとJICSにおいて
無償資金協力業務に携わってきた経験が大いに役立ちこんな嬉しいことはなかった。150kmの未舗装の国道については、米州開発銀行との協調融資の下、
舗装工事は先行して竣工することになった。
さて、無償協力での第二の重点分野は、主に地方都市における公立総合病院や保健所などの建設や医療保健機材の整備であった。
第三のそれは、絶対数が不足している小学校の新校舎の建設や、老朽化した校舎の建て替えなど、初等教育施設の整備拡充であった。
また、農民の農業生産性の向上を支援するために、「食糧増産援助(2KR)」を通じて肥料が無償提供されてきた。ニカラグア政府
は公正な入札をもって販売し国家歳入を得ると共に、それをいわゆる「カウンターパート資金」として政府の特別口座に積み上げていた。
同資金は、ニカラグア外務省と日本大使館などとの協議を経て、農道整備やその他の社会インフラ整備などのために有効に活用されてきた。
橋梁・医療保健・初等教育・農業基盤などの分野における社会インフラ整備の支援は、政権が中道右派・左派、親米・反米的であるか
を問わず、「国づくり」や人々の民生向上に多大な貢献を果たしてきたことは間違いない。
技術協力においても、あらゆる分野での支援が求められていると見受けられた。JICAは主に4つの重点分野で支援していた。第一次産業、特に農牧業
における生産性の向上、ひいては農牧業従事者の所得・生活向上を目指していた。特定の対象地域・地区にある畜産農家をプロジェクトの
モデル農家に指定し、5年間の予定で放牧地での牧草栽培、肥育管理、家畜衛生管理、配合飼料生産などの技術指導と普及を行ってきた。
農牧省家畜試験場における人工繁殖技術の向上と普及についても同時並行的に進められた。
また、特定地区の対象農家に対し、農牧省農業試験場と協力して、野菜や果樹の栽培技術の向上と普及を目指すプロジェクトも進められた。
同試験場の農業普及員への栽培技術指導を図りながら、彼らを通じて営農指導や技術普及を展開するというものである。その他、
「北大西洋自治区」の行政府が所在するプエルト・カベーサでも、地元大学や非営利民間団体とタイアップして、野菜栽培などのモデル農場を建設し、その栽培技術の
普及を通じて、農業従事者その他農村住民の生計向上を図るというプロジェクトも進められた。
また、地方自治体と協力して、地方の山間部僻地の集落に暮らす住民を対象に、植林活動による自然環境保全と資源循環型の持続
可能な営農による生活向上やそれらの両立を目指すプロジェクトにも取り組んだ。
第二の重点協力分野は、初等教育、特に初等算数教育であった。小学校建設というハード面での協力だけでなく、師範学校や教員養成校の教員、
特に初等算数指導教員と協力し、算数の教授法の向上に資するための新たな指導要領を作成するなどして、先ずは算数教員の指導能力向上に取り組んだ。
究極的には、将来小学校教師になる師範・養成校の学生たちの算数指導能力の向上をめざすプロジェクトである。貧しいニカラグアにとっては、
スペイン語の読み書きと算数能力のさらなるレベル向上は、中南米地域の人々に臆することなく伍して共存していける人材を育成
するうえでの要をなすものであろう。
第三のそれは、保健省管轄の医療保健分野である。例えば、乳幼児死亡率の低減につなげるための母子保健やリプロダクティブヘルスの
エキスパート育成とそのレベル向上を目指すプロジェクト、あるいは看護師養成学校における看護教育レベルの向上をめざす
プロジェクト、あるいはシャーガス病の罹患要因の低減化を図るためのプロジェクト、また、家族省と協力して、日本の民生委員制度
を導入し普及するためのプロジェクトなどを実施した。今回は首都のマナグアの特定地区を対象に、同制度の普及を通じて、都市部
住民間の相互扶助を増進し、また地域コミュニティーでの福祉事業や民生向上
の促進をめざすものである。将来的には、全国レベルでの制度的普及も大いに期待される取り組みである。
青年海外協力隊員は、保健衛生、障害者支援、小学校教育、職業教育、青少年活動、家畜衛生、農村開発、日本語教育、スポーツ振興などさまざまな分野で、
最盛期には70名以上の隊員が首都・地方で活躍していた。技術協力プロジェクト実施の中核は長期・短期専門家が担ったが、家畜繁殖・衛生、
算数教育、保健衛生などの分野では、協力隊員がそのプロジェクトと緩やかな連携を取ながら側面支援をした。
自身の職務として、定期的に時間を割いて、ジュニア・シニア隊員の活動現場を訪ね、その活動の環境、現況、課題などを探り、事務所からの隊員への側面支援の
ためのヒントや知恵を得ようとした。
ところで、中米諸国の中では、ニカラグアの治安は相対的にはまだ良い方であった。協力隊員の移動の足としては、主に公共交通機関の路線バスに
依存していた。他方、時には、流しのタクシー(なかには相乗りタクシーもあった)に乗車して、運転手や乗客らが絡む強盗に遭遇する
などの被害も多く、その治安対策に最も神経を使うものであった。隊員には携帯電話が支給されているので、事務所と契約を交わした
タクシーを最優先に利用することで、少しでも事件に遭遇する機会を減らそうとした。公共バスの中での窃盗も目立ったが、幸いにも、
乗客を装った集団窃盗団が全乗客を対象にしていきなり車内強盗を働くような酷い事件までは発生しなかった。
大西洋岸の町プエルト・カベーサでは、農民らの民生向上プロジェクトの事務所が反政府デモ集団に荒らされたり、近郊集落における
実地調査の最中にいきなりピストル強盗に遭遇したりした。長期滞在の日本人は、時を経るにつれ圧倒的に目立つようになるので、いつどこで
強盗・窃盗の対象として目を付けられ、挙句の果てに襲われる至るか分からない。個々人において常に警戒を怠っていないことを潜在的犯罪者に
気付かせる努力をし、リスクを極力低減する他ない。
中近東におけるようなテロリストによる爆破事件こそ発生しないものの、市中強盗などの傷害事件といつも隣り合わせであり、
常に「自分の身は自分で守る」という明確な意識をもち、また具体的な工夫をもって警戒を怠らないことが大切となる。
時に、現在進行形のプロジェクトだけではなく、過去のプロジェクトについて対応を迫られるケースもあった。サン・ファン・デル・スールという
太平洋沿岸の漁港を整備する水産無償資金協力が実施され、すでに供用に付されていたが、一つの懸念材料があった。整備された漁港施設の
荷捌き場などの利用状況が芳しくなかった。日本でそのことが会計検査において取り上げられているらしかった。その原因や社会的背景などを究明し、
その改善に向けた提言をニカラグア側に行ない協議するために特別の調査を実施した。原因探求の結果と改善案を大使館に報告すると共に、
同館の指導の下ニカラグア水産局をはじめ大統領官邸サイドへ善処の申し入れを行い、その後もフォローを続けた。
現地では数多くの技術協力プロジェクトが実施される途上にあった。そして、
農業技術指導・普及による対象農民の所得向上、家畜繁殖・衛生技術向上による対象牧畜農民の所得向上、乳幼児死亡率という具体的数値目標の低下、
小学校生徒の算数基礎学力のレベルアップなどについて、短期的には「可視化できる定量的成果」は見い出し難く、即効的にプロジェクト
の成果を計ることは難しいと言わざるを得なかった。プロジェクトが終了しても、ニカラグア側によって、さらに息長い人的・財政的
投入などの取り組みが継続されて初めて、プロジェクトで撒かれた種が生育し、実を結び、花も開くことにつながろう。
可視できる真の成果はまだまだ先の事であり、それまで国をあげて真剣に取り組むこと以外に王道はない。
ニカラグアの地理的特徴を少し俯瞰しておきたい。最大の特徴はマナグア南東の太平洋岸寄りに「ニカラグア湖」が細長く伸びることである。
その面積は、およそ8,000平方キロメートルで、中米では最大の面積をもつ湖である。しかも、メキシコ以南の南米でも、ボリビアのチチカカ
湖に次いで2番目に広い淡水湖である。同湖には、淡水湖に浮かぶ島としては世界最大といわれる「オメテペ島」がある。そこには二つの円錐形の火山、
コンセプション火山とマデーラス火山がそびえる。ひょうたんのような形の風光明媚な島である。湖面の標高は 海抜32.7メートル、平均水深26メートル、
最大深度70メートルである。ニカラグア湖は、首都マナグアが面する「マナグア湖」とはティピタパ川を通じて結ばれている。
ニカラグア湖は、湖外へ唯一流出するサン・ファン川によって、160kmほど下流の大西洋・カリブ海に注ぎ出る。湖の北西端の湖畔にある
古都・港町のグラナダは、距離的には50kmほどと圧倒的に太平洋に近いが、180km長の湖と160km長のサン・ファン川によってカリブ海と繋がっている
ことから、16世紀以降のスペイン植民地時代から「大西洋岸にある港/アトランティック・ポート」と位置づけられてきた。
ニカラグアに着任した後の1ヶ月間ほどは、分刻みにてプロジェクトや事務所関連行事への対応、前任者の引き継ぎとそのフォローなどに追われ、
また仕事と生活上の不慣れなどが重なり、毎晩不眠症に悩まされる始末であった。だがしかし、数ヶ月ほど我慢を重ねるなかで、ようやく仕事や生活
にも慣れ、物事の予測が可能となり、自身の判断で自律的に業務に対処できるようになった。仕事が軌道に乗り、生活にも落ち着きが出て、心身ともに
余裕が生まれてくると、ニカラグアの歴史文化、地理や自然、民俗などに関心を注ぐ余裕も生まれるようになった。新車に近い中古車であったが、
通勤の足としての車を入手できてからは飛躍的に生活が快適となり、行動半径も格段に広がった。
国内や海外へのいろいろなプライベート旅行のことも考えられるようになった。先ずは、マナグア市街や近郊の町のグラナダ、レオン、さらに
太平洋岸沿いの小さな漁村など、週末には日帰りドライブに出かけた。だが、全ての旅に優先して「パナマ運河」を探訪するための
計画を立てた。大袈裟だが、青少年の頃からの夢を実現しようと、子供のように指折り数えてパナマへの旅の機会をうかがった。
さらに、パラグアイに赴任していた当時米国東海岸沿いに海洋博物館巡りの旅に出たように、今度は米国西海岸沿いに類似の旅
に出たいと、それを楽しみに仕事に精を出した。
メキシコのベラクルスへ小旅行を思い立ったのは、パナマ運河への旅で、英国人ヘンリー・モーガンやドレークの海賊のことを
知ったからである。さらにキューバへの旅も楽しみにしていた。こうして、ニカラグアでは、公私ともに心身をフル回転させ、
私的には「第6の青春時代」を送るかのような毎日となった。任期は2年しかなく出来れば延長したいとも内心希望していた。
任期後半に大病事故に襲われたこともあり、ほぼ任期通り2009年10月9日の帰国となった。
最後に、公私に余裕が出てくると、スペイン語の海洋語彙拾いや辞典のアップデートを毎日数十分でもこつこつと取り組む
ことができた。再びスペイン語圏での勤務であり、その環境をチャンスにしないのはもったいないことであった。先の2000年から
のパラグアイ赴任(3年間)、その後サウジアラビア赴任(2年7か月)を通じて、語彙拾いとその集積は、「どこでもいつでも」を
モットーにして続けてきたが、今またニカラグアで続けられることに感謝であった。海洋辞典のアップデートは、自宅における
日常生活上の一服の清涼剤であり、ストレス軽減につながる精神安定剤のようなものであった。西和・和西海洋辞典の日ごとのわずかな「進化・深化」
であっても、私的には毎日その日を締め括るためのルーティンワークであった。また、明日への仕事の励みにもつながる
ものであった。
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