* ストーリー1
・ パラグアイ赴任時のこと、「内陸国」でありながら、2つの船舶博物館に出会ったことに衝撃を受けた。
そして、辞典づくりに思いがけない大きなきっかけをもたらした。全く予期も期待もしてい
なかったことである。それを境に海や船の歴史文化施設巡りの旅とそれらの展示物などの画像撮影と海洋辞典づくりへのアップに
よるビジュアル化に真剣に向き合った。
・ それ以前はどうだったのか。1976年JICA入団して数年後から、公務出張に出掛けることに沢山の機会に恵まれた。そして
生まれた初めて見る異国の海、港、船、大河川のある風景に出会っては感激し時に感涙であった。
入団以来4,50回もいろいろな国に出張できた。その時には、出来る限り、異国の海辺や大河の岸や、港の岸壁などに立ち、
潮風を浴び、何かしらの海景を瞼に焼き付けてきた。例えば、生まれて初めて眺める紅海、カリブ海、アカバ湾、メコン川で
あれば感激もひとしおであった。
1976年11月にJICAに職を得てからは、公私の旅において、海・船・博物館との思いがけない感激感涙の出会いをしてきた。
少なくとも入団の1976年からパラグアイ赴任の2000年頃までの24年間は、公務出張中での通りがかりの、偶然的な、計画性の
ほとんどない、意図しない、散発的でいわば自然発生的な出会いであった。即ち、それらと出会うことを計画的に意図したものではなかった。
積極的かつ主体的に計画して海・船・博物館を目指して出会ったケースはほんの数例であった。ほとんどのケースでは、成り行き
的であったり、通りがかりであったり、たまたまの出会いであった。リアルな海・船・博物館との出会いや接点は、通りがかり的で、
たまたま偶然的に生まれたもの、計画性のほとんどない、意図しない、散発的な、自然発生的なものであったのがほとんどである。
だが、パラグアイの赴任をきっかけに、真逆の意図的計画的な探訪へと舵を切ることになった。そのことは後で触れたい。
・ だが、海洋博物館などの海洋歴史文化施設などへは、それまで行きがかり的に立ち寄ってきたでけであった。
画像取得やビジュアル化の目的をもっての巡覧はほとんどなかった。
とはいえ、国内外を問わず、海、船、港、水産、海産生物などにの海洋歴史文化施設の探訪にはほとんど関心を払うことがなかった。
あったとしても、ほとんどの場合、たまたまの通りすがりか、無計画のたまたまの訪問であった。
何の計画的積極的なものではなかった。あったのは、その地でこれまで見たことのない初めての海や大河の景色に感涙したものの。
・ 博物館巡りよりも、入団後も何とかしてこれまで通り個人的に海洋研究を続ける努力に傾注していた。もちろん、国連の
採用に備えて絶えずそのキャリアアップを追い求めていたからである。
特に日本の海洋政策や動向を取りまとめて和文・英語版のニュースレターや「海洋白書・年報」まがいの印刷物を編集・発行したり、
そのための海洋研究に傾注していた。
さて、JICAに運よく奉職できたものの、職務を通してどのような海との関わりをもてるのか全く予想もつかなかった。
そんな中で、海についての自主的な研究に主眼をおき、その成果を論文、英語版ニュースレター、「海洋白書・年報」まがいの
形で発進した。しこしこと、海洋法や海洋政策についての何らかの具体的なテーマについて海洋研究を自主的に続け、何がしかの
論考をまとめ世に発信することは、個人的なこととして、海への回帰を続け、そのことを自覚させ、関心を持ち続け、そこに踏みとどまり続ける
ことを意味していた。もちろん、リアルな海に憩い、船で遊覧したり、フェリーでマゼラン海峡を横断したりして船上の旅人として
リアルな時間を楽しみ、海や船に接点をもつことは、海洋研究を続けることへの刺激や励まし、あるいは大袈裟には活力源
になったといえる。だが、海洋博物館めぐりなどはほとんど関心をもたなかった。だがしかし、たまたまの通りがかりであろうと、
ほとんど計画的でなく意図しない出会いであっても、それはリアル
そのものであり、私的には海への回帰をしっかりと思い起こさせる意義あるものであった。24年間、そんなことの繰り返しであった。
・ 入団後7年ほどして、アルゼンチン赴任となった。その赴任中に閃いて、海にまつわる日本・英・西語の語彙拾いを始め、
帰国後もそれに注力することが新たに加わった。
・ 他方、アルゼンチンから帰国後、10数年間国内・新宿に釘付けとなった。農技術開発、契約課、人事部、さらにjICS出向と
なったが、公務出張もそれなりに多かった、やはり年間平均して4回ほど。そして、
語彙集の充実更新アップデータだけは続けた。また、海洋研究や特に「海洋白書年報」より注力を注ぐようになった。
アルゼンチンから1987年帰国後2000年にパラグアイへ赴任するまで、国内勤務に塩漬けとなった。だが、海外出張は30回ほど
に上った。アルゼンチンから帰国後10数年間、新宿勤務に釘付けとなった。その間もたくさん海外出張した。中国、ヨルダン、ミクロネシア、コスタリカ、TT,タイ、
アルゼンチン・パラグアイなど、、。。
・ 農技術課:3号案件中国、ヨルダン、コスタリカ、ミクロ、トルコ、
・ 調達部契約科では 特に「頼まれ出張」で、TTやタイに出掛けた。
・ 人事課時代:アルゼンチン、とパラグアイへ出張。里帰りした。大河パラナ川とイタイプダムを見た。
・ JICSへの出向でも多くの出張。はじめて、サハラ砂漠を観て感激。まだ赤道を超えられなかった。
・ 無償資金協力部。例えば、インド: はじめてのインド洋の海はマドラスとその海岸沿いであった。港を見学余裕はなかったが、週末、海岸に散歩したら通りがかりで
アジア最古の水族館を知り立ち寄った。水槽が2,30ある小さな水族館であったが、英国植民地時代に建設された、アジア最古の
それであり感激であった。無償資金協力・フォローアップ勤務時代、多くの出張をこなした。フィリピン、インド、ミクロネシア、など。
国内に塩漬け、だが多くの公務出張
・ それまで、4,50回もいろいろな国に出張し、出来る限り海辺や大河の岸や、港の岸壁などに立ち、潮風を浴び、何かしらの海景を瞼に
焼き付けてきた。それが初めての紅海、カリブ海、アカバ湾、メコン川、であれば感激もひとしおであった。
だが、海洋博物館などの海洋歴史文化施設などへは、それまで行きがかり的に立ち寄ってきたでけであった。
画像取得やビジュアル化の目的をもっての巡覧はほとんどなかった。何の計画的積極的なものではなかった。
あったのは、その地でこれまで見たことのない初めての海や大河の景色に感涙したものの。
なぜなら、海洋辞典をビジュアルにするという意識はなかったから。それが芽生えたのは2000年からパラグアイに赴任し、
内陸国でありながら2つの船舶博物館の存在をしり、探訪したことが直接的なきっかけとなった。
大抵は通りすがり、偶然の接点・遭遇であり数少なかったが、それでも刺激感動を受け喜びとなった。
かくして、一部計画したものあるがほとんどたまたま通りすがりの景色、半計画的、、
もちろん、それをわざわざ見に行くこともあった。その内本格的に見る目的意図で旅するようになった。それは
無償資金協力・FU時代以前まで。
パラグアイ2000年以降、20数年前。特に海外4回の赴任がもたらしたインパクトは大きかった。特にパラグアイ以降目覚めた。
:その後パラグアイへ赴任し、帰国後はフォローアップ:同行いろいろ、サウジなどでも。旅リスト見よ。
・ そして、転機は1995年にやってきた。1995年のインターネット元年を迎え、ついに語彙集のウェブページを
立ち上げ、世界に発信するという画期的な目標をえることになった。その後はしこしこ語彙拾いgleaningとウェブ辞典のアップデートを
行ない、JICA業務の傍ら世界に発信続けた。ニュースレター・白書に主役は取って変わった。それは浅野先生の逝去と辞典づくりと発行との
同時実施、JICA業務とは両立困難による。
・ その後10数年ぶりに海外赴任のチャンス巡って来た2度目の赴任において一つの転機が訪れた。パラグアイでの2つの船舶博物館との出会いによって、向き合い方が180度変わった。
計画的に、意欲的積極的にそれらの施設を探訪し、関連画像を切取って、海洋辞典で世界に船舶博物館を発信する一方、世界の海洋博物館などを
訪ね画像を辞典に貼り付けもってビジュアル化することに向き合った。新しい閃きであった。
だが、2000年に「海なし国」のパラグアイに赴任し、そんな内陸国で2つもの船舶博物館に出会った時から俄然見方に変化をもたらした。
世界諸国の今まで見たことのないリアルな海や船、海洋博物館などを観るため、積極的、計画的、主体的に、出掛けるようになった。
それも海洋辞典づくりと密接につながることとなった。即ち、当時本格的に普及し出したデジタルカメラでそれらの画像を切り撮り、
デジタル海洋辞典のビジュアル化を図ることを閃き、俄然取り組むようになった。深掘り。
パラグアイでの意識の大変革、閃きによって、計画的合目的意図的積極的に博物館を巡り画像を切り撮るようになった。
例えば、パラグアイでは、米国東海岸へ30日の旅をして、4,50の海洋博物館などを探訪した。
パラグアイ周辺諸国、アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、チリなどへ博物館巡りの行脚を続け画像を切り撮った。もちろん、
旅中初めての見たことのない、あるいは見たかった海景を眼中の網膜スクリーンに焼きつけた。
南米の内陸国パラグアイに2000年に赴任したが、そんな「海なし国」で2つの船舶博物館に巡り合ったことが大きな転機と
なった。それら博物館を紹介するための世界への発信、計画的主体的な海洋歴史文化施設の探訪と展示物の画像切り撮りと辞典への
アップ、それによる辞典のビジュアル化を真剣に模索することにたうながった。パラグアイ後は、2004-7年サウジアラビア、2007-
9年ニカラグア赴任のチャンスを生かし、週末や有給休暇などを利用して、海洋施設などを計画的に巡覧する弾丸ツアーを
「自作自演」して、国内外を駆けずり回り、数多の画像を切り撮り辞典の色彩を豊かにした。それ以前の30年近く
のたくさんの公務出張においては、偶然の通りすがりでの海と船との関わりであった。それでも、異国で見る初めての地中海、
カリブ海、中南米や東南アジアの海、世界的文明を育んだナイル川などの風景は感激と感涙をもたらした。だがしかし、
それらの海との接点は海洋辞典づくりとはほとんど関わり合いをもてなかったし、そのビジュアル化と直接的に結びつくことは
なかった。
・ そして, その後立て続けにサウジアラビア、ニカラグアへと5年ほど赴任することになった。
そこを拠点に、週末や有給休暇を活用して弾丸ツアー、時にゆったり目の1-2週間の長期の旅に出た。その間、両国の国内には見るべき
海洋歴史文化施設はなかった。国内での出張や私的なたくさんの国内旅を楽しんだが、海洋歴史文化施設巡りの旅はほとんど
周辺国などへ行脚した。
例えば、サウジ: 北欧、南欧、エジプト、モロッコ、半島時計回りの探訪。
ニカラグア: パナマ運河、メキシコ・ベラクルス、アメリカ西岸、コスタリカ、ペルー、、、。
翻ってみれば、日本での新宿勤務14年時には年4回くらいの公務出張はあったが、赴任時にはほとんどなきに等しいものであった。激減した。
海外赴任先で外国への旅はほとんどプライベートなもので、そこをベースに海外へのプライベート旅を積極的に楽しんした。
辞典のビジュアル化を目的にデジタル画像を真剣に撮り出したのはパラグアイの赴任時から本格化した。
米国東海岸30日の海洋や船舶関連の博物館50か所の探訪を皮切りに、パラグアイの隣国のブラジル、アルゼンチン、チリ、ウルグアイ
の4か国探訪などを行い、海や港の自然風景をはじめ、海洋歴史文化施設の展示遺産をカメラにおさめ、ウェブ辞典での
アップに取り組んだ。
・ サウジアラビアでは、北欧諸国をはじめ、マルセイユからベニスにかけてのコートダジュールやリビエラ海岸の海風景や
海洋・船舶博物館施設探訪、スエズ運河・ジブラルタル海峡探訪、ダウ船を訪ねるアラビア半島右回りの旅(バーレーン、カタール、
UAE,オマーン、エジプト、モロッコなど)を敢行した。
・ ニカラグア赴任時では、米国西岸沿いに海洋博物館探訪、パナマ運河とスペイン
植民地統治時代の史跡探訪、メキシコ・ベラクルスなどの海洋博物館探訪と史跡探訪などを、仕事の合間をくぐり抜け弾丸ツアーを
敢行した。それらの旅はパラグアイ以前の偶然の通りがかりでの海や港、船、海洋博物館との出会いではなかった。
計画的、主体的に海、港、運河、歴史的施設や海洋博物館などをこの目で見て瞼に焼き付け、画像に切り撮り、ウェブ辞典にアップ
するべく取り組んだものである。
パラグアイからサウジまでの海洋博物館巡り、海や港巡りの旅に着いては既章既節で語って来た通りである。
(2)海洋博物館に目覚めたのは、パラグアイで2つの船舶博物館に出会ってからである。その後は主体的に積極的に計画的に、それとの出会いのために
突進して、意図した出会いを作ったのは2000年パラグアイ以降であった。パラグアイ時代の米国東海岸、ブラジル、チリ、ウルグアイ、アルゼンチン
の近隣諸国。サウジ時代、ニカラグア時代。そして完全離職した2011年から現在までである。20数年となる。
赴任中での海との出会い、関わりについては既章・節で語った通りである。
・ パラグアイ
・ サウジ時代: 北欧、南欧の博物館巡り、モロッコ、ジブラルタル、エジプト、スエズ運河など
・ ニカラグア時代: 米国西海岸、パナマ運河、メキシコ・ベラクルス海洋博物館、ペルー・カジャオなど
・ サウジに赴任して、初めて紅海の岸に立って群青の海を眺め、感慨深いもの。
・ かくてニカラグアから帰国後1年半ほどして、2011年3月にJICAから完全離職し、「自由の翼」を得て、辞典づくりに専心専念する
ことが可能となった。時間を自由に好きなこと、やりたいことに大半の時間を充てることができたのは人生で初めてであった。
当初は戸惑ったが、徐々に生活のペースやリズムを心得、辞典づくり作りに専心専念できるようになった。
年金生活者の身となり日本をベースに海外へ「倹約旅行」をチャレンジし、画像をえて、さらにビジュアル化に本腰を
入れた。
パラグアイ以来、博物館巡りの旅は20年以上も経ても変わらないマニアック的趣味の領域に達してしまった。
九死に一生を得てニカラグアから帰国した後、再び契約ベースでJICA健康管理センターに勤務していた。1,2年は勤務
するつもりであったが、他方ではJICAから完全離職することが待ち遠しかった。それは「自由の翼」をえて、海洋辞典づくり
に専念専心し、それまでなしえなかった海洋辞典コンテンツの包括的な見直しと統合化、選択と集中に取り組めるから
であった。1985年以来30年余り語彙拾いをし、ウェブ辞典づくりをやみくもに前進させることばかりに気を奪われ、コンテンツをしっかりと
見直しする機会がほとんどないままでいた。だから「作成中」のページに溢れていた。
待ち遠しかったことのもう一つは、国内外の旅を問わず、通りすがりではなくはじめから計画的に海洋博物館などの海洋歴史文化
施設を探訪できることであった。
完全離職後は国内外をとわず、未だ見ぬ海や港・船の風景を訪ねて出歩いた。勿論、海洋歴史文化施設巡りにも時間を割くことができた。
その取り組みは本格化、格段に「進化」した。友人との旅は、国内・国外を問わず、また日帰りであるか、1-2週間の長旅で
あるかを問わず、友人を得て旅は楽しみとなった。ビジュアル化も進み一層楽しみは増えた。辞典づくりの原動力ともなった。
現役時代は、たまたまの赴任のチャンスを生かして、パラグアイ赴任以降は最大限に有給休暇と週末を生かして周辺諸国の
海洋歴史文化遺産を駆け巡って来た。弾丸のような忙しない旅であったが、それはそれで充実した旅を楽しみ、辞典づくりビジュアル
化に大いに役立ってきた。そんな状況の中、退職後はまさに「自由な翼」を背負い自由奔放で時間的制約の少ない旅をやっと
楽しめることになった。時間だけはたっぷりとある。最大の課題は財政的なものと健康上のことであった。循環器系などに異常がない
か定期的に主治医の診察を受け、薬の特別処方箋がいる。さらに歯槽膿漏や歯周ポケットに悩まされていたので、突然激痛に襲わ
れるか不安を抱えていた。いずれも海外での再発は是が非にも避けたいので、旅のタイミング、期間など限定的とならざるをえない。
とはいえ、現役時代とは比較にならない時間があることは何よりも素晴らしい。後は、いかに要領よく一日当たりの旅費を倹約
できるかである。
特に年金生活者であることから、第一義的には財政との相談であった。二か月に一回検査と診察を得て健康を維持するのが最優先であった。
それに歯に爆弾を抱えるのと同じで、1月1回クリーニングのため通い騙しだまし遣り繰りしていた。ある年末に突然激痛に襲われた。
抗生物質と痛み止めだけでは済まず、抜歯する他なかった。爆弾を抱えている状態である。長期の海外滞在ではとても不安になる
が、1~2週間ほどの短期の海外への旅でも、突然そうならないとも限らず、不安はいつも付きまとう。
余談: 退職後の夢。実現ならず、だが日本ベースに倹約・貧乏・博物館巡りの旅を楽しむ。旅の相棒も出来た。
現役時代かつて夢見ていたのは、1年12か月を4分割して、最初の3か月間は日本、次に米国シアトル、次に移動してフランス、
さらに移動して南米などの地に安い屋根裏部屋を間借りしたり、民宿をベースに周辺諸都市諸国を旅しながら、辞典づくりにも
取り組むことを考えていた。4か国のローテンションや滞在期間はフレキシブルでよかった。
・ 余談だが、1年4分割し、日本・シアトル・ヨーロッパ・アルゼンチンを四半期ごとにベースに順繰りに生活拠点を
換えながら、ずっと旅を続けたいと夢見ていたが、耐病で定期的に主治医の診察処方箋が必要となり諦めた。
だがしかし、ニカラグアでの罹患以来それも難しくなった。だから、巡回型長期滞在方式を諦め、日本をベースにしながら、
財政と健康上のしっかりとした基盤を固め適度な期間と回数もって海外へ探訪し、辞典の充実を図り続けることにした。
こうして、年金に頼る自由な生活が始まった。最初に海外へ出掛けたのは健康に自信がもてないことから、近場から、恐る恐る
選択した。主治医にも許可得た。
先ず、オーストラリアに旅した。2か月後、タイ、シンガポール、マレーシア・マラッカ、
マラッカ海峡など旅した。「海のシルクロード」を3区分して、まずシンガ海峡方面とした。そして、
韓国南部の港町釜山や木浦の海洋博物館を訪ねた。それを皮切りに2度訪ねた。
台湾の海洋歴史文化施設を巡覧したくて、基隆、高雄などを旅した。
中国は上海の航海博物館をはじめ、大京杭大運河の南の起点杭州、南京、蘇州での運河やその関連史跡、鄭和の遠洋航海史跡
など。そして体長も体力気力もさらに充実したので、遠出。
英国のコーンワル半島のポーツマス、サウサンプトン、プリモス、リバプールなどの海洋博物館などを探訪。
さらに遠く南米、アルゼンチンのパタゴニア地域のビーグル海峡・マゼラン海峡の探訪。さらにポルトガル、スペイン、
ギリシャなどの海洋博物館巡覧の旅に出た。エーゲ海。
そしたら、2020年初め、コロナ・パンデミック。感染者世界死者、ワクチン打たず。世界で累計5億人感染、600万人死亡など。
日本では、2022年現在。隔離される。2022.5なおもパンデミック以前の状態にはもどらず、
気ままに自由に不便なく海外無理が続いた。国内は自粛多く、しかし流行の谷間を縫って地方あちこちへ友人と旅する。
さて、時をもう少し戻して、辞典ビジュアル化のきっかけとなったパラグアイ赴任時における2船舶博物館との出会い以前での海や
船、海洋博物館などの海洋文化歴史施設との関わり合いについて触れることにしたい。
それらの国内外の旅の歩みや体験について、もう少し仔細に触れて見たい。そして、次章では、幾つかの国内外の海洋博物館
探訪の旅について語りたい記したい。
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